合流
〈家畜〉と〈野良〉の抗争は、家畜側が倉庫を死守しての勝利で幕を閉じた。
結果的に両者とも多数の戦力を失い、甚大な損害を被った。
一週間ほど早く訪れたと思われた冬は一時的に吹雪いたのみで収まり、翌日には再び〈雨〉が降りそぼる晩秋に戻っていた。
この日、街では野良たちが広場の外れに集まり、戦死した仲間たちを弔うために慰霊祭を行った。
遺体は地面に穴を掘って埋葬する。大きな穴に全員を埋めるだけの質素な合同葬だ。
今回の抗争は野良の敗北だった。
物資をろくに奪えなかったうえ、仲間を百名近く失った。
総大将の河童が本隊の指揮を参謀に任せきりだったこと、敵の司令官に敗れて帰ってきたことはまたたく間に街中に広まった。
「河童も大したことねえな。奴は図体だけってこった」
日頃から街を我が物顔でのさばっているクズ鉄山の失態を、ライバルチームはここぞとばかりに責め立てた。
彼らは街のナンバーワンの力が衰えれば、いつでも引きずり下ろすチャンスを狙っている。
普段は河童を慕っている野良たちも、今回ばかりは彼を冷ややかに見ていた。
「精鋭集団が聞いて呆れる。お前らが塔のオカマ以下だってことがよくわかったぜ」
「これで俺たちは冬を越せなくなった。責任とれよ、クズ鉄山」
二番手、三番手のチームから侮辱され、クズ鉄山の子分たちはいきり立った。
「お前らこそジュニアの前でびびってやがったくせに。ザコどもが」
ゴクウが子分たちをたしなめた。「よせよ。負けは負けだ」
「チームで貯蓄していた物資を配るしかないだろ。それでいいな、河童」
言い逃れは通用しない。負けたのは大将の責任だ。
河童は参謀のミチハルの提案にうなずくと、墓標に一礼して無言のまま広場を後にした。
――死なせないと言ったのに。すまなかったな、みんな。
「カエル頭が妙なことを吹き込まなきゃこうはならなかった。奴こそ引きずり出すべきだ」
ミチハルが忌々しげに言うと、ゴクウは口をへの字に曲げた。
「俺は奴が嫌いだが、あの作戦のおかげで全滅を免れたと思ってる。人のせいにすんな」
「河童が指揮をとってりゃ全滅なんてねえよ。河童が先陣切ってれば勝てた」
「ジュニアを見くびってただろ? 勝てねえよ。奴はたったひとりで、ほんの十数分で六十人以上も殺したんだ。
河童が奴を引きつけてなかったら俺たちだって殺られてた」
ゴクウは戦車のような巨大なバイクにまたがって次々と仲間をなぎ倒していくルイを目の当たりにした。
しかも、彼は爆弾を持っていた。塔にあんな兵器が隠されていたことなど想像もしていなかった。
「ジュニアはザコから攻めてくるんだぜ。
河童が仲間をかばうのを読んでやがる。先陣きってたら河童は間違いなく殺されてた」
残る幹部、ヨーコもゴクウの肩を持った。
彼は墓標の前で〈アロハを着た男〉への復讐を誓っていた。
「捕まりかけた河童をカエル頭が助けたってこと、忘れんなよミチハル」
仲間たちに諭されると、ミチハルはもう何も言えなくなった。
野良同士でいがみ合う慰霊祭の様子をカエルも影ながら見物していた。
雨水で錯乱した家畜が妨害となって十分に戦えなかった話を小耳にはさみ、彼なりに責任を感じてもいた。
――戦力が減って野良もこれから大変になるな。
来年はこの雪辱戦が行われるに違いない。
早くも便利屋のカエルの元には、家畜を圧倒する武器の受注が殺到していた。煙玉や爆薬、火炎瓶を作れないだろうか、とか、防弾チョッキは作れないだろうか、などとよく相談されるようになった。
進歩がなくて、同じことの繰り返しだ。
このまま家畜と野良が潰しあったら、それこそ〈エデン〉の思う壺ではないのか。
僕らは本来の戦うべき相手を見失っているのではないか、カエルはそう思い始めていた。
「まあ、僕なんかがそんなことを思っても仕方がないか」
――でも、どんなことがあっても、僕は君の味方だからね……。
ふと人の気配を感じ、カエルは後ろを振り返った。
黒い影が横切ったように見えたが、捜しても影はあとかたもなく消えていた。
抗争が終わってからというもの、誰かに嗅ぎまわられているような気がする。
一方、塔では。
ボスがアルコール中毒で死亡したと発表され、長男のユーイチが新しいボスとなっていた。
彼は市民を新しく兵隊に組み込む徴兵制度を作り、制度に従わない者には物資の供給を止めると全市民を脅した。
これはルイがボスに市民もなんらかの形で新政府に貢献しないと生活できないシステムにすべきという提言がもとになっている。
次に新ボスのユーイチが行ったのは抗争における賞罰だ。
数名の役人、兵隊が昇格し、誰が見ても第一功労者である司令官は逆に処罰の対象となった。
奴隷となる野良をひとりも捕らえられなかったこと、市民と兵隊合わせて七十余名を死亡させたことへの責任が追求された。
死亡したうちの八割は市民で、死因は〈雨〉酔いによるものだ。
司令官がいなければ勝てなかったという声もあったが、それらの声をユーイチは黙殺した。
契約不履行という、ルイを縛り付けておく新たな口実を逃す手はない。
「ジュニアは冬の間、ずっとお仕置きだな」ユーイチは注射器を眺めて舌なめずりをした。
「何がお仕置きだ、ヘンタイデブ。おめえは自室で震えてただけだろうが」
ガイが嫌味を言うと、ユーイチは激昂した。
「お前も命令違反で処罰の対象だ」
「あ? やれるもんならやってみろよデブが」ガイは兄を睨みつけた。
「おめえは〈ボス〉の器じゃねえ。ジュニアはオレの方が見込みがあると言っていたぞ」
「猿は世辞も知らんらしいな」
二人は睨みあったまま動かない。
この兄弟は非常に仲が悪い。最近はルイの関心を巡ってさらに関係が悪化している。
口論をしているうちはまだいいが、ユーイチもガイもひそかに相手を潰す計画を練り始めていた。
塔内ではユーイチとガイの派閥に分かれつつある。
「そういや、親父がアル中で死んだんだって? 葬式はいつするんだよ」
抗争が終わった直後、ガイは突然に父親の死とユーイチのボス就任を知らされた。
「お前らが抗争で暴れているときに埋葬は済ませた。葬式はしない」
「……おめえが殺したんだろ」
ガイはぎらぎらとした目で兄を睨んだ。「親殺し。オレはおめえを絶対許さねえ」
「今のはボスに対する侮辱罪だな。独房へ連れて行け」ユーイチは言った。
ユーイチの親衛隊がガイに近づくと、彼の用心棒たちがそれを阻止する。
兄たちがもめている間も、三男で十八歳のアキラはケンカには加わらなかった。
周囲のあらゆることに興味がないのだ。彼はゲームをしながら兄たちに尋ねた。
「兄貴たち、どうでもいいんだけどさ、ジュニアはどこに消えたの?」
言われてみれば……。抗争からルイの姿を見た者は誰もいなかった。
「塔内をくまなく捜せ!」ユーイチは真っ赤になって叫んだ。
全市民を動員して捜しても司令官ルイの姿は見つからなかった。
「ジュニアが大型バイクに乗って外へ出て行くのを見た者がいます」
「バイクだと?」
報告を受けたユーイチは目を見開いた。
街や塔にあった自動車やバイクは〈エデン〉によってすべて破壊されたはずだ。彼はどこでバイクを手に入れたのだろう。
「追跡装置のベルトが引きちぎられて落ちてました。ジュニアは逃げたかもしれません」
「外へ出て捜せ! ジュニアを逃がすな」
ユーイチは喚き散らしたがもう遅い。外は再び雪が降り始め、本格的な冬がやってきた。
※※※
――そして春。
吹雪が〈雨〉となり、風が和らぎかけたある日、カエルは早々に隠れ家を出て〈海〉へ出かけた。
日課の祈りを捧げたあと、浜に打ち上げられた漂着物を漁るためだ。
そこで、奇妙なものを発見した。
不吉だといってカエル以外は誰も近寄らない場所なのに、男が浜で伸びている。
彼は〈雨〉の中だというのにレインコートを着ていない。
身に着けている薄手のライダージャケットとレザーズボンは〈雨〉に当たって溶けかかっていた。
格好からして明らかに家畜だ。彼らはけっしてコートやマスクを身につけないのだ。
「えらい上玉の家畜だな」
カエルは倒れている若い男を棒でつついた。
男は目を閉じたままぴくりとも動かなかった。これだけの〈雨〉をまともに浴びてるのだ、死んでいるに違いない。
カエルは警戒を解いて男の身体を検分した。
綺麗な顔立ちをしている。均整がとれた美しい体型だ。
彼は首に宝石のついたチョーカーをつけ、耳にはダイヤピアス、右手に太いブラックダイヤの指輪をはめていた。
「うは、高そう。おおかた、塔の幹部に飼われてる〈お犬様〉ってところか?」
カエルはポケットからナイフを出した。
「しかしなぜ、こんなところで倒れてるんだろう?」
カエルが通っている〈海〉沿いのガケは誰のテリトリーでもない中立地区だ。
ただ、塔のテリトリーに隣接しているため、その気になれば家畜が歩いてやってくることはできる。
もっとも、今までそんな物好きを一度も見たことはなかったが。
カエルは男の身に着けている高価そうな装飾品は無視して男のポケットを探った。
ふと、何かに触れて男のジャケットの内ポケットからそれを取り出すと、古びた懐中時計が出てきた。
「これ、アンティークだ。すごく凝ってる」
カエルは興奮気味に時計を眺めた。それは手巻き式の時計だった。
鏡のように反射する蓋には星と王冠が透かし彫りされており、鎖部分にはメダイやクロスが付いている。
装飾品にはまるで興味のないカエルだが、神秘的な美しさを持つ懐中時計には心惹かれた。
「素敵な時計だな。これは戦利品としてもらっておこう」
カエルが時計をポケットにしまおうとしたとき、不意に手が伸びてきてカエルからそれをもぎ取った。
ぎょっとしたカエルがあわてて男から飛び退く。
男は起き上がり、奪い返した懐中時計を大事そうにポケットにしまった。
立ち上がると男は相当な長身で、けっして小柄ではないカエルが見上げるほどだった。
「……この野郎。生きてたのか」
カエルが武器の鉄パイプを抜いて身構えると、男は猫のように目を細めて笑ったように見えた。
次の瞬間、男は大きく旋回してカエルに回し蹴りを仕掛けてきた。
不意打ちに面食らったカエルは飛びのいてキックをかろうじてかわした。
男の動きは凄まじく俊敏だった。カエルも身軽さが自慢だったが、男の攻撃は弾丸のように速くて鋭い。
――〈雨〉にマトモに当たっているのに、これほど動ける奴がいるのか。
カエルが鉄パイプを振り回しても男は難なくかわす。
男は愉快そうに薄笑いを浮かべながら、カエルをどんどん袋小路に追い詰めていった。
……まるで遊びを楽しんでいるかのようだ。
逃げ場を失ったカエルは非常用にと持っていた煙幕を出して投げた。姑息な手口だが、マトモに相手をしてはやられてしまう。
カエルはすばやく瓦礫の影に逃げて身を潜め、敵の出方を待った。
だが、男の姿はすでに視界から消えていた。
「あ……!」
逃げられた。カエルは舌打ちした。――いや、助かったというべきかな。
塔にもあんな強い奴がいるのだな、カエルは唇を噛んだ。まるで獣が小動物を弄ぶようだった。
分厚いライフジャケットを着ているのに、攻撃された全身がずきずきと痛む。
カエルは男が逃げてしまったと思っていたが、実は違った。
敵は音もなくカエルの背後に近づき、彼の背中を蹴った。蹴られたカエルは吹き飛んで瓦礫の山に転がった。
「まあまあやるが、しょせん素人だ」
男は言い、カエルの胸倉をつかんで引き寄せる。
いくぶん苦しげな声だったが、カエルがもがいても腕にこもる力はまるで衰えない。
カエルはショックを受けていた。
街では最強クラスと自負していたのに、ひ弱な家畜、しかも〈雨〉酔いしている男に歯が立たない。
ついに殺されるんだ。カエルは目の前の男を見た。
勝者は生き残り、敗者は死ぬ。それが瓦礫の街の掟だった。
「もう諦めたのか。それとも、また煙を出して逃げようとしてる?」
男がおかしそうに微笑してカエルの覆面を剥ぐと、思わずにやりと笑った。
「ふうん。悪くないな。塔にはいないタイプだ」
男はカエルを殺さず、もっといいことをする気になったらしい。
てっきり殺されると思っていたカエルが驚いて後退りすると、男はカエルの髪をつかみ耳元で囁いた。
「跪け。敗者は勝者に絶対服従なんだろ?」
カエルはこれから行われようとしていることに恐怖し、頭の中が真っ白になった。
「髪から甘い匂いがする。何を付けているんだ」
男は暴れるカエルを地面に叩きつけ、倒れた彼の上半身を自分の体で押さえ込み、腕と足を器用に固定する。
完全に動きを封じられたカエルは喚いた。
「殺せ、殺せったら」
力量差がありすぎて無意味だとわかっていたがカエルは必死に抵抗した。あまりに暴れるので男は面白そうに笑った。
「暴れると痛いぞ。心配しなくても、やり方は街でも塔でも同じだ」
「やり方なんて知るか。離せ!」
カエルが暴れていると、ふと男の動きが止まった。目の焦点が合っておらず顔が真っ青だ。
やっぱり相当〈雨〉に酔ってる。カエルは男の一瞬の変調を見逃さなかった。
カエルは渾身の力を込めて、男に思い切り頭突きを食らわした。
「く……」
カエルの強烈な頭突きを食らった男は仰向けにぶっ倒れた。
額に大きなコブを作り、完全に目をまわしている。カエルはその場にへたり込んだ。
「は、ははは。どうだ。僕の頭突きは世界最強なんだぜ!」
カエルは自分を鼓舞し、気絶している家畜の男を引きずって雨宿りのできる場所へいった。
男は腕や脚、ベルト、五カ所にナイフを仕込んでいる。
ナイフはいずれも軍隊が使っていそうな本格的なものだが、銃は持っていなかった。
「こいつ、塔の兵隊だろうか。恐ろしい男だ」
カエルは男の四肢をビニールロープでがんじがらめに縛った。たしか、兵隊には暴力団員などの戦闘のプロが多いと聞いた。
河童が「あんなものはザコだ」と自慢げに話していたのでカエルも侮っていたのだが。
――それにしても、あんなに元気なのになぜ、この男は塔に帰らなかったんだろう。
「お見事。形勢逆転だな。で、勝者のお前は僕をどうするんだ」
手足をきつく縛ったため、男はすぐに意識を取り戻した。敵である野良に捕らわれたというのに、男は愉快そうに笑っている。
彼は明らかに〈雨〉酔いで青い顔をしていたが、弱っているそぶりをまったく見せなかった。
「お前だけは絶対に許さない」まだ膝の震えが止まらないカエルは、忌々しげに男を見据えた。
「仕返しだ。強姦して八つ裂きにしてやろうか?」
男はきょとんとしてカエルの顔を一瞥し、そしていきなりぶっと吹きだした。脅しだと見抜かれている。
完全に小バカにした態度に、カエルは真っ赤になって怒った。
「何がおかしい。僕はこれでも〈恐怖のカエル男〉と恐れられてるんだからな!」
「それは恐ろしいな。わかったからロープを解いてくれないか。空腹だ、帰る」
カエルはむかっとした。――ここまで舐められたのは初めてだぞ。
「帰すわけないだろ。お前は捕虜だ、野良の中でも一番獰猛なヤツに売ってやる」
カエルはこの危険きわまりない家畜の男をクズ鉄山のリーダー、河童に押し付けることにした。
戦力が足りなくて困っているようだし、河童ならうまくやるだろう。
男は嫌味ったらしく笑った。「かまわない。仰せのままに……〈お嬢さん〉」
カエルは馬鹿にされてむかっときた。
「誰がお嬢さんだ。お前だって女みたいなツラじゃないか。僕はカエルだ」
「僕にもルイという名前がある」ルイも不機嫌そうに口の端を歪めた。
男は抗争のときにカエルから頭突きをくらったルイだった。
他人に興味がないカエルはまったく忘れていたが、ルイの方はちゃんと覚えていた。さっきのはちょっとした仕返しだ。
カエルはルイに〈雨〉よけのビニールシートを被せ、縛ったままルイを引きずって野良たちの集う臨海地区まで歩いた。
ルイも大人しく引きずられていたが、やがて「喉が渇いた」「腹が減った」「気分が悪い」などと青い顔をしてぶつぶつ言い出した。
――まずはこいつを〈雨〉酔いから醒ましてやった方がいいな。
カエルはクズ鉄山に直行するのはやめ、ルイを自分の隠れ家に連れて行って着替えをさせることにした。
彼はルイの拘束を解き、代わりに遠隔操作で輪の締まる自作の首輪をつけた。
「妙なマネをしたら首が絞まるぞ」
ルイは思わず片眉を釣り上げた。「この珍奇な首輪はお前が作ったのか」
「そうだよ。なんか文句あるのかよ」
「……いや、独創的だよ」
ルイは連行された竪穴式住居のような小屋の中を見回した。
ルイの使っていた奴隷部屋の五分の一ほどのスペースの中に所狭しとガラクタや縫いかけの服や謎の道具が乱雑に積んであり、座るスペースがない。壁はトタンとビニールシートだけのようだ。
カエルはたいていのものを自作するほど手先が器用だった。
珍しそうに部屋を見回すルイに、誇らしげに言う。「すごいだろ。ここは僕の工房なんだ」
「たしかにすごいゴミの山だが恥じることはない。僕は平気だ」
上流階級出身のルイの大真面目な感想にカエルは眉をしかめた。――嫌味な奴だな。
「ほら、着替えだ。短いかもしれないけど我慢しろ」
ルイは手渡された着替えの服を一瞥し、「アイロン済みの服はないのか」と微笑んだがカエルは無視した。
世間知らずにつき合っていられなかった。
淹れてもらったインスタントコーヒーを飲みながら、ルイは屈託なく笑った。
「ところで食事はまだか」
カエルはカレー風味のフライドチキンに玉葱のサラダ、小麦粉で作ったパンケーキなどを大皿に盛り付けてルイの前にドンと置いた。
「食え。塔から盗ってきたものだから、お前のお上品な口にも合うはずだ」
ルイは香ばしい匂いのする大皿を前に、腹の虫を盛大に鳴らしながら微笑んでいる。だが、料理に手をつけようとしないのでカエルは怪訝そうな顔をした。
「どうした。毒なんて入ってないぞ」
ルイは屈託なく笑いながら言ったものだ。
「困った奴だな、ナイフとフォークを忘れているぞ。それと、肉を取り分けてくれないか」
「は……?」
カエルは口をあんぐりと開けた。「お前は、いったいどこの王子様なんだ」
カエルがそんなものあるはずがない、コレは皿から取って食べるものだと教えると、ルイは口を開けて言った。
「わかった。食べさせてくれ」
「自分で食え。嫌なら食うな」――いくら家畜でもあり得ないぞ、こんなボケ。
ルイは納得したように言った。
「皿からとるのは自分でやるという意味なのだな」
「当たり前だ!」
ルイは困ったような笑顔を浮かべてカエルをなだめた。
「そう怒鳴り散らすな。僕にも野外生活の心得くらいはある」
「野外生活……?」
カエルは頬を引きつらせた。この男にはここが野外に見えるとでも?
自尊心が傷ついたカエルは悪態をついた。
「お前の野外生活とやらは、どうせワインやパンを入れたでかいランチボックスを執事に持たせて
出かけていくピクニックのことだろ」
「よく知っているな。うん、旨い」
ルイは肉を豪快に食いちぎって食べ、舌鼓を打った。
見た目によらず野性的な食い方をする奴だな、と思いながらカエルも肉を食べた。
「……アフリカの戦場だ」
ルイは肉をおいしそうに食べながら言った。
「え?」
ルイは屈託なく笑った。
「場所はアフリカの戦場だった。解放軍に横流しされた武器を売りさばきに行った。
爆音の聞こえる中での〈ピクニック〉は、なかなかスリルがあるぞ」
カエルは手に持っていた肉をぽとりと落とした。
どうやら彼は世間知らずな坊ちゃんなどではなく、非日常的な生活を送ってきた特殊な世界のヒトらしい、とカエルは認識した。
ルイが風呂に入りたい、入らないと眠れないとゴネ出したので、カエルはしかたなくとっておきの温泉に連れて行くことにした。
場所を教えたくないので、ルイには目隠しをさせて連れて行った。王子は温泉がいたくお気に召したらしい。
「いい絵だな。彩がいい」
ルイは壁の描きかけの絵を褒めていた。「作者は誰だろう」
「……僕が描いた。ただのラクガキだよ」
カエルがドア越しにそっけなく言った。
ルイは二時間以上も湯船につかっていた。長々と待たされたカエルが「いい加減にあがれ」と怒鳴ると、涼しい顔をして言う。
「背中がむずむずする。洗ってくれないか」
目の前に素っ裸でふんぞり返っているルイを見たカエルは驚愕した。
「そんなもの見せるな! 腰にタオルを巻けよ!」
「カエルはもう少し相手に敬意を払うべきだな」
紳士に対してそんなものとは何だ、失礼じゃないか。ルイはカエルに抗議した。
「どの口で〈相手に敬意を払うべき〉なんて言ってるんだよ」
しぶしぶ、カエルはルイの背中を洗っているのだ。
「ほら。すぐ口ごたえする。そうだ、髪も洗ってくれないか」
カエルはかっとした。誰、この暴君。というか、自分が捕虜だって自覚ある?
苛立ちながらもカエルはルイの髪を洗ってやり、丁寧に自作のトリートメントまでしてやった。
根は従順というか、お人よしなのだ。
ルイは内心にんまりしていた。――なんだかんだいって世話をするんだな。
もちろん自分の立場など百も承知なのだが、カエルが何の狙いも下心もなく自分を客のように丁重に扱うのには驚いていた。
まるで下心を持たれないのも不満だったが、どこまで素直に従うか見てみたい気がしてきた。
ルイに面白がられていると知らないカエルは始終文句を言いっぱなしだ。
「はいはい王子様。悪うございました。黙るよ、もう口なんかきかないからな」
「そう拗ねるな。お前も風呂に入ればいい。背中を洗ってやろう」
ルイは尊大に微笑んだ。どうやら憮然としているカエルの機嫌をとっているつもりらしい。
カエルは即座に断った。「あいにく僕は他人と馴れ合うのが嫌いでね」
「その程度で馴れ合えると思っているのか。だとしたら考えが甘い」
「甘くて悪かったな」――嫌味な奴。こんな奴、さっさと河童に引き渡してやる。
やりにくい相手だった。ルイと一緒にいるとカエルはいつもの調子が出ない。
図々しく要求され続け、気づけば相手のペースに乗せられている。
まるでいいように操られているようで、カエルは釈然としなかった。
※※※
ご機嫌で風呂から上がったルイだったが、小屋へ戻るなり高熱を出して寝込んでしまった。
〈雨〉酔いでついに体調を崩したのだとカエルは思ったが、実際は身体を酷使し続けたためだ。
ルイはマツイやユーイチから飲まされた劇薬のために身体が衰弱しきっている。
カエルは自分のベッドにタオルを敷き詰めてルイを寝かせた。
さっさとルイをクズ鉄山へ押し付けるという、彼のもくろみはまたも崩れ去ってしまった。
ルイは見知らぬ者に看病してもらうという、非情の者にとってあり得ない行為になぜか抵抗できないでいた。
「野良というのは、みんなカエルのようにお人好しなのか」
彼は精一杯の虚勢をはって尋ねた。
「お人好しなんて言うな、気持ち悪い。浜で倒れてなかったら放っておいたよ」
カエルがそっぽを向くと、ルイは病気で青い顔しながら笑った。
「〈海〉に飛び込んで街の外へ出ようとしたんだ。外がどうなっているのか知りたい?」
「幻覚しか見えないよ」
カエルはルイの言っていることを本気にしていなかった。
荒れ狂う冬の街の吹雪の中、〈海〉に飛び込むなんて自分だってしない。熱によるうわ言だと思っていた。
「黒い霧の檻だ。出ようとすると夢を見て岸に戻される。何度試してもだめだった」
カエルは目を見開いた。「まさかルイ、本当に〈海〉に飛び込んだの?」
自分以外にも〈海〉に落ちても死なない特殊な体質の人間がいたのだ。どうりで〈雨〉の中でも戦えるはずだ。
「実は、僕もたまに〈海〉に飛び込むんだ。いつも闇と幻覚が見えて岸に戻される」
カエルが自分の体験を話すと、ルイは遠くを見るような目をした。
「あれが幻覚……。僕には、この街の出来事の方が幻覚としか思えない」
ルイが〈海〉で見る幻覚は、決まって小さな少年が母親と手をつないで浜辺を歩いていく後ろ姿だった。
少年のまわりを犬がまとわりついている。
……あれは、僕の子どもの頃の記憶なのだろうか。
しばらくおとなしく眠っていたルイだったが、夜中になると再び苦しみだした。
「僕は大罪人だ。天罰によって死の病にかかっているのだ」
ルイはカエルに解熱剤を飲ませてもらいながら苦しげに言った。熱で弱気になったのか、いつになく殊勝な態度になっている。
「いいから黙って寝てろ。お前のは天罰じゃなくて〈雨〉酔いだ」
水を汲みに行こうとするカエルの服のすそをつかんでルイは言った。
「黙る。黙るからここにいてくれないか」
――まだだ。まだ大丈夫。これはいつもの発作だ。
ルイは顔の汗を拭いてくれているカエルの服のすそをつかんだまま、再びしゃべり始めた。
「頼みがある。僕のことを塔に知らせないでほしい。あそこには絶対に戻りたくない」
彼は脱走してきたのだ。カエルはルイが外で伸びていた理由にようやく合点がいった。
「知らせるつもりはないよ。大人しく寝てろ」
ルイがカエルの服のすそをつかんだまま離そうとしないので、カエルはしかたなく枕元に椅子を引き寄せて縫い物を始めた。
彼は豹柄の布地を縫いながら思った。――明日までもたないかもしれないな。でも、こいつはしぶとそうだからな。
ルイは熱にうなされ、何度も吐いた。そしてうなされながら何かうわごとを言っている。
その言葉は呪文のようで、カエルにはよく聞き取れなかった。
「何を言っているのかよくわからないな。どうした、苦しいのか?」
カエルがルイの手を握ると、彼は眠りながら手を握り返してきた。「ママ……」
手を握られて安心したのか、ルイの呼吸が落ち着き、顔色がみるみる良くなっていく。
「そうか。母さんが恋しいのか。お前も街の連中と一緒だな」
カエルは過去の記憶が欠落している。気が付いたらひとりぼっちで、ひとりが普通。家族を恋しいと思ったことはない。
しかし、街の少年たちが失った家族を恋しがっているのは知っている。
彼らは陽気に無頼を気取って生きているが、家族の話になると誰もが口をつぐむ。
諦めたような顔をして「みんな〈雨〉が悪いんだ」と言う。
「お前らはいいな、恋しがる家族がいてさ。それだけ愛されてたってことだろ?」
そんなことを考えてると、次第にカエルの瞼も重くなってきた。
少しだけ眠ろう。少しだけ……。
※※※
先ほどまで死ぬほど気分が悪かったのに、右手にじんわりと暖かい熱が伝わったかと思うと、苦しみがいっぺんに引いていくのを感じた。
そばで花のような甘い匂いがする。疲れ果てた心身を癒す不思議な香りだ。
ルイは夢を見ていた。母親と一緒に暮らしていたころの夢だ。
五歳のルイの前に、母のパトロンだったという男の客が現れた。
客がルイの演奏を聴きたいとリクエストしたので、彼は覚えたばかりのパッヘルベルの『カノン』を弾いた。
「ルイは飲み込みが早くて、何でもすぐに覚えてしまうの」
「作曲家になるの。今度は『G線上のアリア』を覚えるんだ」
幼い少年は母親と手をつなぎながら誇らしげに言った。そのとき、母親が今にも泣きだしそうな顔をしたのを今でも覚えている。
客だという初老の男に「手を見せてごらん」と言われ、ルイは両手を差し出した。
「私と同じ手をしているね。鍵盤よりも剣の似合う手だ」
母と初老の男がピアノのそばにある椅子に座り、ルイはピアノを演奏している。
「お前は、自分の宿命を知っているかね」
少年が黙って演奏していると、初老の客は静かに語りだした。
「私は闇の世界に住む者だ。人知れず生き、死して称えられることもない。
これまでずっと自分が生きてきた証を求め続けた。そして今日、ようやく手に入れた」
ルイには男が何を言っているのか理解できなかった。
ただ、自分はこのアイスブルーの瞳を持つ男に連れ去られてしまうのではないかという漠然とした不安がよぎった。
〈お前は何を望む。安息ではないはずだ。
求めるがいい、己の生きた証を〉
目を覚ましたルイの目に飛び込んできたのは異邦の薄汚れた掘っ立て小屋だ。
ここにはピアノもなければバラを生けた花瓶もない。過去を思い出して夢に見るような要素はひとつもなかった。
何かが身体の上に乗っている。重みを感じたルイは身体の上に乗っているものに触れた。もこもこした布の感触がする。
上体を起こすと、カエルが居眠りをしているのが見えた。
「敵の目前で眠るとはいい度胸だ」
ルイは昨晩の自分の醜態のことは棚に上げてカエルを非難した。
彼は鋭い爪を立ててカエルにつけられた首輪を簡単にちぎって外し、居眠りをしているカエルの首筋をつかむ。
思ったよりも細い首で、少し力を入れれば骨まで握り潰せそうだ。
ルイは面白そうに笑い出した。――もう少し楽しんでからでも遅くはないな。
「カエル、いつまで寝ている。カフェオ・レを淹れてくれないか」
あれだけ具合が悪かったのに、朝になると王子ルイはすっかり復活していた。
看病疲れで椅子に座ったまま居眠りしていたカエルは、ルイに揺り起こされて不機嫌だ。
「この野郎……」カエルは毒づいた。やはりこいつはしぶとかった。
ルイは淹れてもらったカフェオ・レを飲み、「食事はまだか」とせがむ。ヒナ鳥みたいな男だ。
カエルは取れたての新鮮な卵を使って得意料理を作ってやった。
「む。これは……」卵料理を見たルイは片眉を上げた。
「ふふん。こんなの塔でも食べられないぞ。絶品特製オムライスだ」
「オムライス? オムレットの一種か」
ルイは、スプーンを手にしてふんわりと焼けた卵の表面をなぞる。
焼けた卵の表面が綺麗に割れて、半熟の卵がとろっとチキンライスに溶け、食欲をそそるケチャップの香りが漂ってくる。
ごろりと大きく切ったソーセージとマシュルームにルイは目を輝かせた。
カエルは嬉しそうなルイを横目に見て勝ち誇っていた。
――ふふ。偉そうにしてたってやっぱりガキだな。子供はオムライスが大好きだもんな。
「旨い。卵の殻入りなのは、やはりカルシウム摂取のためか」
ルイはほがらかに笑った。
……何か一言ないと気がすまないのか。カエルは憮然とした。
「ところで、カエルは食べないのか? 朝食を摂らないともたないぞ」
「身体を小食に慣らしてるから平気。ルイは僕らが普段何を食べてるか知ってる?」
ルイが首を振ると、カエルは彼に耳打ちする。
そのあまりに衝撃的な内容に、ルイの表情が曇った。――下水道に住み着いている動物はまだしも……。
食欲を失いかけたのでルイは考えるのをやめた。
「早く慣れるんだな。まあ、最後に教えたのは極限状態まで飢えたときだけだよ。
今、ルイが食べてる卵だって瓦礫の中から拾ってきたんだ。まずくはないだろ?」
ぎょっとしてルイはオムライスを見た。これは、いったい何の卵なんだ?
「お前たちはなぜ〈野良〉などやっているのだ。奴隷暮らしの方がはるかにマシだぞ……」
「僕らは乞食じゃない。施しは受けたくないんだ」
小食に慣れてるといいながら、カエルはお腹を鳴らしていた。自分の食べ物をルイに譲ってくれたに違いなかった。
「半分食べないか。僕も小食に慣れるよう努力しよう」
朝食を済ませると、カエルは昨夜のうちに縫っておいたレインコートをルイに着せた。
武器を収納できるのはもちろん、非常食も携帯できる特殊仕様のコートだ。
よほどカエルのことが気に入ったのか、ルイはカエルにへばりつき、彼の頭に頬ずりしながら囁いた。
「街にいる間、僕はお前に忠誠を誓おう。何なりと命じるがいい」
カエルは鬱陶しい男を振り払った。
「懐くな。まったく、どっちが命令してるんだか」
ルイは眉をひそめた。――おかしいな、これで落ちないなんて。
「今日からルイにはクズ鉄山で暮らしてもらうから。忠誠ごっこはそっちでやってくれよ」
街の連中は何かといえばオキテだの義理だの忠義だの主従だのと言い始める。
権力、派閥、タテ社会はカエルにとって一番馴染めないシロモノだった。
「そこのボスは面倒見のいい奴だから、ルイのことは悪いようにはしないと思う」
カエルの予想どおり、ルイには豹柄のフェイクファーコートがよく似合っていた。
コートを縫っているとき、〈王子〉と大きく刺繍してやりたい衝動にかられたが、それは自制した。
「僕はカエルの捕虜になりたいんだ」
コートを着せてもらったルイは、カエルに懇願するように微笑んだ。
「僕は、そういう面倒くさいのは嫌いだから」
カエルはそっぽを向いた。
「それなら配下にしてくれ。それとも召使いがいいのか?」
ルイがカエルの手をとって恋人にするように指にキスをしたのでカエルは怒り狂った。
「全部同じだ。まとわりつくな、くっつくな!」――こいつが召使い? ありえない。
「わかった、離れる。……命令にしたがおう」
ルイは面白くなかった。カエルが自分に魅了されないことでプライドがひどく傷ついていた。
「僕は恩返しとか貸し借りとかいう鬱陶しい関係は嫌いなんだよ。
困ったときはお互いさまでいいじゃん。情けは人のためならずとも言うし」
ルイは大きく頷いた。「そのとおりだ。同情や憐れみは人のためにならない」
「違うよ。慈悲深い行為は人にも自分にもいいってこと。諺の意味知らないの?」
「母国語ではないからな。〈コトワザ〉はよくわかならい」
あたりまえじゃないか、と思ってルイはふと考えた。
――そういえば、こいつは僕に〈ガイジンなのにニホンゴウマイネー〉などと言わないな。
「え。ルイって外国人なの。日本語うますぎない?」
カエルは飛び上がって驚いた。
「金髪やピンク色の髪の毛の日本人もいるんだよ。黒目黒髪じゃ、わかんないよ」
「お前は面白い奴だな」
ルイは微笑んだが、わずかに眉が釣り上がっていた。
――こいつの目は節穴か。それ以前に僕の顔にまったく関心がないのか。
「そうだ、出かける前にマスクしていかなきゃ。また〈雨〉にやられるぞ」
大きくて不細工なマスクを手渡されたルイは嫌そうな顔をした。
「自分のがあるから必要ない」
ルイは自前のゴーグルをつけ、マフラーをお洒落に巻いてカエルの前に現れた。たったそれだけのことに十分以上もかかっている。
まるでファッションモデル気取りのルイに、カエルは顔を引きつらせた。――これだから塔の連中は。
「それ、目立ちすぎ。襲ってくださいといわんばかりだ」
「王者は王らしく、聖職者は僧らしく。人にはそれぞれ相応しい服装がある」
ルイは胸を張った。「それに、人は服装や立ち居振る舞いで相手の格を判断するものだ」
「はあ……」――ただ単にナルシストなだけなんじゃないの?
カエルの気も知らないで、ルイは説教をたれ始めた。
「それにしてもカエルの服装はひどい。わざわざ安く見られるようにしてどうするのだ。
特にその覆面だ。趣味が悪いし似合っていない」
「街ではこっちの方が役に立つんだよ」
カエルは悪趣味と言われてむっとした。
ルイは不機嫌そうなカエルに構わず尊大に微笑んだ。
「センスに自信がないなら僕が手ほどきしてやろう。近々、お前に相応しい衣装を贈る」
カエルはルイを無視して歩き出した。相手にしていられなかった。
河童のアジトへ向かう間、ルイはよほど塔の外が珍しいのか、街のあちこちを寄り道して回り、地面に穴を掘ったりしている。
「何をしてるんだルイ。寄り道ばかりしていると夜になるぞ」
春になったばかりで天候も落ち着かない。夜中に吹雪いてくることだってあるのだ。
「イヌだ、イヌがいる!」ルイは子犬を見つけて大喜びだった。
「……飼っていい?」
「捨ててこいよ! というか、僕に聞くなよ!」カエルは声を張り上げた。
「どこも化学物質だらけなのに、こんな劣悪な環境で生物が棲めるとは興味深い」
ルイはほがらかに笑った。犬まで連れて完全に秘境探検気分だ。
「ヒトだって棲んでるんだからイヌもネコもいるさ」
街を一周してみたいと言い出したルイの手を、カエルは強引にひっぱって歩いた。
※※※
春になったばかりの時期は、野良は誰もが眠そうだ。
冬の間は彼らの生活の大部分を占める〈縄張り争い〉と〈狩り〉がないため、退屈で寝てばかりだ。寝過ぎてだるいのだ。
そんな眠たげな季節、野良たちが集う臨海地区の広場にカエルと〈ジュニア〉と犬がやってきた。
彼らは肩をならべて楽しげにじゃれつきながらクズ鉄山を目指していた。
実際はじゃれついていたわけではなく、ウロちょろするルイをカエルが引っ張っていたのだが。
ルイは一応顔を隠して変装しているつもりのようだが、その効果はなかった。
これほど目立つ容貌の男はめったにいないし、キザな服装はいかにも家畜らしい。
人の顔を見るとしかめ面しかしない無愛想なソロと塔の司令官がつるんでいるのを見た野良たちは、何事が起こったのかと目を見開き、彼らが通り過ぎるのを凝視していた。
ただ、カエルは周囲に興味がなかったし、ルイは注目を浴びるのには慣れきっていた。
「さすがにもう冬眠から起きてると思うんだけどな」
カエルはクズ鉄山の外壁から中を覗き込み、知っている顔がないかどうか探した。
それを屋上で仕事をサボっていたヨーコが見ていた。彼は顔面蒼白になった。
「ナチ、ジュニアだ。ジュニアとカエル頭が攻め込んできたぞ!」
ヨーコはいつものクセで横を向き、そこに誰もいないことに気づいて口を歪めた。
――いつもいる奴がいねえと調子悪いな。
彼は見張り台の下にいる手下に叫んだ。「緊急事態だ、ゴクウを呼んでこい!」
「はあ? 見間違いじゃねえのか」
ヨーコから報告を受けた防衛隊長のゴクウは信じられない思いで双眼鏡を覗き込んだ。
しかし、そこにはまさに抗争で遭遇した〈ジュニア〉がいる。
ゴクウも顔を青くさせて叫んだ。「鐘を鳴らせ! お前ら、戦闘態勢に入れ!」
クズ鉄山は大騒ぎになった。
河童はその頃、クズ鉄山の敷地内にある掘っ立て小屋で、子分たちを集めて宴会に興じていた。
飽きればその辺でザコ寝する。彼の冬の過ごし方は筋トレか宴会かのどちらかだ。
宴もたけなわとなり、気分よく歌を唄い始めた河童だったが、先ほどから外で鍋をガンガンと鳴らす音がうるさくてしかたがない。
「うるせえな。なんだよ」
「ジュニアだ! ジュニアが出た!」
「なんだと」
ジュニアと聞いて河童も酒瓶を放り投げて立ち上がった。急いでコートを羽織って掘っ立て小屋を出ると、ミチハルが立っていた。
「やっぱりここにいたか。お前ら、仕事はどうした」
ミチハルはいまだ酒盛り中の子分たちを睨んだ。睨まれた少年たちは首をすくめて工場跡の方へ走り去っていった。
河童はバツが悪そうな顔をしてミチハルに聞いた。「何人で攻めてきたんだ」
「ふたりだ。今、集会場の方に通した。お前に話があるらしい」
「ふたり?」
ミチハルが含みのある視線で河童を見た。
「そう。ジュニアとカエル頭。あいつら知り合いだったんだな。仲よさそうにべったりとくっついてるぞ」
ルイは五枚重ねの座布団の上に足を組んでゆったりと座り、河童を見ると尊大に微笑んだ。
「なかなかいいアジトだな、河童。多少、薄汚いが」
……そこは俺の席だぞ。河童の額に青筋が浮いた。
「てめえ、どのツラさげてここに来た」
「ちょっと。河童とルイは知り合いだったのか」
事情がちっともわかっていないカエルがびっくりして言った。
河童は忌々しげな顔をした。
「まだ冬眠ボケしてるのか、お前は。これが司令官のジュニアだよ。
抗争で百人の仲間が死んだのはこいつのせいだ。俺たちの宿敵なんだ」
カエルはルイを睨みつけた。「そんなこと聞いてないぞ!」
「聞かれなかったからな」
ルイは涼しい顔をして言った。「命令にはしたがうと誓ったし」
彼は結構根に持つタイプであった。
カエルは慌ててルイに耳打ちした。
「バカ。敵の大将のアジトに入ったら血祭りに上げられるに決まってるだろ。
わかっていればクズ鉄山には連れてこなかったのに」
二人がこそこそ話し合っているのを河童は不愉快そうに見ていた。
「僕は最初からカエルの捕虜にしてほしいと頼んだぞ?
まあいい、僕に関心を抱いたのなら帰るとしようか。また一緒に風呂にでも入りながらじっくり話し合おう」
それを聞いた河童のこめかみがびくりと震えた。
――カエル頭は〈孤高のソロ〉じゃなかったっけか。
この前などは腕が当たった程度で大げさに嫌がっていたくせに。
「すまなかった河童。僕は事情をよく知らなかったんだ。……出直すよ。ルイ、行こう」
カエルは今にも飛びかかってきそうな殺気を漂わせた河童から逃げようとした。
だが、やはりそれほど甘くない。カエルの喉元に太刀の切っ先が突きつけられる。
「謝ることはないぞカエル。大手柄だ、よくこいつを捕らえてきたな」
河童はいつになく冷ややかな目をしてカエルに言った。
「こいつの身柄は俺が預かる。死んだナチと仲間たちの礼をしてやる。そのつもりで連れてきたんだろ?」
「ち、違う。話を聞いてよ、紳士的にさ……」
「弱い者は死ぬ。恨まれる筋合いはないな」ルイはすました顔をして言った。
「んだと、このオカマ野郎!」
ルイの発言に河童はおろか、同席していた幹部たちもいきり立った。
「やめろってルイ。聞いてよ、河童。捕まえたんじゃなくて保護したんだよ」
「そう。カエルは優しかった。一晩中、僕の手を握っててくれた」
「……」
河童は口を歪めて大きく頷いた。怒りが頂点に達したらしい。
「家畜の味方をするつもりならカエルも裏切り者だ。ここでまとめて潰す」
カエルとルイはクズ鉄山の幹部と子分たちに取り囲まれてしまった。
「なんでそうなるんだよ。話し合いすら受け付けないってのか?」
「敵をどうしようが俺の勝手だ」
河童は手に持っていた酒瓶をカエルの足元に投げた。
「お前こそらしくねえな。いつもはヒトの節介を焼くのは面倒だとか言ってよ。
そうかそうか、結局はツラか。色男なら親切にするんだな」
「病気になったから面倒を見ただけだ。なに勘ぐってるんだよ」
「じゃあ何か。お前は俺が病気になっても同じことをするのか? しねえだろ!」
「どうしてお前の話が出てくるんだよ」
今日の河童はやけに荒れているな、とカエルは思った。凶暴だけど、いつもはもっと冷静な話ができる奴なのに。
「河童なら家畜出身でも偏見を持たないだろうと思ってきたのに。がっかりだよ」
何だよヘンケンて。わけわかんねえ。河童は吼えた。
「バカか。お前は家畜が街でお客様待遇なんかされると思ってるのか? しかもこんな根性悪。私刑は当たり前だ」
「ルイは根性悪ではないよ。バカなだけだ」
これにはルイが引きつった。「カエルは時々、本当に愉快なことを言う」
河童が凶悪そうに口を歪めた。「殺しはしない。そろってチームの奴隷になってもらうだけだ」
「ついに本性を現したか。……最低」
カエルは嫌悪感で顔をしかめた。
「何とでも言え。全部お前がまいた種だ!」河童は吼えた。
「お前ら、ジュニアは好きにしていいぞ。
カエル頭は捕まえたら裸に剥いで俺の部屋へ連れて来い。手足の骨を折ってもいい」
「過激だな、今日の河童は。いつもはこんなんじゃないんだよ」カエルは苦笑した。
「……(彼はヤキモチを焼いてるんだ)」
ルイは含みのある微笑を浮かべていた。
「え。何、ルイ」
ルイは言った。「カエルは河童が怒っている理由を理解するべきだ」
カエルは眉を寄せた。――怒っている理由? お前が挑発したからだろ。
「甘く囁け。〈僕が好きなのは君だけだ〉とか言って。彼の手でも握ってやれ」
「嫌だよ。ルイがやればいいじゃん。そういうの得意そうだし」
カエルが困惑していると、ルイがじれったそうにカエルの脇をつついた。
カエルにはあとで人を垂らしこむ術を教えてやるとしよう、と決意していた。
「しかし、こうまで怒り狂うとはな……。こうなったら彼らを倒して逃げるしかあるまい。
河童は僕が引き受けるからカエルは他を殺せ」
殺せと言われ、カエルは躊躇した。彼は必死でこの場を収める方法を考えた。
「……タケル」
カエルは河童に懇願した。「タケル、頼むよ。話を聞いてほしい」
河童は目を見開いた。「……カエル頭。なぜその名を知っている」
「レンがそう言っていたから。以前、河童はレンの話をしてただろ? それで思い出した」
ケモノの肉体を手に入れた瞬間から、河童は自分の本名を誰にも教えていない。
「河童、騙されんなよ。いつものはったりだ。お前ら、いいからやっちまえ」
ミチハルが号令すると、即座に河童が制止した。
「処分は話を聞いてから決める。カエル頭には貸しひとつってことにしといてやる」
河童は頭が冷めると急に現実的になった。
――やっぱりレンの縁者だったか。
それより、まずはジュニアの目的を見極めるのが先だ。うまくいけば塔の情報を聞き出せるかもしれない。
河童は太刀を鞘に収めてカエルとルイの二人を改めて座布団に座らせた。
「……で、用件とはなんだ」
てっきりレンのことを聞かれるのかと思っていたカエルは拍子抜けした。
「え。ああ、実はルイは塔から脱走してきたんだ。
河童の子分にどうかと思って推薦しに来た。彼に街の流儀を教えてやってほしい」
「本気か?」河童は酒瓶を出して湯飲みに酒を注いだ。
戦争が終わって三年、〈雨〉にあたって死ぬ者が出たり、生き残り同士での殺し合いが激化した結果、街はどこも人手不足に陥っている。
塔は働き手がほしい、外は塔に対抗する戦力がほしい。だが、家畜から野良になるのは難しい。
〈雨〉に当たって病気になったり、別の野良にいびられたりするからだ。結局は群れからはぐれてソロになり、死んでしまう。
「こいつは強いし、しぶといのは知ってるだろ? 抗争で穴の空いた分の戦力になるはずだ」
河童は唸った。実力ある仲間が増えるのは大歓迎だが、〈ジュニア〉は信用できない。
「ボスのペットだぞ? 裏切るかもしれないし、塔と内通しているかもしれん」
「疑わしいときは処分してくれればいい。野良になるのは望むところだ」ルイが言った。
「塔の方がいい暮らしができるのに、お前はなぜ野良になりたいんだ」
河童が尋ねると、ルイは答えた。
「なりたいわけではないが……。カエルにもまだ話していなかったことだが、僕は塔から追われている」
〈ジュニア〉は先の抗争の第一功労者のはずだ。河童は怪訝そうにルイを見た。
ルイは涼しげな顔で言った。「ボスを殺した。バラバラにしてやった」
「……な、に?」思わずカエルと河童が同時に声を上げた。
※※※
ルイは塔に捕らわれていた三年間の話をした。
彼の話によると、塔はもともと父親の組織のアジトであり、ルイはそこのボスとして君臨していたのだという。
塔のボスと呼ばれているのは、かつてルイの部下だった男だ。
侵略戦争の後、ボスは〈海〉に落ちたルイを捕らえて監禁し、虐待のかぎりをつくした。
一時期は自暴自棄になって放心状態に陥ったルイだったが、母国に帰りたい一心で裏切り者たちへの復讐を誓った。
「僕は〈海〉に落ちてから体質が変わってしまったようなんだ。魔性の体質になったというのか。
僕と関係を持った相手は、不思議と僕に夢中になってしまうんだ」
それを聞いた河童は、思わず湯のみをぼとっと落とした。
「へ、へえ……」
すっかり骨抜きとなり、ルイを溺愛し独占することに躍起になるボスを見てルイは潮時だと思った。
すでにボスの部下や息子も手の内にある。
そんな連中を手にかけるのは、いともたやすい。ルイは協力的だった者のみ見逃して他の者たちすべてを八つ裂きにした。
「そんなわけで塔はうんざりなんだ。今度は新ボスのユーイチが僕を追い掛け回すし」
「お前、壮絶な人生を歩んでるんだな……」
河童は開いた口がふさがらなかった。
「いっそ、塔の新しいボスになればよかったじゃないか。親父さんのビルなんだろ」
「僕は塔に興味はない。ユーイチにくれてやるさ」
やはり大金持ちの言うことは違う。普通、タダではやらないだろ。河童は感心した。
しかし、ボスも息子も部下も虜って……。河童はぞっとする思いでルイを見た。
――絶対、こいつにゃ手は出さねえぞ。
一方、カエルは青い顔をして完全に石化していた。ルイの話は刺激が強すぎたらしい。
「カエルは失望したか」
ルイが放心しているカエルを見て苦笑した。
「別に、好きであんなことをしていたわけじゃないんだぞ」
「こいつは情事ネタにまったく免疫がないんだ。放っておけば復帰する」
河童は酒をすすった。カエルが相変わらずなので内心ほっとしていた。
しかし、カエルはこんな危険人物と一晩中一緒にいてよく無事だったものだ。
「やけにカエルのことに詳しいな、古い付き合いなのか」
「二年くらいだよな、親友」河童はカエルの背中を叩いた。
「そうだな。安心してどつきあえる相手ってとこだな」
どうやら気を取り直したらしく、カエルは青い顔をしながらも少し笑って言った。
――ふん。仲のいいことだな。
ルイは面白くなかった。
二人を見てすぐわかった、彼らは惹かれあっているのだ。
友情、信頼。反吐が出る。しかし内心の不機嫌はおくびにも出さず、ルイは穏やかに微笑んだ。
「これで僕が塔の敵だとわかってもらえたと思う。塔の敵は、野良の味方だろう」
「まだ信用したわけじゃねえがな」河童はルイを睨んで言った。
「一応は新米扱いで傘下に加えてやるが、おかしなマネをしたら首をはねるからそのつもりでいろ」
河童は子分を呼んでルイと彼が拾った犬を〈タコ部屋〉と呼ばれるザコ寝の大部屋へ連れていかせたあと、カエルに改めて尋ねた。
「お前、あいつのことを本当に信用してるのか。相当ヤバいぞ、あれは」
カエルは肩をすくめた。「たしかにルイは曲者だな。何か企んでるくさいし」
河童は目を剥いた。「お前、わかってて俺に押し付けたのかよ」
「野良同士だって裏切り、反逆は当たり前にやるじゃないか」
うわ、こいつ汚ねえ。いつも俺に面倒な役を押し付けて。河童は憮然とした。
「僕は決めたんだ、家畜を拾ってできるだけ野良に落とそうと考えている。
施しだけで生きているなんて間違ってる。家畜も〈エデン〉から自立するべきなんだ」
「そんなのお前が個人的にやれよ。なんで俺たちを巻き込むんだ」河童は口を尖らせた。
カエルは肩をすくめた。
「家畜がいきなり〈雨〉の下で暮らせるわけがないじゃないか。
多少、慣らしてから外に出した方がいい。河童はそういうの得意だろ?」
「得意じゃねえよ。敵と仲良しごっこなんかできるかよ」
「ここの子分たちだってもとは塔で働いてた連中だろ。
僕、野良と家畜は力を合わせて街を復興させた方がいいと思うよ。田んぼや畑を作って食料を自給自足して」
河童は頬を引きつらせた。――おめでたすぎてついていけねえ。
「俺、お前のことゴカイしてたわ。シビアかと思ったらすごく夢見がちなんすね」
指導者なんていない。英雄もいない。援助もない。励ましてくれる女もいない。
誰もが自分の身を守るだけで精一杯だ。毒の〈海〉に囲まれたこの孤島でなにをどうやって復興させるって?
子孫は残せない、俺たちは死ぬのを待つだけだ。それなら好きなことをして面白おかしく過ごせばいいじゃないか……。
これが瓦礫の街の大多数意見だ。
だいたい、〈雨〉の下で田んぼなんてできるわけがない。頭が沸いてるとしか思えない。
「ちゃかすなよ。別に今すぐ全部やるわけじゃないよ、まずは意識の改善から……」
河童は頭をポリポリと掻いた。――そんな不毛なことをしてるうちにおっ死んでるよ。
「お前こそ意識を改善しろよ。人生経験積んで少し汚れた方がいいよ、うん」
「僕は人生経験はそこそこある。伊達にソロはやってないよ」
カエルはそう言って胸を張ったが河童は思った。
――ソロより集団に揉まれた方がいいんじゃないか?
街の未来を考える前に、シモネタごときで固まってしまう自分の現状を心配するべきじゃないのか。
だが、そういうことを指摘すると逆上されそうなので河童は話を軌道修正した。
「はいはい。じゃあさ、今度から家畜一匹預かるにつき一回ずつ添い寝しろ。それで手を打つ」
「断る。それよりさ、レンのこと知りたくないの?」
そうきやがったか。河童は歯噛みした。
……だが、レンの話はぜひ聞きたい。
「それじゃあ聞くが、レンとお前の関係は?」
「中学二年の夏休みに塾の受験強化プログラム合宿で知り合った。塾仲間ってとこ」
「……へえ。なんか、俺の期待していた内容とはだいぶ違うな」
河童はがっくりした。――ただの友だちかよ。レンの縁者じゃねえのかよ。
「僕も彼女も家庭環境が似ていて、お互いの悩みを話してるうちに仲良くなった。
レンは〈タケル〉の話をしているときは楽しそうだったよ。強くてかっこいいって言ってた」
それを聞いた河童は不本意にも顔が赤くなった。
「今の、すげえ大事なポイントじゃないか。なんで抗争の日に言わなかったんだ!」
「思い出したのはあの後だから」
「で、続きは? 続きを教えろ。好きな男がいるとは言ってなかったか?」
カエルが言いにくそうにしていたので河童は焦れた。「吐け。吐いちまえ」
「レンには盲目的に愛している人がいた。その人に救われて人生が変わったんだって言ってた。
それが〈エデン〉の代表。フィクサーと呼ばれているみたいだね」
河童は棍棒で殴られたかのような衝撃を受けた。
「大丈夫か、河童」
カエルは呆けている河童を心配そうに見た。
「大丈夫だ。大丈夫じゃないが、大丈夫だと信じたい」河童は非常に錯乱していた。
「もう話すのよそうか。顔、真っ青だよ」
河童は力なく言った。「いや、知りたい。というか、お前、よく知ってるな……」
「レンは、目をつけた人に国家やフィクサーがいかに魅力的かを話しながら勧誘していたからね。僕は夏休み前に新世界の国民にならないかって誘われたんだ。断ったら絶交されたよ」
レンの裏切りの理由がすべて解けた気がする、河童は思った。
つまり、自分と同じくカエルも彼女の誘いを断ったためにこの街に閉じ込められているのだ。
「僕が知ってるのはそこまでだけど、これで貸し借りナシってことでいいよね?」
「それでいい、十分だ」
あの日、思いつめた表情で崖っぷちに立っていたレン。
レンは何かを訴えたそうに見ていた。好きだと言ったら泣いていた。
しかし、あれは愛情でも友情でもなく計算だった。すべてはフィクサーのために仕組んだことだったのだ。
「もっとショックかと思ったけど、意外と平気だったな。むしろ清々しい気持ちだぜ」
河童は土気色の顔をして、震える声で言った。
「……無理すんなよ。死にそうな顔をしてるぞ」
酒でも飲んで寝ろと河童の肩を叩き、カエルは帰り支度をした。
「ルイのことを頼む。ちょくちょく様子は見に来るから」
背後から河童の声が聞こえた。「……で、結局オマエは何者なんだよ」
カエルは肩をすくめた。
「この前も言っただろ。ただの地味で暗いいじめられっ子」
※※※
その頃、ルイは通称・タコ部屋の布団に寝そべって子犬と戯れていた。
「そういえば名前をつけていなかったな。……トーマスにするか」
子分たちはみんなで集まってこの捕虜を遠巻きに見ている。
これがボスのペット、ジュニアだ。とても強そうなヤツだ、それにえらい美男だとみんなで囁きあっていた。
優雅に寝そべっているルイは、毛ヅヤのいい野獣そのものだ。
ボスが溺愛するペットなどというので、くねくねした女みたいな男だろうと思っていたのだが、実際は威風堂々とした度肝を抜くような美男子だ。子分たちは逆に色めき立った。
「俺、ジュニアを初めて見た。イケメンじゃんかよ。誰だよ、オカマとか言ってた奴」
「なんかさ、あいつに誘惑されるとみんな虜になっちまうらしいぞ」
「あいつ、俺のこと見て意味ありげに笑ってるよ。気に入られたかもしれない」
「ねえよ! きっと〈サルみたいな顔だ〉って笑われてんだよ」
不意にルイが彼らに声をかけてきた。「おい、そこのお前たち」
「な、なんだ!」
誘惑されてしまったら抵抗できるだろうか。子分たちはドギマギしながら答えた。
「喉が渇いた。コーヒーを淹れてくれないか」
ルイは屈託なく笑って言った。
捕虜となった塔の要人は、美しいが傍若無人が服を着ているようなバカ王子だった。
「新米として厳しく扱え」と河童から命じられているものの、幹部をはじめとする子分たちは困惑気味だ。
この新米は街の流儀どころか、一般常識すら知らないとんでもない奴だったからだ。
最初にルイはヨーコに呼び出され、新米としての手ほどきを受けた。アジトの掃除である。
ルイは鷹揚に微笑んだ。「掃除。わかった。お前を監督していてやるから存分にするといい」
「お前がやるんだよ。新米がするんだ!」ヨーコは激昂した。
「あとな、俺のことはアニキとか先輩って呼べよ。間違ってもオマエなんて呼ぶな!」
ルイは肩をすくめて微笑んだ。「Ich verstehe.……Brüder」
この新米子分は機嫌を損ねたり、都合が悪くなると日本語を話さなくなる。
「日本語で話せ!」
「オウ、ニホンゴムズカシイデース」
「この野郎!」
ヨーコがいきり立つと、ルイはまるで愚民を諭す王者のように微笑んだ。
「そう怒るな。実は、僕は掃除というものをしたことがないのだ。ひとつ手本を見せてくれないだろうか」
ヨーコはしょうがねえな、という顔をした。「いいか、ちゃんと見てろよ」
彼は雑巾で手際よく掃除してみせた。「こうやるんだ、わかった……か?」
振り向くと、ルイはそこにいなかった。
ルイはクズ鉄山の倉庫にいた。
「実に混沌とした原始的な組織だ。それぞれのポストもあいまいだし、報酬の基準もない。
もっとシステム化を図った方がいいとは思わないか」
「ちょっ……。オマエ、いつの間にこんなところに潜りこんだ!」
倉庫で食料のチェックをしていたゴクウの背後に塔の捕虜が音もなく立っていたので、彼は口に泡を飛ばして叫んだ。
「内カギがかかっていたはずだぞ!」
ルイは気にせず続けた。「お前はここの物資をどうやって数えているんだ? きちんとランク、種類、入手先、入手日時、残数、分配先を把握して数えているんだろうな」
ゴクウは、まるでアルバイト先の上司に詰問されているような嫌な気分になった。
――なんだ、こいつ。うるせえ。しかも、細けえ。
「こういうものは帳簿をつけておけ。字くらいお前でも書けるだろう。創意工夫しろ」
ルイはゴクウの肩をぽんぽんと叩くと、積み上げられた荷物の上にひょいひょいと飛び乗って十メートルも上にある天窓から外へ出て行った。ゴクウはただ、呆然としていた。
「セキュリティも甘い。扉に鍵をかければいいというものではない」ルイは眉を寄せた。
夜になって河童は参謀のミチハルを呼び、ルイにおかしな言動はなかったかと尋ねた。
「いやもう、おかしな言動ばかりであちこちから苦情や悲鳴があがってるぞ。
むしろ、おかしくない点を探す方が難しいくらいだ」
ミチハルの報告に、河童は頬を引きつらせた。
ルイは新米子分でありながらアジトの各所に顔を出し、ああでもないこうでもないと説教と訓示を垂れているそうだ。
年若い子分の中にはルイに説教されて泣き出した者もいるという。
そうかと思えば、「腹が減った」、「喉が渇いた」、「背中を洗え」、「足を揉め」と古参幹部に対しても我侭三昧。
一部の子分はルイにすっかり魅了され、喜んで足を揉んだり背中を洗ったりしている、とのことだった。
河童はぶち切れた。「……バカジュニアをここへ呼べ」
「ふふ。そろそろ呼ばれる頃だと思っていたぞ」
ルイは屈託なく笑った。彼は新米子分という一番下っ端にもかかわらず、なぜか三人も子分を引き連れていた。
「何でお前らまでくっついてきてるんだ」
河童はルイについてきた子分を怒鳴りつけた。
ルイは穏やかに微笑んだ。
「そう叱ってやるな。彼らは野良のしきたりを覚えるまで僕の面倒をみてくれているんだ。僕の兄貴分といったところだな」
河童は愕然とした。こいつは入ってきて早々、もう子分を垂らしこんでいる。
「ジュニアのことは任せてください。俺たちが責任もって守りますから!」
ルイは鷹揚に微笑んだ。
「自分の役割を見失ってはいけないぞ。お前たちが守るべきは僕ではなくて河童だ」
子分たちは赤面してデヘヘと笑った。「はい! ジュニア」
河童は戦慄した。――どっちが兄貴分だかわからねえよ!
「あのな、王子。俺のチーム内で勝手なことをされると困るんだよ」
いつの間にか河童までもがルイを王子と呼んでいた。「そこいらじゅうを視察してまわっていたそうだな」
「組織に馴染むためにコミュニケーションをとっていた」ルイは悪びれずに言った。
「こみゅにけーしょんだ?」
河童はルイを頭の切れるヤツだと睨んでいる。
犯罪組織のボスで殺し屋で、監禁・拷問されながら三年がかりで復讐を遂げるような男だ。
――俺は、お前の〈バカ王子〉の芝居には騙されないぞ。
「警戒しなくていい。僕はお前を追い込んだりしない」
河童の心の内を見抜いたようにルイは言った。
「お前に追い込まれるほど俺はヤワじゃねえ」
河童は動物的なカンの持ち主だ。彼の本能はルイに対して警報を鳴らし続けている。
「まあしかし、これまで塔のトップとしてやってきたお前を新米扱いするのは無理があるとわかった。
ジュニアは今から俺の直属になれ。寝床も俺と同室だ」
俺が直々に監視してしごいてやる。河童は決意していた。
子分のひとりがぷっと膨れた。「やっぱり、自分だけで独り占めする気なんだ」
「なんか言ったか?」
河童は顔を引きつらせた。――こんなアブねえヤツに手を出すかよ。
ルイは微笑み、ふくれっつらの子分の頭を撫でると、彼は子猫のように腑抜けてしまった。
それを見た河童は、このチームの先行きが本当に不安になった。
「河童の直属なら僕も異存はない。実は、こちらもいろいろと提案がある」
ルイは河童に向き直り、〈兄貴分〉から差し出された大きな紙袋から分厚い紙の束を出して河童の前に放った。
紙には活字かと思うような文字や綿密な図がびっちり並んでいる。
「この組織の問題点を要約し、改善案を練ってきた。
なに、礼にはおよばない。あまりにも管理が杜撰だったものだから見るに見かねて、な。
書類を読んで、よく検討してほしい」
河童は書類の山を見てため息をついた。――とんでもないのがきやがった。
※※※
翌日、クズ鉄山の子分・キタローがカエルの隠れ家にやってきた。
以前は河童の部屋を掃除する仕事をしていたのだが、それがルイの仕事になったために〈運び屋〉に格上げされたのだ。
「ジュニアが犬をお前に預かってほしいとさ。あと、この袋は世話になった礼だと」
子分は大きな袋と子犬をカエルに押し付けた。
「待てよ。いきなり困るって。連れて帰ってくれ」カエルは困惑して言った。
「ウチは参謀命令でペット禁止なんだよ」
キタローの方も困ったような顔で言った。
「……以前、参謀の飼ってた亀をリーダーが食っちまったからな」
「……」
カエルは子犬を見た。犬は無邪気な表情で彼の顔を伺っている。
「とにかく渡したからな。文句は俺じゃなくジュニアに言ってくれ」
なんで俺がこんな使い走りをしなきゃならないんだ、と思いつつ、キタローは身をかがめて子犬を撫でているカエルを見た。
……と、不意に彼の視線が一点に集中した。
コートの下に着ているシャツの隙間から、男にあるはずのない胸のふくらみが見えたからだ。
「おおおおっ、おっぱぱぱ!?」
「なんだよ、やかましいな」
カエルは訝しげな顔をして子分を見上げた。
「いや、見間違いだ。胸筋だ。発達した胸筋」
――でも、ちらっと見えたあの顔、どこかで見たことがあるような……。
キタローはぶつぶつ呟きながら去っていた。
「なんだろ。……変なヤツ」そう言いながらカエルは大きな袋を開けた。
「うあっ!」
「キャン、キャン」叫び声に呼応して犬まで吠え出した。
袋の中に入っていたのは、なんと真っ赤なドレスとハイヒールだった。




