レン
瓦礫の街の夜は墨を塗ったような漆黒の闇だ。
そこに、天に向かって放射状の光を飛ばす塔だけが闇の中に明るく浮かんで見える。
その最上階部分は厚い雨雲に隠れて地上からは見ることができなかった。
塔の最上階にあるヘリポートに一機の戦闘ヘリコプターが降り立った。
「次回の訪問は秋ではなかったのですか」
急報を受け、塔に詰めていた役人が〈エデン〉の要人を出迎えた。
監察官はそれには答えず、数名の仕官を引き連れてスカイラウンジのある百四十階への直通エレベーターに乗る。
役人は慌てて後を追った。「お待ちください、ミストレス」
監察官はいつも非常階段を使う。
立ち入り禁止になっている百四十一階が〈エデン〉の控え室となっており、そこで姿が見えないように支度をしてから下へ降りるのが慣例になっていた。なぜなら、監察官は女だからだ。
「ミストレス、ここは人目につきます。いつものように支度をしてからいらしてください」
「構わないわ。そろそろモルモットたちに飼い主の顔を見せてあげないとね?」
スカイラウンジを見渡しながら監察官はくすりと笑った。
「ボス・マツイが死んだそうですね」
役人は一瞬、顔色を曇らせた。「……申し訳ありません」
「別に謝らなくてもいいわ。もともとマツイは〈選ばれし者〉たちの怒りの矛先を向けるために据えられたスケープゴートのボスですもの」
殺戮が行われたこのフロアは、今では綺麗に掃除されてひっそりと静まり返っている。
「ごめんなさい、貴方にはショックな出来事だったわね。アキラ?」
「……いえ。父のことは当然の報いです」
アキラは父のマツイが〈エデン〉に寝返る前からスパイとして暗躍していた。
マツイは塔内の権力に固執し、酒色に溺れて〈エデン〉から与えられた街の管理という重要任務をないがしろにした。
彼の目的はあくまでも〈ジュニア〉への報復だった。
目的を達成し、贅沢な暮らしが保証された途端にボスの任務を全うする意欲をなくしていた。
「ところでアキラ……」
監察官はソファーに腰掛け、短いスカートから伸びた長い足を組んだ。
久しぶりに見る本物の女の脚に、アキラはごくりと生唾を飲んだ。
「貴方も近頃職務怠慢がひどいのではなくて?」
「塔の最新の情報は、つねにライブカメラでアップしているはずですが……」
アキラの主要任務は諜報活動であり、塔に設置してあるライブカメラの管理だ。
ライブカメラはロビーや会議室、出入り口、市民の居住区など数箇所に設置してある。
塔の内部や周辺を映した映像は専用のウェブサイトを通じて〈エデン〉の国民たちに伝えられていた。
〈エデン〉の国民たちは、人間が奈落に落ちていく様を大喜びで観ていた。
なかでも拷問シーンや抗争の凄まじい戦闘は、生々しい〈ドキュメンタリー〉として人気を博している。
監察官は履いているピンヒールで思い切りアキラの足を踏んだ。
「報告書が遅い! 私たちには映像が見えていても大きな音しか聞こえないの。
モルモットが死んでも数までは把握できないの。大事なことはすぐに〈通信〉で、報告するよう伝えたはずよ」
「申し訳ありません……」アキラは激痛に呻きながら言った。
「モルモットが百人以上も死んでいたなんて。私のペットを殺しすぎるなと言ったでしょう」
「は、はい。次回の抗争は番組が少人数の犠牲でより盛り上がるよう徹底します」
監察官はソファーに座り脚を組みなおした。
「その必要はない。〈プログラムⅢ〉を発動させるわ。……勝者の褒美は街からの脱出。
これ以上ないくらい盛り上がるでしょうね」
「は。そのプログラムはたしか再来年に行うはずでは……?」
監察官は肩をすくめた。
「その予定だったけど、〈街の外〉がうるさくて早めに戦士が要るの」
実は現在、瓦礫の街の外では有志の市民団体が蜂起して、〈エデン〉の立てた臨時政府に対して激しく抵抗していた。
彼らのバックにはルイの父であり、国際的な犯罪組織であるキング・クレメントがついている。
監察官も彼らの鎮圧に加わっていたのだが、急遽予定を変更して街へやってきたのだ。
『721』の際、彼女はフィクサーから最強の戦士たちを七年かけて養成するよう命じられていた。
彼女は素質ある者の中から好みの男を選んでコロシアム――瓦礫の街を作った。
プログラムは候補者を肉体改造すると同時に彼らの洗脳教育も含んでいる。
洗脳教育の第一段階はモルモットを社会から隔絶すること。そして非日常的かつ苛酷な環境に対応させる。
パニックを起こしたモルモットは第二段階に入る。今度は、抑圧と刷り込みだ。
極限まで飢えさせ争わせておき、自我と判断力を崩壊させる。
この段階で生き残った者には歪んだ選民意識が植え付けられていく。
思考が停止したモルモットには第三段階で褒美を与える。与え続けられていた過度なストレスから候補者を解き放つ。
彼らは絶望から救ってくれた〈救世主〉に感謝し、彼女の前にひれ伏すだろう。
男たちは過酷な環境を生き抜き、戦いを通じて切磋琢磨し、やがて真の勇者のみが生き残る。
そして、勇者たちは救世主たる彼女に仕えるべく街から出ることができる。
彼らは彼女を愛し、彼女を守る楯となるべく集められた〈選ばれし者〉たちだ。
街に青年や少年といった年頃が多いのも、男しかいないのもそのためだ。
彼女にとって幼子や老人は必要のないもので、まして女など要るわけがなかった。
瓦礫の街は同志に娯楽を提供するコロシアムであると同時に彼女のハーレムでもあった。
それなのに、彼女のハーレムに存在してはならない〈異物〉が混入している。
「私が急遽ここへ来た理由のひとつはそれ。もうひとつは、女よ。街のシステムの根幹を揺るがす重要事項だわ。どうしてすぐに報告しないの。いまだに見つけられないのはなぜ?」
監察官は苛々と足を踏み鳴らした。――どこまでも忌々しい、あの女。
とっくに女を捨てたくせに、どこまでも女々しいあの女。
死にたいなんて言っておいて、どんなに踏みにじられてもしぶとく生き残っている。
「報告が遅れたことは申し訳ありません。ですが、女は冬からずっと捜しております。
現在はクラウス・ジュニアを使って野良の居住区を探らせているところです」
アキラも冬の間は忙しかった。
本来、ボスがやるべき仕事を新ボスのユーイチがまったくやらなかったため、彼が裏で奔走するハメになったからだ。
さらに抗争の後始末やユーイチに付き合わされて〈ジュニア〉探しにも駆り出されていた。
ひとりきりになって報告書をまとめている暇などなかったのだ。
監察官はふっと笑った。
「クラウス・ジュニアね。彼の人気は〈エデン〉でもすごいのよ。私も彼がお気に入り。でも、アテになるのかしらね?」
「家畜で外を出歩けるのは彼しかいません。危険人物ですが、約束は守る男です」
「……そうだといいのだけど」
監察官はシガレットケースから細い煙草を出して吸った。
〈あの女〉は四年前に〈海〉に落ちて死んだはずだった。
しかしいくら捜しても死体が見つからず、ずっと不安な日々を過ごしていた。そして、やはり生きていたのだ。
〈海〉に落ちても死ななかった。つまり、あの女はゴッドチャイルドだった。
彼女はいてもたってもいられず、他の任務を押しのけて瓦礫の街へやってきた。
このままでは彼女のハーレムの秩序が乱れるばかりか、愛するフィクサーの寵愛まで奪われかねない。
フィクサーの知るところとなれば、必ずあの女を手に入れたがるはずだから。
不意に彼女の心臓が雑音を奏で、頭から血の気が引くのを感じた。
――でも、今となってはあの女が生きているのはむしろ好都合。私が始末してあげる。
「今日はとても疲れました。そばにいていただけますか?」
監察官はアキラに手を差し出すと、彼は彼女の手を恭しく取った。
「もちろんです、ミストレス・レン」
※※※
クズ鉄山の周囲も宵闇でひっそりと静まりかえっていた。
空を照らす塔の光は道を歩くのには役に立たず、照明がなければ外出もままならない。
河童は自分の寝床でいびきをかいて大の字で寝ている。
ルイは寝床から起き、河童のそばに近づいてみた。規則正しい寝息だ、眠りは浅くない。
彼は音もなくブーツをはき、レインコートを羽織り、コートとブーツにナイフを装着する。
出かける支度を済ませた彼は河童を冷ややかに見下ろした。
――組織を率いる頭目のくせに、警戒心の薄いことだ。
部屋の外には見張りが二人。ルイは部屋にしつらえてあるトイレへ行き、窓から脱出を試みた。
五メートルくらい階上から飛び降りることなど、彼にとってはどうということもない。
ルイは見張り台から見える視界や警備ルートを避けて歩いた。
このアジトの構造は、今日すべての場所を見てまわって記憶済みだ。彼はアジトの外壁をよじ登って外へ出た。
街から塔への道もカエルと一緒に歩いてきたときにだいたい把握した。
ルイは先日穴を掘っていた場所で足を止め、そこを掘り返す。
十五センチメートルほど掘ると、懐中時計とブラックダイヤの指輪の入った包みが出てきた。
実はクズ鉄山ではボディチェックを受けるだろうと予想して埋めていたのだ。
指輪に埋め込まれた宝石が赤く人工的な光を発している。連絡をよこせという合図だ。
彼は指輪を口に当てて呟いた。「僕だ。今外にいる。十分後に落ち合おう」
「……アキラ。誰からなの」
ベッドから気だるげに身を起こしてレンは言った。彼女は何も身に着けていなかった。
「クラウス・ジュニアからです。十分後に落ち合うことになりました」
「私も同行していいかしら。彼に会ってみたいの」
レンの言葉にアキラは首を振った。「危険です。彼は油断がなりません」
「私のペットよ」
「ペットでも人に懐いていない猛獣ですよ」
監察官がのこのこと外へ出かけて行けば、人質に取られることは目に見えている。
つねに安全な場所から傍観している彼女は知らないのだ、街の人間がどれだけ疑り深くて凶暴かを。
何も知らないお嬢様はいたずらっぽく笑って言った。
「じゃあ……、タケルに会わせてよ」
またタケルのことか。アキラの眉間に深い皺ができた。
このお嬢様は、自分から捨てておき、一度は殺しかけた同級生にいまだに固執しているのだ。
「放牧している猛獣の中に飛び込むつもりですか。おとなしくここにいてください」
アキラは携帯ゲーム機をレンに手渡して寝室を出て行った。
ルイが塔と街とを隔てる有刺鉄線までたどり着いたとき、目の前に銀色の防護服にヘルメットをつけた人影が見えた。
人影はルイの姿を確認すると無言で歩き出したので、彼もそれについて行く。
やがて人影は〈雨〉宿りができる廃屋の中へ入っていった。
「マスクをつけていても臭い。こんな場所で冬を越すとは、さすがゴッドチャイルドだ」
ヘルメットのシールドを上げると凄まじい臭気が鼻や喉に流れ込み、男は激しく咳き込んだ。そこにルイの見知った顔がある。ゲームにしか興味のないマツイの三男、アキラだ。
ルイはこれまでアキラと直接関わったことはなかった。
塔で最年少のアキラは権力抗争にはおよそ無縁で、塔の中ではつねに浮いた存在だった。誰からも重要視されていなかったのだ。
ルイはブラックダイヤの無線機をアキラに見せた。
「地下鉄に潜んでいた。物資が落ちてくる地点を随時教えてもらって感謝している」
河童が獣並に鼻が効くように、ルイもまた特殊な能力がある。
彼の武器は闇に覆われた地下道でも昼間のように視界の効く視力だ。
「だが、自力脱出は不可能だったろう?」アキラは苦しげに言った。
〈エデン〉のスパイが塔の中で家畜として紛れ潜んでいることをルイは知った。
以前、ユーイチが「俺たちは見張られている」と言っていたのはそういうことだったのだ。
塔から脱走したルイはしばらくの間、バイクを隠して塔の地下階に潜伏していた。
その頃は〈海〉を泳いで街から脱出するつもりでいた。
しかし、何度試しても岸に戻されるため、当初の予定通り春になったら野良に接触するつもりでいた。
そんなとき、〈エデン〉のスパイ・アキラに見つかってしまった。
〈やあ、ジュニア。兄貴たちが血眼になって君を探しているぞ〉
アキラは銀色の防護服を着た複数の兵士を連れていた。
〈追跡装置を外してもムダだ。家畜の居所は我々には筒抜けなんだよ〉
アキラはルイの左腕に刻まれたバーコードを指差した。
彼らを殺して逃げようと思ったルイだったが、意外にもアキラは取引を持ちかけてきた。
アキラはもともと家畜と野良の諍いも、まして塔内のボス争いにも興味がない。
彼の急務は塔の〈開かずの間〉を開けることだという。秘密を教えればルイを見逃してくれるというのだ。
これは想定外だったが、嘘ではなさそうだ。ルイはアキラの依頼を受け、塔の開かないフロアを開けるパスワードを教えた。
どうせ死の宣告を受けた彼には必要のないものだ。
〈実は、もうひとつ仕事を頼みたい。引き受けてくれれば物資の援助を保証する〉
ルイはその依頼も引き受けた。それは彼が塔を出た理由と一致していた。
「開かずの間の中は宝の山だった。金塊に武器に偽造カード、ひとつの国家が買えるほどだ」
アキラは興奮気味に話した。「大手柄よ」と、レンからも大いに褒められていた。
「この街では役に立たないものばかりだ。僕にも必要ない」
あんなものを守るために働いていた昔が懐かしい。ルイは皮肉っぽく口を歪めた。
「どうやって持ち出す気だ」
「それはこちらでなんとかする。それよりも、例の標的は見つけたか?」
「まだだ。実は河童のチームに潜りこむことができたんだが、野良の間では噂にものぼっていない。……街に女がいるなんて。もっとも、連中は女々しい男はすぐにオンナと呼ぶがな」
ルイの言葉にアキラは驚いたようだった。
「よく野良の大将に受け入れられたものだな」
「本当に女なんているのか? とても信じられないのだが」
ルイは隙のない微笑みを浮かべ、相手の出方を注意深く伺った。
「検査の結果を見せただろう。女がいるのは間違いないことだ。
塔は全員調べたが男しかいなかった。だとしたら野良のうちのひとりだ」
抗争のとき、ルイ付きの兵隊のひとりが「奴隷に襲われた」と役人に訴え出てきた。
非常に美しい若者だったので、幹部に飼われている奴隷だと思ったらしい。
兵隊はその奴隷をどうしても手に入れたいと思い、身元を突き止めようとして部屋中を探し回った。
そして、一本の髪の毛を見つけた。その髪の毛はアキラの部下で〈エデン〉のスパイでもある医者の手に渡った。
染色体を検査した結果、髪の毛は女のものだと判明した。
「僕は街に出てまだ日が浅い。実際に女がいたとして、千人近くいる野良の中から見つけ出すのは時間がかかる。
もう少し時間がほしい」
「標的は〈海〉に落ちた後に生還している。君や河童と同じ特異体質だよ。だから目立つはずだ。身体は大柄で頑丈、身体能力が高く、〈雨〉に異常なほどの耐性がある」
「それが女なら、かえって男と見分けがつきにくいだろう」
ルイが言うと、アキラは「手がかりをやる」と言って一枚の写真をルイに渡した。
スーツを着た十八、九の美しい娘が写っている。写真はごく最近撮ったものに見えた。
「美人だろう。〈エデン〉の代表の養女だ。標的も同じ顔をしている。名はカオル」
カオル、か。だからあんな扮装をしているのだろうか。ルイは写真を見ながら思った。
写真の少女はたしかに美人だが、顔色は病的なまでに青白い。なにか持病がありそうだ。
「双子というわけだな。だが、〈海〉に漬かると姿が変わってしまうこともあるぞ。
男みたいになってるかもしれないし、頭が蛙のようになっているかもしれない」
「手がかりがないよりマシだろう、探せ」
ルイは肩をすくめた。「これからはひとりひとりの股を握って歩くことにする」
アキラはルイに青い錠剤の入ったピルケースを投げた。彼にとって忌々しい薬、ゴッドチャイルドが酔う薬だった。
「疑わしき者に〈一錠だけ〉使えというミストレスの厳命だ。
死ねばハズレ、生きていればアタリだそうだ。これで女を生け捕りにできる」
ピルケースはユーイチのものだった。つまり、ユーイチは今は薬を持っていないのだ。
ルイは隙のない微笑を浮かべて言った。「まずは見つけるのが先だ。そうだろう?」
「できるだけ急いでほしい。君が無能だとは思いたくないからな」
アキラが立ち去り、姿が見えなくなるとルイは急に真顔になった。
「彼は口を滑らせたな。女主人とは誰だ。なぜ、突然そんな人物が出てくる」
前回は女の生死を問わず捕らえろ、と言われた。
しかし今日、アキラは薬を使って生かしたまま捕らえろと指示してきた。
しかも手がかりだという最近撮影したらしい写真までつけて。
〈エデン〉の代表の養女、か。ルイは雲に隠れた塔の頂上を見上げた。
塔の外観は螺旋状になっており、段になった壁を利用すれば上まで登れそうだ。
――おそらく塔に〈エデン〉からの客が来ているに違いない。
※※※
ルイは派手なレインコートを脱いでウェットスーツ姿になり、塔の外壁を登り始めた。腕に刺青されたバーコードはすでに焼き消してある。これでアキラに見つかることはないだろう。
〈雨〉で思いのほか壁が滑るので、両手にナイフを持ち、それをピッケル代わりにする。あとは自分の身体能力を信じて壁をよじ登っていけばいい。
窓枠に飛び移り、壁のわずかな突起にしがみついて一気に上る。
およそ三百メートルほど登ったであろうか、突然警報のサイレンが鳴り響き、窓からルイに向けてサーチライトが照らされた。しくじった。彼は舌打ちをした。
「外にもカメラがあったのか。いったいどこから撮っている」
慌てて塔から滑り降りたがもう遅い。地上では十数名の兵隊たちが彼を待ち構えていた。
「ナイフ二本で塔の外壁をよじ登るとは無茶な人ね。でもそこがワイルドで素敵」
アキラの携帯ゲーム機を眺めながらレンが面白そうに笑った。
このゲーム機はチャンネルを変えだけでライブカメラの中継を観たり、メッセージを送ったりすることができる。
「なぜ映像を流したりしたりしたんです。ユーイチに捕まったら面倒なことになる」
「彼は捕まえていいのよ。見て。今、番組のアクセス数がすごく上がっているわ」
「そんなことをしている場合ですか。女探しはどうするんですか!」
「捕まっても私が逃がす。少しくらいいいでしょう?」
レンはにこにこと笑っている。
ルイは地面に膝をつき、青い顔をして息を荒くしていた。また例の発作が始まった。
全身に激しい激痛が走り、〈雨〉に当たって意識は朦朧としている。
兵隊が銃を構えてルイに近づき、彼の手足は特殊金属の枷に拘束されてしまった。
「ジュニア!」
黒い大きな傘を差したユーイチが血相を変えてルイのところへ駆け寄ってきた。
「ジュニア! 生きてたんだな、生きてたんだ……」
ユーイチはルイにしがみついて泣き出した。ルイは力なく微笑んだ。
「野良のところにいた。正直、死にそうな目にはあったが元気でやってる」
「野良……?」ユーイチの目が恐怖で凍った。塔の御曹司である彼にとって、野良は得体の知れないバケモノと同じだった。「クソ野良め。あとで報復してやる」
ルイは困ったような笑顔を浮かべた。
「世話になったんだ。報復はやめてくれないか。それに僕は塔へは戻らないつもりだ。この枷を外してほしい」
ユーイチは嘲笑った。
「これでも俺はすごく怒ってるんだぞ。……当分は拘束したまま監禁だ。親父がやった奴隷教育をもう一度やってやる」
ルイはうんざりしていた。
「僕はお前のモノになった覚えはない。約束は果たしたはずだ」
ユーイチは周囲の兵隊を下がらせ、ルイの耳元で囁いた。
「誰のおかげで親父から自由になれたと思っているんだ」
「お前は新しいボスになれただろう。マツイに殺意を抱いていたのはお互いさまだ」
「バカ! 余計なことを言うな」
慌てたユーイチはルイにスタンガンを押し当てた。
彼としては薬を使いたかったのだが、なぜか袋ごとなくなってしまっていた。
それでも発作で弱っているルイには効果てき面だった。
「そろそろ〈愛してる〉と聞きたいな。親父には言っただろ。〈ボス、愛してます〉って」
「愛? バカバカしい、一番嫌いな言葉だ」
ルイは膝をつき、嫌悪感で顔をしかめた。
復讐を遂げるために心で血を吐きながら言ったセリフだ。今は思い出したくもなかった。
「……そうか。なら言いたくなるまで監禁だ。お前ら、ジュニアを連れて行け」
複数の人影が二人に近づいてきた。しかし、彼らはユーイチの手下ではなかった。
照明の光に照らされて、太刀を抜いた猛獣が凄みのある笑顔を浮かべている。
「色男は辛えな。〈愛してる〉って、痺れるセリフだぜ」
これは新たなピンチなのか、それとも助かったのか。ルイは気が遠くなりながらも薄笑いを浮かべた。
「寝たフリをしてたのか。マヌケだと思っていたが、侮れないな」
「お前は泥沼の修羅場かよ。マヌケなこったな」河童はニヤニヤ笑った。
河童は太刀でルイの拘束を叩き斬り、腰を抜かしているユーイチに剣先を突きつけた。
「お坊ちゃまは、あっちで寝ている手下を連れて帰れ。こいつはすでに俺のエモノだ」
「ユーイチ、そういうわけ……だ」
ルイは河童に身体をもたれかけて言った。ついに体力の限界がきていた。
「ジュニア、俺よりそんなバケモノを選ぶのか。この裏切り者!」
ユーイチが怒声を張り上げた。「絶対に、絶対に許さないからな!」
「いっそ、お前も野良になるか? かわいがってやるぞ」
河童はタテガミを揺らして残忍そうに微笑んだ。
彼の背後では、リーダーに負けず劣らず凶悪そうな顔つきの少年たちがニヤニヤしている。
「色白ぽっちゃり、か。けっこうかわいいな。好みのタイプだぜ」
「てか、おいしそう? 焼き豚にしてやりたい」
「そのツラは覚えた。今度見かけたら、食い殺す」
河童がトドメの一言を叫ぶとユーイチは逃げ出した。
野良への怒りより、汚らわしい野良を選んだルイへの恨みで彼の心の中はいっぱいだった。
「あいつ、絶対に河童がジュニアの新しい情夫だと思ってるぞ」ゴクウがのん気に言った。
ヨーコは興奮していた。
「言うことが女みたいだったよな。あのツラで。ひどいわダーリン、アタシを捨てるなんて! とかよ。きっと後戻りできない身体にされたんだぜ」
「怖。俺、ジュニアの虜にだけはなりたくねえわ」ミチハルは身震いしていた。
河童が気を失っているルイの頭を刀の柄で叩いた。
「お前は帰ったらバツ当番だ、バカ野郎!」
レンはユーイチと河童の小競り合いの一部始終をテレビで見ていた。
「……タケル」
殺したはずの彼が生きていると知ったとき、彼女は不本意にも嬉しいと思ってしまった。
今までは年一回の抗争で遠くから見ているだけだった。だが彼は今、彼女のすぐそばにいる。
――目の前に私が現れたら、貴方はどうするかしら。
「よかった。ジュニアは野良の大将に救出されたようですね」
……ユーイチはしつこいからな。アキラはほっとしたようだった。
レンは口を尖らせた。「よくない。彼らを追うわ。防護服を用意してちょうだい」
「それは無理です。貴方の身体では防護服があっても〈雨〉に耐えられません」
〈エデン〉の人間が野良を調査したくてもできない理由はそれだった。
〈雨〉は特別な薬品などではなく、化学に知識のある者なら誰でも作れる毒物だ。
訓練を積んだ人間が防護服を着ても〈雨〉の下では三十分もてばいい方だった。
特別なのは街に集められた若者たち、〈選ばれし者〉の方なのだ。
「同じ遺伝子型を持つ妹はゴッドチャイルドなのよ」
「だが、生体認証は異なる。〈雨〉への適性は別なんですよ。
心配しなくても、プログラムⅢが発動すれば彼らは貴方のものになります」
「……どうして私は選ばれなかったの」
レンは呟いた。そのことはこの数年もの間、ずっと彼女のコンプレックスになっていた。
ただでさえレンは身体が弱いのだ。自分の身体が呪わしかった。
――あの女は選ばれたのに。同じ病院で生まれたのに。私の方が、ずっと不幸だったのに。
妹も不遇だったことは知っている。だが、あんなものは自分で招いた結果にすぎない。
いつも殻に篭ってじっとして、誰かに気づいてもらえるのを待っている。最低の女だ。
レンは自力で不幸から這い上がろうとしてきた。
彼女の家は貧しかった。北国の小さな工場の娘だ。
幼い継子を意味ありげに眺める継父と、そんな男にすがりつき、娘が虐待されるのを見て見ぬふりをしている母がいた。
お前が病弱だから悪い、追い出されたら暮らしていけない、母親の口癖だ。
「お望みどおり、あんたからあの男を奪ってあげる」
「……な、なんですって?」
「わからない? あの男は年を食ったあんたより私の方が好きだってことよ」
レンは継父を利用することに決めた。母親はレンを罵り続けたが無視した。
教科書をボロボロになるまで読み、いつかこの掃き溜めから這い上がってみせると自分に言い聞かせていた。
――双子じゃなかったら、私は裕福な父の方に引き取られるはずだった。
七年前の冬。疲れ果てたレンは、父に救いを求めるために北海道から電車を乗り継いで横浜までやってきたことがある。
生まれて初めてみる東京には雪がちらついて、まるでおとぎの国へ来たようだった。
家から盗んできた金はとっくに底をついていた。
〈君、どうしたの。女の子がこんな時間に歩いていたら危ないよ〉
紳士然とした中年男性が穏やかな微笑みを浮かべている。レンはすぐに男が声をかけてきた意図を察した。
……金はその晩に手に入れた。
母親のアドレス帳を頼りに、ようやくたどりついた家は豪邸だった。
門まで近づくと、妹が庭先で雪ウサギを作っているのが見えた。
レンとは正反対の血色のいい頬をしている。
大きな瞳は夢見がちで、世の中の汚いものなど何も見たことがないかのようだ。
〈お誕生日おめでとう、お姉ちゃん〉
レンはぎょっとした。だが、妹は雪ウサギに話しかけていたのだった。
そして、今度は雪ウサギの顔を自分に向けて「誕生日おめでとう」と言ってにこりと微笑んだ。
「誕生日……。私の?」
レンは、鏡の向こうの幸福そうな自分に殺意を抱いた。
今日は誕生日だったのだ。そんなもの、今まで思い出したこともなかった。
妹が家の中に戻ると、レンは彼女が作っていた雪ウサギを踏みつけた。何度も踏みつけた。
――こんなもの。私はこんなに綺麗じゃない。真っ白じゃない。
どこまでおめでたいの。現実をなにもわかっていない。本当に馬鹿で鈍臭い女……。
レンの青白い頬に悲憤の涙が伝う。
愛されたかったら、守ってもらいたかったら、裸になることね。いつまで夢を見続けているつもりなの。
「……私たちには、愛してくれる人なんかいないのよ」
レンが突然泣き出したので、アキラはびっくりして女主人を慰めた。
「何を言うんですか。私も同志も皆、貴方を愛しています」
「泣かないでください。そこまで二人に会いたいのなら向こうから来させましょう」
だが、レンは自分のみじめな過去を思い出して涙を流していた。
「カオル、今度こそ目を覚まさせてあげる」
※※※
ルイは翌日の昼過ぎまで高いびきで寝ていた。
目を覚ますと河童が仁王立ちして待ち構えており、ルイは昨夜の不始末の罰としてアジト全域の掃除と倉庫の帳簿つけを命じられた。
「帳簿をつけろとはお前の提案らしいな。いい提案だ。お前を帳簿担当者に任命するから責任もって全部、お前がやれ」
ルイが便器を磨いている横で河童は言った。
「Verachten Sie mich nicht」
「うるさい、早く磨け。お前にはでかい貸しがあるんだからな」
河童は座布団を敷いたドラム缶に座ってふんぞり返っている。
「Sie Arschloch」
「あいきゃんとすぴいくイングリッシュ」河童は舌を出して言った。
ルイはいらっときた。――この野郎。僕のはドイツ語だ。
しかし昨夜は河童に無様なところを見られてしまい、ルイとしては少し分が悪かった。
名うての殺し屋が情けを受けて助けてもらい、アジトまで抱えて運んでもらったのだ。
しかも寝ている間に、顔に〈スキあり〉なんてラクガキまでされているし。
「ジュニアともあろう者が、落書きに気づかず寝てるとはな。警戒心が薄いんじゃねえの?」
ルイは雑巾を放り投げて河童にキックを食らわした。「休憩だ。喉が渇いた」
「お前は野良の生活が全然わかっていないようだな。喉が渇いたからってがぶ飲みできるほどの水はねえんだよ」
「なければ自分で汲んでくるさ。湧き水はあるんだろ」
ルイはサボる気満々で言った。掃除など殺し屋のすることではないと思っていた。
「じゃあ、チーム全員分を汲んで来い。ざっと二百リットルくらい。お前ならすぐだろ」
ルイは肩をすくめて困ったように微笑んだ。
「なぜ、僕がお前たちの分まで汲んでこなくてはならない。怠慢は堕落のモトだぞ?」
自分がサボろうとしていたことは棚に上げてルイは言った。
「おめえが一番の下っ端だからに決まってるだろ。下っ端の仕事なんだよ」
河童はドラム缶に座りながら、先日ルイが提出した書類を読み込んでいる。
いかにも脳ミソが筋肉でできていそうだが、見た目ほどバカではないのだな、とルイは思った。
「やむを得まい、〈兄貴分〉たちに命じて……」
河童は刀の柄でルイの頭を数回叩いた。高慢ちきな王子をしごけて彼はご機嫌だった。
アタマを叩かれて、ルイの目が据わった。「オレの髪に触れるな、このケダモノが」
河童は完璧に面白がっていた。――おもしれえ。こいつ髪いじられるとすげえ怒る。
しかし、さすがに自分の立場はわかると見えて、ルイは殴りかかりたいのを必死でこらえているようだ。
歯軋りをし、指から鋭いカギ爪が見え隠れしている。
「兄貴分をパシリに使うなんて百万年早えんだよ」河童は笑いをこらえながら言った。
「お前は勘違いしているようだが、僕はあくまでカエルの命令でここにいるのだからな」
しかし、こまめに様子を見に来ると言っていたのにカエルは一度も顔を出さない。
せっかく贈ったドレスの礼もまだだし、無礼な奴だ。ルイは口を尖らせた。
「なぜカエルは僕に会いにきてくれないのだろう」
「カエル頭なら今朝来たぞ、犬連れで。お前は寝てると言ったら帰っていった」
ルイは少しがっかりした。だが、会いに行けばいいのだ。
正直な話、クズ鉄山のメシはまずくて食べられたものではなかった。材料も最悪なら味付けも最悪、盛り付けも最悪だ。
温泉に入ってカエルの作ったオムライスが食べたい。
「それは悪いことをした。今から挨拶に行くとしよう。トーマスの様子も……」
河童は刀の柄でルイの頭を数回叩いた。
「下っ端が勝手に外出すんな」
「いい加減にしないと、寛大な僕でも本気で怒るぞ。ケダモノ」
ルイはこめかみを痙攣させながら微笑んだ。ちなみに、トーマスとは子犬の名だ。
「掃除しろ。サボる気満々なのがミエミエなんだよ、このソーセージ野郎」
しぶしぶルイはデッキブラシを握って便所掃除に戻った。
洒落者が身上の彼が薄汚れたエプロンをして便器を掃除する姿には哀愁すら漂っていた。
河童はニヤっと笑い、不意に真顔に戻ってこの油断ならない新米子分を見た。
昨夜の出来事についてはまだ問い詰めていない。聞いてもおそらくはぐらかされるだろう。
ルイが寝床から抜け出したことに気づいた河童は、幹部たちを招集して彼のあとを追った。
ただ、河童たちはルイのように夜目が利かない。彼らはルイが向かって歩いていった方向、塔へと先回りした。
ルイは河童たちが塔のふもとにたどり着いて三十分も経ってから現れた。
そして突然、塔によじ登りだしたのである。
河童はそのことを今朝やってきたカエルにも話して聞かせた。
「一度どこかに寄ってから塔へ行ったのだろうな」カエルが感想を述べた。
「冬の間も街に潜伏していたみたいだし、どこかにルイの隠れ家があるのかもしれない」
「そうだろうな」河童はルイが寝ている間に彼の持ち物を調べていた。
カエルは言った。「塔以外に〈雨〉をしのげて、誰にも見つからない場所。地下鉄かな」
かつて横浜市臨海区には八路線もの地下鉄が走っていた。
今では崩落したり海水が流れ込んでいたりして使い物にならなくなっているが、一部は地下洞として残っている。
そのような場所の一端を野良たちはアジトにしたり、狩り場にしていた。
カエルが使用している地下道のように、ほとんど知られていない場所も多い。
「どうも奴の目的が見えねえ。あいつは何のために塔を出たんだ」
「ルイは〈ボス殺し〉で追われているから逃げてきたと言っていたね」
「それは違うな。昨日のやり取りの感じだと新ボスと奴はグルだ。追われる理由にならん」
河童は丸太のように太い腕を組んだ。
ルイが新ボスに追い掛け回されているのは本当らしい。
だが、追われているから塔から脱走してきたというより、脱走したから追われているという風に見えた。
――かと思えば塔によじ登ったりするしな。何かを探しにいった、とかか?
「僕、隠れ家を探してみようか。地下鉄なら詳しいよ」
カエルが胸を張ると、河童は心配そうな顔をした。「お前が? 大丈夫か?」
「なにそれ。僕がアテにならないとでも言うの。トーマスだって連れて行くし」
リュックサックから子犬が顔を出している。非常に頼りないコンビだった。
「とりあえず場所のアタリだけつけばいい。あとは幹部に探らせる」
仲間は必ず助けるというのが河童の信条だ。昨日のように、新ボスからだろうが守ってやる。
だが、ルイに野良になる意志がないなら河童としても彼を預かる意味はない。
「わかった。探してみるよ」
カエルは子犬のトーマスを連れてクズ鉄山を去っていった。
そのときに通りかかった子分のひとりが彼を見て顔を真っ赤にしていたのはなぜだろう。
河童はふっと笑った。――怪しいのはカエル頭もなんだけどな。
「ここの掃除は終わったぞ。次はどこだ、西の便所か? 北の便所か?」
ルイは両手を広げて鷹揚に笑った。あまりの屈辱にヤケクソになったらしい。
河童が次の場所を指定しようと口を開くと、ミチハルとゴクウがやってきた。
「河童、ちょっといいか。お前に客が来ている」
一瞬、ルイが「しめた」という表情をしたので河童は慌てて言った。
「まだ終わったわけじゃねえぞ! お前は俺の部屋の掃除をしてろ」
ルイの見張りをゴクウに任せて河童が集会場にやってくると、中ではすでにヨーコが待っており、ナンバー2とナンバー3といったチームの頭領たちの顔があった。
「ジュニアを仲間に加えたというのは本当なのかよ」
やはりそのことか。河童は思った。
※※※
一方、塔ではアキラからスカイラウンジに呼び出されたユーイチとガイが目の前に現れた人物を見てぽかんとした顔をしていた。
「初めまして。〈エデン〉の監察官、レン・オサダと申します」
レンは艶のある微笑みを浮かべた。
〈プログラムⅢ〉を発動すべく、レンはまず塔の要人たちに接触することにした。
今後の計画は機密事項になるため、ライブカメラは停止するようアキラに伝えている。
それに、レンには気になっていることもある。マツイは、少なくとも表面上は〈エデン〉に忠節を尽くしていたが、彼の息子たちにはその傾向が見られないことだ。マツイは息子たちに自分の任務のことを伝えず、仕事を教えることもなく急逝してしまっていた。
「……オンナ?」ガイが素っ頓狂な声を上げた。「マジで? シリコンパッドでなく?」
「ガイ、やめろ。失礼だぞ」
レンの胸をつかもうとしているガイをアキラは振り払った。
「興味があるなら触ってもいいのよ。別に減るものではないし」
レンはおかしそうに笑った。そしてガイから離れた場所に突っ立っているユーイチを見る。
彼はレンに対して敵意を抱いているようだった。「ボス・ユーイチは私が嫌い?」
「別に。……ただ、ビッチが監察官なのかよ、と思って」
ユーイチは嫌味たっぷりに言った。
レンはユーイチのもっとも嫌いなタイプの女だ。かつて彼を侮辱し軽蔑してきた女たちは、こういう高慢なメスばかりだった。
ちやほやされるのが当然で、自分に価値があると思い込んでいる鼻持ちならない連中だ。清純さのカケラもないくせに。
今のユーイチにはこんな女狐よりも従順で素直な男の奴隷の方がよほどマシだった。
「汚い言葉は慎めよユーイチ。彼女はこの街のボスなんだ」
「いきなり現れて街のボスです、なんて言われても困る。ボスはこの俺だ」
アキラがやたらとレンを持ち上げているのがユーイチには気に入らない。
ゲームしか興味のないオタクのくせしてメスには尻尾を振りやがる。昔からこいつは調子がよかったからな。
「ま、適当に見学して帰ってくださいよ、監察官さん。
そうそう、俺のペットたちに手を出すのだけはやめてくれよ。妙な病気を移されたくない」
「そうね。気をつけるわ」
レンは苦笑しながら、頭から湯気を出しているアキラを制した。
ユーイチは女を拒絶し、復讐することで自らのコンプレックスを慰めているのだ。
こういった人物には逆らっても媚びても意味がない。ますますヒートアップさせるだけだ。
「でも、私は本国から貴方たちの欲しい物を手に入れることができるわよ。
仲良くしておいたほうがメリットがあると思うのだけど」
「レン、オレはあんたと仲良くしてもいいぜ。欲しいものがたくさんある」
ガイはレンの腰を抱いて自分の寛大さをアピールした。彼女に気に入られれば、おいしい思いができそうだと判断した。
取り入れば自分にボスの座が転がり込むかもしれない。
それに……。ガイは舌なめずりをした。こいつはいい女だ。
レンはユーイチを見た。「あなたは欲しいものがないの?」
面倒くせえビッチだ。使い走りとして使ってやるか。ユーイチは薄笑いを浮かべた。
「なら、あの青い薬を持ってこい」
「あれは試薬よ。もうないわ。それに、本来あれは人を殺すための薬ではないのよ」
レンが言うとユーイチは眉を寄せた。「人を殺す? どういう意味だ」
するとレンも目を見開いた。「ボス・ユーイチ。貴方、あの薬を何に使っているの」
ゴッドチャイルドと疑わしき者を検査させるため、レンはマツイに十五錠の試薬を渡していた。
服用は一錠きりを厳守と念を押したはずだ。
「あの薬はゴッドチャイルド用の媚薬だと親父が……」
「何ですって」レンは鋭い視線をアキラに向けた。「貴方が監督していながら!」
レンはへらへらと笑っているガイを部屋からつまみ出し、脚のベルトに仕込んでいた警棒を取り出した。
そしてユーイチの胸倉をつかんで問いただす。
「ジュニアに使ったのね。何錠飲ませたの」
「離せ、触るな。このメスブタが!」
ユーイチがレンを蹴って離れようとすると、彼は駆けつけた〈エデン〉の兵士たちによって取り押さえられた。
「たしか、袋には十錠残っていました」アキラがレンに耳打ちした。
「そう、貴重なゴッドチャイルドに薬を五錠も使ったの」
――なんということなの。三人しかいないゴッドチャイルドの一人が死ぬ。
ユーイチは喚いた。「四つだ、バカ。ひとつは野良に使った」
レンはユーイチの手をピンヒールで踏みつけた。ユーイチはブヒッと悲鳴をあげた。
「貴方は自分の立場がまったくわかっていないようね。ここは我々の属国、塔に君臨する者は我々の代理。何より〈エデン〉への忠誠が求められているのよ。貴方のお父様が教えなかったのであれば、私が貴方に教えなくてはならない」
レンは警棒でユーイチを滅多打ちにした。
「祖国が侵略されるのを傍観していたゴミ。それが貴方の正体よ。貴方たちは我々のペットになるといって命請いをしたのではなかったの?」
ユーイチは真っ赤な顔をして喚いていた。「誰か来てくれ、殺される! 親衛隊!」
「貴方に親衛隊などいない。あれはお父様の部下でしょう。……貴方が殺した」
ユーイチはひっと喉を鳴らした。脳裏に父の血まみれの顔がいまだに焼きついていた。
「……ジュニア! ジュニア、助けて」
「そのジュニアに見捨てられたのはどこの誰? 彼は誰を選んだの?」
ユーイチのささやかな希望はレンによって徹底的に打ち砕かれた。
「貴方の大嫌いな野良よね。でも、弱虫の貴方は報復することすらできない」
レンは警棒をしまい、泣きじゃくるユーイチの頬に触れ、頭を優しく撫でた。
すっかり打ちのめされていた彼は、優しくされて彼女にすがりついた。
「あの薬は媚薬ではなくて生存本能を促す薬なのよ、ユーイチ。服用すると死んだほうがマシだと思うほどの恐怖や絶望が襲ってくるの、普通の人間ならショック死するほどのね」
動物は死の淵の極限状態におかれた際、本能的に自分の身を守ったり、自分の種を残そうとする。
試薬は、ゴッドチャイルドにそういった本能的な衝動をもたらす劇薬だった。
「ゴッドチャイルドでも二錠までが限界。それを超えると副作用が起きて死ぬわ」
「ジュニアが死ぬ。ウソだろ……」ユーイチはレンの胸の中で声を震わせた。
「親父は、死ぬ間際にジュニアを道連れにしようとしたのか」
「そうね。ボス・マツイはジュニアと親しい貴方に嫉妬したのでしょうね」
母親にされるように優しい抱擁をされ、いつしかユーイチは子供のように泣いていた。
「殺さないでくれ。俺は騙されていたんだ。親父もジュニアも俺を利用して、内心ではバカにしていやがった。愛してたのに……。許せないよ」
レンはユーイチの頬に口付けをした。
「しっかりして。貴方は優秀な素質を秘めている〈選ばれし者〉なのよ。殺すはずがないわ。ジュニアのことは残念だけど、彼は裏切り者。貴方の子を産む女を求めなさい。貴方が本当のボスになれば、欲しいものは何でも手に入る」
レンはブラウスのボタンをはずし、ユーイチの手をとって自分の豊満な乳房に押し付けた。
「俺は選ばれし者。裏切り者の〈ジュニア〉と河童を倒す」
「そうよ。貴方にはその力がある。私が貴方を猛々しい雄に〈覚醒〉してあげる」
日々の享楽に溺れて判断力を失っているユーイチには、彼女の言葉は乾いたスポンジに水がしみ込むほど心に響いた。
「俺は、お前が欲しい。レン」
……はい、堕ちた。レンはぞっとするほど冷たい笑みを浮かべた。
※※※
翌日、ガイは用心棒たちを率いてレンの滞在するスカイラウンジを訪れた。
彼は髪にポマードをべったりと塗りたくり、ブランド物のスーツを着込んでバラの花束を抱えていた。
街に生花はないので造花ではあったが。
「女が懐かしいからといって飛びつくんじゃねえぞ、オマエら」
用心棒たちは、塔に女がいると聞いてもいまだに半信半疑だ。
しかし、部屋に入るとレンとユーイチが仲睦まじく並んで座っているのでガイは飛び上がって驚いた。
昨日はあんなに険悪だったはずなのに。
そして彼らの横には、見るからに不機嫌そうなアキラが仏性面をして立っている。
「おい、ホントに女だよ……」
しかも上玉だ。用心棒たちは食い入るようにレンを見ていた。
ユーイチは優越感に満ちた笑顔で弟に座るよう促した。
「よく来たなガイ。今、野良たちを嵌める計画を練っていたところだ」
「へ……?」
ユーイチはソファーにどっかり腰をおろし、テーブルに脚を乗せていつになく自信たっぷりで上機嫌だ。
えらく鼻持ちならないムードを漂わせている。
ガイは眉を寄せた。――なんだこいつ、よく来ただなんて。薄気味悪い。
「監察官は塔と街の対立に決着をつけたいとお考えだ」
アキラが話すとユーイチはうるさそうに手を振った。お前は黙っていろということらしい。
「レン。こいつに話してやれ」彼はレンの太腿を撫でて言った。
この野郎、女と寝やがったんだ。
ガイはユーイチが全世界を知り尽くしたとばかりに自慢げにしている理由を知って歯軋りをした。またしても先を越されてしまった。
「家畜と野良がなぜ対立しているか教えてあげる。反抗的な野良の〈エデン〉への怒りの矛先をそらせるためよ。
だから敢えて塔に救援物資を集中させて野良の不満を煽っているの。
野良がいるかぎり、この戦いは続くわ。そしてこのままいけば、貴方たちは全滅する」
レンはユーイチの腕に自分の腕を絡めた。
「家畜がいなくなると野良を抑えられる者がいなくなる、私たちも困るの。
でも、野良がいなくなれば脅威はなくなる。代表は友好的な貴方たちを街から出すと言っているわ」
「だったらレンちゃんの一存で戦車やミサイルをくれよ。それで解決するぜ」
レンは苦笑した。「そんな大型兵器は持ち込めない。だいたい貴方、兵器を扱えるの?」
「適当に叩いてりゃ撃てんだろうがよ。新しいことにトライさせろよ」
ユーイチは地団駄を踏むガイに言った。
「そんなでかい兵器はいらないんだ。俺たちは超人だからな」
いくら女を知ったからって、デカく出すぎなんじゃねえの。
ガイは臆病でうじうじしていた兄の豹変ぶりに目を剥いた。――そんなによかったのかよ。
レンはくすくすと笑った。
「ガイ。ユーイチの言っていることは本当よ。これまで貴方たちを街に閉じ込めていたのは、貴方たち〈選ばれし者〉を隔離するため。代表は〈選ばれし者〉の反乱を警戒しているの」
「なんだソレ。エラバレシとかって宗教か? 救世主さまってか?」
ガイの率直な問いにレンは少しだけむっとした。
「いいえ。これは特別なワクチンを接種された貴方たちの呼び名」
今から約二十年前、横浜市臨海区のK病院では、病院で生まれた嬰児に風邪をひきにくくするというワクチンを試験的に接種していた。ワクチンを生産していたのは日本の中堅製薬会社で、その薬の開発責任者は〈エデン〉の人間だった。
ワクチンの効果はたしかに素晴らしく、少なくとも予防接種を受けた子供が四、五歳になる頃までの数年間は風邪や流行性感冒にかかる子供は皆無だった。
しかも、その子らは他の子供よりも知能と身体能力が高いことが明らかになった。
人々はこぞってK病院を訪れた。国内はおろか海外からもワクチン接種を求める患者が殺到した。だが、それは生産化には至らず、厚生省はワクチンの製造を急遽禁止した。
子供たちが次々と身体の異変を訴え出したからだ。
ワクチンの効果が切れてしまった子供たちは身体機能が低下し、疲れやすくなったり病気にかかりやすくなってしまった。
「ワクチン接種した子供のうち、何の異変も起こらなかったのが貴方たちと街にいる野良たち、〈選ばれし者〉よ。
今まで風邪をひいたことがないのではなくて?」
ユーイチとガイは風邪をひいたことがない。身体の丈夫さが取り柄だ。
小学校低学年までは成績が優秀で体格もよかった。その後はアタマも身体も鍛えなかったので悲惨だったが。
「つまり、ワクチンの効果が定着して他の人より身体能力が優れているの。 特殊な環境下におかれると超人化する、野良たちがいい例ね。そんなわけだから、代表は反抗的な者を排除したいと思っているのよ。実はね、ジュニアのお父さん……犯罪組織の総帥が野良を狙って動いているわ。私たちには時間がない。もし、野良が犯罪組織と接触したら……わかるでしょう?」
「ふうん。それでレンちゃんは焦ってんのか。でも、超人てほどでもねえだろ。銃で撃たれれば死ぬしよ」
ガイは自分があっさり殺した野良の男のことを思い出していた。
「撃たれれば死ぬが、感染症にはかからない。筋力は成人男子の三倍。一ヶ月以上食わなくても死なない。有毒ガスの中でも酸素があれば呼吸できる。超人以外の何者でもないだろ」
アキラは拗ねたように言った。彼は別の病院で生まれ、ワクチンを接種されていない。
ガイは目を剥いた。「ナニそれ。オレってスーパーマンじゃん」
「お前だけではないがな」ユーイチは言った。
「塔にいるのは奴隷八十人とお前と俺。これでは先が知れている。野良は年々強くなっているが、俺たちはまだ弱すぎる」
「そこなのよ。家畜と野良とでは戦闘力が違いすぎる。だから、貴方たちに訓練を施すのはもちろんだけど、まず野良同士を潰し合わせるの。彼らの結束は見た目より脆いわ。野良が死に絶えれば代表の仕掛けたサバイバルゲームは終了、貴方たちは街から出られるってわけ」
「街の外へ出るのはいいんだけどよ、そんなことできんのかあ?」
ガイはまだ半信半疑だった。訓練とやらも面倒そうだし。
レンは艶然と微笑んだ。「私に案がある。抗争は三ヶ月後、こちらから仕掛けるわ」
※※※
河童のもとに訪れた客はなかなか帰ろうとしない。
ナンバー2たちは、近頃ナンバー1のクズ鉄山が野良の秩序を乱していると河童に抗議した。互いの利権が絡んで話し合いはなかなか進展せず、そろそろ日が暮れ始めている。
「司令官ジュニアを捕らえたなら俺たちにも話を通して、会合で処分を決めるのが筋だろう。俺たちは今までそうやってチーム間のバランスをとってきた。なぜ、それを無視する」
「河童よ。大事な兵隊を失ったのはオマエんとこだけじゃねえんだぞ」
「奴はとりあえず泳がせているだけだ。正式に仲間にしたわけじゃない」
河童は何度となく同じ説明をさせられた。要するに、ナンバー2たちはクズ鉄山が〈ジュニア〉というハイスペックな戦力を独占していると言って怒っているのだ。
「塔の要人なんだろ。人質にとって身代金を要求しろよ」
そして分け前を抗争に参加したチームへ公平によこせ、という。
ナンバー3のリーダー、カッチャンという名の若者が言う。
「ウチの子分から聞いたんだが、カエル頭が連れてきたんだってな。ソロのあいつがなぜそんなマネをする」
ナンバー2のリーダー、シゲルも膝を叩いて言った。
「それだ。奴は以前からお前にだけは好意的だったな。お前はお前で〈奴には手を出すな〉なんて言うし。……デキてんのかよオマエら」
「奴隷に匹敵する美人だって噂だしな。ときどき本物のオンナみたいに見えるらしいじゃないか。俺たちだって奴を狙ってるのに、おめえんとこの子分がいちいちジャマするから誰も手出しができねえんだよ。カエル頭をメンバーにできないなら俺たちのジャマをするな」
やはり連中はそのことが不満だったか、ミチハルはため息をついた。
河童はカエルを〈自分の獲物〉と定めたときから、彼にチームメイトと同等の庇護をしている。河童が睨みを利かせているため、他のチームがカエルを襲うことは困難をきわめた。
――こうなるからソロに肩入れするなと言ってるのに。
そう思いつつ、ミチハルは助け舟を出した。「今はカエル頭のことはいいだろ。まずはジュニアだ。これからでも主要なチームで会合を開いてあいつの処分を決めないか」
「ジュニアはお前らの手に追えるタマじゃねえよ」河童は言った。
「それは会合で決めることだ。思い上がるなよ」
街で最強と呼ばれる自分が手こずるくらいなのだ。少々腕っぷしが強い程度の野良ではチームを乗っ取られるか、ハナからコケにされて逃げられるのがオチだった。
ふと、河童は見張りを任せているゴクウのことが心配になった。あれから一時間も経っているのに音沙汰がない。いつもなら「またサボりがやった!」と報告しにくるはずなのに。
「ミチハル、ヨーコと一緒に俺の部屋の様子を見てきてくれないか」
シゲルが口をすっぱくして言った。
「とにかくなあ、俺は抗争で醜態を晒しやがったくせに、お前がいつまでも街のボス気取りだってのが気に入らねえんだよ」
「街で最初の野良だか知らねえが、俺はおめえの世話になった覚えはねえ」
河童の目が据わった。「へえ。俺とやるってのか」
「せいぜいてめえの背後に気をつけろってこった」カッチャンが言った。
ここ二年ほど、街にも秩序らしきものが芽生えて小康状態が保たれている。少し平和になると、さまざまなことを考える余裕が出てくるものだ。たとえば、ナンバー1のチームが不動なのはおかしいとか、塔と組んで自分の勢力を伸ばそう、とか。
「河童! 来てくれ。ゴクウが倒れてる」
ヨーコに呼ばれて急いで自室へ戻ると、ゴクウが床で伸びているのが見えた。
「あ。くそ、やられた」河童は毒づいた。
「気絶してるだけだ。それより、これを見ろ」ミチハルがテーブルを指差した。
そこに〈タケル〉とレンが写っている写真が置かれていた。写真には、深々とナイフが突き立てられている。
――この女のことを知りたければ塔まで来い。〈L〉
「全員を動員してジュニアを追え。カエル頭の住処か地下鉄だ」
※※※
ルイの隠れ家は塔からほど近い地下道の一角にあった。
別段、隠している様子でもないのは、ここに人がやってくると想定していないためだろう。
大型のバイクと巨大なスーツケース。
着替えや食料などが大量にあるというのに、それらはきちんと整頓されてすぐ出せるようになっている。
「あいつ、几帳面なんだなあ」
あまり整理整頓が得意でないカエルは呟いた。
とりあえず隠れ家の場所がわかればいいのだが、盗人の性で懐中電灯を照らしながらいろんなものを物色していた。
驚いたのはスーツケースの中に入っている武器類だ。
ほとんどが解体されているが、形状から察するに機関銃にライフル、バズーカ砲といったところだろうか。
「これだけあれば戦争できるじゃん。あいつは何と戦ってるんだよ」
「何をしてるんだ、カエル」
いきなり声をかけられて、カエルはぎゃっと悲鳴をあげた。
人の気配にはかなり敏感なはずの彼が、背後にいる人物の気配にまったく気づけなかった。
ルイが照明も持たずにカエルの真後ろに立っている。目が金色に輝いて不気味だった。
「ああ、ルイ。どうしたの、仕事は元気にやってる?」
カエルはぎこちなく驚愕をごまかした。
「便所掃除ばかりで疲れた。休憩だ。……どうしてここにいる」
見張りが河童からゴクウに代わったため、ルイは大喜びで見張りをまいてきたのだった。
カエルの住処へ行ったがいなかったので、彼は自分の隠れ家へ帰ってきたのだ。
「狩りをしてたらたまたま見つけて。僕、この辺りも縄張りだから」
「ふうん……」
ルイは無表情のまま、手に持ったナイフを弄んでいる。
「じゃあ僕は仕事があるから。またね」
相手からただならぬ気配を感じ、カエルはいそいそと退散しはじめた。だが、足をかけられて彼はすてんとすっころんだ。
「痛いじゃないか!」
「なぜ逃げる。ゆっくりしていけばいい。リュックサックの中にいるのは、トーマスか?」
カエルのリュックサックから犬の鳴き声がした。
「あ、ああ。どうだ、見違えただろ。シャンプーしたらぴかぴかになった」
すっかりイケメンになった子犬をルイに見せてカエルは得意げだ。
ルイはアイスクーラーから炭酸水のビンを二本出して、一本をカエルに投げた。
コーヒーや紅茶も悪くないが、疲れたときはキンキンに冷えた炭酸水にかぎる。
カエルは礼を言ってビンの蓋を開けた。ルイの雰囲気がいつもと違うようで落ち着かない。
何かおかしいと思ったら、彼はにこりともせずにカエルの方をじっと見ているのだ。
「……な、なに。僕、本当に通りかかっただけだからね」
「そのフード、取ればいいのに。ここには誰も来ないぞ?」
そういえばルイには顔を見られていたのだったな、とカエルは思った。
「いやいや、これは僕のポリシーだから。寝るときもつけてるし」
「それに、せっかく似合う服を贈ったのに。まだそんな格好をしてるのか」
ああ、そのことを忘れていた。カエルはルイに食って掛かった。
「そうだよ、なんだよあれ。いったいどこから持ってきたんだ。まさか、お前のか?」
「ずいぶんだな。苦労して見つけてきたのに」
廃墟を駆けずりまわって、ようやく審美眼にかなう服を見つけるには苦労した。
「カエルは正体を偽っているようだが、まったくごまかしきれてないぞ? その体型をごまかすなら腰と尻も隠せ。甲高い悲鳴を上げるな。僕は一目でわかった」
カエルは急に挙動不審になった。落ち着きなく身体を前後に揺らしている。
「一目でわかったって。へえ、そう! ……いったいなんのこと?」
「今さら誤魔化しても無駄だ。女なんだろ。偽ってもいずれ皆にばれることだ。意味がないなら正体をさらして生きたほうがいい。男が群がってくるな。今よりいい暮らしができる」
「偽っていたわけじゃないよ。僕は以前からこういう格好でこういう話し方をしていただけさ。でも、よけいなことを言う必要もない。それに、僕は男なんかに興味ないよ」
ええ、もったいない。ルイは眉を寄せた。「カエルは、同性愛者なのか」
「違うよ。全人類が嫌いなの!」カエルは叫んだ。
ルイは額に手を当てた。――もてない奴ってそういう言い訳をするよな。
自分にとって重要かつ重大なテーマを一蹴されたとは知らず、カエルはため息をついた。
「しかしルイって鋭いヤツだなあ。見破ったのは君くらいだよ」
ルイは苦笑した。「いやいや、河童だって感づいてるだろう。自覚がないのか。本当に誤魔化せてないぞ? うすうすおかしいと思っている連中もいるんじゃないか」
言われてみれば、河童はときどき「実は女なんじゃないか」とカマをかけてくる。彼に本気で殴られたことは一度もなかった。いつも手加減しているのだ。そのことを思い出し、カエルの顔が赤くなった。
「ほら。思い当たるフシがあるんだ」
カエルは顔の傷に手を当てた。どうしよう。男だから皆と対等にやってこられたのに。
もう、みんなの前にはいられない。誰も来ない〈海〉の近くに拠点を移そうと考えていた。
「お前はウソをつくのが下手すぎる。わかったら正直に言え。何しにきた」
ちえ。やっぱり疑われてたんだ。カエルは観念した。
「……うん、わかった。実は、僕はルイの隠れ家を探してた。君が塔から脱走してきた本当の目的が知りたくて」
あえて河童のことは伏せておいた。
「そんなことだろうと思った」
ルイはナイフの刃でつっと指をなぞった。傷口から血がにじみ出る。それを見て、彼は笑みを浮かべた。
「河童の差金だろう。奴は今日、僕に逃げられまいと必死で張り付いていたからな」
……え? カエルは理解できない、という表情をした。
ルイは怒っているような、それでいて悲しそうな目をしてカエルを見ていた。
「僕の目的は街に紛れ込んでいる女を捕らえることだ」
しまった。
カエルはとっさに後方へ飛びのいたが、ルイの拳の方が速かった。
みぞおちを強く打たれて〈彼女〉は膝をついた。
激痛のあまり咳き込んではいるが、通常の人間のように意識を失うまでには至っていない。
「この程度では気絶はしないか。お互いに厄介な身体で困るな」
しかたなくルイはカエルのフードを引っぺがし、青い錠剤を彼女の口に押し込んだ。
「お前は河童に正体を明かして添い遂げるべきだった。なぜしなかった、レンとかいう姉妹に遠慮でもしたのか?」
口を強く押さえられてカエルは涙を流しながらもがいた。だが、やがて喉が動き、薬は彼女の体内に吸いこまれていった。
カエルは目を閉じ、死んでいるのかと思うほどぴくりともしない。
あまりに強いショックに見舞われ、本能的に身体が眠ることを命じているのだろう。
色情狂や食欲魔人になったらどうしようかと思ったが、無害でよかった。ほっとしたルイはカエルの口から手を離した。
「一晩面倒を見ただけの男を信用するな。不用心すぎるぞ?」
カオルの唇に血がつき、紅をさしたように赤く濡れている。
ルイがカエルとトーマスが入ったリュックサックを抱えて持っていこうとすると、後方から凄まじい風音と咆哮が聴こえてきた。
「ジュニアアア!」
河童だ。彼はタテガミと尻尾とを逆立て、獣のように跳躍しながらルイを追ってきた。
怒りのあまり我を忘れているのか、完全に獣と化している。匂いだけを頼りにここまで来たのだろう。
てっきり塔へ直行するものだと思っていたが、カエルを追ってやってくるとは。
ルイは不機嫌そうに唸った。
「クソ忌々しい男だ。大人しく塔の女に会えばいいものを」
正直、蹴り殺したい衝動にかられたが、彼は戦いを避けて全力疾走で逃げた。
塔にレンがいるのは間違いない。カエルを連れて行けば堂々と塔の中へ入れるはずだった。ユーイチは渋い顔をするに違いないが。
「アキラ、女を捕まえた。だが、河童に追われている。地下階のシャッターを閉めてくれ」
〈了解。通信機を落として中へ入れ〉
ルイは指示通りブラックダイヤの通信機を落とすと、塔の地下入り口へ滑り込んだ。
目の前でタイミングよく防火シャッターが閉まったため、すんでのところでルイに逃げられた河童はシャッターに体当たりした。
彼のパワーをもってすれば、シャッターを破壊することも不可能ではない。だが、足元から聞き覚えのある声が聞こえ、彼は攻撃を止めた。
〈……河童。聞こえる? 僕は無事だから大丈夫。それよりレンを捜して。君に会いたがってる〉
「よう、親友!」河童は嬉しそうに笑った。
「心配すんなって。今すぐお前を助けてやる。なんつったって、お前は俺のエモノなんだからな」
「え……?」
レンの通信機を持つ手が震えた。実は通信機から話しかけているのはカエルではなくレンだった。
カエルは床ですやすやと寝息を立てている。
彼の心はもう、自分のもとにないのだと悟った。レンの瞳にみるみる涙があふれてきた。
――許さない。貴方も地獄へ落ちるがいいわ。
「やめてくれ。僕はもう君に会えない。僕は君をずっと騙していたから」
※※※
どこかで波の音が聞こえる。
カエルは自分が立っている場所の周囲を見渡した。足元一面に咲くシロツメクサの花。空には満天の星が輝き、目の前には黒く染まった海が広がっている。
四年近く前から描いている、あの浮島とそっくりの風景。
――そうだ。僕は死ぬためにここへ来たんだった。
「春以来ね。カオルちゃん」
聞き覚えのある声にカエルはぎくっとした。
「……レン」
レンは銀色の防護服を着て彼女のすぐそばに立っている。
「まだ生きていたの。世を儚んで夏までに死ぬんじゃなかった?」
カオルは真っ赤になってうつむいた。「死のうとしたんだ。だけど、〈彼〉が……」
「図々しい。タケルは私のものなのに。私のフリをしてまんまと横取りしたわけね。人嫌いなんて言って、女を捨てたなんて言って」
レンの言葉はカオルの心を引き裂いた。
「誤解だ。僕は彼の前から去るつもりだった。タケルが好きなのはレンだよ。彼は君のことを必要としてる」
レンは妹の頬を叩き、侮蔑の眼差しを向けた。
「どのツラ下げてそんなこと述べているの。あんたは、私を裏切り彼のことも騙したのよ。彼の私への気持ちを利用したんでしょう」
「騙すつもりはなかった。タケルが僕のことをすっかりレンだと思い込んでいたから、言い出すタイミングがつかめなかった。……ごめん、レン。タケル」
「その割には迫真の〈女〉の演技だったじゃない」レンは侮蔑のまなざしを向けて言った。
「いつものように男みたいにしてればよかったじゃない。あんたが学校でいじめられてた理由はそれでしょ、男女のカオル」
カオルは自分の顔を覆った。
「今、ここから飛び降りて死ぬから。そのためにここに来た。死んで償うよ、償うから……」
「カオル。貴方、タケルと寝たの?」
カオルは強くかぶりを振った。ほんの一時、自分が愛されているという夢を見たかっただけだ。
そして自分が彼に惹かれていると気づいた今、真実を告げることもせず怖くなって彼の前から逃げようとしている。
卑劣な人間。これが僕の正体。孤高のソロ? 笑わせる。
レンはそんな彼女をあざ笑った。「そうね。貴方じゃ、男は手を出す気にもならないね」
カオルの心に大きな棘が突き刺さり、血を流している。
「でも、私は許さない。貴方も、好きな女を見分けられないタケルも。もしかしたら、彼は本当に貴方が好きなのかもね。一緒に死んでおく?」
「タケルは何も悪くない。殺すなら僕だけにして」
タケルはレンに双子の姉妹がいるなんて夢にも思っていないのだ。
「……カオル。貴方には関係ないかもしれないけど、男なんて皆同じなのよ。服を脱いでくれる女なら誰でもいいの」
レンはそう言うと着ているスーツを脱ぎだした。
「そこで見学してなさい。私が貴方に男の本性を見せてあげる」
カオルは〈エデン〉の兵士たちに腕をつかまれて草むらのなかに引きずられた。
ほどなく、目を覚ましたタケルが彼女を追ってくる。彼は迷うことなくレンを抱きしめた。
貴方じゃ、男は手を出す気にもならないね。
……わかっている。自分はレンの偽者でしかないのだと。
カオルは耳をふさぎ、下を向いて二人を見まいとした。しかし、兵士たちは彼女の髪をつかんで上を向かせた。
彼らはにやにやしながらカオルに言った。
「悔しいんだろ。殺していいぞ。生き残った方と運命を共にしろ」
カエルの目の前に拳銃が放り投げられた。
彼女はよろよろと立ち上がり、拳銃を拾った。
誰もが……。レンですら彼女が拳銃でどちらかを撃つものだと思った。だが、違った。
彼女はそのまま崖めがけて走り、〈海〉に飛び込んだ。
「そう、海に落ちたの。あの子」
報告を受けたレンはふっと微笑んだ。憎しみを抱かなかったわけはないのに、どちらも殺せなかったのだ。
自分をないがしろにした男に復讐するほどの執念もなく、好きな男を勝ち取る気概もない。
あんな女に一時でも期待したのが間違いだった。
だが、レンはカオルの気性ならおそらくそうするだろうとも思っていた。人間の生々しい感情や欲望を〈汚い〉と思っているあの子なら。
計画は三年前のあの冬から練られていた。まず、カオルを中学受験に失敗させる。
学園理事はレンの手の内にあった。次に、中学でいじめの標的にして周囲から孤立させる。
そのときに役に立ったのが当時カオルの同級生だったアキラ。彼もレンに篭絡されていた。
父親がマフィアの幹部だといういわくつきの生徒で、彼に逆らえる者は誰もいなかった。
標的を孤立させ徹底的に絶望させておき、あとでいかにも優し気に手を差し伸べて標的を取り込むことは〈エデン〉の常套手段であり、レンに与えられた最大の任務でもある。
――ひどい、レン。そんなに僕が嫌いなの。
カエルは過去の悪夢にうなされながら呟いた。ひどい頭痛で完全に意識を取り戻していた。
「ええ。いい子ぶって自分の手を汚そうとしない貴方が大嫌い」
耳元でレンの声が聞こえた。
「いつまで現実逃避しているの。目を覚ましなさい。あんたの嫌いな〈汚い〉過去を封印したつもりでしょうけど、もう駄目。すべてバレてしまったんだもの」
カエルの耳に人々のざわめきが聞こえてきた。嬌声や口笛、罵声。目を開けるのが恐ろしくて、彼女は聞こえないフリをした。
「このたび、〈新政府〉は街に紛れ込んでいた女を手に入れた。この女は〈エデン〉の代表の養女で、スパイだ。我々を瓦礫の街に閉じ込めている張本人である」
……え。カエルは思わず目を開けた。
「処刑したいところだが、こいつは子を産める。そこでこの女を街で〈有効活用〉することにした。夏に行うデスゲームで勝ち残った者にこの女と子供をもうける権利を与える。なお、今回このゲームには野良からの参加も認める」
ユーイチが号令すると、塔のロビーに集まった数百名が一斉に雄叫びをあげた。




