表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エデンの天使  作者: 如月十五
エデンの天使
9/9

決戦

 瓦礫の街に不気味なサイレンが鳴り響く。本能的に不安と恐怖心をかきたてられる音だ。

 塔のテリトリー内にある広場で酒盛りをしていた野良たちは気味悪そうに騒ぎ出した。

「……なんだよ。この薄気味悪ぃ音は」

 このサイレンは塔からだろうか。……それとも〈海〉からか?

「クズ鉄山からだったりしてな。河童の歌声ってこんな感じじゃね?」

 義勇軍の真紅のコートをまとった若者が強がりを言った。

 サイレンの音は塔からだ。塔のスカイラウンジで、ユーイチがマイクを片手ににやりと笑う。


 〈諸君。明日はいよいよデスゲームの開催だ。会場は塔の屋上にて、夜明けと共に順次決闘を行う。非常階段のみ開放したのでそこから上がってくるといい。ただし、資格のない者が侵入した場合と非常階段以外のエリアに進入した者がいた場合はその場で処刑する〉


 奇しくも明日は七月二十一日、街が閃光に包まれた『721』と同じ日だ。

「ひと暴れしてきていいんだよな。レン?」

 ガトリングガンを抱えたガイがレンの方を振り向いて言った。彼は野良を処刑できると聞いて興奮していた。

「ええ。もちろんよ。野良を倒すのが貴方たちの任務」

 レンは微笑んだ。このガイという男はいらない、彼女はそう思っていた。

 デスゲーム開催の狙いは〈選ばれし者〉を塔の屋上へ誘導すること、ただそれのみだ。

 それは通常の人間、つまり〈エデン〉の人間が〈雨〉に当たることなく〈選ばれし者〉を屋上へ誘導できる点でも理にかなっていた。ただし、レンの権限ではヘリコプターを数台しか呼べず一部の〈選ばれし者〉を回収するので精一杯だ。

 そこで、〈選ばれし者〉同士を争わせ、勝ち残った者かつ従順な者のみを〈エデン〉へ連れ去るという計画だった。

 そのことはユーイチたちには知らせていない。塔へ野良を招き入れて殺すと話してある。

 レンは親指を噛んだ。――あとはタケルを回収するだけね。


 〈カオル〉はもう使えない。彼女にはルイがぴたりと張り付いている。

 これまで紳士的にドアの外で番をしていたはずのルイが、ある日を境にカエルのいる遊戯室に立てこもってしまった。

 彼の取次ぎなしでは姉のレンすら近づけない。

 あの二人はめでたく結ばれたのだ。あの人間不信に恋人ができるとは想定外だった。レンは唇を噛んだ。

 これまで様々な手を使って河童をおびき寄せようとしたがすべて失敗した。

 レンとしては屈辱だが、最終手段として自ら〈カオル〉を装って街にホログラフィを流すしかなかった。


 ……そのとき。

 雨雲の隙間からまばゆい光が差し込み、外にいた若者たちに降り注ぐ〈雨〉が止んだ。

「な、なに……。〈雨〉が……止んだ」

 しかし、〈雨〉が止んだのではない。雨雲の下に巨大な飛行戦艦が現れたのだ。


 〈救助船ノアである。横浜市臨海区で被災した君たちを救助しに来た〉


 今頃現れやがって、とは誰も思わなかった。若者たちは空に浮かぶ船に魅入られていた。

 

 〈この艦は毒の雨の下には離陸できない。また、燃料の都合で長くは滞空できない。

 期限は明日の日没まで。それまでに塔の屋上まで登ってきたまえ〉


 飛行戦艦は再び雲の上へと上昇していった。

 助かる! 外へ出られる!

 若者たちは目前の塔を見た。それは地獄に一筋垂れた、天国からの蜘蛛の糸。


   心を解放しろ。お前たちは自由だ。

   今こそ捻れた空間をもとに戻すのだ。

   〈瓦礫の街〉はお前たちの荒廃した心。黒いヘドロの海はお前たち自身。

   己を解放し覚醒するがいい。

   塔の頂を目指し、闇の檻に閉じ込められた自分を解き放て!


 頭の中に響くような声がしたかと思うと、今度は雨雲に外の映像が映し出された。

 人々が好奇心に満ちた目をしてこちらを見ている。街角で老人たちが苦笑している。

 そして、テレビ局で司会者とコメンテーターたちがにやにやしている。

 彼らが見ているのは、モニターに映った瓦礫の街の様子だ。

 野良が地べたをはいずって暮らし、わずかな食料を巡って争う様子を、また塔の奴隷たちが虐待されている様子を見て苦笑している。我々は助けなかったのではない、彼らの存在を知らなかったのです、などと言い訳がましいコメントを垂れ流している。

「……なんだこれ。街の外はなんともないのかよ」

「知らなかったって何だよ。調べればわかることだろ……」

 ニュースキャスターが言う。

「軍事関係者によると、『721』は災害ではなく彼らによって引き起こされたテロである、との見解もあるようです」


 自然災害……? テロ……?


「俺たちのせいだっていうのかよ……」

 若者たちは愕然とした。と、同時に大人たちへの猛烈な憎しみが蘇ってきた。

 ……侵略戦争を〈災害〉などとのたまった大人。自分の身可愛さに子供たちを生贄にした大人。

 敵に銃を突きつけられても「私は平和を愛しています」と恥知らずにのたまった大人。

 敵に媚を売り、自分だけケツをまくって逃げていった大人。


 塔の中にいた奴隷たちは冷ややかな目で役人や市民たちを見た。

 彼らの怒りと憎しみは、塔内にいた大人たちに真っ先に向けられた。

「ま、待て。俺だって被害者なんだぞ……」

 役人が青い顔をして言った。


  我々は救助船ノア。外の人間たちの敵であり、お前たちを迎えにきた者である。

  お前たちは選ばれし者。街を出たとき、お前たちは覚醒した己の力に慄くであろう。

  あらゆる栄誉が待っている。

  かつてお前たちをないがしろにし、軽蔑してきた愚かな大人に復讐できる。

  街に隔離されたお前たちを見殺しにした大人たちに報復せよ!

  ……行くがいい。お前たちは選ばれた。


「俺たちは選ばれし者だ!」

 奴隷たちは役人たちに殴りかかった。逃げ惑う市民を捕まえ、歯向かってきた兵隊たちを八つ裂きにする。

 特殊な訓練を施されていた彼らにとって、もはや常人など敵ではなかった。

「すごいぞ。力がみなぎってくる」

 そのとき、彼らの背後から声が聞こえた。「どけよ、オカマども」

 先行して塔へ上ってきた野良たちだ。彼らは軽蔑のまなざしで奴隷たちを見回した。

「あれえ。今までさんざんお世話になってたご主人サマを殺しちゃっていいの?」

 奴隷たちの顔が朱に染まった。

「黙れ。行き場がなくて野良に落ちぶれた低脳ブサイクが」

 別の奴隷も言った。「オカマはお前らだ。クズ同士で傷を舐めあってろよ」

 今度は野良たちの顔が赤黒く染まった。

 奴隷は自らをエリートと称し、野良は自らを無頼と称す。

 飼われる身と地を這う身だ、互いをひどく羨み、相手に対して激しい優越感と嫉妬心を抱いている。

 所詮、〈街〉と〈塔〉は相容れないのだ。

 彼らは塔の頂上に上るのも忘れて凄まじい争いを始めた。


 ……一方、塔にはまだ上らず、一階に陣取っている者たちもいる。

「街の外へ出られるならデスゲームなんてどうでもいい」

 外の連中をぶっ殺してやる。憎々しげに銃を地面に叩きつけ、塔の非常階段へ走り出そうとする野良チームのナンバー3、カッチャンをシゲルが笑いながら制止した。

「何だよシゲル。もう助かったんだ、あとは塔を上るだけだろ」

「そうだ。俺たちは助かる。だが、クズ鉄山まで助けてやるこたあねえだろ?」

「どうでもいいべ」カッチャンが呆れたように言った。「ぐずぐずしてたら乗り遅れちまう」

 時間はまだたっぷりあるじゃねえか。シゲルはカッチャンの肩を抱いた。


※※※

 携帯ゲームから空の様子を見ていたアキラはひゅうっと口笛を吹いた。

「ライブカメラのスタンバイOKですよ、ミストレス。しかし、〈エデン〉のテクノロジーはすごい。

 ホログラフィであそこまで表現できるとは。私も危うくあの映像を信じそうになりましたよ」

「……」

 レンは何も言わない。さっきから黙り込んでいた。

 ――違う。当初の予定とは違う。あの飛行戦艦は映像ではなく〈本物〉。

 彼女には飛行戦艦を指揮する権限はない。あれを動かせるのは軍の最高司令クラスだ。

 雨雲をスクリーンとして、ホログラフィに映されるのはレンの映像はずだった。

 塔に捕らわれし〈カオル〉を奪うために、戦士たちは頂上を目指す。そういうシナリオのはずだ。


 ドクンッ。突然、レンの心臓が不規則な鼓動を鳴らし始めた。

 レンは目を見開き、喘ぐように呟いた。「……お父様。まさか、貴方が……?」

 彼女は四年前の自分の失態を思い出した。

 任務中に取り乱してしまい、レンは最後のチャンスを養父・フィクサーから与えられてこの場に〈生きて〉いる。


 モルモットたちはお前のものだが、連中に特定の感情を抱いてはいけない。レンは万人の女王。わかっているね?


 万人を等しく幸せにするのが私の使命。己だけの幸福を求める行為、嫉妬は禁忌。

 ……まして男に恋など。それこそが不公平を生む歪み。もっとも忌むべき究極のエゴイズム。

 レンは自嘲気味に笑った。――自分すら幸福にできない私が万人の幸福なんて。


 今日死ぬかもわからない男のそばに最後までいると言った〈カオル〉。

 なんてバカな妹だろうと思った。未来には悲しみしか待っていないのに。


 でも、今の二人はとても幸せそうだ。少なくとも、〈ジュニア〉は好きな女のそばで死ねる。

 羨ましい、そう思った。その思いをフィクサーに知られた……?

「私、最後のゴッドチャイルドを回収しに行くわね」

 レンはアキラへ取り繕うように微笑み、部屋を飛び出した。

 ――どうしよう。私、始末される。


「……タケル」

 そう呟いて首を振る。

 レンは足元にいる犬に目を留めた。トーマスとかいう名前の子犬だ。

 最近、やたらとレンに懐いてくるのだが、飼い主の二人にあまり構ってもらえないため拗ねているのだろう。

「私、もうすぐ死ぬみたい。お前は私のそばにいてくれる?」

 トーマスは尻尾を振ってワンと吼えた。人間の言葉が理解できるのだろうか。

 レンは戯れに命じてみた。「街にいるタケルを呼んできて」

 そう言って彼女は口を歪めた。「……嘘よ。もういいの、彼のことは」

 どうせ自分が頼んだって来るはずがないのだ。彼は敵で、私を憎んでいるのだから。

 トーマスはワンと吼えてレンの前から去り、紙とペンを咥えて戻ってきた。


※※※

 こうして河童はやってきた。

 先導するトーマスの匂いを頼りに、彼は塔の地下鉄口にたどり着くことができた。

 後事はミチハルたちに託してある。彼らは予定通り日付が変わると同時にトンネルを使って塔への進撃を開始する。

 デスゲームとやらで警備が手薄になる隙を狙うのだ。

 地下鉄口の隅っこにレンはいた。しかもたったひとりでだ。

 河童は鼻をふんふんと鳴らし、周囲の匂いを嗅いだが、兵士たちの匂いはしない。

 カエルとよく似たレンの匂いがする。双子でも匂いは微妙に違う。レンのは、切なくて悲しげな匂いがする。

 四年前ぶりに見る彼女は大人びていてさらに綺麗になり、悲壮感を漂わせていた。


「レン……」

 どんな顔をして会おうか、ここへくる途中、彼はずっと考えていた。

 自分は彼女を倒すことができるのだろうか。彼女は憎き仇であるが、今も好きな女でもある。

「久しぶりだ。元気にしてたか」

 我ながらマヌケなことを言うと思いながら河童は彼女に近づいた。

「あ……」目の前に立ちはだかる巨大なケダモノに、レンは思わず後退りした。

 ライブカメラから姿を見ている分にはそれほど気にならなかったのだが、生で見ると迫力が違う。

 まさか、これほど巨大で凶悪そうな生物に変貌しているとは。

「レン。俺だ、タケルだよ。わからないか?」

「来ないで!」

 レンに触れようとすると、彼女は悲鳴を上げた。

 河童はすっかり忘れていた。自分は以前とはまったく姿が違っていることを。

 彼は変わり果てた自分の姿を悲しげに見た。――普通はそういう反応をするよな。

「どうして俺を呼んだ。仲間はいないのか」

 少し距離を置いて問いかけてもレンは怯えてうずくまっている。

「話せないなら帰る。次に会うときは敵だ。倒すぞ。いいな?」

 戦意喪失している女を叩き斬れるほど彼は非情にはなりきれない。

「……俺はお前だけが好きだったよ」


 河童が踵を返すとレンはおもむろに顔を上げた。――行かないで。

 しかし、口から出たのは憎まれ口だった。「ウソ。私とカオルの区別もつかないくせに!」

 それを言われると河童には辛いところだった。しかし、相手は大好きな片思いの女の子だ。

 いつもと違うなと思ったとしても「オマエ、偽者だろ!」と追求できるものだろうか。

「双子の兄弟がいるとわかっていれば間違えねえよ」

「カオルの方が素直で可愛いものね。カオルなら貴方の姿に怯えたりしないんでしょ」

 レンは憎々しげに吐き捨てた。

 こいつ、そんな嫌味を言うためにわざわざ俺を呼んだのか? 河童は眉を寄せた。

「なんのために俺をここへ呼んだ」彼はもう一度訊いた。

「〈エデン〉へ連れて行くためよ。私には貴方たちバケモノを回収する任務があるの」

 それは半分本当で半分嘘だ。ただ会いたいという一念だった。

 回収任務はあるが、もはや彼女の心には彼を回収したいという意思はなくなっていた。

 河童は辛そうな表情をして目を閉じた。「……そうか。それにはしたがえねえな」

 彼は太刀を抜いて身構えた。そして身じろぎしたレンに叫ぶ。

「レン、動くな!」


 嫌な匂いが近づいてくる。河童はとっさにレンを背後にかばった。

 その陰は物音を立てずにすぅーっと歩いてきた。

 美女、というのだろうか。

 褐色の肌に気味が悪いほどに細く整った体型、目に特徴的な縁取りをした美しい容貌の人物が二人の前に現れた。

 美しいのだが、実に人工的で無機質な美だ。

「ああ……。お父様、フィクサー」

 レンが河童の背後で囁いた。「タケル、私は平気だから逃げて。今度会うときは敵、ね?」

 河童はレンの手を握った。そのあまりの冷たさに、彼は眉を上げた。

「なんだ、この女がオトウサマ? ニューハーフか?」

 怪訝そうに自分を見ている河童を見てフィクサーは言った。

「私の容姿が気になるのかね。なにぶん多忙な身なもので、私自身を八等分して残りは他人の身体を継ぎはぎしているのだよ。この〈私〉はクレオパトラがモデルだ」

 八等分とか。……気色悪ぃ。河童は顔をしかめた。

「レン。せっかくやってきたというのに出迎えもないので捜してしまったよ」

 フィクサーの声は天上の調べとも言うべき美声だった。しかし、非常に人造的な音声だ。

「申し訳ありません、フィクサー。その、急用がありましたものですから」

 レンはフィクサーの前に歩み寄り、恭しくお辞儀をした。

「彼は神の(ゴッドチャイルド)か。最後の一匹を回収していたというわけだ」

「え。ええ……。ただ、彼らはまだ教育が済んでません。ですから回収は……」

 一匹だと? タケルは眉間にシワを寄せた。

 フィクサーはキッキッという耳障りな笑い声を上げ、犬のトーマスを指差した。

「お前のことではない。彼のことだ」

 河童はのけぞって驚いた。「ええええ。この機関車みたいな名前の犬も!」

「彼は実験体(モルモット)の第一号だ。変異しているが複数の生物の遺伝子が入っている。だからイヌにしては成長が遅い……。イヌであってイヌではない、お前と同じだ」


「なんだと……?」

 河童が青ざめていると、フィクサーは笑った。

「お前たち〈神の子〉には、人間以外の遺伝子が組み込まれているのだ」

 常人よりも強靭な〈選ばれし者〉に遺伝子操作を施した者たち=神の子なのだ。

 フィクサーは指に口を当てて河童のそばで囁いた。

「……人の姿を捨てて生きるというなら行くがいい。お前は選ばれた……」

 河童の脳裏で、〈海〉に落ち、蘇ったときのことがフラッシュバックした。

 暗闇、天を見上げる白い影、星のような光。

 麻酔でぼやけた視界、オペ服を着た医師たち、自分を照らすライト。

「ワクチンを打った数万の中から残った二千の選ばれし者。その中でも特殊な能力を持つ者がわずか八体。手術後、〈海〉に落とされても死ななかったのは被験体八人中の四体だった。まさに奇跡の子供たちだ。もっとも、君を〈海〉に落としたときはレンが泣いて参ったがね。レンは過去にも一度、君を連れて逃げようとしたのだよ」

 たしかに〈海〉の中で誰かの声を聞いた気がする。〈タケルを殺さないで……!〉と。

 そして、気づくと祖父の太刀を持っていた。まさか、これはレンが……?

「……レン。本当なのか」

 河童は、うつむいているレンに尋ねた。

「私は汚名返上のチャンスを与えた。なのに、お前はまた同じ過ちを繰り返そうとしている」

「私、過ちなど犯していません。だ、だれがこんな男……あ!」

 ドクンッ。また不整脈だ。レンは絶望の眼差しでフィクサーを見上げた。

 ――生命維持装置を止められた……。

 フェクサーは冷たい目をして養女を見返している。

「お前の心はわかっている。またもやその男と逃げようとしたのだろう。恋だ愛だと浮かれる低俗な女め。そんなにちっぽけな幸福が欲しいのなら、お前の望みをかなえてやる」

 くうっと呻き、レンの身体がくずおれた。河童は慌てて彼女の身体を抱きかかえた。

「お前が敵の親玉だということはわかった。俺が誰を倒すべきかもな。天才科学者だか知らねえが、ひとりでのこのこやってきて、ベラベラお喋りするオマエは利口じゃねえ」

 河童は地を蹴ってフィクサーに突進した。

 だが、人間だと思ったその姿に斬りかかると太刀が空を切り、細長い映写機を真っ二つにしたのみだ。

「くそ。本体じゃねえのかよ!」

〈私は多忙の身だと言ったはずだよ。では、塔の頂上で会おう〉


 河童は舌打ちをし、倒れたレンを見た。ひどい熱で、苦しそうに呼吸をしている。

「どうした、レン。病気なのか? 医者、医者はどこだあ!」

 トーマスは河童に短く吼えると、ペンを咥えて紙切れに文字を書いた。

 ――百四十階にいるカオルさんなら治せます。

 河童は瞠目した。――ナニモノなんだ。このイヌは!

 しかし、今はそれどころではない。「よ、よし。カエル頭を探しに行こう。百四十階か」

 河童はぐったりしたレンを背負って塔の非常階段を駆け上がった。

「……上がってはだめ、タケル。私はもう治らないの」レンは力なく微笑んだ。

「うるせえバカ。オレサマに口答えなんて百万年早ぇんだよ」

 レンはくすっと笑った。「〈バカ〉と〈百万年早い〉って口癖だよね」

 ちえ。つまんないこと覚えてやがる。河童は思った。


 そのとき、非常階段の踊り場から声が聞こえた。「河童だ! 河童が現れやがったぞ!」

 真紅のレインコート。義勇軍の連中だ。

 階段をふさぐように取り囲まれ、河童はちいっと舌打ちし、向かってくる敵たちを太刀でなぎ払った。

「ちょっと走るけど、ガマンしてくれ」

 河童はレンをたすきでくくりつけ、通路をふさぐ野良たちにタックルし、強引に障害物を突破した。

「シゲルとカッチャンを呼べ。河童は女連れだ」義勇軍の若者が叫んだ。


 地下の警備室にいた義勇軍の主力部隊は急報を聞き、おのおのに武器を手にした。

 彼らは塔の〈開かずの間〉から奪ってきた爆弾やライフル銃を手にしている。

「さすがのバケモノも、集中砲火を浴びりゃひとたまりもねえだろ」

 義勇軍の精鋭が河童の背後からライフル銃を撃ってきた。

 河童は大きく跳躍し、前方の敵を跳び越え、階段の手すりを引き抜いて後方の敵に投げ飛ばした。

「野郎、いつの間にカエル頭を連れ出したんだ」

 七階あたりでようやく乱戦中の河童に追いついたシゲルとカッチャンが瞠目して言う。皆、レンをカエルだと思っていた。

「乱射はするな! 味方に当たるぞ」

 シゲルが部下に命じた。「あの格好つけ野郎を殺すにはコツがいるんだ。……女を狙え」

 義勇軍の精鋭はレンに狙いを定める。すると、河童は方向転換して大きく咆哮した。

 ――シゲル!

 ほぼ同時に銃声がした。レンには当たっていない。が、河童の身にすべての弾が当たった。

 身体中から血が噴き出し、彼は太刀を持ったまま前のめりに倒れた。

「やったぞ。河童を倒した……!」カッチャンが河童に近づこうとすると、シゲルが止めた。

「相手はバケモノだ。念のために爆弾を投げとくべ」

 一度、手榴弾てヤツを使ってみたかったんだ。シゲルはにやりと笑って安全装置を外し、それを河童に投げた。

 ……と、そのとき。

 大きな獣の腕が手榴弾をつかみ、シゲルたち義勇軍に向かってそれを投げた。と、同時に河童は後方に大きく飛び跳ねて爆風を防ぐ。

「うそだろ……?」

 それがシゲルの発した最期の言葉だった。


 河童を狙った弾丸のほとんどは太刀によって弾き返されていた。多少弾きそこねたものもあるが、傷は大したことはない。

 彼はほとんど無意識に太刀を振って弾丸を斬ったのだ。

 その太刀には主に寄り添い、主の身を守る不思議な力があるという。

 河童の前に亡き祖父の影が見えたような気がした。


 〈よく見極めた。免許皆伝だ。……お前を誇りに思うよ〉


 非常階段には多数の屍が転がり、あたりはひっそりと静まり返っている。

「シゲル……」

 河童は骸となった野良を一瞥し、腕の中にいるレンの顔に鼻を近づけた。まだ息がある。

 するとレンがうっすらと眼を開けた。

「ハハ。もう少しの辛抱だからな」河童はレンに向かって屈託なく笑った。

 河童の笑顔を見てレンも弱々しく笑った。

「……私ね、本当ならとっくに死んでいるの。今は人工的に生かされてるけど、もうすぐ機能が停止する」


 レンは中学校に入学する直前、六年前に血液の病で死んだ。

 それは雪の降る日で、彼女の十二歳の誕生日だった。実の父親の家があるすぐそばで倒れていた。

 そこで彼女はフィクサーに拾われたのだ。彼は〈カオル〉と〈タケル〉を手に入れるためレンを〈復活〉させた。

 レンをタケルと同じ中学校へ入学させ、カオルと同じ塾に通わせた。

 自分の命はそこまでなのだ。フィクサーの目的が達成されるまでの期限付きの寿命。

 最初はそれでもいいと思ったのだ。……カオルとタケルが一緒にいるのを見るまでは。

 カオルは生き残り、タケルと一緒に生きていく。そう思った途端、レンの中で何かが破裂した。

 だから、彼女はカオルの健康な身体が欲しかった。

「お前、死ぬとか言うなよ」河童はレンを背負って再び走りだした。

 レンは眼を閉じた。もう死ぬというのに、どうしてこんなに心が安らぐのだろう。

「私、貴方と一緒に高校へ行きたかった」

 二人で同じ高校へ行って、私が勉強を教えてあげるの。

 そして私は運動オンチで少し抜けてるところがあるから、タケルは私をずっと守ってくれるの……。

 背中に伝わるぬくもりが次第に冷えていく。河童は彼女に呼びかけた。「レン、行くな」


 タケル……、大好き。


「バカ野郎! なんでもっと早く言わないんだよ!」

 河童の悲痛な咆哮が塔内に響きわたった。



 おおおお……。

 どこかで轟くような獣の咆哮がしたかと思うと、今度は各所から防火シャッターの降りる大きな足音がする。

 おそらくレンの仕掛けたデスゲームが開始されたのだろう。


 〈……ごめんね〉


 ――え。誰……?

 ふと人の気配を感じたカエルは後ろを振り返る。だが、恋人は自分から離れた場所にいた。

「ねえ、ルイ。トーマスが戻ってこない。一緒に連れていきたかったのに」

 カエルが困ったような顔をしてルイに言った。彼女の薬指には髪で編んだリングがはめられている。

 ルイも薬指に同じリングをはめている。カエルのはルイの髪、ルイのはカエルの髪を編んでいる。彼女が作ったおそろいの婚約指輪だ。

「彼は利口な犬だから、何があっても自力で生きていけるだろう」

 ルイは口ではそう言ったが、おそらくトーマスはレンといるのだろうと思っている。

 ここ二、三週間前からトーマスは、レンのまわりを護衛のごとくまとわりついていたからだ。

 ――さては骨付き肉に釣られたな。浮気者め。

 カエルはルイの頬に手を当てて言った。「もう。ちゃんと寝たの? 目が充血してる」

「もちろん。それに今日はとても体調がいい」

 体調がいいのは本当だった。寝不足なのは、隣で眠っている恋人を眺めているのが嬉しくて寝るのがついもったいなくなってしまうためだ。

「その悪趣味な蛙のフードも久しぶりに見る」

 得意の嫌味も絶好調だ。しかし、カエルは肩をすくめて「はいはい」と言った。

 さきほど窓からまばゆい光が部屋に差し込み、彼らは脱出の準備を整えていた。

「あんな巨大な飛行機が来るとは思わなかった。小型飛行機を積んでいるといいのだが」

 ルイは呟いた。飛行機というよりは戦艦と呼ぶにふさわしかった。

「UFOみたいだったね」カエルはそう言い、水筒を開けて水をごくごくと飲む。

「さっきから飲みすぎだ。しばらくはトイレに行けないんだぞ?」

 ルイはカエルをたしなめた。

「ちょっと熱っぽいみたい。やたらと喉が渇くの」

 そう言ってカエルは少し思案顔になった。「ううん……。緊張してるな、やっぱり」

 彼女は計画性に欠けるからな……。

 ルイは心配そうにカエルを眺め、黒いリュックサックの中にこっそりと〈ある仕掛け〉と、塔から持ち出した金塊とを雑多な荷物の中に紛れ込ませ、彼女に投げてよこした。

 自分の身にもしものことがあれば、それを売って暮らしていける。

「ねえ。このリュック、すごく重いよ」

「秘密の七つ道具を入れておいたからそれでいいんだ」

 ルイは真顔で言い、カエルが手慰みに絵を描いていたスケッチブックもリュックサックにねじ込んだ。

「お前は絵の才能がある。画家になれば成功するだろう」

「そうかな?」カエルは照れて赤くなった。「サバットの格闘家は?」

 あれはサバットではなく忍術だ、ルイはそう思ったが黙っていた。

 結局、彼女は何があろうとも我流アレンジを加えずにはいられない性質なのだ。そして、戦いには向いていない。

「お前は絵を描いたり、料理をしたり、裁縫をする方が似合っている」

 ルイは笑いながらドアノブをまわした。だが、鋼鉄の防火シャッターに遮られ、扉を開けることができない。

「これではトーマスも戻ってこられないわけだ」

 ルイは今度は窓際に寄って、窓ガラスを叩いてみた。

「強化ガラスならなんとかなるだろう。カオル、下がっていろ」

 ルイはブーツの底がガラス面に垂直になるように狙いを定めて思い切り蹴る。

 するとそこにヒビが入り、もう一度蹴るとガラスに大きな穴が開いた。

 外はどす黒い霧で覆われている。ここは雨雲のまっただ中なのだ。

「ものすごい〈雨〉の臭気が室内に入ってくる」

 久しぶりに嗅ぐ外気の匂いにカエルは顔をしかめた。鼻と口を覆っているのに息苦しい。

 ルイは重たいリュックサックをカエルから預かり、二人は塔の外壁をよじ登った。

 深い霧の中なので、下が見えないことが救いだ。

 だが、窓から漏れるわずかな光を頼りに、ところどころに穴の開いた十五センチほどの幅の足場を伝っていかなければならなかった。

 ルイは暗視スコープのごとき眼を最大限に活用して登っていく。

 やがて、彼の手が屋上の床部分を捉えた。

「しめた。ヘリコプターもある」

 飛行戦艦は屋上のさらに上、尖塔の位置に浮いていた。

ヘリポートには数台のヘリコプターと小型ジェット機が停まっている。

 ルイは素早く着地して、カエルの身体を引き上げた。

 彼はカエルを促し、彼らから近い場所に停めてあるヘリコプターに近づいた。

「これは軍用ではないな。報道用か?」

 ルイは機体に施されたペイントを見て呟いた。

「……マルヒテレビ? 民間の報道機関も来ているのか」

〈みなさん。こちらをご覧ください。地上が厚い雲で覆われています!〉

 ぎょっとして振り向くと、レポーターがカメラに向かって話しているのが見えた。


「おおい、カメラ! カメラ早く! ここに野生化した人間がいるぞ」

 突然、フラッシュがたかれて二人は愕然とした。

「なんでこの人たちあんなに嬉しそうなの。まさか、僕らを見世物にして放映するつもり?」

「〈エデン〉からの放映許可が下りた、といったところだろう。兵士たちが来る前に逃げるぞ」

 カエルは不快感で眉をしかめた。

「困っているときは誰も助けてくれないくせに、面白そうなことがあるといそいそと寄って来る。だから人間て大嫌い」

「他人は関係ない。自分にできることをするんだ」

 ルイはカエルに囁くと彼女の腰に手をまわし、魅惑的な微笑みを浮かべながらカメラの前を移動した。

 そして、ぶうたれているカエルをヘリコプターの運転席に乗せ、自分は後部座席に座る。

「え。あ、ちょっとアナタたち!」記者たちは逃げた二人を追ったが遅かった。

 カエルは教わったとおりにヘリコプターを離陸させ、ふらふらと上空をさまよった。

「どうして僕が運転するの。ペーパードライバーもいいとこだよ、危ないでしょう」

「乗り物で一番安全なのは運転席の後ろだからだ。僕の世界には〈自分と敵〉しかいないからな、つねに一番安全な場所を確保して行動する。お前も覚えておくといい」

「そう! ルイには僕も敵なんだ」カエルは不機嫌そうに唸った。

 ルイは涼しい顔をして言った。「例外はない。自分以外の存在は全員敵だ」

 どこまで本当なんだか。カエルは思った。彼は甘えん坊で、風呂ではかならずカエルに髪を洗わせるし、服の着せ方が悪いとぶーぶー騒ぐし、彼女の作った料理しか食べないのだ。

 ルイは澄まして付け加えた。「カオルは最強の敵だな。この僕が撃墜された」


 その頃、捕らえていたゴッドチャイルドが逃げたことを知ったユーイチは、開かずの間から見つけてきたミサイル砲を抱えて屋上に乗り込んできた。

「ジュニア! くそ、逃げられたか」

 舌打ちをするユーイチの姿を見とめたレポーターたちが彼に近寄ってきた。

「ご覧ください! ここにも生き残っていた人間がいるようです!」

「うるさい、この下等種族が!」ユーイチはミサイルの胴体でマスコミの人間をなぎ払った。

「おい。今、全国放送中なんだぞ? 空気読めよデブ……ぎあっ」

 ユーイチはつかみかかってきた優男風の記者の首を素手で握りつぶした。

「この俺のジャマをするな、劣化生物が」

 彼は目前のヘリコプターを睨みつけた。「ふん、バカどもが。逃げようとしても無駄だ」

 ユーイチは口を歪めて笑った。

「これで大手を振ってジュニアを殺せるな。奴の死体は俺がもらう。俺の脳を奴の身体に移植すれば、俺はさらに強くなれる」

 たしかレンはそう言っていた。ゴッドチャイルドは〈エデン〉に貢献した者の脳の移植をするために、その身体だけが必要なのだという。だから生死を問わないのだ。

 ならば、〈ジュニア〉の身体は俺がもらう。絶対に逃がさない。

 ユーイチはルイへの憎しみと、それと同じくらいの憧憬で頭の中が真っ赤になっていた。

「ジュニア……これで俺たちはひとつになれる」

 妄想に酔いしれた彼はミサイル砲の狙いをヘリコプターに定めた。

 ドアを開けて敵からの追跡を見張っていたルイの類まれな視力は、そのわずかな光を見逃さなかった。

「まずいな。ミサイルが追ってきている」

 追手が来るだろうとは予想していたが、まさか殺そうとするとはルイも思わなかった。

「え。何、ルイ」カエルは慣れない運転に必死で、それどころではなさそうだ。

「……いいんだ。お前は運転をしていろ」――やはり、僕が見張りをしていて正解だった。

 二メートルほどもある誘導ミサイルだった。このまま爆撃されれば二人とも木っ端微塵だ。

 ルイはヘリコプターのドアを開けて身を乗り出した。

 カエルはそれを見て悲鳴を上げた。「何をしているのルイ! 座席に戻って!」

「僕にはやることがある。お前も自分のなすべきことをしろ」

 カエルに微笑みかけると、ルイはドアから手を離して落下していった。


 ――お別れだ、カオル。わずかな間だったけど、僕は本当に幸せだった。

 失った少年時代を取り戻せた。君は僕にとって恋人で、愛弟子で、母親だったよ。


 ルイは瞳を金色に光らせ、全身を鉛色に変えた。

 どこまでも無尽蔵に力が湧いてくる。燃え尽きようとしている命の一瞬の煌めきだ。

「ぐおおおあああああっ!」

 ルイが渾身の力を込めてミサイルをキャッチすると、鋭いカギ爪で誘導装置を引きちぎる。

 そして彼はミサイルを抱えたまま、ユーイチのいるヘリポートめがけて落ちて行った。

 だが、塔までは届かなかった。

 ミサイルの起爆装置が作動し、塔から程近い場所で彼の身体は四散した。


※※※

 ……闇に落ちてゆく。肉体はちぎれ、彼の意識だけがゆっくりと〈海〉へ帰っていく。

 薄れゆく意識の中で、ルイは浜辺を歩くふたつの人影を見た。

 小さな少年が母親と手をつないで浜辺を歩いている。

 ――冬に〈海〉で見た幻覚か。

 街を出ようとして幾度となくルイが見ていた幻覚だ。

 死の間際には、自分の人生の一端が見えるものらしい。

 五歳くらいの少年が笑いながら犬と一緒に走っている。母親の手を取ってはしゃいでいる。

 屋敷の近くに湖があって、昔はよくああやって母と一緒に湖畔を歩いていた。

 懐かしいな。そうルイが思ったとき、母と子がこちらを向いて花束を投げた。

〈お父さん!〉

 それは彼の愛する女性と、自分とよく似た顔立ちの少年だった。

〈僕ね、将来格闘家になるんだよね。トーマス?〉

 ――戦いの果てにお前の求めるものがある。探し求めるがいい、お前の存在した証、〈家族〉を。

 これだったのか、求めるものとは。

 彼は最期に少し微笑み、深い死の闇へと落ちていった。


 ……ありがとう。最高の贈り物だ。


※※※

 北米のとある大都市で、キングが書類に向かって仕事をしている。

 書類の内容は国連軍への大量の武器の輸送手続きだ。国連はいよいよ〈エデン〉に灸をすえるのだという。

 攻撃対象は〈エデン〉の首都だ。それでも効果がない場合は、かの国の主な財源たる日本に狙いを定めている。

 ――いったい何をしているのだ。あの愚か者は。

 キングが仕事に没頭していると、部屋の中で人の気配がした。

「……遅かったではないか」

 顔を上げずとも誰だかわかる。客は音を立てずにソファーに腰掛け、キングの仕事が終わるのを待っている。

 だらしなくすがりついてきたら追い返すつもりだったが、彼は品のいいスーツをきちんと着て堂々としていた。

 王たる者はこうでなくてはならない、キングは思った。

 彼は客をちらりと見た。――ずいぶんと背が伸びたものだな。私に似たのだろう。

 キングは書類に目を戻し客に言った。

「これで懲りただろう。〈エデン〉などは相手にせず自分のやり遂げるべきことをするのだ。予定は山積みだが、その前に休暇を与える。今年いっぱいはリヨンで過ごすといい」

 客は微笑した。「日本からの脱出に失敗しました。僕は死にます」

 キングの瞳が冷たく光り、仕事を中断して席を立つ。

「私は冗談が嫌いだ、クラウス。母親に会うことを許すと言っている」

 息子が日本で行方不明になっていることを知ったアントワーヌは、盲目であるにもかかわらず単身で北米本部まで乗り込んできてキングを責めた。

 父親の貴方が助けないなら自分が日本へ行くと言って泣き崩れた。

「あれはお前を手放したことを悔いている。これ以上泣かれたら仕事に差し支える」

 ルイは悲しそうな微笑を浮かべた。

「時計はある人に託しました。どうかその人を追わないでください。生まれて初めて息子として頼みます。お父さん、お願いします」

 初めて息子から父と呼ばれたキングは片眉を吊り上げた。息子は胸に手を当て最上級の礼をした。

 キングは息子が左手の薬指にリングをはめているのに目をとめた。

「お母さんに〈愛している〉と伝えてください。お父さん、貴方のことも」

 ルイの身体が透けていき、やがて消えた。

「クラウス……!」

 自分の声でキングは目覚めた。夢だったのだ。

 しかしキングは、夢でルイが座っていたソファーに手を伸ばし、それを愛おしそうに撫でた。

 彼は、本能的に最愛の息子が死んだことを察した。

 やがてキングは顔を上げ、携帯電話を開いて某国の大統領に命じた。

「〈エデン〉の首都に核を落とせ。跡形もなく消し去れ。今すぐだ」


※※※

 ひとり残されたカエルはヘリコプターを旋回し、恋人が落ちていった場所まで引き返してきた。そして凄まじい爆発を目の当たりにした。

「殺してやる!」

 生まれて初めて人を殺したいと思った。カエルはヘリコプターを急降下させ、彼を殺した者と自分とを吹っ飛ばそうと、塔の屋上へ突っ込もうとした。

 だが、すんでのところで思いとどまった。

 行っちゃだめだよ。そう、誰かの声が聞こえたような気がした。

「そうだ。約束は守らなきゃ……」

 気を取り直して操縦桿を握り直す。だが、数体の戦闘機がヘリコプターを追ってきた。異変に〈エデン〉の兵士が気づいたのだろう。今度はカエルを殺す目的ではなく、彼女を街から出さないための攻撃だった。機体から〈人間〉には聞こえない周波の大音響を出し、彼女を精神的に追い詰めてきた。音響は恋人の声となって彼女の心を揺さぶり続けた。

〈カオル、戻ってこい。僕を見捨てて逃げるのか〉

 カエルは耐え切れずに悲鳴を上げた。気を失い、彼女を乗せたヘリコプターは雨雲の下へ真っ逆さまに落ちた。


※※※

「ゴッドチャイルドのうちの一匹は木っ端微塵、もう一匹はヘリごと〈海〉に落ちた。戦闘機を撤収させろ」

 フィクサーは部下に命じると、爆風を受けて倒れているユーイチを忌々しげに見た。

「死体がバラバラになってしまっては細胞の再生もできまい。この罪は身をもって償ってもらうぞ」

「もう一匹の回収はいかがいたしますか」

 部下の問いにフィクサーはにやりと笑う。

「あの娘ならば塔へ上ってくる。私の従順な(しもべ)としてな」

 定期的に送っていた〈カオル〉へのテレパシーが届きにくい。

 これまで仲介役を果たしていた双子の姉・レンが死んだためだろう。

 カエルの感知能力は三人のゴッドチャイルドの中でもずば抜けていた。

 彼女の強い感受性がもたらした能力なのだろうが、フィクサーは〈カオル〉を精神的に操るのはたやすいと考えていた。


 ……それにしても。

 かれこれ小一時間が経過しているというのに、誰も塔の屋上まで上がってこない。

「なぜモルモットたちはここに来ない。誰かが妨害をしているのか」

 情報統制下にある外の様子まで見せての〈演説〉は効果があったはずだ。

 モルモットたちがこの四年もの間に募り募った潜在的な恨みや憎しみは、かつて自分たちを見捨て、今度は自分たちの存在を否定する〈大人〉たちに向いたに違いなかった。

「どうやら、モルモット同士で小競り合いを始めているようです」

 仕官の言葉に、フィクサーは舌打ちした。

 フィクサー自身(八分の一だが)がここまで出張ってきたのはレンのこともあるが、〈エデン〉に危急の事情ができたためだ。街の外で起こっている反政府軍の反乱がここ数日で激化した。

 政治家やマスコミを金で操り、偽情報を流し続けてきたが市民たちもようやく疑いのまなざしを向け始めていた。

 それだけでなく、対外的にも〈エデン〉は追い詰められていた。

 国際警察機構が本格的に動き出し、各国に紛れ込んでいる〈エデン〉の工作員を次々と検挙し始めた。

 それどころか首都までもが核攻撃の標的に定められている。

 フィクサーは焦りを感じ始めていた。日本などはすぐに捨てておける。

 新たな実験場となる場所は合衆国にもヨーロッパにもアフリカにもある。

 できるだけ早くゴッドチャイルドと〈選ばれし者〉たちを回収せねばならない。

「アキラに命じ、催涙弾を投げてモルモットを回収しろ」

 しかし、アキラは〈開かずの間〉で金塊や武器の回収作業を行っているときに義勇軍たちに襲われ音信不通だという。

 おそらく同行した兵士とともに絶命したのだろう、とのことだ。

「彼らは野生動物と同じです。我々はここで待つしかありません」

 雲の隙間から朝の光が差し込んでくる。夜明けがきたのだ。


※※※

 空からまっさかさまに落ちたカエルだったが……。彼女はふわふわと〈海〉へ落ちてきた。

 ルイがリュックサックに仕掛けておいたパラシュートが開いたのだ。

 運転に慣れない彼女に万が一のことがあったときのためにと準備していたのだろう。

 パラシュートはひとつしかなかった。ルイは最初から自分のことは諦めていたのだ。

「……ごめんなさい。僕、何の役にも立たなかった」

 彼が命がけで逃がそうとしてくれたのに。

「ごめんなさい。僕だけまだ生きている……」

 最初から、僕には荷が重すぎたんだ。

 死にたい、と思った。死んで彼のいる場所へ行きたい。

 そう思ったら、しばらくなりをひそめていた(ノイズ)が再びカエルの耳元にやってきた。


〈もう楽になるといい。夢から覚めて現実へ戻るのだ〉


 ――これ、夢なの? 全部、夢?

 カエルは〈海〉に沈みながら手を伸ばした。


「ばかだな。また変な夢を見たのか」


 幻の都のように目まぐるしく点灯するネオン。

 信号が赤に変わり、鉄の塊が唸りを上げて目の前を通り過ぎていく。手に触れる地面は熱を帯び乾いた道路。

 じめじめした蒸し暑い空間に、ときおり涼しい風が吹き抜ける。喧騒とむせるような草と潮の匂い。

 人々は彼女の存在など目に入らないかのように足早に通り過ぎていく。

 同じ空間にいながらすべてのものが無関係で、まるでリアリティのない〈現実〉。

 カエルは目を見開いた。「……え。ここはどこ?」

 彼女は自分の姿を見た。到底戦えそうにない華奢で細い手足だ。

 白のカットソーに花柄のスカート。白のミュール。肩からは可愛らしいショルダーバッグが下がっている。

「なにこれ。〈街〉はどうなってしまったの」

 道路標示には、〈臨海区みなと公園〉とある。カエルの家のすぐ近くだ。

 ……現実? 今までのは夢?

「ぼーっとするなよ。恥ずかしいだろ」

 目の前でキザな格好をした男が自分に向かって怒鳴っている。その顔に見覚えはあったが名前が思い出せない。

「……誰だっけ」

 カエルが男に尋ねると、相手は顔を真っ赤にして怒った。

「ふざけんな。せっかくお前みたいな暗い女を誘ってやったのに」

 この男は中学のときから人の顔を見るたび絡んできた男子生徒だ。詳しい経緯はわからないが、自分はこの男とデート中であったらしい。

 カエルはむっときて男を思い切り蹴った。

「趣味の悪い男……。信じられない」

 ――コレが僕の現実なの。

 夢なら早く覚めてほしかった。

「オマエが声かけてこいよ」

「いや、オマエのが女ウケいいだろ」

 憂鬱な気持ちで歩いていると、近くで若い男がひそひそと話をしている。

 ヨーコと死んだはずのナチだった。彼らはいつもの薄汚れたレインコートではなく、お洒落な格好をしている。

 カエルは彼らに詰め寄った。

「二人とも、どうしてこんなとこにいるの」

「……はい?」ナチが目をぱちぱちさせた。「キミ、どこかで会ったっけ?」

 ヨーコがナチを押しのけてカエルに話しかけてきた。

「いや、知り合いだよな! あのさあキミ、よかったらどっか遊びにいかな……」

 なんだ、人違いか。カエルは彼らを無視して歩き出した。

 公園を歩いていると体育大学の学生たちがランニングをしているのが見えた。

 見覚えのある大柄でスキンヘッドの学生はゴクウ、自転車で彼らと併走しているのはミチハルだ。

 カエルは目を閉じた。――そっか……。みんな、〈現実〉に戻ったんだ。


 公園の特設会場でオリンピックの中継をしており、人だかりができていた。

〈やりました。日本のミヤベ! 今期、我が国で初の金星を挙げたのはナンカイ大学のミヤベタケルです。

 水泳男子千メートル自由形で金メダル獲得!〉

 スクリーンの向こう側で河童がインタビューを受けていた。ツンツン頭のケモノではなく、ちゃんとした人間の姿だ。

 新曲を披露するといって周囲から止められている。相変わらずだ。

「河童ってホントに〈河童〉なんだな……」

 カエルが感心していると、報道陣に歌をリクエストされた河童が上機嫌に唄い始めた。

〈金メダルの歌いきます。キン、キン、タヌキのキンタ……ごふっ〉

 河童の横でにこやかに微笑んでいたレンの肘鉄を食らい、彼はぶっ倒れた。

 その様子を見ていたカエルは涙を流しながら笑った。

 ――みんな、幸せそうだ。死んだナチも生きていたし。これでよかったんだ。

 彼女は家路を急いだ。僕も早く〈現実〉に馴染むようにしなくては。


「申し訳ありません、ボス。……ぶほぉ!」

 街角にバスかと思うような巨大なリムジンが停まっており、そのそばに黒服の五人の外国人が立っている。

 その輪の中に、いかにもその筋と思われる二人組が揉みあっていた。

「僕を〈ボス〉と呼ぶなと言っているだろうアブラ豚。だいたいお前は何年営業をやっているのだ。原価が百円なら一万円で売れ。ラーメンの中の虫にも値札をつけろ。クレーム電話は笑顔で放置、直接応対は銃をチラ見させろと何べん言えばわかる。この豚が!」

 ひどい営業内容だが聞き覚えのある声だ。カエルは怒鳴り声を上げている人物を見た。

「……ルイ!」

 ルイは見るからに高そうなダークスーツを着ており、葉巻を咥えながらかつての塔のボス・マツイをなぶっていた。

 マツイは若き御曹司に踏みつけられながらもどこか嬉しそうだ。

 カエルは五人の外国人を突き飛ばしてルイに駆け寄った。

「よかった。生きてたんだ……。あのね、ルイが死んじゃう夢を見たの」

 ルイは駆け寄ってきた少女を一瞥し、咳払いしてスマートに名刺を差し出した。

「どうか通報はなさらないで下さい。僕はこの通り無事ですし、彼は不細工ですが変質者ではありまん。私はクレメントカンパニー極東支社長、クラウス二世・L・クレメントという者です。お電話一本で香水から核ミサイルまで販売しますよ……。ご用命の際は当社をよろしく」

 カエルは名刺を受け取り愕然とした。「……僕が誰だかわからないの?」

「支社長は俺だ!」マツイは叫んだ。「貴方、本当は秘書じゃありませんか……ぐぼお!」

 ルイはマツイを蹴り上げてリムジンに乗せると、カエルに微笑みかけてそのまま車に乗って走り去ってしまった。

「待って、ルイ!」カエルは駆けながら叫んだ。

「僕、どうしても謝りたくて……」

 車が見えなくなると、カエルはあふれ出る涙をぬぐった。「やだ……。行っちゃやだ……」

 そんな彼女の耳に例のノイズが落ちてくる。

 

 〈嘆くことはない。ここなら誰も傷つかない、誰も死なない。

  お前が望むなら、私はお前を悲しみのない世界へ連れて行ってあげよう。

  そこは、皆が幸せに暮らせる理想の世界だ〉


 ――思い出など持っていても悲しいだけだ。

 カエルの目の前に見知らぬ女が立っていた。

 美しいが、作り物のように冷たい顔だ。その彼女が微笑みを浮かべ、カエルに手を差し伸べている。

〈おいで。過去の記憶を消してあげる。くだらない思い出など捨ててしまえばいい〉

 小さい頃のおまじない。――差し伸べられた手をつかむと幸せになれるんだって。

 悲しみのない世界。そこは自分のまわりに誰もいない世界。

 過去の思い出などない方が今を穏やかに生きていられる。それは、かつて彼女自身が信じていたことだった。

 しかし、過去を塗り替えても自分の本質は変わりはしない。


 ――でも……もういい。何もかも忘れてしまいたい。いっそ狂ってしまいたい。


〈お前が望むなら、それもよかろう〉

 カエルがフィクサーの差し伸べた手を取ろうとした、そのとき……。

 誰かがカエルの背負っているリュックサックを強引に引っ張った。

「よお、親友。今から塔へ殴りこみに行くんだ。お前も来いよ」

 河童だった。


 フィクサーの幻影は忌々しげに首を振るとカエルの脳裏から消えていく。

 辺りを見回すとそこはいつもカエルが通っている海辺の崖で、彼女はノイズに誘われてふらふらとここまで歩いてきていたのだ。

 カエルは〈海〉の方を向いたまま泣き笑いの表情で毒づいた。

「お前、なんでいつも絶好のタイミングで僕のジャマをするんだよ」

 河童は神妙に言った。「まだ死ぬときじゃないっていうナレーションだ」

 それを言うなら天の声だろ。カエルは憮然とした。

 緊張感のないヤツめ、カエルが河童の方を振り向くと彼女は息を呑んだ。

 河童もまた深い悲しみに満ちた暗い目をしていたからだ。

 彼はカエルに言った。「俺たちは今も親友だ。違うか?」

 張り詰めていた心が折れ、カエルは河童にしがみついて嗚咽した。

「……ルイが死んだの。命がけで助けてくれたのに、僕は逃げるのに失敗して……」

 悔しかった。それ以上に悲しかった。

「何の役にも立たなかった。こんな僕が生きててもしかたないの」

 カエルは悲しみのすべてを河童にぶつけて泣いた。

 ――奴は、本気でこいつに惚れていたんだな。

 嘆き悲しむカエルを見て、河童は三ヶ月の間に彼女たちに何があったかを察した。

「相方を亡くしたか。俺も同じだ、レンが死んだ」

 河童から事情を聞くとカエルは短い叫び声を上げ、両手で顔を覆った。

「僕のせいだ。僕が生まれてこなければレンは死ななかった」

 カエルは屍のような目をしてふらふらと崖へ戻って行った。

「僕がいなければ、ルイだって街から脱出できてた」

 もう嫌だ。誰もいない場所へいきたい。

「……もう放っておいてよ。僕と関わると河童も死ぬよ」

 河童はカエルの腕をつかんで眦を吊り上げ、塔を指差して叫んだ。

「塔に俺たちの仇がいる。仲間を殺し、街を破壊し、俺たちをバケモノに変えた連中だ。俺は奴らを根絶やしにするまで生きる。死んだ奴らの望みを継ぐために生きるんだ。お前もジュニアから望みを託されて生きているんじゃないのかよ」


〈お前に戦い方を教える。誰かが継いでくれれば僕の人生も報われる〉


 ルイはカエルに身を守る術を教えた。

 何のために? それは生きるためだ。

 恋人の燃え尽きようとする命を自分は継いだのではなかったか。

 自分のなすべきことをしろ、彼はそう言ったではないか。

 ――ごめんね、ルイ……。

 カエルは左手の薬指にはめた髪の毛で編んだリングに口付けをした。

「そうだね。僕はまだ死ぬわけにいかない。一緒に行くよ、親友」


※※※

 河童とカエルはトンネルからダクトを通り、百十九階の倉庫で待機していたミチハルたちと合流した。

 彼らはカエルのメモをもとに河童が作成した地図を使ってここまでたどり着くことができたのだが、その先へは防火扉が閉まっていて倉庫から出られないでいた。

 倉庫にしてはかなり広いとはいえ、中に二百人もの人間がいる。室内はかなり窮屈だった。

 野良の若者たちは、倉庫の中にあるアイスクリームやパンをむさぼるように食べている。

 数年ぶりに味わう文化的な味に、彼らは無我夢中だった。

「河童! 待ってたぞ。カエル頭も無事でよかった。さっそくだが知恵を貸してくれ」

 クズ鉄山の面々は河童の無事を喜び、新たな戦力となるカエルの参入を歓迎した。

「空に飛行戦艦。〈エデン〉の連中が街へ来ているのに外へ出てこないところを見ると、やっぱり〈雨〉には弱いってことなんだろうな。で、マスコミも来ていると」

 ミチハルは真面目くさった顔をして、二人の話をもとに情報を整理している。

「俺らテレビに映るのかよ。文化祭でやったライブ以来だな」 

 バンドをやっていたヨーコが眉毛を気にしながら言った。「剃った方がいいかな?」

 ゴクウがヨーコの頭を叩いた。「今どきテレビごときで張り切ってるんじゃねえよ」

「あの感じだと、どんな格好をしてても〈野人〉で終わりだよ」

 カエルは膝を抱えて言った。いろんなことがありすぎたからだろうか、ひどく気分が悪い。気持ちが悪くて吐きそうだ。

「疲れているのかカエル頭。そういうときは足のウラのココ、勇泉を刺激するといい」

 ミチハルが自分の足裏の中央を指差した。彼は鍼灸院の息子でツボには詳しいのだ。

 彼らは口には出さないが、フードを脱いで顔を晒しているカエルにかなり気を使っていた。

 今まで会っていたとはいえ、こうして女をナマで見るのは本当に久しぶりなのだ。

「みんな、普段どおりでいいよ。お客様扱いされるとかえって緊張する」

 目の前に山ほどのアイスクリームとジュースを並べられ、カエルは困惑気味だった。

「その通りだ。こいつも仲間なんだから女扱いすんな。……特別扱いはナシだからオレ様が足を押してやろう」

 河童がにんまり笑って彼女の足に触れようとすると……。


 ――ママに触るんじゃねえ、この外道が!


 カエルの足が火を噴き、河童を思い切り蹴り上げた。

 彼は天井まで飛んで、壁に頭をぶつけた上になぜか頭上からドラム缶が落ちてきた。

「……お前、なんかパワーアップしてないか?」

 河童は血まみれになって戻ってきた。

「え。いや、そこまで強く蹴ったつもりはなかったんだけど」

 カエル自身がひどく驚いていた。これはルイの特訓の成果なのだろうか。

「しかも、俺サマを外道などと言って……」

 河童は傷ついたような顔をした。

「そんなこと言ってないよ!」カエルは叫んだ。

 ミチハルが眉を寄せた。「そこでじゃれるな。話を先に進めてくれよ」

「まあ、待て。塔に物見をやってるんだ。もう少しで戻ってくると思う」

 河童の言うとおり、ほどなくして物見がダクトから顔を出した。

 物見はワン、と吼えた。

「トーマス!」カエルは駆け寄ってきた子犬を抱きしめた。

 優秀な忍犬であるトーマスは、探ってきた塔の様子を紙に書いて報告した。

 彼によると、ここから上階の非常階段はマスコミの人間がひしめき合っているという。

 また、八十階あたりでは野良と奴隷が激しく戦っており、下層階は死体の山だそうだ。

「……なあ、ここ。ツッコムとこなのか」文字を書く犬を見てゴクウが言った。

「いや、時間が押してるからスルーしろ」ミチハルが言う。

 各フロアのシャッターは地下一階の警備室にある連動制御盤を使って開けられるとのことだ。

 ここは百十九階、シャッターを開けるとすれば誰かが地下に降りなくてはいけない。

「下層階のダクトは火災や爆発であちこち崩れてる。今さら使うことはできまい」

 ミチハルは腕を組んだ。「実は、そこの防火扉を開けられなくて立ち往生してるんだ」

 河童は目を剥き、防火扉に近づいた。そして太刀を抜くと、扉の隙間にそれを差し込む。

「まさか太刀で叩き斬るつもりじゃ……」

 ミチハルが言いかけたとき、扉がガチャという音を立てて開いた。皆は瞠目した。

「こういう扉は手動でも開くんだよ。火事のとき消防隊が困るだろ?」

 河童はやんちゃな小僧だったので学校でよくこういった遊びをしていて詳しい。

「どこが厳重警備? これならエレベーターも使えるじゃないか」ヨーコが口を尖らせた。

「いや、ここから上は通行に認証コードがいるし、赤外線が張り巡らされてる。警備が解除されているのは非常階段だけじゃないかな?」カエルが言った。

 ユーイチは今日だけ非常階段を開放すると言っていた。それが本当ならばだが。

「非常階段にはマスコミがいるし、警備が厳重とは思えないけど」

 〈エデン〉はなぜ今日に限って報道を呼んだのだろう。カエルはそのことが気になっていた。

 暴徒と化した街の生き残りたちが怒りに任せて彼らを襲撃することは目に見えている。

 一行は必要な物資を集め、ひとまず非常階段を使って上へ向かうことにした。

「アイスにジュースにトイレ用洗剤に漂白剤……。キャンプへ行くのと違うんだぞ?」

 皆が武器になるものを探している最中、カエルはアイスクリームの入ったクーラーボックスの中を漁り、ジュースの入ったペットボトルのケースを漁り、今度は洗剤の置かれた棚を漁っている。それを見た河童は眉をひそめた。

「この苺のアイスクリーム、おいしい」カエルはにこにこと笑った。

 不意の襲撃に備え、河童とゴクウの武闘派を先頭にし、次にカエルとトーマス、二百名の子分たちと続く。

 最後尾にはミチハルとヨーコがついた。

〈ご覧下さい! 野人たちの群れであります!〉

 彼らが訪れた百十一階の階段付近には、もうマスコミたちが湧いていた。

 しかも、銃を構えた〈エデン〉の兵士までいる。彼らは白々しく叫んでいた。

「無駄な抵抗はやめておとなしく降伏しなさい」

 ……抵抗? 河童たちは眉をひそめた。彼らは武器は持っているが抵抗などしていない。

 兵士たちは勇み足になるマスコミたちを制して言った。

「彼らこそ『721』のテロを引き起こした真犯人です。危険ですから下がってください」

 河童たちは瞠目した。――テロの犯人だって?

 兵士たちの目が笑っていた。お前たちはどこへも逃げられない、そう言っている気がした。

 ゴクウがかっとして拳を振り上げようとすると、河童が彼の前に立って止めた。

「ここは何とかする。お前はヨーコと地下へ行って警備システムを解除してきてくれ」

 言われたゴクウは一瞬、不服そうな顔をしたが、うなずいて隊列の後方へ向かった。


「今は手を出すな。奴らの思う壺だ」

 マスコミを呼んだのはそういうことだったのだ。

 街の生き残りたちをテロの実行犯にしたてあげ、〈合法的〉に彼らを回収しようというのだろう。

 世界中に彼らの顔を発信し、どこへも逃げられなくしようというのだ。

 ゴクウとヨーコが数名の部下を連れて立ち去ると、河童たちは整然と隊列を組んで静かに階段を上っていった。

「どいてくれないか。俺たちはお前らの代表に呼ばれているはずだ」

「反抗するのか! 反抗するなら催涙弾を撃つぞ!」兵士は言った。

 け。白々しい。河童が目で合図すると、カエルたちは手にしていた武器を捨てた。

 河童も太刀を放ると、ミチハルが「いいのか?」と言いたげに目配せした。

「何かを隠しているかもしれん。ボディチェックをする」

 野良たちの持ち物からは武器らしきものは見つからなかった。

 ただ、カエルのリュックサックを調べようとしたときだけは兵士は悲鳴を上げて倒れた。あまりに重くて腰を痛めたのだ。

「米、醤油に味噌に洗剤、痛み止めに冷凍食品、化粧品に洋服、氷枕に絵の具セットにアイスクリーム、氷にミネラルウォーターに、ちゅ、中華鍋……? いったい何キロあるんだ!」

「えと。……九十キロほどかな?」カエルは微笑んだが頬は引きつっていた。

 ――秘密の七つ道具って生活用品ばっかりじゃん。ルイの奴……。

 呆れた兵士はリュックサックを調べるのを止めた。バカバカしい。

 攻撃の口実を失った兵士は河童たちを通すしかなかった。

「ちょっと。ちょっとコメントいいですか」

 テレビ局のレポーターらしき男が河童のそばに寄ってきた。

 河童は少し眉を動かした。どうせまたこの姿のことでとやかく聞くのだろうと思った。

「国営放送の受信料が四年分請求されることになりますが、お支払いはどうされますか」

「……ウチにテレビはねえよ」河童は目を剥いた。――他に聞くことはねえのかよ!

「いや、その場合はちゃんと解約手続きをしてもらわないとですね……」

 今までどうやって解約手続きができたというんだよ! 河童のこめかみに青筋が浮いた。

 ミチハルが荒ぶるリーダーを抑え、耳打ちした。「これは奴らの作戦だ。挑発に乗るなよ」

 そうか、危ないところだった。思わず食い殺しそうになった。河童は汗をぬぐった。


 一方、塔の各フロアでは野良と家畜が相変わらず乱戦を繰り広げていた。

 義勇軍のほとんどが河童によって倒されると、デスゲームの予選からもれた者たちが塔になだれ込んできた。

 彼らが非常階段を使わずに侵入してきたので、ユーイチは各フロアのセキュリティシステムを作動させて防火シャッターを閉めたのである。

 ガイは部下たちを率いて地下一階を見回っていた。

 彼は兄のユーイチと共に〈開かずの間〉から物資を運び出そうとしていた弟のアキラを屠り、〈エデン〉の兵士たちを嬲り殺しにした。

 〈ジュニア〉に執着するユーイチがミサイル砲を取り、上階を目指してすっ飛んでいくのをガイは冷ややかに見送った。

 ひとつ年上だというだけで後継者となり、親から期待されていた兄、そして……ガイは弟の骸を見る。

 末子というだけで甘やかされてきたひとつ年下の弟。

 ガイはいつも兄弟の中で中途半端な立場にいた。いつも異端で問題児だ。

 ユーイチには〈選ばれし者〉の奴隷が部下につき、アキラは〈エデン〉の兵士を従えている。

 いまだに市民出身の部下を連れ歩かされているのは彼だけだった。


 ――オレぁ、ガキの頃から誰にも省みられねえ。

 物心つく頃から兄と弟に挟まれていた。父親の関心は跡取りたる兄に向き、母親の関心は幼子の弟にあった。

 彼は粗暴に振舞い、少しの手柄でも大げさに騒いで自分をアピールしてきたが、周囲は彼を認めるどころか危ない奴だと距離を置き始めた。

 友だちと呼べる者がひとりだけいたが、彼とも中学卒業を境に会ってはいない。

 高校受験に失敗したたガイは身も心も荒んでいき、中学を卒業してからは滑り止めで受けていた高校へも行かず、地元のチンピラたちとつるむようになった。

 そこでも腫れ物に触るかのような扱いを受けた。狂犬、それが彼につけられたあだ名だ。

「オレは、どっちかつうと野良になりたかったんだ」

 彼はガトリングガンを弄びながら、誰に言うでもなく呟いた。

 塔のボスになれないなら野良で自分のチームを率いたかった。

 気ままで喧嘩っ早い気性の自分には、家畜よりも野良の方が似合っていると思っていた。

 ガイが野良になりたがっていることを察したマツイは彼を塔の上層階に軟禁し、親衛隊という名の監視をつけた。

 ボスの息子が野良では都合が悪いのだ。

 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、大きなバイクが停めてあるのに目を留めた。

「バイク……?」ガイは眉をひそめた。すぐ近くの壁には大穴が開いている。

 ポーン。彼の背後でエレベータの止まる音がし、中から人が現れた。

「ゴクウ、急げよ! バイクなんかどうでもいいべ……?」

 ガイの目がかっと開き、彼はエレベーターに向けてガトリングガンを発砲した。

「ヨーコ、ドアを閉めろ!」穴から飛び出してきたゴクウが叫ぶのと、ヨーコがエレベーターのドアを閉じたのはほぼ同時だった。

 ガイと部下たちは、今度はバイクの方にいるゴクウの部隊に向けて発砲した。

「穴の中に隠れろ」ゴクウはバイクを盾にし、背後にいる部下たちに叫んだ。

 そして手榴弾のピンを外し、二秒待ってからガイたちの方へ放る。

「うおおお!」

 ガイはとっさに後方へ下がって爆発を避けた。

 しかし、〈選ばれし者〉ではない彼の部下たちは避けきれず、爆発に巻き込まれてばたばたと倒れていく。

 ガイは孤立無援の状態になった。

 それでも彼は発砲をやめず、ゴクウの方へ向かって走っていく。

 ……カチッと乾いた音がする。弾が切れたのだ。

「くっそお」ガイは銃を捨てて、腰に差したナイフを出した。

「降伏しろや、家畜。無駄な抵抗をするならマジで殺すぞ?」

 ゴクウがガイの攻撃をかわしながら叫ぶと、彼は口を歪めた。

「あのな、オレをそこらの腑抜けと一緒にすんなよ? 命乞いなんてガラじゃねえんだよ」

 ちゃらい風体なのでゴクウは舐めきっていたが、ガイはかなりケンカに場慣れしていた。

 しかし、この男の顔には見覚えがある。ゴクウは瞠目して呟いた。

「お、お前。ガイか……? 俺だ、ゴクウだよ」

 今度はガイが手を止め、ゴクウを凝視する。

 確かに見覚えがある。それはガイが唯一、友だちだと思っていた寺の子供のゴクウだ。

 寺の境内で日が暮れるまで遊んでいた幼なじみだ。

 ……それはあまりに遠い思い出だったが。


 そのとき、ガイの背後でエレベーターから這い出てきたヨーコが声を上げた。

「てめえはアロハの男か! どけ、ゴクウ。そいつは俺が殺る」

 ヨーコが血相を変えてガイに飛びかかろうとするのをゴクウが止めた。

「なぜ止める。こいつはナチを殺したヤツなんだぞ」ヨーコは吼えた。

 ゴクウは苦しげに言った。「こいつは俺の友だちだ。幼なじみなんだよ」

 ……俺の友だち、か。ガイは目を閉じた。

「バカじゃねえの。オレには友だちなんていねえ」

 ガイはせせら笑い、中指を立てながらヨーコに向かって言った。

「うすら汚え野良どもめ。皆殺しにしてやる」

 彼はナイフを振り回しながらヨーコに向かって突進した。

 ヨーコも唇をかみ締め、釘を打ったバットで応戦する。しばらく激しい打ち合いが展開した。

 ゴクウと部下たちは二人の戦いを黙って見守っていた。

 その戦いには偽善もなく、詭弁もない。己の存在を実力で証明するという事実だけがある。……これが野良の日常なのか。

 いつしか、ガイは熱い戦いに陶酔していた。

「……へ。オレぁ、やっぱ野良になっときゃ良かったんだよ」

「そうだな。ここにいることを知ってりゃ、お前を野良に誘ったよ」

 ゴクウが応えるとガイは笑顔を見せて、ばたりと倒れた。

 彼のこめかみにヨーコのバットがヒットしたのだった。


 ゴクウはガイの見開かれた瞼を閉じてやり、荒い呼吸をしているヨーコの肩を叩いた。

「屋上へ行こうぜ。河童たちが待ってる」

 閉ざされていた防火シャッターが開き、もはや武器は折れ弾も尽きた。

 これまで不毛な争いを続けていた〈選ばれし者〉たちも、ようやく自分たちの本来の目的を思い出した。

「警備システムは解除した。生き残っている奴らは屋上へ行け!」

 通路から聞こえる声に誘われて、彼らはのろのろと屋上を目指す。


※※※

 空が暁に燃える頃、塔の屋上にもうもうと白い煙が立ち込めた。

 煙は周囲を真っ白く覆い、塔で待機していたフィクサーと〈エデン〉の兵士は眉を曇らせる。

「なんだこれは。ドライアイスか?」

 フィクサーが声を上げたとき、ところどころで大きな破裂音がした。

 夏の蒸し暑い風が吹く。すると、煙の中から傷だらけの一団が姿を現した。

 彼らのいささか非現実的な登場ぶりに兵士たちは失笑を漏らしたが、別に演出効果を狙ってのことではなかった。

 カエルが作った〈ペットボトル爆弾〉で屋上の出入り口を爆破して塞いだのだ。

 河童は生き残った〈選ばれし者〉たちが集合するのを最上階で待ち、カエルから爆弾の作り方を教わって手にペットボトルを持ちながら屋上へやってきた。

 今、塔の中にはジャマなマスコミの連中たちが閉じ込められている。洗剤を使って作った異臭のするガスをほんの少しまいてやったら、彼らは大騒ぎをして下層階へ逃げて行った。 これで彼らの戦いが撮影される心配はない。


 フィクサーは塔の屋上に上ってきた三百人あまりの若者たちを見回した。野良もいれば家畜もいる。

 その中にはゴッドチャイルドの三体、カエルと河童、トーマスの姿もあった。

「人数はだいぶ減ったが上出来だ」フィクサーは笑った。

「お前たちこそ人類の頂点だ」

 彼は飛行艦隊の入り口へと続く尖塔を指差した。「……行くがいい。お前たちは選ばれた」

 若者たちはにっと笑った。フィクサーの口にも笑みがこぼれる。

 だが、若者たちはフィクサーめがけて一斉に踊りかかった。


「あれを乗っ取るぞカエル頭。ついてこい」

 河童はカエルに叫ぶと尖塔にしがみつき、するすると登っていった。それを見たカエルも慌てて鉄塔にしがみつく。

「おおい、河童。忘れ物だ」

 ミチハルは河童の太刀を投げてよこした。そして彼は、分解して持ち込んでいたバズーカ砲を組み立て始めた。

「レッツ、ショウターイム!」

 彼は組み立てたバズーカ砲を天に向かって発砲した。空からパラパラと鉄片が落ちてくる。

 飛行船間から飛び立った戦闘機を爆撃したのだ。

 ゴクウはヨーコを後部座席に乗せてバイクで兵士たちをなぎ倒していった。

 地下で砲撃を浴びてかなりポンコツになってはいるが、装甲車だけあって走る分には問題なかった。

「ヨーコ、お前もなんか得意技はねえのかよ。最後の見せ場だぞ?」

 彼は後ろに座ってバットを振り回している仲間に言った。

「俺はギタリストだっつってるだろ。戦いがひと段落したらライブでも開くよ」

「ああ。俺はドラムやりたいな。河童がボーカルやりゃあバンドできるな」

 ゴクウの発言にヨーコは眉を寄せた。――客の耳が腐るだろ、そんなバンド。

 若者たちに襲われたフィクサーは、ガシャという金属音を鳴らし、その姿を消した。

「な、なんだ……?」

 後に残ったのはバラバラになったホログラフィ装置の破片だ。

 本体は飛行戦艦の中にいた。


〈愚かなりし者どもよ。お前たちは救出する価値がない。死ぬまでその廃墟で暮らすがいい〉


 戦艦から高らかな声が鳴り響く。

 潮時だ。フィクサーは思った。先ほどの報告で、某国から〈エデン〉の首都に向けて本格的な爆撃が開始されたとの報告を工作員から受けていた。

 三十年もの歳月を費やして地下に築き上げた研究施設がこれで台無しになる。

 施設は各国に分散させているとはいえ、大きな痛手だった。

「愚かなのはオマエだ、バカ」

 フィクサーの背後で河童の声がした。

「僕らが子供だと思って舐めていたでしょう。でも、子供はいつか成長するんだからね」

 カエルが言うと、フィクサーは目を細めて彼女を見た。

「お前を……、瓦礫の街に混ぜておいたのがすべての誤りだった。〈未来を作る者〉よ」

 カエルはフィクサーのテレパシーによる誘導で確かにひとつの未来を作ったが、それはフィクサーの望んだものではなかった。

 フィクサーが〈素直で操りやすい〉と評していたカエルは、途中から自分の意思で動くようになってしまった。

 彼女は何がどうであろうと、必ず自分流のアレンジを加える女なのだ。

「人々に復讐を誓い、その癒しの力をもって男たちを制して街の女王にもなれたものを……」

 カエルは街のキーパソンたるレンを狂わせて彼女をただの女に変えた。

 ルイを狂わせ、河童をも狂わせて、彼らは絶望と血塗られた運命から別のものを見出した。

 ……それは、希望だ。

「愚かな。それほどの影響力がありながら、なぜ世に出ようとしない……」

「うだうだうだうだとうるせいんだよ、この八分の一野郎」

 河童はフィクサーの喉を太刀で掻き切った。彼の体がどうっと倒れる。


〈その通り。八分の一が欠けても残りがある〉

 カエルの脳内でノイズが響き、不意に足元がふわりと浮いた気がした。

「きゃああ!」

 カエルたちのいた飛行戦艦の一部のみが崩れ、彼らは地上千メートルもの上空から投げ出された。

 戦艦の残った部分は唸りを上げて上空を飛び去っていくのがぼんやり見える。

〈いずれまた会えるときを楽しみにしているよ、カオル〉

「会えない! 死ぬ、死んでしまうってば!」カエルは叫んだ。

 ……と、そのとき。大きな手が彼女の腕をしっかりとつかんだ。

 河童が太刀を鉄塔に突き刺し、彼女の身体を抱きとめている。

「へへ。だーから、この太刀は主を守るって言ってるだろ?」河童はにやりと笑った。


※※※

「……これからきっと大変になるね。外の人たちもやってきそうだしさ」

 カエルは塔に閉じ込めている人々のことを思い出して肩をすくめた。

「本当の戦いはこれから始まるのだ、とナレーターが言ってる」

 若者たちは〈雨〉のない場所で束の間の安息を楽しんだ。

「おおい。ここから富士山が見えるぞ!」ゴクウとヨーコが大騒ぎをしている。

 まぶしい光が差し込んでくる。四年ぶりに見る太陽と青空だった。

「お前がいてくれて助かったよ、親友」河童がにっと笑った。

「こっちこそ。ところでさ、僕、料理や裁縫が得意なんだ。人員に空きがあるかな?」

 河童が大きな手を差し出した。

 カエルは照れくさそうに微笑んで、その手をしっかり握った。

 トーマスも「俺も仲間に入れろ」とばかりに河童に向かって吼えた。

「はいはい。機関車みたいな名前のイヌも入れてやるよ」

「ウチはペット禁止……って痛え!」ミチハルがトーマスに食いつかれて悲鳴を上げた。

〈……やっと願いが叶ったね〉

 誰かがカエルの耳に囁いた。今までのノイズとは違う、明るくて優しい声だった。


 その日、カエルはソロを辞め、正式にクズ鉄山の一員となった。



―完―

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ