櫻井、顧客に会う
-2045年8月16日(水)18:45-
食堂に行くと、ちょうどジュリアが食事を終えて席を立つところだった。
『遅刻ね、サクライ。ピリ辛シチューは美味しかったから、もう残ってないわよ』
誰のせいだよッ、と櫻井は心の中だけで叫ぶ。
ジュリアが食堂を出た後、残り物をよそった櫻井は、残りの3名の近くに座る。
「ジュリアって、何か格闘技とかやってたりする?」
『『!』』
所長とサイムが息を呑む。顔には「やってます」と書いてある。
『さては懲らしめられたんやな』
デジレが返す。
所長とサイムは、口をつぐんだままである。
「何かやってるんだな」
『マーシャルアーツの達人や。身体と命が大事なら、無理に言い寄らん方がええ』
やはり、と櫻井は納得する。
--あのパッドのブ厚さは、俺の心だけに止めておこう
正しい判断である。
『一度、ルブンバシで酔った軍人にチョッカイ出されてな。あん時は凄かったで』
ほほう、と合いの手を入れる櫻井。
『あちらさんも軍では体術の教官だったんやが、瞬殺や』
「チョッカイって、何されたんだ?」
『胸、揉まれてん』
納得する櫻井。
--胸は逆鱗だ
櫻井、伊達にクズではない。
やってヨイこととダメなことは、しっかりとわきまえている。
『ついでに、も1つ教えといたる』
デジレが真顔になる。
『彼女の生まれについては、触れんでやってくれ』
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「彼女の生まれって、何だろうな?」
自室で、アルに呟く櫻井。
アルは櫻井の方を向き、首をひねる。日本語は分からないのだ。
「まぁ生まれなんて、どーでもいーや」
一方、分厚いパッドはどーでも良くない。
櫻井、巨乳好きである。
だが女の魅力は乳だけではない。尻とか太ももとか腰とか。
幅広い魅力を受け入れる、包容力十分な櫻井である。
「そろそろ寝るか」
とベッドに向かおうとした櫻井の指を、アルが引き止める。
「なんだ?」
アルは櫻井の携帯ディスプレイを広げ、表示されたメールをちょんちょんとつつく。
「あ」
洗濯室に行く前にやってたスクリプト作成が、忘れ去られていた。
--明日に回したら…怒られるよな
就職1週目で「仕事、忘れてました。てへっ」はマズい。
重い足取りで端末室に向かう櫻井に手を振り、アルはベッドに入った。
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-2045年8月17日(木)04:25-
端末室の椅子の上で、櫻井は目を覚ました。
ようやくスクリプトを作り上げ、ちゃんと動くことを確認したら部屋に戻って寝よう。
そう思いながらちょっと目を閉じたら、そのまま眠ってしまったらしい。
再度ログインして結果を確認すると、スクリプトは正しく動作していた。
あくびをしながら腰を上げようとした桜井は、口を開いたまま中腰で固まった。
端末室のドアを開け、チンパンジーが入ってきたからだ。
--なぜチンパンジーが?
チンパンジーは入り口近くの席に座ると、持ってきたペットボトルを横に置き、キーボードを叩き始める。
そろそろと近づく櫻井。だが、そのことに気付こうともしないチンパン君。
失われた野生である。
櫻井は、チンパン君が叩く端末のモニターを見て、目を疑った。
端末がログインされ、櫻井が作ったスクリプトが実行されていた。
程なく実行結果が出て、それを見てうんうんと頷くチンパン君。
櫻井の見ている前で毛深い手がコマンドを叩き、スクリプトが別のデータを処理し始める。
目をモニターから逸らさず、手探りでペットボトルを取ろうとする。
落ちそうになったペットボトルを思わず櫻井は掴み、渡してやる。
毛深い手が複雑な動きをすると、櫻井の有機EL眼鏡に文字が表示された。
『ありがとう』
ゴクリと水を飲んだチンパンジーは、慣れた手つきで更にコマンドを叩く。
更に1口呑もうとペットボトルを見て、ビクリと固まる。
ぎぎぎぎぎ
ゆっくりと後ろを振り向くチンパン君の目が、櫻井の目と合う。
ギクッ!
あからさまに動揺するチンパン君。
そっと床に座り込み、「ボク、普通のお猿さんだよ」みたいなフリをしだす。
「う、うきー?」
「今更遅いわーッ!」
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-2045年8月17日(木)04:45-
櫻井の絶叫でたたき起こされた人々が、端末室に集まる。
所長、サイム、デジレ、そしてアル。
それぞれ頭を抱えたり、目を覆ったりして、現実から逃避しようとしている。
アルですら櫻井と目を合わせようとしない。
なおジュリアは、まだ出て来てない。
「どういうことだ!? いや、言わんでいい。予想はついてる」
『アレやな。猿がタイプライター叩いて、シェイクスピアの戯曲を書くって--』
「違う!」
デジレのボケに、思わずツッコミを入れる櫻井。
「チンパンジーに、アルと同じ遺伝子を導入したな」
『違うわ!』
凜とした声が櫻井を遮った。
見事な胸の膨らみを装備したジュリアが、端末室に入ってきた。
『彼はチンパンジーじゃない。ボノボよ』
いや、そうじゃなくてね。その場の全員の頭上に、そんなフキダシが浮かぶ。
櫻井のグラスには『ボノボ:ヒト科チンパンジー族、コンゴ中西部の固有種』とスーパーインポーズされる。
『そして、彼に導入された遺伝子はアルジャーノン012Yと同じじゃないわ』
浮かぶフキダシをものともせず、ジュリアは続ける。
『アルジャーノン005Xの遺伝子よ』
いや、そうでもなくてね。その場の全員の頭上に、そんなフキダシが浮かぶ。
『ごめんなさい』
ボノボが手話で言う。
『クリンは悪くないわ。こんな時間に端末室にいるサクライが悪いのよ』
ジュリアがひどいことを言う。
「クリン、という名前なのか」
櫻井は屈みこみ、ボノボと目を合わせる。
よく見れば彼の額は丸く大きく、顔立ちは普通の猿とは全く違う。
「今、幾つだい?」
『16才』
「俺にスクリプトを頼んだのは、君か」
『うん』
「後、何匹--いや何人居るんだ? 人間と同じ知能を持つボノボは」
『違うわ』
ちょっと弱くジュリアが言う。
『クリンたちの知能は、ヒトよりもずっと上なの』




