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エデンの天使  作者: 如月十五
エデンの天使
8/9

神の子ども

 その日、塔から〈エデン〉のスパイである女の捕獲と女の獲得を賭けたデスゲーム開催の告知がなされた。

 塔の中は異様な熱気と興奮に包まれていた。

「今日は特別だ。野良の見学も許す。現物を見せないと信じない者がいるだろうからな」

 捕まった女は服を剥ぎ取られ、薄い布を巻きつけただけの姿になって、ロビー中央にある柱に縛り付けられていた。

 しかし、貴重な女に勝手に触れたりできないよう、柱の周囲は五十人もの兵士が警備している。

「オンナだ!」

 かつてないほどの人数の男たちが、女をひと目見ようとロビーに集まってきた。

 口々に卑猥な罵倒をし、もっとよく見せろと喚きちらした。彼女に向けて何かを飛ばす者もいる。

「ばい菌を飛ばすな。病気になったらどうする」

 ユーイチは汚れた服を飛ばした家畜を警棒で数回殴りつけた。

 しかし、観衆はおとなしくなるどころか、かえっていきり立った。

 危うく暴動になりかけたため、兵隊が群集に向けて一斉に発砲する。数人が血を噴いて倒れた。

「おとなしくしないならショーは終わりだ」

 ユーイチは言い、警棒で女の豊かな乳房をつついた。

 布がほどけ、うっすらと赤みを帯びた乳首が覗くと群集は一斉に息を呑んだ。警備の兵士ですら食い入るように女を凝視している。

 ふん、女の胸がそんなに珍しいか。ユーイチは鼻高々だった。


 周囲が静まったところで彼は演説を続けた。

「このたび、〈新政府〉は街に紛れ込んでいた女を手に入れた。この女は〈エデン〉からのスパイで我々を瓦礫の街に閉じ込めている敵の女だ。処刑したいところだが、こいつは子を産める。この女を有効活用したほうがいいと判断した。……つまり、子を産ませて人口を増やそうと思う。子の父親となる者は三ヵ月後に開催する決戦(デスゲーム)で決める。なお、参加者は家畜、野良を問わない。強い者の種のみを残す、意味がわかるか?」

 柱に縛り付けられた女――カエルははっとしたように目を開けた。

 目の前に、涎を垂らし舌なめずりをしながらこちらを眺めている飢えた獣の群れがいた。その中には顔見知りの野良たちもいる。

「タケルの前では大口を叩いていたわりに顔色が悪いわね。もう怖気づいたの」

 カエルの隣にいるのは銀色の防護服に身を包んだレンだった。

「でもよかった貴方がいてくれて。そうでなかったら、その役は私がやるはずだったの」

 カエルは顔見知りの中に河童がいるかを探した。

 こんな姿を彼には見られたくなかった。さいわい、見慣れたツンツンのタテガミは見当たらない。

 レンは妹に嫌味を言った。

「でも、がっかり。タケルは助けにこないのね。貴方がこんな目にあっているというのに姿も見せない。貴方が騙していたこと、相当怒っているのね」

 来なくていいんだよ。それがいい。カエルは目を伏せた。

「よくも騙してくれたな、カエル頭。河童がてめえを独占してた理由はこういうことかよ」

 侮蔑を込めた目でカエルを睨みつけている一団がいる。

 くすんだ色のレインコートにマスク、野良の男たちだ。クズ鉄山ほどではないが大規模なチームで街では有名な連中だった。

「まあいいや。俺もあとでたっぷり楽しませてくれよな」

 カエルは必死で微笑もうとした。「……い、いいよ。いつでも来いよ」

 え。いいの? 若者は鼻息を荒くした。

「マジ。マジでやっちゃっていいの?」

 ユーイチは咳払いをして野良たちを追い払った。

「ルールを説明するから下がってろ」

「うるせえよデブ。俺がこいつと話してるんだ」

 野良の若者が眉を吊り上げた。

「どうせ、お前らは野良にはかなわねえんだろ」

 ユーイチは口の端を歪め、相手の頬を警棒で思い切り殴った。

 殴られた若者はどうっと床に尻もちをつき、手で血をぬぐいながら悪態をついた。

「栄養不足で力の半分も出せないお前らなど俺の敵ではない」

 これが〈選ばれし者〉の本当の力だ。ユーイチは鼻息を荒くした。

 レンの指導のもと、訓練を積んだ彼の身体はみるみるうちに強靭になっていった。もう、野良など恐るるに足りない。

「本戦は三ヵ月後の予定だが野良には明日から予選を行ってもらう。家畜と野良では人数に差がありすぎるからな……。期限までに参加者に配られた赤いプレートを多く持ってきた百名を予選勝者とする。プレートを持っている間は塔から食料や物資の補給も行うぞ」

 野良たちは目を見開いた。あのケチな家畜が野良に物資を配るというのだ。

「なんか旨い話すぎて信用できねえな。狙いはなんだよ」

 野良チームのナンバー2、シゲルが抜け目なさそうに言った。

 ユーイチはこの質問を待ってましたとばかりに胸を張った。

「ボスが変わったからだ。俺たちを食い物にしていた年寄りは死んだ。年寄りからコキ使われた者同士じゃないか。お前らだって、塔とよろしくやりたいと考えている者がいるんじゃないのか?」

 シゲルは唇を噛んだ。ユーイチの言うことはもっともだ。シゲルもかつて塔で大人たちから重労働に駆り出され、仲間と命からがら逃げてきたのだ。

 憎いのは〈年寄りども〉であって、若い連中ではない。それに、古い考えの人間がデカイ面をしているのは街も同じだ。

 河童は塔の連中は支配者気取りで鼻持ちならない敵だと言いながら、自身も親分気取りで街を闊歩している。

 秩序だ絆だと面倒な自主ルールを他のチームにまで押し付けておき、そのくせ自分は〈ジュニア〉や女を独り占めしていた。

「信用したくなければゲームに参加しなければいいだけの話だ。お前らに不利なことはない」

「信用しないとは言ってねえ」シゲルは薄笑いを浮かべた。これはクズ鉄山を引きずり落とす好機だと考えた。

「札の入手方法は問わないんだな。どんな手を使ってもいいと?」

「構わん。そっちで勝手に決めればいい」

 レンがユーイチに合図をした。――この男は使えそうよ。予選の仕切りをさせたらどう?

「たしかお前は大チームをまとめる頭だったな。参加するならお前に予選参加者に配るための物資を定期的に渡す。責任もって分配してくれ」

 シゲルの目が光った。「いいぜ。任せておけよ」


※※※

 数分後には街中が女とデスゲームの話でもちきりだった。

女が半裸で晒されていると聞いた者は、慌てて塔の方へ駆け出していく。もはや、街でこのことを知らない人間はいなかった。

「あのカエル頭が女だってよ」

「そういやあのアマ、いいケツしてたよな。クソ。河童のジャマがなければよ……」

「デスゲームとか。どうせ家畜がまた何か企んでんだろ」

「へえ。おめえは出ないの? オレは出るけど」

「出ないとは言ってねえべ。出たモン勝ちじゃねえか」

 デスゲームの参加者には当分は困らないだけの食料と水、武器が支給されるのだ。それだけでも価値があるのに、戦いの上位に食い込めば女も抱ける。

「あのオッパイ見たかよ。あいつ本当にオンナなんだぜ」

「オヤジになる権利をゲットしちゃったらどうするべ。子供にポチって名前つけるわ俺」

「娘が生まれたら檻に入れて育てる。お前みたいなのには絶対触らせねえ」

「そんな心配すんのは百年早えんだよ! 今ここで潰してやらあ」

 早くも街のあちこちでけん制しあったり、激しいケンカが始まっていた。

 ミチハルとゴクウも先ほど塔へ行って戻ってきたところだ。見学者があまりに騒いだり暴れたりするので、肝心の女はすでに上階へ移動させられていた後だったが。

「すごかったよな、野良と家畜の争いどころじゃねえぞ。明日は札、取りにいくか?」

 いつもはどっしり構えているゴクウも今日は声が上ずっている。

「おめえも何言ってんだよ。ま、食い物と女がもらえるんじゃ正気も失うわな」

 そういうミチハルも内心、冷静さを欠いていた。

 ――権利をゲットしても、あれだけ嫌味言ったりしてたから嫌われてる。〈あの小姑みたいなオトコ、大嫌い〉って思われてるよ。

「あああああ、もう少し親切にしておけばよかった!」

 ミチハルが喚くとゴクウがぎょっとしてこちらを見た。彼は真っ赤になって首を強く振った。

「……いや、そうじゃなくて。河童はどこへ行ったんだよ」

 一昨日、クズ鉄山から〈ジュニア〉が脱走し、それをメンバーが全員で追っていた。

 河童もミチハルらと走っていたのだが、突然鼻を鳴らしてどこかへ吹っ飛んでいってしまったのだ。

 それきり丸一日が過ぎても帰ってこない。

 メンバーはジュニア探しをやめ、今はリーダーを探して奔走しているところだった。

 ……といっても、そのほとんどが先ほどまで塔に釘付けになっていたわけだが。

 ヨーコなどは群衆の一番前で「オッパイ! オッパイ!」などと言って浮かれており、完全に仕事を忘れていた。

 ゴクウにゲンコツを食らってようやく探索に戻ったのだ。

「上司がアレだから部下もだらけるんだ。その点、俺の部下たちはしっかりしている」

 ミチハルは苦々しく言ったものだが……。

「おい、今さらカエル頭の住処の何を漁るんだよ」

「あるかもしれないじゃん。パンツとか」

 聞き覚えのある声がすると思えば、ミチハルの部下たちだ。

「それいい。でも、そんなとこ見つかったら参謀にねちねちねちねち説教されんぞ。ホント、ありえねえくらいねちっこいから」

 ミチハルは眦を吊り上げた。「何をしてるか、キサマらは!」

 子分たちは「出たあっ」と叫んで、すたこらと逃げていった。

 どこよりも規律が厳しいといわれるクズ鉄山ですらこの体たらくだ。他のチームがどういう状態かは言うまでもない。

 ゴクウは肩をすくめた。

「河童の奴、まだジュニアを追っかけてるのかな」

「ヤツのことだから子分たちみたいに女の住処を漁ってるわけではないとおもうが……」

 ミチハルのコメントにゴクウもうなずいた。

「あいつは意外に固いからな」


 ミチハルたちがそんな心配で気をもんでいた頃、河童はカエルの言っていた温泉を漁っていた。

 一方的に詫びられ、別れを言い渡された彼は意気消沈しながらここへ来たのだ。

 当然ながら、彼はカエルが今どういう状況に置かれているのかを知らない。

 彼の胸に突き刺さっているのは、カエルがルイにかっさらわれて塔の中に連れ去られ、助けようとしたのに彼女から〈実はレンの妹でそれを隠しててゴメン〉と言われ、泣きながら〈サヨウナラ〉と言われた、それだけだった。

 他にもずっと騙していたとか、ごちょごちょ言われたが、わけがわからない。

 だいたい河童は最初からカエルがレンの縁者か本人ではないかと疑っていたのだ。

 本能ではカエルは女に違いないとわかっていた。初めて会ったときからわかっていたのだ。


 これで諦めると思うなよ。彼は必ず塔を破ってみせると決意していた。

 脱衣所のロッカーを開ける。

 すると、中から大量のメモや印のついた手書きの地図が見つかった。

「これか、塔の上階にある倉庫へのルートは」

 河童はメモと地図を見てルートを頭の中に叩き込んだ。彼は暗記系の勉強はニガテだが、方向感覚と空間認識能力は優れている。以前、階段で展望台まで登ったときの塔の内部を頭に蘇らせた。ルートは業務用のエレベーターや物置などを経由して百十九階までの倉庫が網羅されている。そこから先は〈DANGER〉とある、警備が厳しくて進めないということだろう。

 河童はふう、と軽くため息をついた。――〈DANGER〉ってなんて読むんだ?


「それにしても、女の住処のわりに殺風景だな」

 瓦礫の街以降のメモに酒瓶、布に薬品、工具箱。河童はこれまでもカエルの住処のいくつかを訪れたことがある。

 いずれも雑多に道具があふれていても、私的な持ち物を置いていないという印象があった。

 とっておきの隠れ家であろうここにも思い出らしきものは何もない。

 これが過去を失った人間というものか。


 〈思い出は捨ててきたんだよ。ロクなのじゃないからいらないんだ〉


 小さな引き出しを開けると女物の下着が出てきたので、彼は慌ててそれを閉じた。

「言っておくが、やましい気持ちなんかねえぞ。情報を探りにきただけだからな!」

 誰もいないのに河童は大声で言い訳をした。

「汗ばむな。何かの痕跡を探しにいくわけじゃないけど、せっかくだから温泉に入りたいぜ」

 河童は風呂場のドアを開けた。

 星空だ。彼は息を呑んだ。壁一面に星空と海の絵が描かれている。

 河童は壁に近づき、絵をじっと見つめた。

 素人が描いたにしては上手すぎるが、よくある構図だ。

 海があって、浜辺があって、空には星の河が流れている。少し違うのは、浜辺一面に四葉のクローバーが生えていることだ。


 〈友だちと言われて嬉しかった〉


 そのことか。ようやく河童はカエルが〈ずっと騙していた〉と言った意味を理解した。

 彼はてっきり彼女が瓦礫の街以降の話をしているものだと思っていたのだ。

「あれ、お前だったんだな。あのとき海辺にいたのはお前だったのか」

 突然人が変わったようになった〈レン〉。

 いつも視線をそらし、少し手が触れただけで震えていた。絵の中へ入ったきり出てきたくないと言っていた。

 好きだと告げたときに泣いていた……。あれは〈カオル〉。自分に挑むように抱かれていたのは〈レン〉だ。

 おかしいと思った。〈カオル〉は内気な娘だ、男の前で服を脱げるはずがない。

 あのときに二人は入れ替わっていたのだ。


※※※

 その夜、三人の男が頭に大きなコブを作って医務室へ運ばれてきた。

「子供を産むなんて偉そうなことを言っていたわりに意気地なしね、カオルちゃんは」

 レンはユーイチの頭を包帯で巻きながら肩をすくめた。

 デスゲームの賞品として勝者に与えられると公表されたカエルだったが、それまで無傷だとは誰も言っていない。

 レンは妹に〈教育〉を施すことにした。

 従順になるよう調教してしまえば、二度と未来だの子供たちだのと寒い綺麗事を言っていられなくなるはずだ。

 大人しくなったところで〈エデン〉へ連れて行けばいい。

 そのあとはどうとでもなる。〈カオル〉という人格はこの世からいなくなるのだから。

 そのはずだったのに……。

「何なんだ、あのイシアタマなメスは!」顔中を傷だらけにしてユーイチが怒声を上げた。

「馬鹿力すぎるだろう。手足を拘束しているのに暴れまくりやがった」

「薬か何かでおとなしくさせられないのかよお」

 ガイはベッドに横たわりながら呻いていた。彼は頭突きを食らったあげく、キンテキをされて立ち上がることができない。

 一般人のアキラは息も絶え絶えで、かなりの重症を負っている。話すこともできなかった。

「カオルはゴッドチャイルドですもの。女でも通常の〈選ばれし者〉よりずっと強いわ。試薬はないから、本人がその気になるのを待つしかないわね」

 カエルはかつてルイが監禁されていた百四十階の遊技場に手足を縛って閉じ込めてある。

 一度は奴隷としての運命を受け入れたようだが、いざとなると怖くなって暴れてしまうらしい。

「いつまでも恥じらいの乙女では困るわ。一度、無理やりでもやられてしまえばいいのよ」

 あの子をねじ伏せられるチカラがあるのは……。レンはちらっとルイの方を見た。

 ――この人、どこまで信用できるのかしら。

 ルイはソファーに腰掛け、アンティークの懐中時計を弄っている。

 彼が何を考えているのかわからなかった。利用できそうでいて、すぐに反逆しそうな危険もはらんでいる。


「レン、なんであんな裏切り者がスカイラウンジにいるんだ。外へ放り出せよ」

 ユーイチが不平を鳴らした。「野良になりたいって自分から出ていったんだからな」

 レンはユーイチの耳にキスしながら誰にも聞こえないように囁いた。

「貴重なゴッドチャイルドよ。追い出したらもったいないじゃない。それに、今は彼をあまり刺激しない方がいい。瀕死の猛獣は恐ろしいのよ」

 拘束された女相手ですらこのザマだ。男ならチカラづくで追い出そうにもムリがある。

 ユーイチは家のなかでライオンと同居させられているような嫌な気分になった。

「あんなケダモノみたいな連中は二度とゴメンだ。お前の方がいい」

 レンは気長に構えることにした。ゴッドチャイルドとはいえ無敵ではないのだ。

 空腹になれば力が衰えるし、銃で撃てばケガもする。毎晩大勢の人間に襲い掛かられれば、いずれ抵抗しきれなくなるはずだ。

 足音がするたび恐怖に震える妹の姿を想像すると気分がよかった。


 ルイはすっと立ち上がり、屋上への直通エレベーターに向かった。

「勝手に屋上へ上がるな!」

 ユーイチが怒鳴り声を上げると、レンが「私に任せて」と言ってルイを追う。

 外は四月の春雨が降っていた。〈雨〉とは違う、飲むこともできる優しい雨だ。

 ルイはエアポートの上でぼんやり立っていた。

 数日前に訪れていたであろうヘリコプターの姿はすでにない。レンが帰る日にまたやってくるのだろう。

「抗争の前にもよく来ていたわね。ここが好きなの?」

 レンがルイの隣に並ぶ。

「私、塔のことは何でも知ってるわ。貴方が瓦礫の街から出たがってることも、余命があとわずかしかないことも」

「原因を作った張本人なら知っていて当然だな」

 ルイはレンの細い首をつかんだ。

「お前を殺すと脅せば黒幕が出てきて僕の望みを叶えてくれるかな。

 人質にとったら迎えのジェット機がやってくるかもしれないな」

「私は〈エデン〉に殉ずる尖兵に過ぎない。殺しても無駄、人質にしても誰も動かないわ」

 そうだろうな。ルイは思った。彼の所属していた犯罪組織も同じだからだ。

 彼はレンから手を離すと「あっちへ行け」と手を振った。

「ジュニア、私と組む気があるなら貴方の望みは叶うかもしれないわよ?」

 ルイは朗らかに微笑んだ。

「そう言われて何度も働いてきたが、残念ながら一度も叶ったことはないんだ。今後は誰とも契約しない。今は静かに神に祈りを捧げ、罪の懺悔をしたい」

 ずいぶんと殊勝だこと。レンは思った。

「クリスチャンの貴方には悪いけど、神など存在しないわ。居るのは人間だけ」

 事象にはかならず根拠がある。根拠がないと思うなら、それは知らないだけだ。

 人間が行動することによって人間の望みを叶えられるのだ。神を作ったのは他でもない人間なのだから。

 つまり、その気になれば人が神になることもできるということだ。

「私は祈ったことなどないわ。そんなことをするヒマがあったら行動する。わずかでも生きるチャンスがあればつかみ取る。私はそうやって生き延びてきたの」

 ルイは天を指差した。「大いなる奇跡を人は神と呼ぶのだ」

「意外だわ。貴方、ロマンチストなのね。まあ、貴方と神について語っても仕方がないけど」

「同感だ」

 ルイも自分で言っておいておかしくなった。最近の自分は本当にどうかしている。

「率直に言うわ、私はゴッドチャイルドを〈エデン〉に送り届ける任務があるの。

 生きていても死んでいてもよ。三ヶ月後にはイヤでも街から出してあげる。だから、大人しく塔にいてちょうだい」

 レンはルイを利用して河童を塔へ連れてこさせようとも思ったが、やめた。カエルを縛り付けていれば河童はかならず来るはずだった。

「……わかった」ルイはポケットの中の懐中時計を握り締めた。

「そうだわ。ずっとここにいても退屈でしょう。よかったら私と楽しく過ごさない?」

 ルイは隙のない笑みを浮かべて言った。

「素敵なお誘いだが僕は女嫌いなんだ」

 レンはふっと微笑んで言った。「嘘つき」


※※※

 ルイがまだミュンヘンの屋敷で悪党のエリートとなるべくさまざまな訓練を積んでいた頃、キングは彼に言ったものだ。「女を手懐ける方法は、馬の調教に似ている」と。

 近づくときは低姿勢を装いながら静かに寄る。花を摘んだり悩みを聞くフリをして女の警戒心を和らげ、身体にそっと触れる。この最初の接触に成功すれば、第一段階のクリアだ。

 実にくだらない。ルイはそんな講義など自分には必要ないと思っていた。

 退屈極まりない女という生物は、金持ち男の微笑みひとつで服を脱ぐ。彼はそういった女しか知らなかった。

 愛などくだらない。どうせ妻となる者はキングが決めるのだ。

 だが、もはやキングや組織の常識の通じない世界にルイはいる。

 彼は自分がここにいなかったら見向きもしなかったであろう女と出会った。そこそこ可愛いが、垢抜けない娘だ。

 そのくせ、この女は金持ち男が微笑んでもけっして尻尾を振らず、初恋の男を想い続けている。

 しかも、それは叶わぬ恋というやつだ。けなげにも感じるし、無性に腹立たしくもある。


 ルイは壁に飾ってある造花をむしりとり、ベッドで横になっているカエルの前に捧げた。

「……何事?」カエルはルイに背を向けたまま言った。

「あまり僕のことを恨まないでほしいんだ。事情があってやむなくやったことだ」

 カエルは冷たく言った。「恨んでないよ。だから僕に構わないで」

 ルイはすばやく周囲を見回した。この部屋にはおそらく監視カメラが設置してあるはずだった。

「それに、カエルのためでもある。あのまま街にいたら確実に千人の野良から襲われていたぞ? 加えて不衛生な食事に有害物質だらけの住処。病気になりたいのか。僕だったら耐えられない」

 彼はそっとカエルの肩を撫でた。……お、拒絶されない。

 やはりオトコはカオだな。ルイはほくそ笑んだ。

 カオと品性、甘い囁き声。いずれもマツイ三兄弟には欠けているものだ。彼らは失敗するべくして失敗したのだ。

「……いい子だ。大人しくしていればすぐ終わるからね」

 ルイはカエルの髪にキスをし、寝ているベッドに潜り込んだ。


 ドガッ!


 会心の後ろ蹴りを食らってルイは吹っ飛んだ。

 すると、隣のスカイラウンジから盛大な爆笑が聞こえてきた。ルイの予想どおり、監視されているのだ。

 ルイはかっと顔を上げた。「いちいち見るな!」

 彼はマクラの中に仕掛けられた監視カメラを握り潰した。すると、隣の部屋からさらに大きな笑い声が聞こえた。

 あの様子なら気づかれていないだろう。

「……これでよし」

 ルイは壊したカメラを床に投げると、すぐさまカエルの手足の拘束を解いて言った。

「よく聞けカエル、僕はお前を街から逃がす。そのためにここへ連れてきた」


 ようやくカエルがルイの顔を見た。「え。……どういうこと?」

「僕の代わりにフランスへ渡ってほしいんだ」

 ルイは懐中時計をカエルの手に握らせた。

「これを母に届けてほしい。アントワーヌ・ボナというピアニストだ。リヨンに住んでる」

 ルイは身に着けていた宝石も渡して当面の資金にしろと言った。

「どうして僕が代わりなの。自分でお母さんに会いにいきなよ」

 ルイは肩をすくめた。「僕はもうすぐ死ぬんだ。会いに行くことはできない」

 カエルは目を見開いた。

「え。本当……? いったいなぜ……」

 ルイはカエルを制した。深くは聞くな、ということらしい。

「でも、どうして僕なの」

「お前が約束を守る人間だからだ。一番信用できる」

 最初は魅了して言うことを聞かせるつもりだった。

 優しげに微笑み、街からの脱出と宝石や美しい衣装をちらつかせれば、彼女は喜んで服を脱ぐだろうと思っていた。

 だが、うまくいかなかった。いずれにせよ、このお人好しなら魅了するまでもなく律儀に頼みを聞くだろう。

 ……ルイとしては非常に腹立たしいことだが。

「……ごめん。できないよ」カエルは膝を抱え、首を振った。「一人だけ逃げるなんてできない」

「逃げて外で救援を呼べ。この街は隔離されているが、すぐ外は無事なんだ。お前たちが生きていると知らないだけだ。外からなら仲間たちを助けることができる」

 カエルは目を見開いた。日本は〈海〉に沈んだわけではない……? 

「ヨコハマ以外の場所ではみんな生きてるの? ここは陸の孤島ではないの?」

「そうだ。この街は島になっているのだと思う。大規模な地下爆発によって地面が陥没し、そこに〈雨〉が流れ込んだものが〈海〉なのだろう。陥没しなかった一帯が〈瓦礫の街〉だ」

 言われてみれば、侵略戦争のときには地下から大規模な噴火があった。それに阻まれてカエルと河童は街から出ることができなかったのだ。

「すごいねルイ。どうしてわかったの」

 カエルが感心してうなずいているので、ルイは顔を赤らめた。

「……あくまでも推測だぞ? 塔の屋上から街を一望できるんだ。地形を見てそう思った」

 彼女から〈ルイ〉と呼ばれると、くすぐったいような不思議な気分になる。

「そういうことだから外から仲間を助けたほうがいい。ただ、お前は三ヶ月間はここに居ることになる」

「その間、僕にここで何をしてろと?」

 ルイは、待ってましたとばかりに嬉しそうに言った。

「僕はお前に身を守る術を仕込む。プロの暗殺術だ、知っておいて損はないぞ」

 カエルは苦笑した。「ありがたいけど、僕だって戦える……ぎゃっ!」

 突然、十数本のナイフがカエルめがけて飛んできた。

 それらは彼女の肌ぎりぎりのところをかすめ、壁に深く突き刺さる。

 カエルはその場にへたり込んだ。

 ルイは笑いをこらえながら言った。

「ダメだな。ガードからしてなってない」

「すごい元気じゃん。もうすぐ死ぬなんてウソだろ」

 カエルが口を尖らせると、ルイは尊大に微笑んだ。

「いいから秘伝の技を受け取っておけ。誰かが継いでくれれば僕の人生も報われるというものだ。……いわば、生きた証というヤツだな」


 訓練はその日から始まった。まずは基礎レッスンからだ。

 ルイはサバットという総合格闘技を扱う。

 実用的な武術なので完全にマスターしろという。

「……全部? 三ヶ月で全部覚えるの?」

「バカモノ、二週間で覚えるのだ。だが、訓練は毎日やる。他にもいろいろ覚えることがあるんだ。ナイフの扱い、銃の扱い、爆弾の扱い、サバイバル術、化学、薬学、乗り物の運転。女だからって甘やかさない、全部覚えろ」

 カエルは眩暈がしてきた。しかしルイは上機嫌で続けた。

「光栄すぎて涙が出るだろう。なんといってもサバットはかのアルセーヌ・ルパンも得意とするヨーロッパ起源の紳士の格闘術だ。当身を使うサバット、投げや関節技を使うフレンチ・パリジャン、ステッキを使うラ・カンからなる総合格闘技で、特殊部隊も使用しているほど実用性が高い。護身術として役立つのはもちろん、騎士道精神を育むのにも……」

 やたらと長い講釈が始まった。カエルは眠たくなってきた。

「では実践に移ろう。基本的なFOUETTEだ。膝を曲げ伸ばして蹴る、もとの位置に戻す」

 尻に回し蹴りを食らってカエルは吹っ飛んだ。「痛いじゃないか!」

「実際は靴を履く。素足程度で喚くな。これが上段蹴り、これが中段蹴り、これが下段蹴り」

 さらに回し蹴りを三回も食らってカエルはころころ転がった。

「ちょ、ちょっとルイ。もっとゆっくりやってよ!」

 ルイは心から嬉しそうな微笑を浮かべて言った。

「時間がないんだ、理解しようとするな。……身体に教え込むのだ」

 カエルは戦慄した。――サドだ。こいつ、サディストだ!

「これがジャブ、これがクロス、ここからキック、間合いを保ちつつ、つかんで投げる」

 カエルは悲鳴を上げた。「痛っ。痛い。ちょっとやめて。きゃあっ」


 ……と、ドアをどんどんと叩く音がする。扉の向こうからレンの声がした。

「ちょっと。いつまで暴れているの。お盛んすぎるわよ、お二人さん」

 二人は顔を見合わせた。

「お盛んて、何?」

 カエルがルイに聞くと、彼は耳まで赤くなって言った。「……お前はまだ知らなくていい」


 その夜、ユーイチに命じられて完全武装した十名以上の役人と兵隊が〈遊戯場〉を訪れた。

 カエルへの奴隷教育が始まったのだ。

 しかし〈遊技場〉の扉の前に、猛獣が犬を膝に乗せて爪を研ぎながら座っている。

「司令官、どいてもらえませんか」

 ルイは鼻で笑ってその場を動こうともしない。

「貴方が言うことを聞かないというなら、拘束せざるを得ませんな」

 役人が兵隊たちに合図すると、彼らは一斉に銃を構えた。

 シャッ。

 風を斬る音がしたかと思うと、数名の兵隊が血を噴いてどうっと倒れた。

 ルイの目が金色に輝き、右肩から伸びた腕はいびつなくらいに太く発達している。

 その腕は金属かと思うほど無機質な鉄色に変貌し、鋭いカギ爪は敵を引き裂いた鮮血でぬめっていた。

「く……。バケモノめ」

 兵隊たちは背筋がぞっとする思いだった。「いったん退くぞ」

 敵を追い払うとルイは〈弟子〉の寝ている扉に耳をそばだてる。

 ――大丈夫だ、気づかれてはいない。

 彼は大きく息を吐いた。嫌な汗が流れ、全身が砕けるように痛む。


※※※

 その頃、街の広場では予選に参加する野良たちがプレートを求めて殺到していた。

 プレートと物資の配布を仕切っているのは野良チームのナンバー2、シゲルとその手下たちだ。

「札が欲しければクズ鉄山の邪魔をしろ。奴らに参加権を与えるなよ」

 シゲルは参加希望の野良たち、ひとりひとりに耳打ちしながらプレートを手渡した。

 プレートをクズ鉄山のメンバーに渡せば、連中が勝ちを独占するに決まっている。


 狡猾な彼はプレートを配らずに自分たちで独占するという愚挙は行わない。

 そんなことをすれば、他の野良八百数十名を敵に回すことになるからだ。

 それよりも、街で実力の突出しているクズ鉄山ひとつに的を絞った方がよい。

 そこへクズ鉄山の幹部ヨーコとその手下が口笛を吹きながら現れた。

「予選の仕切り役かよ。うまいことやったな、シゲル」

 シゲルはこめかみに青筋を浮かせた。自分は仮にもチームリーダーだ。

 よそのチームの頭でもないヤツから呼び捨てにされる筋合いはない。

 シゲルは注意深く周囲を見渡した。どうやら、ここにいるのはヨーコと下っ端だけのようだ。

 屁理屈こねくりまわしの得意な参謀や、もっとも厄介なバケモノ河童はいない。

「札はな、予約したヤツから渡してるんだ。順番を守ってくんねえかな」

「そりゃねえべ。俺たちはちゃんと並んできたんだ。札をくれよ」

 ヨーコは眉間にシワを寄せて言った。「だいたい、ヨヤクって何だよ。聞いてねえぞ」

「俺たちは昨日、予約したヤツから配ると宣言した。そうだな、みんな」

 シゲルが呼びかけると集まった全員が「そうだ」、「確かにそう聞いた」と口をそろえる。

「おめえらんとこのチームは昨日、逃げ出したジュニアを探すのに忙しかったようだからな。聞いてなかったんだろう。札をやらねえとは言わねえ、順番を守れと言ってる」

 ヨーコはかっとしたが、なんとか自制した。

「……そうかよ。じゃあ、あとどのくらい待てばいいんだ」

「ほとんどのヤツが予約してる、お前らは最後だな」

 そんなワケねえだろ! ヨーコはぐわっと目を見開いた。

「ヨーコさん。オレら、さっきから待ってるんすけど。どいてくれないっすか」

 後ろに並んでいる連中がヨーコたちをせっついた。

「お前ら、そろってグルかよ。予約とかウソだろ」

 ヨーコたちは早朝から並んでいるのだ。予約どうのというなら、並んでいるときに誰かがその旨を告知しておけばいいではないか。

「あのな。俺たちは忙しいの。いちいちアンタら予約してますかって確認しに行くわけねえだろ。それとも何か、ナンバー1のクズ鉄山サマにはあらかじめお伺いをしとけってか?」

 ぐっ。ヨーコはシゲルを殴りたい気分にかられたが、よそのチームの頭を殴れば宣戦布告とみなされる。野良の世界は、そういう戒律には非常に厳しいのだ。

「わかった。順番が来るまで待つよ。仲間の分も必要なんだが、いいだろ?」

 シゲルは意地の悪い目つきをして言った。

「参加者が取りにこないと無効だ。イカサマして持ち逃げされないとも限らないしな。そんなの常識だろ」

 ヨーコは唇を噛んだ。――リーダー探しで忙しい仲間の分も取りにきたのに……。

 こんなときに河童は何をしているんだ、彼は不在のリーダーを恨めしく思った。

「そうかよ。じゃあ札なんかいらね。俺らだけもらったりしたら他の奴らに泣かれるからな」

 ヨーコは泣きそうな顔をしている子分たちを促して列から離脱した。

 シゲルはにやっと笑い、部下たちに告げた。

「今後、クズ鉄山の奴らが札を取りにきたら、ヨーコに渡したと言え。いいな」


 河童探しでミチハルとゴクウが広場の前を訪れると、数人の子分たちに泣きつかれた。

「ゴクウさん、ひどいっすよ。ヨーコさんに抗議してくださいよ」

「いくら幹部だからって、やっていいことと悪いことがありますよ」

 ゴクウは太い眉をぴくっと上げた。「何やってんだ、お前ら」

「このアホみたいな行列は何なんだ?」ミチハルは冷ややかに群集を見ていた。

「いや、そこでデスゲーム予選の札を配ってるんすけどね」

 子分が言うと、ゴクウは大声を上げた。

「こんなとこで遊んでんじゃねえよ!」

「ええ。だってヨーコさんだって札もらいに来てたんすよ……。しかも、メンバーの分もよこせと言って二百枚も持って行ったって」

「ならヨーコからもらえばいいじゃないか」ミチハルは苛々と足を鳴らした。

「サボりは許せないが、奴のことだから仲間の分も取りに行ったんだろうよ」

 子分は口を尖らせた。「ヨーコさんとこにもらいに行ったら、逃げちゃったんすよ」

 ミチハルとゴクウは目を剥いた。


 子分の話によると、プレートをもらいにヨーコのところへ行くと、彼は「自分はもらっていない」の一点張りだった。

 しつこく食い下がったところ、ヨーコに「それをどこで聞いた」と尋ねられ、受付をしてるシゲルの部下だと答えると彼はいずこかへ走り去ったという。

「で、もしやと思ってここまで来たんすけど、どこにもヨーコさんいないって」

「誰に聞いてもここには来てないっていうんですよ。それ、持ち逃げしたってことでしょ」

 ミチハルは眉を吊り上げた。

「ヨーコはバカだが、姑息なことだけはしないヤツだぞ」

 幹部四名のうちミチハルとゴクウは恐れられていたが、ヨーコと死んだナチのコンビは明るく情に厚い兄貴分として慕われていた。狡猾なイメージから一番遠い人物だ。

「俺がシゲルに話をつけてくる」

 ゴクウは肩を怒らせて受付に向かっていった。

「シゲルに話がある、会わせろ」

「一介の幹部ごときがリーダーを呼び出すとはどういう了見だ」

「リーダーと話したいなら、そっちもリーダーを連れてくるのが筋ってもんだろ。おめえんとこのバケモノはジュニアのケツを追っかけるのに忙しくて来れないってか」

「カシラを侮辱するか、キサマ」

 ゴクウが拳を振り上げると、ミチハルがそれを制止した。

「よせ、ゴクウ。こいつらの言ってることは間違っていない。ウチの幹部ヨーコがここへ来ていたはずなんだが、見ていないか」

 シゲルの部下が冷ややかに言った。

「来たぜ。札を取りに子分連れて。それきりだ、他の連中にも聞いてみるといい」

 周辺の人間に聞いてみても同じ答えしか返ってこなかった。

 ミチハルはゴクウとぶうたれている子分たちを連れて人気のない場所へ移動した。

「俺たち、連中に嵌められたかもしれないな。予選の権利を渡さないつもりなんだ」

「マジかよ、クソが。渡さないなら奪いにいくか。どうせ争奪戦なんだからよ」

 ゴクウが吐き捨てるように言うと、ミチハルはぴくっと眉を動かした。

「ヨーコはシゲルのアジトへ行ったんじゃないか? 札を奪いに」

 ああ、アイツならやりかねないな。ゴクウは首を振った。

「部下を連れて俺らはヨーコを追うわ。ミチハルは河童を探してくれ、もう地下か塔か、海辺くらいしか捜す場所は残ってないけどな」


 ……と、まさにそのときマンホールの蓋が開き、そこから見慣れた巨体が飛び出してきた。

「河童ぁ! おまっ、今まで何を……!」

 ミチハルが口に泡を飛ばして叫んだが、河童は上の空で塔の方向へ走っていこうとする。

「マテや、こらぁ!」ゴクウが河童に思い切りタックルした。

 ゴクウは河童に次いで体格がいい。高校時代はレスリング部に入っていた。

 百八十六センチ、九十キロの巨体にタックルされ、さすがの河童も地面に倒れた。

 河童の身体からほのかに石鹸の匂いがする。ゴクウは眉間にシワを寄せた。

「なんだこのニオイ。おまっ、この非常時にノンキに風呂に入っていたのかよ!」

 怒鳴りつけられ、河童はようやくそばにいる部下たちに気づいた。

「おう、お前らか。ちょうどいいとこにいた。ジュニアは塔に逃げた。カエル頭も一緒だ。これから奴らを捕まえにいくから、下に追いてあるバイクと武器を回収しといてく、ごっ!」

 言い終わらないうちに河童はゴクウの延髄斬りを食らった。

「それどこじゃねえよ。いつの話をしてんだよ」ミチハルは口を尖らせた。

 この調子だとデスゲームのことも予選の騒ぎのことも知らないに違いない。そう言いかけて、彼はあっと声を上げた。

「捕まえにいくって塔の中へか?」

「そうだ。カエル頭の隠れ家から塔の地図、ジュニアの隠れ家からバイクと武器を手に入れた。これで塔を乗っ取れる」

 それならデスゲームも予選も必要ねえじゃん! ミチハルは瞠目した。

 しかし、今はヨーコだ。ミチハルとゴクウはこれまでの経緯を簡単に説明した。

 カエルが塔のロビーに吊るされていた話を聞いたとき、河童はかっと目を見開き、デスゲームの告知の話ではタテガミを逆立て、予選開始の話を聞いたときは尻尾を激しく振っていた。

「……完全に嵌められたな」河童は神妙な顔をした。

「だから今からシゲルに話をつけてくれよ」ゴクウが河童に訴えた。

「違ぇよ、塔に嵌められた。女を餌にして野良同士で潰し合いをさせる気なんだ。お前ら、あのユーイチとかいうデブが本気で野良との友好を望んでると思うのか?」

 ミチハルとゴクウは目を剥いた。

 彼らは恨めしげに自分たちを睨みつけていた新ボス・ユーイチのことを思い出した。

 あの口ぶりは相当に野良を侮蔑している。よろしくやりたいなどと思っているはずがない。

 カエルのことが気がかりだが、河童はチームの頭で二百余名の仲間たちに責任を負う義務がある。

「まずはヨーコだ。シゲルのアジトへ行って助けにいく」

 河童は仲間たちを率いて工場地帯へ駆けていった。


※※※

 カエルが捕まってからそろそろ一ヶ月が経つ。

 彼女は逃げたそうにもしておらず、落ち込んでいるようにも見えず、実に大人しくしていた。

 食欲も旺盛で、毎日ぐっすり眠れているようだ。だが、奴隷教育は遅々としてなかなか進まない。

 彼女が閉じ込められている〈遊技場〉の扉の前にルイがへばりついており、他の者の侵入を阻んでいるからだ。

 もっともユーイチたち三兄弟はすっかり彼女に懲りて二度と試食したくないと言っている。

 目の前にレンという女がいるのだから、あえて凶暴な女を相手にする必要もなかった。

「あんなオンナは放っておけ。どうせ野良どもを釣るために置いてるだけなんだ」

 街を脱出するつもりでいるユーイチは呑気に言った。

「しかしよお、ジュニアも物好きだな。あんなオトコ女がタイプとはよ」

 ガイがひひひっと笑いながら言う。昨日は自分がレンを抱けたので機嫌がいい。

 野良に紛れていた頃はあまり目立たなかったが、カエルは女にしては大柄で、がっしりした体つきをしている。

 しかもあの怪力。とても抱いてみたいなどとは思わない。

「変貌する前まではレンとほとんど変わらなかったんだけどな」

 アキラが言った。彼は中学時代、カエルと同級生だったのだ。

 ちなみに彼は、前回の試食のときにカエルに〈俺を覚えているか〉と尋ねたところ、彼女に首を傾げられ、〈誰?〉と聞き返されてムカついていた。あれだけ嫌がらせをしてきたのに。

「昔から男だか女だかわからんヤツだったよ。いじめられっ子で、ださくて、暗くて。野良の間でも有名な嫌われ者で〈ソロ〉なんて呼ばれていたそうだな」

 プライドを傷つけられたアキラはことさらにカエルをこき下ろした。

「そこへいくと、レンは最高の女だな。浮気性なのがタマにキズだが……」

 レンは男たちの話を気だるそうに聞いていたが、自分の腰に絡み付いているユーイチの手を振りほどいてソファーから立ち上がった。

「〈遊技場〉を見てくるわ」


 レンが隣の〈遊技場〉へ向かうと、廊下にルイと犬のトーマスが座っているのが見えた。

「いつまでそうしているつもり? 貴方が動かないからカオルを教育できないじゃない」

 レンがいくら立ち去れと命じても、ルイは微動だにしないのだ。

「教育は僕がする。現に彼女は大人しくしているだろう」

 あの洒落者のルイが着の身着のままだった。毎日こうして寝ずの番をしているのだ。

「……貴方。カオルを愛しているのね」

「くだらん」

 ルイは鼻で笑ったが、その目を見れば明白だ。レンは唇を噛んだ。

 嫌われ者だのいじめられっ子だの言われながら、いつも〈選ばれる〉のはあの女。

「いったいあの娘のどこが……」

 言いかけて、頭からすうっと血の気が引くのを感じた。持病の貧血だ。

 フィクサーに引き取られ、最先端の治療を受けたおかげで健常者なみにはなったが、長年に渡る過労で持病が再発していた。生涯治ることのない病だ。

「ミストレス、顔色が悪い。身体を酷使すると僕みたいに早死にするぞ」

「くだらない同情はしないで。貴方こそゾンビみたいな顔をしてるわよ」

 ルイはぴくっとして手鏡を覗いてみた。たしかに寝不足のせいか顔色がよくない。不精ヒゲまで生えているし。

 カエルに会うときは頬をつねってから部屋に入るとしよう。

「それに、すごく汗臭い。シャワーを浴びてくれば? 部屋は私が見張っててあげるわ」

 ルイは心の底から疑わしげにレンを見た。レンは頬を引きつらせながら言った。

「私とカオルは姉妹なのよ。構わないでしょう?」――本当、腹の立つオトコね。

 汚い臭い不潔と言い立て、なんとか邪魔者と犬を追い払うと、レンは遊技場の中へ入った。

 ビリヤード台の上にマットレスを敷き、簡易ベッドがこしらえてある。そこでカエルが熟睡している。

 手足の拘束はいつの間にか外されていた。

 妹の寝顔は実に平和そうだった。本当なら今頃、奴隷教育を受けて泣き暮らしているはずなのに。

 本当に悪運の強い……。レンはカエルの毛布を引っぺがした。

「……ううん。ルイ?」

 呆れた。タケルのことはもう忘れたの。もう別の男の名前を呼ぶの。

「ダーリンじゃなくて悪かったわね。私よ」

 レンは煙草を出して吸い、煙をカエルの顔に吹きつけた。

 カエルは煙を浴びてケホっと咳をし、寝ぼけ眼で姉を見た。「……レン?」

「ジュニアは臭いからお風呂に入ってもらってる。貴方、ちゃんと面倒みてあげなさいよ」

 カエルはベッドから起き上がり、カセットコンロでお湯を沸かした。

「私、ブラックコーヒーね」

 レンは煙草を吸いながら妹に命じた。

「それにしても、午後十時には就寝て早過ぎない?」

 電灯のない野良の暮らしは夜も朝も早いのだ。それに、毎日の厳しい特訓でカエルくたくただった。

 最近はだいぶ平気になってはきたが、床に入るとすぐ眠ってしまえる。

 レンはフンと鼻を鳴らした。

「あれから一ヶ月も経つのに貴方のナイトはちっとも現れないわねえ。彼もデスゲームに参加して子どもを作る権利さえもらえればいいってクチなのかしらね?」

「僕は彼に助けにこなくていいと言った」

 河童はチームの危急を最優先する。おそらく街は大混乱になっているはずだ。

 あの任侠の男が、恋だ女だと浮かれて塔までやって来ることはないだろう、そうカエルは思っていた。

「それですごすごと引き下がるの。だらしない男!」

 レンはカエルから渡されたコーヒーをぐいっと飲んだ。猫舌の彼女のためにほどよく冷ましてあった。

 カエルはレンをチラッと見た。――もう、本当は自分が会いたいだけのくせに。

 彼女はハチミツを垂らした生姜湯をすすりながらほうっと息をついた。

「レン、本当はタケルに会いにこの街へきたんでしょう? 自分の気持ちをちゃんと彼に伝えなよ。この前、塔にいた野良の誰かに話せば取り次いでくれるはずだよ」

 レンはむっとした。「私は高尚な目的のために来たのよ。低俗な女と一緒にしないで」

 カエルはくすっと笑った。

「あいつ、いまだにレンの写真を宝物にしているよ」

 どこまで人のコンプレックスを刺激するつもりなのかしら。彼が好きなのは私ではなくて貴方。レンは妹につかみかかって頬を何度も叩いた。

 カエルは黙って叩かれながらレンのことを見ている。

「その憐れみの目が大嫌い。殴りつけたくなるわ。あんたの継母の気持ちがわかった。どうして私があんたなんかに憐れまれなくてはいけないの」

「レンがあまりにバカだからだよ」カエルは悲しそうに言った。

「バカはあんたよ!」

 レンは最後に思い切りカエルをぶった。

「私がこの街へ来た目的を教えてあげる。あんたを〈エデン〉へ連れて行って私の脳を移植するの。それで、あんたは永遠に消える。ゴッドチャイルドの〈カオル〉になるのはこの私。私が選ばれし者になる」

 それは〈レン〉が永遠に消えることでもある。

 そうすることでレンは頑丈な肉体を手に入れると同時にタケルを手に入れることができる。

 かつてカオルがレンに成りすましたように、今度はレンがカオルに成りすまそうとしていた。

「貴方にぞっこんのジュニアにも相応しい持ち主を捜してあげるわ。彼の病気も脳からくるものだから、脳を取り除けば肉体は機能するはずよ。誰がいいかしらねえ……」

 カエルは、不意に胸が締め付けられるのを感じた。――彼がこの世からいなくなる。

 ルイがもうすぐ死ぬというのは本当のことだったのだ。

 たしかにこのところ、彼の顔色が優れないのがカエルには気になっていた。尋ねても寝不足だと言って笑っている。

 初めて会ったときから、自分とよく似た孤独の匂いを感じていた。

 ただひとり、街から脱出することだけを望みにして戦ってきたルイ。

 いったい彼はどんな思いで自分に時計を託したのだろうか。


 レンは嬉しそうに言った。

「いっそ、冷凍して高く売りつけるのがいいかもしれないわね。二十歳で身体能力が高く美形。死期の近い老人の希望者が殺到しそう」

 カエルはレンの肩をつかんで叫んだ。

「そんなことさせない。人の命をなんだと思ってるんだ!」

「その頃には彼も死体になってる。何が人の命よ。あんた、ヒト嫌いじゃなかったの?」

 口をつぐんだカエルをレンはあざ笑った。

「ご都合主義のヒト嫌い。綺麗事ばかり言って他人を見下してる。イラつく女……、いじめられて当然ね」

 興奮しすぎたのか、レンは床にくずおれた。

「レン、大丈夫」

「触らないで。貴方なんて大嫌い」

「レン、しっかりして」

 カエルは呼吸困難に陥ったレンの額に手を当てた。

 しばらく手を当て続けていると、姉の呼吸が落ち着き、土気色の顔に少しだけ赤みがさしてくるように見えた。

 そうしているうちに風呂に入っていたルイがトーマスを連れて戻ってきた。

 彼は床に散乱したマグカップの破片と、倒れているレンとを見て片眉を上げた。

「どうしたんだ、カエル」

「レンが倒れた。子供の頃から身体が弱いんだ」

 ルイはレンの下まぶたの裏を覗いた。「軽い貧血だろう」

 彼はレンを抱えてカエルの寝ていたベッドに寝かせた。

「さっきまでひどい熱だった。でも、こうして手を当てると落ち着くんだ」

 カエルは自分の手をルイの額に当ててみた。

「ルイも顔色悪いよ。これからは具合が悪くなったらこうしてあげる」

「よしてくれ。小さい子供じゃあるまいし……」

 気持ちがよくなってルイは目を閉じた。まるで母親に撫でられているように暖かく優しい手だった。

 常時まとわりついている頭痛と疲労感がみるみる軽くなっていくのがわかる。

 荒ぶる心を癒す、奇跡の手。

 ……だから惹かれたんだ。――大いなる奇跡を、人は神と呼ぶのだ。


※※※

 ヨーコはシゲルのアジトに殴り込みをかけた。

 しかし、アジトではシゲル以下、百人近い手下が待ち伏せしており、手勢が数人しかいないヨーコはあっさり捕まってしまった。

「どうします、シゲルさん。吊るして見せしめにしますか?」

 シゲルは鼻をほじりながら言った。「幹部つっても一番下っ端の〈お笑い担当〉だしなあ。……河童に腹切らすか」

 ヨーコがぎょっとしてシゲルを見た。

「ナニ言ってんだよ。リーダーは関係ないだろ」

「部下の不始末は親分が取るものだろ。他所のチームに殴りこみかけて、ウチの兵隊にケガさせて。さらに札を盗もうとしたんだ。実は河童の差し金なんだろ?」

 つい頭に血が上ってやってきてしまったが、しくじった。冷静に考えれば、こういう展開になることは予想がついたはずなのに。ヨーコは強くかぶりを振った。

「さっきから俺の独断だって言ってるだろ。すまねえ、この通りだ」

「だっておかしいべよ。いつもは冷静なクズ鉄山の幹部サマがよ、こんな強盗みたいなマネするなんて」

 チクショウ、嵌められた。ヨーコは歯噛みして悔しがったがもう遅い。

 女の胸を見てしまって正気を失っていたのだ。何がなんでも権利が欲しかった。

 そっちが俺たちを嵌めるなら、こちらがプレートを盗み出してもかまうものかと考えてしまった。

 クズ鉄山のいずれかの者が、邪な考えでアジトへやってくるだろうことはシゲルは予想していた。

 待ち伏せしてまんまと引っかかったのは思いもよらず大物だ。

「俺が腹を切る。部下とクズ鉄山の仲間は本当に関係ないんだ。許してください」

 ヨーコは半泣きになり、床に額をこすり付けて土下座した。

「おめえが土下座したって面白くねえんだっつの……のお!」

 バオンというエンジン音と共に何かがアジトの壁を突き破ってきた。

 それは巨大なバイクにまたがったゴクウだった。よく見ると、バイクの後ろにはリヤカーがくくりつけられている。

 彼は仲間に向かって叫んだ。「ヨーコ、乗れ!」

 ヨーコはバイクの後部座席に飛び乗り、彼の子分たちがリヤカーに乗るとバイクはUターンしてシゲルのアジトから姿を消した。


「な、なんだアレ。バイク……?」

 シゲルは目を飛び出さんばかりにして驚いた。

 彼は果敢にも気を取り直し、呆然としている手下たちを叱咤して逃亡者を追うよう叫んだ。

 しかし、それも阻まれてしまった。

 彼らの目の前にバズーカを構えたサングラスの男が立っている。

「ひゃっはあ! 俺のM300を食らいたいヤツあ、どこのどいつだあ!」

「ちょ、ミチハルさん。調子に乗りすぎっすよ」

子分のキタローが浮かれる上司をたしなめた。

「自慢じゃないが、この俺に扱えない武器はないい!」

 ミチハルはバズーカを一発、シゲルのアジトに向けてお見舞いしてやった。

 シゲルは戦慄した。――なんでこんなもの持ってるんだよ!

 今まで秘密にしていたが、ミチハルは無類の兵器マニアであった。

 垂涎ものの飛び道具を手に入れて、ミチハルは完全に我を失っていた。というか、武器を持つと人格が変わる。

 彼は分解してトランクにしまってあった火器を、簡単に組み立ててしまったのである。

「シゲル、うちの幹部が迷惑をかけてすまなかったな」

 ひっ! シゲルの背後に彼の大嫌いな巨体が立っていた。

 河童は神妙な顔をして腕を組んだ。

「ほら。アイツ、童貞だから。女のナマ乳見てかっとしちまったんだよ。オマエも奴の気持ちがわかるだろ。許してやってくれよ、な?」

「誰が許すか。戦争だ、テメエ! 今すぐ戦争してやる!」

 シゲルはムカっとした。〈オマエも奴の気持ちがわかるだろ〉は大きなお世話だ。

 絶好調なミチハルが叫んだ。「戦争だそうだ、ミサイル発射用意ぃぃ!」

「ちょ、待て。待て待て待て待てええ!」

 シゲルが悲鳴を上げた。「お前ら汚えよ……」

「最初に汚いマネをしたのはお前らだろ!」

 戻ってきたヨーコがシゲルを責めた。が、彼は河童に刀の柄で頭を叩かれた。

「ヨーコが不始末をしたことは本当にすまない。クズ鉄山は全員ゲームを放棄する。というより、お前らもやめとけ。これは塔の仕組んだ罠だ。野良同士で潰し合わせるための」

「んなこたあ、俺だってわかってるんだよ!」シゲルは激昂した。

 河童はシゲルをなだめた。「一緒に塔を攻めようぜ。俺たちは冬の雪辱戦をする予定だ」

 シゲルは拗ねたように口を歪めた。

「へ。またオイシイとこをおめえが持っていくのかよ」

 やっとナンバー1になるチャンスが巡ってきたのだ。これまでも、シゲルが名を上げるチャンスはあった。

 だが、それをいつも河童がかっさらっていく。自分は永遠の二番手だ。

「これまでだ河童。これからは抗争にも出ねえ。お前と組むくらいなら塔と組んだ方がマシだからな」

「家畜になるつもりか、シゲル」

 シゲルはくっと笑った。「名案だ。野良のままじゃ、おめえらは潰せねえ」


※※※

 野良のナンバー1とナンバー2の潰し合いは免れたものの、両者に大きな溝ができてしまった。

 これまでは互いに不満があっても〈塔〉という共通の敵がいたから結束できていたのだ。

 デスゲームの予選は着々と進行していき、プレートを持つ者たちは次第に疑心暗鬼に陥っていった。

 目に見える者すべてが自分を狙う敵に見えるのだ。

 また、それ以外のことでも野良を分裂させる事態が起こった。

 四月末、シゲルのチームがナンバー3のカッチャンのチームとともに、アジトを塔のテリトリー内に移した。

 彼らは野良の中にあくまで塔を敵視する危険人物がいるとボスに讒言した。

「移住はゲームの予選とは別件だ。これは俺たちの面子の問題なんだ」

 マツイ三兄弟は彼らの移住を歓迎し、義勇軍として取り立てた。

 義勇軍は真紅のレインコートに拳銃を配布され、街に出て積極的に〈野良狩り〉を行った。

 街はさらに大混乱となった。たかが女一匹のために、野良は分裂の一途をたどっている。


 クズ鉄山は〈野良狩り〉から味方を守るために奮闘していたが、やがて孤立し始めた。

「義勇軍に加われば、塔の中で酒飲み放題だって聞いたか?」

「あの赤いレインコート、かっこいいよな」

「それに比べてオレ、だせえよな……。コートはボロボロだしよ。義勇軍に入ろうか?」

 便利屋カエルの多機能レインコートはもう頼めないし、やたらと美味だった特製弁当も食べられない。

 今頃なって、野良たちは便利屋がいかに役に立っていたかを思い知らされた。

 そんな話題がクズ鉄山の中ですら飛び交っている昨今なのだ。

 五月に入ってから、河童は何度となく塔に攻め込もうとした。

 だが、その度に義勇軍とゲーム予選の勝ち残り組、総勢六百名に阻まれて、有刺鉄線の中に入ることもできない状態だ。

「クズ鉄山はメンバー全員が首級だ。奴らが塔のテリトリーに入るための条件はただひとつ、バケモノ・河童の完全降伏である!」

 拡声器での煽り文句が街中に流れ、河童のこめかみに青筋が浮いた。

「しかもこいつは囲っていた女が塔に捕らわれていても助けに行こうともしない。男とは思えない腰抜けだ。このヘタレ野郎!」

 河童のタテガミがぐわっと逆立った。

 文句があるなら直接言いにくればいいのに、手の届かない安全な場所から罵倒するなんて卑怯じゃないか?

 しかし今は思いを心に秘め、じっと耐えて決戦の日に備えるべきだ。

 河童は部下たちを率いてひたすらトンネル掘りに明け暮れていた。

 ――いつまでも俺が勉強嫌いのバカだと思うなよ。

 作業が終わると若者たちはアジトに戻って酒盛りを始めた。


 今日は七月二十日、明日はいよいよデスゲームが開始される。そのときが彼らの作戦決行の日でもあった。

 酒盛りでの席では、シゲルたちをギャフンと言わせたときの話題で盛り上がった。

「いやあ、あのときはゴクウが単車の免許持ってて助かったわ」

 肉体労働で泥まみれになったヨーコは陽気に酒を飲みながらゴクウの背中を叩いた。

「街で免許なんて関係ねえだろ。それにあのバイク、大型だぜ?」

 ゴクウの持っているのは中型二輪だ。大型二輪免許を取れるのは十八歳以上からである。

「それよりミチハルがミリオタとは思わなかったぜ。ヒトは見かけによらねえな」

 下戸のミチハルは酒に酔わない代わりに銃に酔っていた。愛おしそうにスーパーバズーカを磨いている。

「俺、結婚したら戦車の家に住むんだ……」

「相手もいねえのに結婚とか」ヨーコはぎゃははっと笑った。

 ただひとり、河童だけが難しい顔をして酒を飲んでいる。

 元気のないリーダーを盛り上げるための酒盛りだったが、主役がこれでは意味がない。

「野良が減ったってどうってことないって。俺ら最強の二百人じゃん、な?」

 ヨーコが言うと、他の幹部たちも「そうだそうだ」と呼応した。

「もう、ミサイルぶっ放してシゲルもろとも裏切り者を全滅させちまおうぜ」

 ミチハルが言うと、他の幹部たちも「そうだそうだ」と呼応した。

「塔を乗っ取ってカエル頭も救い出してさ、クズ鉄山王国を作ろうぜ。な、河童?」

 だが、河童は暗い表情のままだ。

「俺はそんなサル山のボス争いをするために戦ってきたわけじゃない」

 彼は本来、何のために〈海〉から生還したのか。なぜ人の姿を捨ててまで蘇ったのか。

「爺さんに親父やお袋、姉貴。死んだ仲間の弔い合戦をするために俺は生き返った。塔を倒せば、いつか〈エデン〉の奴らが現れるだろうと信じて戦った。……それだけだ」

 幹部たちは黙り込んでしまった。

「暗い話はタブーだろ、河童。こういう時は〈みんな雨が悪いんだ〉と言えよ」

 ミチハルはそう言ってハァーっとスーパーバズーカに息を吹きかけた。

 河童はにっと笑った。久しぶりに見せる笑顔だった。

「お前らは最高の仲間だ。〈雨〉が止んで世界が普通に戻っても、俺はお前らを忘れない」


※※※

 その日の夜更け、クズ鉄山に塔からの密使がやってきた。

 密使とは犬のトーマスである。

 彼は酒盛りやケンカで盛り上がっている義勇軍や予選勝ち残り組の間をすり抜け、有刺鉄線を潜り抜けて臨海地区にある目的地へ寄り道もせずにやってきた。非常によく訓練された犬だった。

 彼はクズ鉄山の入り口で鼻を鳴らした。近くに嗅いだことのあるニンゲンの匂いがする。

「ああ、お前は機関車みたいな名前の犬!」

 見張りをしていた子分が大声を上げた。彼は以前、この犬をカエルに届けに行った運び屋役キタローだ。街が物騒になったため、彼も見張りに駆り出されているのである。

 トーマスの首輪には手紙が巻きつけてあった。


 〈どうしても貴方とケリをつけたい。

  ひとりで塔にきてほしい――オサダ〉


「罠じゃね」

「わっかりやすい罠だよな」

「罠以外考えられねえな」

 三人の幹部は手紙を床に置き、顔をつき合わせて話していた。

 しかし、この〈オサダ〉というのは誰だろう。今までそのような名前の者は聞いたことがない。

 そこへ欠伸をしながら河童がやってきた。

「俺宛に手紙が来たって? ああ、お前は機関車みたいな名前の犬!」

 トーマスは河童を見てワンと吼えた。尻尾をパタパタと振っている。

 ミチハルは手紙を拾って河童に見せた。

「お前に塔へ来いだと。オサダとかいうのが」

 河童は目を剥いた。――レン?

「こいつ知り合いなのか。河童?」ゴクウが訝しそうに尋ねた。

「オサダっていうのは俺が持ってる写真に写っている女の苗字だ」

「おい。あれはカエル頭じゃなかったのか?」ミチハルも驚いている。

 カエルとレンが双子の姉妹だという話を仲間たちにしていなかったことを河童は思い出した。

 街の混乱の対処に追われていて今まですっかり忘れていた。

「カエル頭とそいつは双子の姉妹なんだ」

 ……とか言ってたな、たしか。河童はカエルから聞いた情報をそのまま仲間に伝えた。

「ええ。じゃあ塔にはオンナが二人いるってことかよ」

 ヨーコが素っ頓狂な声を上げた。

「オサダがそいつ、レンならそうなるな。そしてそのオンナこそ〈エデン〉のスパイだ」

 ゴクウは興奮気味に言った。「黒幕なのか、こいつが」

 ヨーコは床をバンバン叩いて叫んだ。「こいつが〈エデン〉からやってきて、いろいろ工作してやがるんだろ」

「どうだかな……」

 河童は腕を組んだ。――今回の抗争は塔の勝ちだったはずだが、なぜ今さら野良に工作をしてくる?

 河童はこの春からずっと頭がもやもやしていた。

 〈ジュニア〉が街に現れたあたりから街の成り行きが急激におかしい流れになってきている。

 まるで、誰かが裏から手を回しているかのような。

 彼はペンとメモを取り出し、これまでの経過を整理した。


 ・抗争終了

 ・ジュニアが街へ脱走→目的はカエル頭?

 ・カエル頭がさらわれる→オレサマに塔へ来いとメッセージ

 ・デブがデスゲーム開催告知→野良も参加OKとか怪しい

 ・オサダに呼び出されるオレサマ


「とまあ、こんな状況だな」

「気になるな。あの手この手でお前を塔におびき寄せようとしているようにも見える」

 メモを見ていたミチハルが難しい顔をして言った。

 河童は眉を上げた。

 ――塔……いやレンが俺を捕獲しようとしている? だからカエル頭は俺に〈助けにこなくていい〉と言ったのか。

「ずっと引っかかっていた。裏であいつが糸を引いていて、何らかの理由で俺を塔へ呼ぼうとしていたのだとしたら、俺はあいつに会わなければならん」

「罠とわかってて行くのか、反対だ。今、お前に抜けられたら……」

「因縁のある女なんだ。永遠の片思いだ。俺はどうしてもあいつとケリをつけたい」

 河童の言葉に仲間たちは何も言えなくなった。

「わかった、行けよ。しかし、どうやって有刺鉄線の向こうへ行く気だ。掘っているトンネルはまだ使えないぞ」

「カエル頭が使っていた地下鉄跡があるんだ。それを使う」

 河童はトーマスと連れ立って地下道を急いだ。


※※※

 カエルはルイの教えることをみるみるうちに習得していった。

 ゴッドチャイルドという常人離れした資質があるうえ、もともと生真面目な性格なのだろう。

「戦うときもつねに華麗に美しく、だぞ。そうやってムダなことをするな、マキビシは投げなくていいんだ。ハイヒールを飛ばすな、スカートの中から火炎瓶を出すな!」

 カエルは勝手に華麗ではないアレンジを加えてしまう。

 それをドレスを着たままやるのがルイには頭の痛いところだ。

「お前は飲み込みの早い弟子だが、貴婦人としてのたしなみは最悪だな」

 ルイは天を仰いで言った。――黙っていればこの僕が自制心を失いそうになるほどなのに。

「……だって貴婦人じゃないもん」カエルは肩をすくめた。

「それよりこの赤いドレス、工房に置いてきたのにどうやって持ってきたの」

 ルイは嬉しそうに言った。

「弟子その二に持ってこさせた。トーマスはすごいぞ、何でもすぐに覚えるんだ。彼もゴッドチャイルド犬なのではなかろうかと思うほどだ」

 トーマスは口にナイフを咥えて宙返りをしている。たしかに恐るべき使い手だった。

 ルイは顔色がよかった。毎日カエルが手当てをしているので症状が軽減するらしい。

 しかし、それはあくまでも一時的なものだ。手当ての頻度は次第に増していく。

 

 ……彼は、もうすぐ死ぬ。夏の〈海〉に沈んでいく。


 カエルはぞっとするような未来に首を振った。

「何をぼんやりしている。真面目にやらないと倒されるぞ?」

 ルイは自分にも厳しい教官だ。疲れてやつれているのにそれを見せようとしない。

 いつ眠っているのだろう、とカエルは思う。そして、自分の身を省みないくらい熱心に教えてくれるのはなぜだろう。

 かつて、〈タケル〉も親切だった。でも、それはレンと間違えていたからだ。

 信用できるからと言っていた。それだけ……?

「ねえ、ルイ。どうして僕にここまでしてくれるの」

 カエルの問いにルイは答えた。

「お前に教える価値があるからだ。……それに、かなり強引に連れ去ってしまったからな」

 ルイとしては、カエルを河童から引き離してしまったことを気にかけていた。もし、そのことで恨まれていたとしたら少しショックだ。

「……僕はただのソロだよ。人見知りがすごいし、昔から価値のない子だって言われてた」

 カエルは自分の顔の傷と手足の痣を見せた。

「見てよ。こんな身体でなんの価値があるの? 綺麗な格好をしたって、全然似合わないじゃない」

 ルイは、今にも泣きそうなカエルを見た。

 ――本気でそう思っているのだろうか。

 〈カオル〉が鏡を見ているのをルイは見たことがない。

 痣は、たしかに手足にある。こめかみのところに、言われればそうかもしれないという傷跡はある。

「カオル、自分の姿を鏡を見てみろ」

「……嫌。見たくない。自分の顔なんて大嫌い」

 カエルはかたくなに拒否した。

 おそらく、この娘は幼い頃からずっと否定されてきたのだろう。

 辛かったのだろうが、いつまでも萎縮した子どものままでいてはいけない。

 ルイは、嫌がるカエルの前に手鏡を出した。

「嫌だってば!」

「お前に教えてやる。虚言に惑わされて物事の本質を見失うな」

 カエルの目から一筋の涙が流れた。

 そこには白くかすれた傷跡と、それを払拭するほどの薔薇色の頬をした美しい娘の顔がある。

 ルイはカエルの顔の傷跡に触れた。「お前はいい女だ。僕が言うのだから間違いない」


 お前はお前だ。そうだろう?


※※※

 突然、ルイが電池の切れたオモチャのように膝をつき、カエルは慌てて彼の手を握った。

「大げさだな、足がもつれただけだ。そうやって甘やかされると僕の寿命は千年くらいになってしまう、勘弁してくれ」

 ルイは何でもないように微笑んだ。

 弱っているところだけは彼女に見せたくない。

「……甘えればいいよ。僕、ずっとルイと一緒にいるから」

 カエルが思いつめた表情で言うので、ルイは思わずたじろいだ。

「バカを言うな。そういう一時しのぎな同情は大嫌いなんだ」

 四六時中そばにいれば情も湧くだろう。

 一時の感情に流されるのは愚かなことだとルイはカエルを諭した。

「毎晩、ドアの前にいてくれたよね。嬉しかった。苦しいのにずっと無理してたんでしょ。このまま離れて死んじゃうなんて嫌だ。同情じゃない、ずっと一緒にいたいだけだよ」

 さすがにバレていたか。ルイはため息をついた。

「それが憐れみや同情だというのだ。僕の勝手でやっていることに口出しをするな」

 ルイはカエルの手を振り払って身を起こした。

 どうやら予想外の方法で彼女を魅了できていたようだが、ちっとも嬉しくない。頭の中が混乱するし、胸が苦しいだけだ。

「さあ訓練だ。休憩しているヒマはない」

「ねえ、一緒に街を出ようよ。ルイが残るなら僕も逃げない」

 かっとしてルイはカエルを壁に叩きつけた。

「自分が何を言っているかわかっているのか!」

「わかってる。わかってて一緒にいるって言ってるんだよ」

「ほう。犯罪組織の人間のそばにいるということがどういうことかわかっていると? 刺客から狙われ、政府から追われ、いつ野垂れ死ぬかわからないんだぞ。狙われるのは僕だけではない。むしろ家族や恋人から狙われるのだ。追手の影に怯えて暮らしたいのか。そんな男と一緒にいて幸せになれると思うのか」


 ――そういうことだったのか。


 ルイの脳裏に父の姿が浮かんだ。

 そういう理由だったのだ。キングがアントワーヌを冷酷に切り捨て、さも金を積んで子供を産ませたかのようにアピールしていたのは。母親に会うなとルイにきつく言っていたのは。

 ――なんという、不器用な男だ。

 キングの本性を垣間見たルイは気を取り直して微笑んだ。

「乱暴してすまなかった。訓練の続きを始めよう」

「……ルイ。お願い。お願いだから……」

 カエルはルイの手をつかんで泣き出した。こちらがうなずくまで手を離すつもりもなければ特訓する気もないらしい。

「やる気がないならこれきりだ、そんな弟子なら僕はいらない」

 ――父は、どうしてそこまでして母を愛したりしたのだろう。

 突き放すべきだ。それが互いのためだ。そうは思わなかったのだろうか。

「少しアタマを冷やすべきだな。仕方ない、今日はドイツ語を教えてやろう。だが、意味は自分で考えろ。いつか相応しい時に使うといい。……相応しい相手に、な」

 ルイはひとつ息を吸うと、彼女の耳もとに口をつけて自分の気持ちを告げた。


 Ich liebe Sie.


 難しい言葉ではないが、ルイはカエルにドイツ語を教えたことはない。今はわからなくていい。それでも彼の思いが変わることはない。


 Ich will Sie nicht traurig machen,

 Verstehen Sie es bitte.


 カエルは何度もうなずき、ルイの手を取って頬ずりした。

「Ich liebe Sie(愛してる)……。

 僕も同じだよ。僕を悲しませたくないんだよね? でも、僕はルイが黙って消えてしまう方が悲しい」


 かつて、心にぽっかりと空いた穴を埋めるものは何もないと信じていた。

 でも、満たせるのだ。その穴に〈幸せ〉をいっぱいに埋めて満たそう。

 たとえ、それが束の間の安らぎだとしても。


「……お前は、バカだ。バカな女。でも、僕もバカになったらしい」

 ――愛など大嫌いだ。

 突き放そうとしたのに、手は意に反して勝手に彼女を求めてしまう。幸せになどできはしないのに。

 愛などという不確かなものを信じた両親の過ちを繰り返すまいと誓ったのに、今は彼らの気持ちがわかる。


 ――主よ、罪深い我らをお許しください。

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