抗争_0416修正
冬の到来が近い十一月未明、塔の地上百三十階にある大会議室では次期抗争の作戦会議が行われた。
新政府の幹部、士官、役人などが一同に集められるこの会議では、新しく司令官となったルイのお披露目も兼ねている。彼が公の場に姿を現したのはは三年ぶりだった。
ルイは上品さが引き立つようなダークスーツを着て微笑んでいる。
会議場に集まった一同は、噂の〈ボスのペット〉を目の当たりにして息を飲み、やがて会議が進むにつれて圧倒されていった。彼は噂どおりの美貌の持ち主であったが、噂とは違って誰よりも貫禄があり威風堂々としていた。
ルイは手短に挨拶を終えると、さっそく今回の抗争で実行する作戦を発表した。
「塔の出入口は正面北口に二つ、東口、南口の四つだ。かつての地下鉄につながる地下口は襲撃によって崩れているため、そこは警戒する必要性はないだろう。よって、まずは東口と南口にバリケードを作り、そこに地上五階までの住民二百名を配備する」
会議場内がどよめいた。兵隊の代わりに“市民”を使うなどとは前代未聞だ。
「ですが司令官。市民が戦闘で役立つとは思えません。奴隷を使った方がいいのでは」
ルイは奴隷を出兵させるという提案を退けた。
「今回はあくまで市民を使う。東口と南口はこけおどしだ。大勢の人間がいると敵に思わせるだけでいい。無論、戦闘になった場合は戦ってもらう。何のために銃を持っている」
役人たちは不安げに顔を見合わせた。市民という区分の中には自分たちも入っているからだ。
「東南の出入口はバリケードで封鎖しておく。正面北口のみ開けておき、そこに兵隊二百八十名を待ち伏せさせる。 連中が侵入してきたら一斉射撃で倒す」
もっと強力な武器があれば効果的なのだが、〈エデン〉はそれを認めない。
従順な市民のために〈エデン〉は惜しみない寄付をしてくれるが、頑として渡さないのが大型火器と自動車だった。今あるのは組織のアジトの武器庫に備えていたわずかな火器のみだ。
「その作戦は野良に怪しまれませんか。東口と南口から来た場合はどうするのです」
士官クラスの兵隊が声を上げた。
「その二つの入り口は一度に数百人も通過できない。敵が分散するなら好都合だ、数人単位でやってくる敵を順番に撃ち殺せばいい」
昨年の抗争の敗因は、下層に住む市民を六階に避難させたために五階以下がもぬけの殻になったためだ。
前の司令官は孤立し、野良の大将・河童によって殺されて物資が奪い放題になった。
「そこまでする必要はないですよ。どうせ野良は六階以上には上がってこられないんだ」
役人が肩をすくめながら意見すると、ルイは意地の悪い笑みを浮かべて反論した。
「ほう。つまり、五階以下にある物資は最初から野良に差し上げて構わないというわけだ。戦いを放棄するというなら、わざわざ兵隊を動かす必要もないな」
このやる気のない連中のために、昨年は何人が殺され、何人の奴隷を手に入れられたというのか。
ただでさえ少ない兵隊は四分の三まで減った。手に入れた奴隷はゼロだ。役立つ兵隊や奴隷は温存し、役立たずの市民を間引く。これがこの作戦の真髄だ。
ルイの言葉に役人たちが騒ぎたてた。
「それは困る、職務放棄だ」
自分たちは戦いたくないが、野良の好きにされるのも気に食わないということらしい。
「野良に好き放題させたくなかったら戦え。我々のテリトリーに奴らを入れるな!」
ルイが一喝すると、一同は黙りこんでしまった。
先ほどまで幹部席に座り、無関心そうにガムを噛んでいた若者が口を開いた。
「河童はどうするんだ、簡単に死なないんだろ? なんならオレが機関銃で……」
ボスの次男ガイだ。彼はルイに媚びるように進言し、ルイはその意見を退けた。
「河童の相手は司令官である僕がする。以上だ」
ユーイチが初めて反対した。「ジュニアがあんなバケモノと戦うなんて危険すぎるだろ」
「ならユーイチがやれよ。オレはそっちの方がありがたいけど?」
ガイは何かと長男のユーイチにつっかかる。一つ年上というだけで後継者となったユーイチが気に入らないのだ。
三男のアキラは会議中もずっと携帯ゲーム機で遊んでいる。彼はゲームをしながらのん気に言った。
「ねえ、パパがいないけど。どうしたの」
司令官の新任挨拶、作戦会議と大事な席だ。なのに、本来いるべきボスの姿がない。
「親父は飲み過ぎて寝てる」
ユーイチは熱っぽい視線をルイに走らせながら言った。
※
会議の翌日、ルイは二つの入り口を防衛する市民二百人を動員するよう市民管理を仕切っている役人に要請した。
しかし、役人の対応は歯切れが悪い。
「その件なんだが、市民たちは嫌がっている」
ルイは我が耳を疑った。「なぜ? 死ぬかもしれないのに悠長なことだな」
塔に住み着いている〈市民〉というのは、ルイにとって実に不可解な連中だった。
彼らは仕事をまったくしていない。新政府の要請にも協力しない。〈エデン〉からの施しを受けながら奴隷をいたぶってだらだらと暮らしているだけなのだ。
「なぜ自分たちなんだ、と言うんだ。とにかく絶対に出たくないと言っている」
「野良の狙いが五階までの貯蔵庫だからに決まっているだろう」ルイが静かに言った。
「奴隷は好きに使っていい。だが、市民を兵隊のように動員することは不可能だ」
塔の兵隊はあくまでボスの私兵にすぎない。市民はてんでバラバラ、保護されていることをいいことに勝手なことをしている。これが新政府の実態だ。
「今から使えそうな人間を探しても遅いな」
ルイは無線機で兵隊の中でも精鋭の十数名を一階ロビーに招集した。
「地上五階までの貯蔵庫をすべて封鎖しろ。戦う気のない奴に食わせるメシはない」
兵隊を引き連れたルイは居住区で惰眠を貪っている家畜たちを自慢の笑顔で脅迫した。
「どうか新政府に協力していただけないだろうか」
家畜は口の中に銃口を突っ込まれ、泣きながら首を強く横に振った。
「協力しなければメシ抜きだ。協力すれば暖かい冬が送れるぞ」――生きていればな。
「嫌だ! 絶対に嫌だ。野良と戦うなんて」家畜たちは泣き喚いた。
「戦わない。銃を持って南口に立っているだけでいい」ルイは尊大に微笑んだ。
脅し、なだめすかして二百人をなんとか集めた。
しかし、家畜はルイが想像した以上に腰抜けだ。これでは野良との戦闘など望めそうにない。
その腰抜けが今日まで無事に生きてこられたのは、徹底したセキュリティで守られた要塞〈塔〉のおかげだ。
各フロアには関係者を識別するセンサーと、部外者を遮断するための分厚い鋼鉄のシャッターがある。
それらは配布されるIDカードを照合することで開閉する仕組みになっている。さらに、犯罪組織のアジトがあった百階以上には監視カメラとレーダーが張り巡らされ、隠し扉の中には武器庫もある。
ただ、五階以下はもともと買い物客や宿泊客が利用していたエリアで警備は厳重でない。特にショッピング街は家畜が自由に動き回れる反面、野良も侵入しやすくなっていた。
上層にも不安材料はある。セキュリティシステムの老朽化だ。
精密なシステムほど定期的なチェックと整備が必要になるものだが、それができる人間がこの街にはいないのだ。
――近く、腰抜けの〈家畜〉は凶暴な〈野良〉に全滅させられるだろう。
そのことをユーイチに話すと、彼は家畜も野良も〈エデン〉の大事な観察対象なので全滅はないと呑気に言った。
「観察対象? そのへんで中継でもしているのか」ルイが呆れたように笑った。
「嘘じゃないって。俺たちは〈エデン〉に見張られているんだ。それに、ジュニアは知らないかもしれないけどさ、塔にはたまに〈エデン〉の監察官が兵士を連れて視察にやってくる」
「なに……?」
壁にもたれかかって一服していたルイは、ユーイチに詳しく尋ねた。
以前から不思議だったのだ。物資が空から塔のテリトリー内に降ってくるのは知っている。だが、どうやって街から荷物を運び出しているのか。
「人間も空からさ。屋上に降りてきてコンテナでやりとりをするんだ」
ユーイチは父から聞かされていた話をした。
「屋上のヘリポートか」
かつて塔には、屋上に緊急退避用に設置していたヘリポートがあった。
「いったいどんな連中なんだ。監察官は今度いつやってくる」
ユーイチは興味がなさそうに言った。「銀色の防護服を着てることしか知らない」
ルイは母親からもらった懐中時計を弄りだした。彼が考え事をするときのクセだ。
――連中の乗ってきたヘリコプターを奪えれば脱出できるかもしれない。
「そんな退屈な話はいいからさ、俺の就任パーティの催しを考えてくれないか」
ルイが思案しているとユーイチがつまらなそうに小突いてきた。ルイは眉をしかめた。
「後にしてくれないか」
最初こそ遠慮がちだったが、いまやユーイチはルイを助けたことですっかり彼の飼い主気取りになっていた。
「俺をないがしろにするな。言うことを聞かないとお仕置きするぞ」
ユーイチが好色そうな笑みを浮かべて注射器を見せたのでルイはうんざりした。麻薬すら効かない彼を狂わす悪魔の薬だ。以前はボスが隠し持っていたが、今はどういうわけかユーイチが持っている。
「その薬は嫌いだ。いつも言っているだろう」
「だったら俺の言うことを聞け。そういう契約だったはずだ」
ルイはため息をついた。奴隷から這い上がり、ボスが去っても毎日これだ。今度はユーイチとの契約が彼を拘束していた。
――だが、それも抗争が終わるまでだ。
ユーイチが塔の新しいボスとなれば、ルイは自由になれる。それが新しい契約だ。
「気分が乗らないなら注射するか。その方がジュニアも楽しめるだろ?」
ユーイチが含み笑いを漏らす。
ルイは自分を見失ってしまうような薬や嗜好品が嫌いだったが、ボスやユーイチは堅物のルイが好色になるこの薬をやたらと使いたがった。
この薬はルイのように〈海〉に落ちても死なない不死身の人間〈ゴッドチャイルド〉が自制心を失う効果がある。凄まじく欝な気分とハイな気分が交互に襲ってきて、抑制が効かなくなるほど欲情してしまう。最悪だった。
そんな妖しい薬なので、ルイはこれまでに数えるほどしか服用したことがない。
どうやって断ろうかと注射器を忌々しげに見ていた彼は、不意に面白いことを思いついた。
「ユーイチ、それをひとつくれないか。河童とかいう奴に使ってみたい」
うまくいけばバケモノを捕獲できるかもしれない。
そのとき、バタバタという大きな足音がし、ユーイチたちのいる部屋の前で止まった。
次の瞬間、鍵のかかった扉が乱暴に蹴り破られて数人の男たちが乗り込んできた。
「ジュニア、やっぱりここか。ひどいじゃないかよ」
痩せてチャラい風体の男が二人を見て喚いている。彼はルイを切なそうに見たあと、ユーイチを睨みつけた。
「ユーイチ、てめえ」
「誰が勝手に部屋へ入っていいと言った」
ユーイチも侵入者を睨みつけた。
侵入者は用心棒を引き連れたガイだった。彼もルイに魅了されてしまった者のひとりである。
「おい、デブ。今日はオレがジュニアと過ごす日になっていたはずだ。ボス気取りで独り占めすんなよ」
嫉妬に狂ったガイはユーイチのむっちりした胸ぐらをつかんだ。
「“ボス気取り”じゃない、俺がボスだ。今日こそは思い知らせてやるぞ」
ユーイチは弟を振り払い、無線機で自分の警護たちを呼ぶ。
「部屋に檻から逃げ出してきたサルがいる。捕まえにこい」
これにはガイが怒り狂った。「サルとはなんだ、このデブ! 体臭デブ!」
「黙れ、サル! 短足ザル!」
ルイは低レベルな兄弟喧嘩を繰り広げている彼の〈虜〉たちを置いて部屋を出た。
なんという利用価値のない連中だ。――少なくとも、マツイはこいつらよりは優秀だった。
※
ルイはボスに見切りをつけたときから塔の要人たちを篭絡して味方を増やしていった。
彼に魅了されると、どんな荒くれた男でも従順なペットになってしまう。そして病みつきになって離れられなくなるらしい。〈海〉に落ちたときからルイはそういう魔性の体質を手に入れていた。
「ヘリポートへ行ってみるか」
屋上はかつてルイが私室として使っていた百四十階のスカイラウンジ、つまりボスの寝室の奥にある直通エレベーターから行ける。
部屋に入ると息苦しいほどの血生臭い匂いがした。ここで〈血の報復〉が行われたからだ。
三年近くもルイを拘束して虐待を加えていたボス・マツイは彼によって処刑された。
それでもルイはマツイに生き延びるチャンスを与えた。「拘束から解放し、街から出る手助けをしてくれれば忠誠を誓う」と。彼には宿敵に跪いてでも街から脱出したい理由があった。
フランスで彼の帰りを十四年以上も待っている母がいるのだ。
「抗争が終わったら約束を遂行してもらえないだろうか。僕は十分尽くしたはずだ」
ルイが懇願しても、マツイはルイの〈忠誠〉を逆手にとってまったく取り合わなかった。
マツイに約束を遂行する意思のないことを確信したルイは、あらかじめ虜にしておいたユーイチら塔の要人と結託してマツイとその部下たちをこの部屋で血祭りに上げた。
「お前に教えてやろうマツイ」ルイは残忍に微笑んだ。「塔の秘密は僕が握っている」
あのときのマツイの恨みがましい顔といったらなかった。ルイは思い出し笑いをした。
……ガタリ。
何か物音がしたようだが、ルイは気にせずにエレベーターに向かった。
重い鉄扉を開けると横殴りの風が吹いてきた。金色の懐かしい光がルイを照らす。
「ああ……、ここには〈雨〉が降っていないのか」
三年ぶりに見る夕焼け空だ。眼下には〈雨〉を降らす電流を帯びた黒い雲が広がっている。
かなり低い雲のようだ。西の方角を見ると、面白いものが見えた。……富士山だ。
「少なくとも、日本がすべて沈んでしまったわけではないのだな」
塔はネジの先端のような形状をしているため屋上のヘリポートは狭い。すぐに小型のコンテナが見つかった。
間違った暗証番号を二回入力すると起爆装置が作動するタイプだ。
ルイは革手袋をはめて武器庫に入っていたドライバーと冷凍庫の中にあったドライアイスを使ってトラップごと鍵を外す。久しぶりだが、腕はまだ鈍っていないようだ。
中を開けると、ボスが注文していたらしい嗜好品などに混じって書類や文書を記録した電子ノートが出てきた。
パネルを押すだけで操作できる簡単なタイプだ。ルイは電子ノートに記録された内容を読み始めた。
「これは組織で配られるマツイの手配書だな。組織は奴に追手を差し向けているらしい」
マツイを追跡するという文書はあるが、自分のはないようだ。ルイは肩をすくめた。
キングは息子が自力で帰ってくると確信しているのだ。
「まさに、我が子を谷底に突き落とす獅子のごとき教育理念だな」
どうやら監察官はここを訪れて帰った直後らしかった。国際情勢が不安定になったため、次の訪問は来年の秋になるだろう、とある。
「一年後か、長いな」
ルイは美しい夕日を見ながら遠い故郷、フランスを想った。
――今年もピアノを弾くのだろうか。……お母さん。
彼は気を取り直して電子ノートのパネルを叩き、別の文書も見てみることにした。
〈捕虜予定だった女一名が消息不明になっている件について。
『721』から三年が経過しており、いまだ生死がわからないでいる。改めて捜索を要請する……〉
……女だと。とっくに死んでいるに決まってるじゃないか。
ルイはバカにしたように鼻で笑った。そして彼は電子ノートを抱えてスカイラウンジに戻った。
※
……ジュ……ニア……。ジュ……ニ……ア。
死体の山の前をルイが通りかかったとき、聞き覚えのあるしゃがれ声が聞こえた。マツイだ。
全身を切り刻まれたのに、まだしぶとく生きていたのだ。
「ジュ……ニア……」
マツイは地獄からの使者のようにどす黒い笑みを浮かべている。
「お前とはとんだ腐れ縁だったな。抗争まではここにいてやるが、もう終わりだ」
ルイは肉の塊となった宿敵に勝利宣言をした。だが、マツイはそんなルイを嘲笑した。
「お前は街から出られ……ない。は、はは」
「負け惜しみを言うな。僕は自分の決めたことは必ず遂行する」ルイは侮蔑を込めてマツイに言った。
「あいにくだが、来年の今頃にはここを出られそうだ」
来年……。マツイはにたりと笑った。「ユーイチから薬を飲まされているだろう」
溺愛するペットが自分から息子に乗り換えたことを察したマツイは、あの薬を〈惚れ薬〉だと言ってユーイチに手渡した。そして、反抗的な態度をとったらすぐに注射を打てと助言した。
ユーイチの独占欲の強さは父親以上だ。必ず、あの薬を使うだろうとマツイは予想していた。
「やはり、お前がユーイチに渡したのか。親子して悪趣味だな」ルイは言った。
「お前に秘密を教えてやろう、ジュニア」
マツイは待ちに待った復讐の時にぞくぞくしながら言った。
「あの薬は劇薬だ。お前は死ぬ。……来年の今頃は俺と地獄でハネムーンだ」
マツイの言葉に、ルイの顔から余裕の微笑が消えた。
「な、んだと……?」
「……ママに会いに行けなくて残念だったな」
誰にも弱みを見せないルイの唯一の弱点、母親。
組織で殺し屋などをやっていたのも母が殺されるかもしれないと思ってのことだ。奴隷となって宿敵マツイの足を舐めていたのも、すべては母親との約束を果たすためだった。
――待っていてママ。必ず会いに行く。そのためなら何でもする。誓うよ。
「うおおおお!」
ルイは雄叫びを上げ、涙を流しながらこれでもかというほどマツイの頭をナイフで刺した。
「Scheiße!」
「やっとお前の泣きっ面を拝めたぞ。俺の勝ちだ……、はははははは」
刺されながらマツイは壊れた機械のように笑い、やがて永遠に動かなくなった。
※
十一月下旬の夜、総勢五百人もの大軍団を率いた河童が塔のテリトリーに侵入してきた。
皆、闇に紛れるため暗い色のレインコートに身を包み、マスクを装着している。手には角材や鉄パイプ、それとホースやポンプを持っている。
塔の周囲は寝静まったかのように静かだ。いつも巡回している見張りの兵隊すらいない。
「俺は別働隊を組んで〈ジュニア〉を仕留める。本隊の指揮は頼んだぞ、ミチハル」
「任せておけ。おい、溝を掘れ」ミチハルは本隊に命令した。
河童たち別働隊を見送ったあと、ゴクウがミチハルに耳打ちする。
「マジで溝を走って突っ込む気か? 命令違反だろ」
ミチハルは笑った。「いいんだ。結果良ければすべて良しって言うだろ」
溝は当初の予定では雨水を流すためのものだったが、身を隠すためのものにミチハルが変更した。
すべてをソロのカエルの言うとおりにするのは癪に触るではないか。身を隠して敵に近づき、相手の懐に飛び込むという、なかなかの名案だった。
野良たちが溝を掘り始めていることは、すぐに塔にいるルイの耳にも入ってきた。
「夜中に穴を掘って奇襲ときたか。連中も少しは知恵をつけたらしいな」
ルイは特殊工作部隊が身につける戦闘服を着て、完全に臨戦態勢に入っていた。
彼は無線機で全軍に命令した。「野良が来た。こちらが合図するまで動くな」
「冬が近いとはいえ、静かすぎるな」
河童は周囲に耳をすませ、匂いを嗅ぎながらひとり言を呟いた。
「今、東口と南口を物見してきたんだが待ち伏せてるぞ。どっちも五百人くらいいた」
――やはりカエル頭の言うとおり、罠をしかけてきたか。
しかし、腑に落ちず河童は眉をしかめた。「千人だと。そんなに兵隊いたか?」
「おめえ、びびってフカしてんじゃねえの」ヨーコがナチの頭を叩く。
「マジだって。どっちも俺らの本隊と同じくらいのヒトゴミだったもの」
戦力を総動員してその二つの入り口に割いているのだろうか。河童は唸った。
「なあ、俺らも正面から行ったほうがよくね?」ナチが顔を引きつらせながら言った。
「お手々つないで正面から行ったら別働隊じゃねえだろ」ヨーコが突っ込んだ。
「いや、でも五百とかねえって。死ぬだろ」
河童はナチの肩を叩いて励ました。
「俺に任せておけ。絶対に死なせないからな」
死なせない、と河童が言えば本当に死なないのだ。彼はいつも自ら矢面に立ってくれる。たとえ逃げ遅れても必ず助けにくる。河童が皆から慕われるのはそういう男だからだ。
〈今回、塔は河童を集中的に狙ってくると思う〉
カエルの言葉が頭をよぎり、ナチは首を振って自分を鼓舞した。
「いや、大丈夫。むしろ俺が河童を守ってやるから。うし、やったる!」
「大声を出すなよ、バカ」ヨーコが口を尖らせた。
一方、塔の正面入り口に面したロビーでは二百八十名の兵隊が待機していた。
指揮を執っているのはマツイの次男ガイだ。彼はこの抗争で手柄を立て、〈ジュニア〉の信頼を得ようと躍起になっている。だが、彼は戦争だというのにアロハを着て半ズボンを履いていた。
「臆病者のユーイチがボスだなんて、オレは認めない。ぜーったい認めないつってんだよ」
「ガイさん、お静かに」
士官が冷や汗を流しながらお坊ちゃまをなだめた。
「……はあ? 早く撃てよ。野良がいるのはわかってんだろ?」
「司令官の合図があるまで撃たないようにとの命令です」士官は我慢強く言った。
ガイは大目を剥き、天を仰いで喚いた。
「あのな、オマエはあれか。上司に〈やりなさい〉と言われてからやる指示待ちクンてヤツか。そんなんで出世できると思ってんの?」
それとこれとは話が全然違うのではないか、と士官は思ったが黙っていた。
なぜ自分がこんな坊やの子守りをしなくてはならないのだろう……。士官は我が身を嘆いていた。
妙なマネをされないうちに司令官からクギを刺しておいて貰った方がいいかもしれない、士官がそんなことを思っていたとき、どこかからともなく大声が聞こえた。
「危ない! 野良がすぐそばまでやって来たぞ!」
ガイの目がぎらりと光り、彼は叫んだ。「野良、キタコレ! 全軍、撃て! 撃てえ!」
士官が止めようとしたが、もう遅い。
ガイが大声で喚きながら機関銃を撃ったため、釣られた他の兵隊たちも一斉に拳銃を発砲した。
パーンッ! パパーン! ダダダダッ!
正面入り口の三十メートル先まで溝を掘っていたミチハルは、敵が突然発砲してきたのに驚いて本隊を制止した。
「なんだ、やっぱ待ち伏せしてやがったのか」
「カエル頭の予想的中ってわけか。やばかったな、突っ込むところだった」
ゴクウが言うと、ミチハルは顔を赤くして怒鳴った。
「作戦変更だ、雨水を流せ。当初の作戦に切り替える」
※
――どこかのバカが命令を無視して銃をぶっぱなしているようだ。
ルイは力なく笑って天を仰いだ。あれほど合図するまで待てと言ったのに。
見るからに軽率そうなガイが指揮官に立候補したときから嫌な予感はしていた。
「助けてぇー! 野良だー!」
頭上から妙な声がする。ルイは天井を睨みつけた。
「……ネズミが入り込んでいるな」
――斥侯までいるのか、野良は。敵の方が優秀な人材がそろっていて実に羨ましい。
「殺虫剤を持って来い。ダクトに誰かいる」
ルイは近くにいる兵隊に命令した。
「司令官! 河童が現れました。南口です」
やはり別働隊で来たか。ルイは天井を一瞥し、舌打ちして南口の方へ駆け出した。
「うおお。野良がきたぞぉ……って。このくらいでいいか」
カエルは人がひとりやっと通れるほどの壁の亀裂からダクトに潜り込み、塔の上階を目指していた。
敵の司令官はなかなかアタマのいいヤツらしく、いろいろなトラップを仕掛けているようだ。少しだけ河童たちに手を貸してやったが、あとは勝手にしろと思っていた。
「野菜に鶏肉だろ、あと小麦粉がほしいな。久しぶりにカレーが食べたい」
カエルは鼻歌を歌いながらダクトを這っていた。
下から銃声や怒号が聞こえてきたので、ついにドンパチが始まったらしい。
「早く雨水を流せばいいのに……」
と、そのとき。
シュー、という音がしたのでカエルは目を剥いた。〈雨〉とは違う独特の刺激臭と、もうもうと立ち込める白い煙に思わず彼は咳き込んだ。
「ゲホッ。なにこれ」
ルイ付きの兵隊が排気口に大量の殺虫剤を散布していた。
「ええと、マッチに火をつけて投げ込め、と司令官が言っていたな」
彼はマッチに火をつけ、排気口めがけてそれを投げた。するとボンという音がし、ダクトの中が火の海になった。
「あちっ、あっち、誰だっ!」
不死身の肉体といえども熱いものは熱いので、カエルはダクトから脱出して地下室に転げ落ちた。
目の前にきょとんとした表情の兵隊がいる。
「あわわ……」
いつもの覆面をしていないカエルは人の視線を目の当たりにして真っ青になり、すっかり前後不覚に陥っていた。彼には視線恐怖症という困った体質があるのだ。
「あれ、オマエ、奴隷か? 何しにきたんだ!」
突然、白くて細いのが現れたので兵隊はてっきり奴隷が迷いこんできたと思い込んだ。
「……えと。怖くて逃げてきたの」
カエルは顔を隠しながら必死に演技した。
兵隊は天井から降ってきたみすぼらしい格好の侵入者をジロジロと観察した。
侵入者は色白で、まつ毛は長く、鼻が高い。肌のキメなどは赤ん坊のように細かい。これは相当な上玉と見た。
兵隊はカエルを見て鼻息を荒くした。横顔しか見えない。手と髪の毛がジャマだ。
「オマエ、顔をよく見せてみろ。誰のペットだ?」
「三丁目のスズキさん。メガネかけてる人」カエルはとっさにウソをついた。
「ははは、お茶目な子だな。迷子ならおじさんが飼ってあげようか」
兵隊は舌なめずりをしながらにじり寄ってきた。
「どれ、ペロペロチューしてあげるね」
口をタコのように尖らせた兵隊に肩をがっしとつかまれたカエルは悲鳴を上げ、兵隊の横面を思いきり張り倒した。
兵隊は血を噴いてぶっ倒れ、そのまま気絶した。
カエルは兵隊から戦闘服と銃を剥ぎとり、マフラーをして顔を隠す。ようやく落ち着いた。
「ふ、ふふ。愚か者めが……!」
彼は自分を鼓舞してフロアを歩いて出て行った。
※
南口に近づいた河童の別働隊は入り口で待機している兵隊の多さに目を剥いた。
ナチの報告に半信半疑だった河童もこれには冷や汗をかいた。
「くそ、家畜はマジで得体が知れねえ」
襲撃を仕掛けたとして、河童自身はまだいい。
だが、仲間たちがまずい。これだけの防衛がいたのでは必ず何人かは殺られてしまう。ヘタをしたら全滅だ。
「俺らも本隊みたいに雨水をまくか?」
「……いや、さすがに十対五百じゃな」――せめて百人くらいならなあ。
「いっそ、メガホン最大音量で河童の歌を聴かせるってどうよ。皆、死ぬぞ」
ナチはカエルから後払いでいいと押し付けられた増幅器内臓のメガホンを河童に見せた。
「そういう冗談を言ってる場合じゃねえよ。せいぜい人数をごまかすくらいしか……?」
言いかけて、河童は周囲の匂いを嗅いで眉をひそめる。
妙だ、人影が多いわりに匂いが薄い。五百人もいるなら、もっとむせ返るような人いきれがするものだ。
「ナチ、お前冴えてるな」
河童はにやりと笑った。「歌いながら行こうぜ」
南口で待機していた市民たちは無理やり銃を装備させられて泣きそうになっていた。
野良が現れたら司令官が助けに行くという約束だったが、とても信用できない。
彼らは、自分たちの口の中に銃口を突っ込みながら凶悪に微笑む魔王のような男を思い浮かべて身震いをした。
噂によると、あの司令官はマフィアのボスだというし。
「さっき、正面入り口の方から銃声がしたろ」
「したした。もうここには野良は来ないよな!」
もう自分たちの用事は済んだのではないか、彼らはそう思い始めていた。
そのとき、地を這うような轟音がしてバリケードが破壊され、巨大な何かが乱入してきた。
「ぶるああああっ!」
メガホンを当てて大声で叫びながら、河童はバリケードを破ってフロア内に飛び込んだ。
彼は素手で大理石の壁を破壊し、岩の塊を向かってきた兵隊たちに向かって投げた。
「ああああ~、よこはまは~きょうも~ちのあめがふる~」
河童は自作した歌を歌いながら岩の下敷きになった哀れな兵隊たちの骸を踏みつけた。
「音痴はともかくセンスねえな……。グロいしよ」ナチは眉をしかめた。
市民たちは入り口から現れた遠吠えしている巨大な獣人に戦慄し、恐慌状態となっていた。
「出た! ……バケモノが出た!」
「あいつ、ガオーって言ってる! 吠えてるよ!」
一瞬で戦意を喪失した市民たちは散り散りになって逃げ出だした。
「なんだ、あっさり逃げやがったな」
ヨーコは不満げに喚いた。乱戦になることを予想していたのに肩透かしを食った気分だ。
河童は仲間たちに向かって誇らしげに言う。
「鏡で人数を水増ししてやがったんだ。せいぜい百ってとこだろ」
市民たちを蹴散らすと、彼らがいたフロアに四枚の大きな鏡が立てかけてあるのが見えた。
そして今、河童の前に立っているのはベレー帽を被り、戦闘服を着た長身の五人だけだ。
「河童はバカだと聞いていたんだが、結構鋭いな」鏡に写った男は同じ端正な唇に微笑みを浮かべている。
「とにかく歌は最低だ。……はっきり言って僕の方がうまい」
「いや、河童より歌うまいってそれ普通だから」ナチが言った。
「お前がジュニアか」
河童は臨戦態勢をとり、正面にいるキザったらしい男を睨みつけた。
軟弱そうな〈女〉だろうと思っていたが、修羅場をかいくぐってきた者特有の不敵そうな面構えをしている。ヤバい匂いがプンプンする。
カンの鋭い河童は目前の敵を警戒した。
ルイも河童の気配からタダ者でない気配を察して警戒していた。
「正式にはクラウス・ジュニア。殺し屋のコードネームだ。外国人の僕がなぜここにいなくてはいけないのか、遺憾で仕方がない。責任をとってもらおうか日本人」
殺し屋なんて現実世界にいたのかよ! ヨーコとナチは瞠目した。
「お前がマヌケだからだろ」
河童があっさりと言い、太刀を抜いて敵の首めがけて斬りかかる。
すると、ルイはポケットに両手をつっこんだまま片脚を上げて靴の裏で河童の攻撃を受け止めた。
恐るべき柔軟さとスピード、脚力だ。
「ヤロウ、河童の一太刀を足で受けやがった……」ナチは思わず声を震わせた。
ルイは河童を刀ごと蹴ると、河童めがけて飛びかかってきた。
彼はいつの間にか両手にサバイバルナイフを握っており、舞うように河童を左右から切り刻もうとしてくる。
左右からの攻撃をかわすと、間髪入れず今度は鋭い回し蹴りが飛んでくる。河童は攻撃をガードするので精一杯だ。
ルイは全身が凶器という恐るべき使い手だった。
「サバットの使い手か」
サバットとはフレンチ・キックボクシングとも呼ばれる殺傷力の高い格闘技だ。
「あわわ……、あの河童が押されてる」
別働隊の面々は敵の司令官の強さに圧倒されてしばし立ち尽くしていたが、河童がピンチと見るや、応援に駆けつけた。
「相手はひとりだ、やっちまえ」
押しているように見えて、実はガードの固すぎる河童に辟易していたルイは、彼らを横目で見ると舌なめずりをして攻撃目標を変えた。
――ザコから殺ってしまおうか。
ルイは襲い掛かってきたヨーコのみぞおちを蹴り、ナチの首めがけてナイフを突いた。
だが、当たらない。河童の分厚い掌がそれを遮っていた。
「河童! 大丈夫か」命拾いしたナチが叫んだ。
「死なせないと言ったからな」
河童は出血した手を軽く振った。
「大丈夫だ。ここは俺がひとりでやる。お前らは貯蔵庫を漁りにいけ」
ザコに逃げられる。ほんの一瞬、ルイが気をとられた隙だった。河童の渾身の拳がルイのボディを捕らえる。
攻撃をまともにくらったルイの身体が吹き飛び、鏡に激突してそれは粉々に砕け散った。
並の人間なら肋骨と背骨を粉砕される必殺の拳だ。だが、ルイは並の人間ではない。
「やるな、バケモノ」
粉々になった鏡の破片の山から血まみれのルイが立ち上がった。
こいつは俺と同じ〈特殊体質〉だな。しぶとく立ち上がるルイを見て河童は思った。
※
ここは北正面口。
ガイの暴走によって、野良に待ち伏せしていることがバレてしまった兵隊たちはいったん攻撃を停止して敵の出方を待っていた。
「あとは我々で何とかしますから坊ちゃんは下がっていてください」
ガイはお付きの士官から命令無視の件でしこたま怒られ、指揮官から外されてムシャクシャしながら地下一階フロアを歩いていた。
地下の警備室で総指揮を執っているはずの〈ジュニア〉に苦情を言いに行くつもりだった。
「下っ端のくせに生意気なんだよ、アイツらぁ」
地下フロアには一階から逃れてきたらしい大勢の〈市民〉が隅っこの方で震えている。
赤い腕章には見覚えがあった。確かこの連中は南口の防衛として配備されていたはずだ。
「お前ら、持ち場を離れるなよ」
ガイは上官風を吹かして市民たちに怒鳴った。
「の、野良が……」市民たちはガイを見ると、廊下の先を指さした。
この先には封鎖中の貯蔵庫があるはずだ。ガイはそこへ近づいてみることにした。
そこに貯蔵庫の封鎖を力づくでこじ開け、壊れたドアにもたれかかっているナチがいた。
「だっせえよな、家畜って。銃を持ってても撃てねえんだからよ」
彼は震えている市民たちを眺めながらご機嫌だった。めぼしい美人がいやしないかとナンパ気分だ。
そんなとき、目の前に自分と同じくらいの年の若い男が近寄ってきた。
「おめえが野良? うわ、汚ねえ格好。汚ねえツラ」
塔の上層フロアで甘やかされながら暮らしていたガイは、野良を見るのが初めてだ。彼は泥まみれで全身が黒ずんでいる野生児を物珍しそうに観察している。
ナチは目を吊り上げた。「おめえこそ何だよ。バカヅラしやがって」
相手はひとりだった。アロハに半ズボン、ゾウリというイカレた格好。典型的なバカ家畜。
ナチは部屋の隅で冷蔵庫を漁っているヨーコに言った。
「こっちきてみろよ相棒。天然記念物級の短足ザルがいるぞ」
「お前、見張りだろ。黙らせとけよ」
ヨーコは食料を袋に詰める作業に没頭していた。
この二人は暇さえあれば殴り合いのケンカを始めるが、実は相棒と呼び合うほど仲がいい。いつもつるんで行動していた。チームに入ったのがほぼ同時、幹部に上がったのも同時だ。
「家畜って美人が多いっていうけどウソだな。ジュニア以外はブサイクばっか」
ナチはガイの容貌を眺めながらシッシッとガイを追い払った。「趣味じゃねえし。あっちいけ短足ザル」
彼は、市民の臆病さを目の当たりにして家畜を完全に舐めていた。
だが、ガイは仮にもボスの息子であり、良くも悪くも怖いもの知らずでプライドが高い。
「おめえよ、オレが誰だかわかってて言ってんのか」――塔のナンバー3だぞ。
ナチはせせら笑った。「知るか。俺はナンバー4なんだぜ? 幹部よ、幹部」
それを聞いたガイの目が残忍に光った。
ガイは大声を張り上げ、肩に下げていた機関銃をぶっぱなした。
「首とったあ!」
彼はわめきちらした。「野良のエライやつを仕留めたぞ!」
ヨーコが驚いて貯蔵庫の入り口へ駆け寄ると、床にナチが血まみれで倒れている。
「バカ! なにやってんだよ。ヤロウ、てめえ」
彼はガイを殴り飛ばして気絶させ、相棒の肩を抱えた。「調子に乗りやがって」
「痛てて……」
ナチは腹を抑えて呻いた。手で傷口を強く抑えても血が止まらない。
「やべえ。こりゃあ河童に怒られるな」
「ああ。冬の間、ずっと便所掃除だな。せっかく助けてもらったのにバカナチが」
ぼんやりとしたナチの視界になぜか母親が現れた。泣き顔しか覚えていないのに、今はなぜか笑っている。
「……あれ、母ちゃん?」
何を言っているんだ。ヨーコの顔が蒼白になった。「相棒、どうした」
ナチ、疲れたでしょう。こっちへおいで。
「……なんだよ、ババア。いつもいつもうるせえし」
ナチは母子家庭だ。母親がホステスをしながらひとり息子を育てていた。
だがナチは、派手な化粧をして夜の街へ出かけていく母親を軽蔑していた。
まとわりついてくる母親を疎ましく思い、振り払って母親がめそめそと泣き出すと余計に腹が立った。
早く家を出て、一人暮らしがしたかった。
戦争が起こった日、母親はナチをかばって暗い〈海〉に飲み込まれてしまった。
〈海〉に沈みながら息子に、「身体に気をつけて」などとバカみたいなことを言いながら泣いていた。
「……母ちゃん、ごめん。ごめんなさい」
ナチはうわ言で何度も母親に詫び続けた。
ヨーコは傷ついたナチを抱え、ミチハルのいる正面口を目指して走った。
「お前、母ちゃんの分まで生きるって言ってただろ。死ぬなよ」
※
……急に静かになったな。
ミチハルは正面口の方をしきりに物見している。
「さっきのは威嚇射撃か? どう思う?」彼は隣にいるゴクウに聞いてみた。
聞いたところでどうという答えもないだろうが、自信がなくなると人に相談したくなる性分なのだ。
「かもな。どっちにしろ攻めないと中へ入れないべ」
ミチハル率いる総勢五百人の本隊は、容器に貯めていた雨水を溝へ流し込んだ。
水は溝を伝い、正面入り口の方へと流れこんでいく。こうして〈雨〉の臭気を塔内へ送り込むのだ。
「奴ら、ガスマスクしてたらダメージなくないか?」ミチハルは再びゴクウに聞いた。
こいつ意外と小心なんだよな。ゴクウは嘆息した。「そんときゃ特攻するしかないべ」
漆黒の雨水は溝を通り、やがてフロアに到達した。
「なんだ。水が流れこんできてる」ロビーで待機していた兵隊たちは眉をしかめた。
「これ、〈雨〉の水だぞ……!」
兵隊たちが〈雨〉の侵入に驚いていると、総勢五百人もの野生児の群れが怒声をあげながら塔の中へなだれ込んできた。
「撃て、撃て!」
士官は〈雨〉の刺激臭でふらつきながら号令した。
ヨーコは乱闘が繰り広げられているロビーの手前辺りで、ようやくミチハルを見つけた。
「ミチハル! ナチが家畜にやられた」
ミチハルは片眉を釣り上げた。彼は指揮をゴクウに任せ、ナチを抱えたヨーコとともに仮設テントの中に入る。
虫の息になっているナチのコートを脱がせると、身体に蜂の巣のように穴が開いていた。
――これは、どうやっても助からない。
「これは拳銃の傷じゃないぞ。誰にやられた」
「アロハを着たイカレ男だ。俺らと同じ年ぐらいの。機関銃で撃たれた」
「そんなものを持ってるのは塔の要人くらいだ。まさかジュニアか?」
ミチハルは絶望的な仲間の血止めをしながら尋ねた。「河童はどうしたんだ」
「あれはジュニアじゃねえ。ヤツは自分のことを殺し屋だとか言う気取った野郎だ。南口で待ち伏せしてやがって、河童がここは引き受けるっていうから別行動してたんだ」
あいつが仲間を逃がすなんて珍しい。ミチハルは嫌な予感がしていた。
※
野良たちが流した雨水はロビーを伝い、東口や南口にも流れこんできた。
「う……、気分が悪い」
ずっと東口で待機していた百人の市民たちは〈雨〉の臭気で見境を無くし始めていた。
彼らはただでさえ〈雨〉に弱いうえに、今は酒や薬の禁断症状までもが出始めている。
「全部野良が悪いんだ……女房が死んだのも……倅が死んだのも……ぎゃは」
「ひゃはは、野良を殺せ! ぶっころせえええ」
酩酊状態に陥った彼らは一斉にロビーへ走っていった。
雨水の滴る不利な状況のなか、突然百人もの援軍が現れた幸運を兵隊たちは見過ごさなかった。
彼らは市民たちを人壁にして野良から距離をとり、弾が尽きるまで発砲した。
「散れ、分散しろ。走れる奴は貯蔵庫へ行け!」ゴクウの号令がロビー中に響き渡る。
南口でも異変が起きていた。床下に雨水が流れてきたことで河童は途端に元気になった。
彼の場合は少しくらい〈雨〉の臭気がしていた方がいつもの調子が出るのだ。
「空調の出力を最大に上げて〈雨〉の臭気を外に出せ。今すぐだ」
ルイは戦いながら無線機で兵隊たちに支持を出していた。指揮官が足りないので大忙しだ。
「余裕ぶっこいてる場合か? ジュニア」
猛然と突進してくる河童を跳躍してかわしたルイだったが、目の前に河童のにやけ顔があった。
敵も同時に跳んでいたのだ。河童が太刀を振るとルイの胸部が裂けた。
「サムライを舐めるなよ。ソーセージ野郎」
肉までは引き裂いてない。ルイの着ていた防弾チョッキがまっぷたつに割れただけだ。
「瞬発力も跳躍力もあるのか。トラみたいな奴だな」――これ以上はまずいな。
ルイも実戦経験をある程度は積んでいるが、彼の本領はあくまで暗殺、奇襲攻撃だ。
接近戦では河童の方が上手だとわかると、彼は作戦を変更した。
ルイは回れ右して逃げ出した。
「あ? お? コラ、逃げるな。お前それでも騎士道の国の人間か!」
これから戦いが熱くなるところだったのに。河童は憮然としながら逃げ去る敵を追いかけた。
しかし速い、速すぎる。あっという間に姿が見えなくなった。
「なんて逃げ足の速い野郎だ」
踊り場で敵を見失った河童が溜息をついて引き返そうとしたとき、耳元で囁き声がした。
「僕は騎士じゃない。殺し屋だと言っただろう」
河童の額から冷たい汗が流れる。――この俺が、まったく気配に気づけなかった。
首筋にチクっと針を刺されたような痛みがし、河童の巨体が倒れた。
「捕獲成功。さあて、どうなるかな。まさか死にはしまい」
ゴッドチャイルドが酔う薬を河童に注入したルイは、経過をわくわくしながら見守った。
このケダモノがくねくねと悶えている姿を想像するとちょっと不気味だが楽しそうだ。
「僕は見た目にはこだわらない主義だ。お前は僕の番犬にしてやろう」
やがて突っ伏した河童に異変が起こった。彼もやはりゴッドチャイルドだったのだ。
河童のタテガミが逆立ち、着ているコートとズボンが裂ける。筋肉が膨れ上がり、腰から太い鞭のような尻尾が伸びた。犬歯が発達し、口から涎を滴らせている。
彼は目を金色に光らせて立ち上がった。咆哮すると衝撃波で壁がビリビリと震える。
「すごいな。こんな風になる奴もいるのか」
ルイはケダモノの異変を興味深く観察していた。
河童は近くにいるルイに気づくと、舌なめずりをしながらにじり寄ってくる。
ルイは愉快そうに微笑んだ。
「よしよし、まずはオスワリをしてみろ」
「ウマそうなニクだなオマエ……。クワセロ」ケダモノは言った。
「なに……?」
テキのただならぬ気配にぎょっとしたルイは思わず後退った。
「滴る肉汁、骨を噛み砕いたときのぐしゃっという歯ごたえ、ウマそうだ。ハハハッ」
殺気を覚えたルイが河童めがけてナイフを投げると、彼はそれを口でキャッチしてボリボリと食べる。
蹴ると靴に食いつかれ、それも食べられた。……ルイの顔が引きつった。
「……待て。僕はそういうプレイは嫌いだ」
「手からいくか足からいくか……。だが俺様はアタマからいく主義だあああ」
ケモノはルイの頭にむしゃぶりついた。ヨダレで自慢の黒髪が濡れる。
ヨダレだらけにされると、今度はルイの目が据わった。
「ズに乗るんじゃねえ、ケダモノがっ!」
ルイはスタンガンを腰のホルダーから抜いて、自分にむしゃぶりついているケダモノに押し当てた。
ゾウをも殺傷できる高圧電流が流れる特殊仕様だ。
河童はまったくのノーガードだったため、それは難なく当たった。彼は再び動かなくなった。
「よくもオレの至上の無造作スタイルを乱しやがったな」
ルイは髪を逆立て目を吊り上げながら河童を蹴った。
そして櫛を出して髪を整える。「ケモノには厳しい躾をする必要がありそうだ」
ルイが河童を引きずって連行しようとした、そのとき……。
――河童!
「……ん?」
彼の頭上に大きな風呂敷包みを抱えたカエルが落ちてきた。
河童の危機を発見し、上階の踊り場からダイブしてきたのだ。
必殺の石頭をまともに食らったルイは、カエルを凝視したまま血を噴いて倒れてしまった。
「おい、生きてるか?」
カエルは倒れたルイには目もくれず、河童に駆け寄った。
ボロボロではあるが、さすがにしぶとい。気絶しているだけだ。カエルは倒れている河童を引きずって塔を出た。
※
それから十分後――。
ロビーにいた兵隊たちは空調装置を使って屋内の雨水を乾燥させ、今さらながらマスクをして野良たち相手に善戦していた。
だが、ついに限界がやってきた。身体にまわった〈雨〉酔いで、やがてふらふらになり自ら倒れていった。
「しめた、家畜の奴ら本格的に酔っ払いやがった。貯蔵庫へ向かえ」
うおおおおっ……。
ゴクウは大群を率いて一階の貯蔵庫を目指して走った。
不意に、近くにいた数人が首にナイフを投げられて倒れた。……即死だ。
ゴクウは驚いてナイフの飛んできた前方を見た。
端正な顔立ちの若い男がボール状のものをジャグリングさせながら、バリケード代わりにしている大型バイクにもたれていた。
「なんだてめえは。どけ!」ゴクウは男めがけて持っていた鉄の棒を投げた。
男は攻撃を難なくかわして言った。
「僕は塔の司令官だ。ここから先は市民以外立ち入り禁止になっている」
ゴクウは瞠目した。――こいつがジュニアか!
たしかジュニアは河童たちが相手をしていたはずだ。
――ここにヤツがいるということは、河童が負けたか、逃げたか。
ルイは数百人もの敵を前にまったく動じず、不敵な微笑を浮かべていた。
「なんだあいつ。かっけえな……」
野良たちは口を開けて敵の司令官に見とれていた。
彼らは今まで会ったこともないような美男にすっかり呑まれていた。
豊かな黒髪、端正かつ精悍な顔立ち、長身で均整のとれたスタイル。そんな男が人懐こそうな微笑を浮かべているのだ。……ただ、おでこにできた大きなコブだけは痛々しかったが。
ルイは自分を最大限によく魅せる術を心得ていた。
「この先へ進むというなら全員殺す。お前たちに恨みはないがそういう〈契約〉だ」
ゴクウはルイを嘲笑った。「たったひとりで何ができるというんだ」
「倉庫には兵隊が詰めているし、僕は手榴弾を持っている。お前らを道連れにできる」
ルイが持っているボールのようなものを見せるとゴクウの顔から血の気が引いた。それは爆弾だった。
敵の不安そうな表情を認めるとルイはさらに言った。
「そう身構えるな。僕はお前たちを買っているのだ。個人的な話だが、僕はお前たちのような〈使える〉兵隊が欲しい。塔につかないか。奴隷ではなく市民扱いだ。働き次第では士官に取り立ててやる。どうだ」
それが本当なら、死ぬまで食べるのに困らないということだ。〈雨〉に怯えることもない。
「し、士官だってよ。どうする」
「コラ、騙されんな。……力づくで押すぞ」ゴクウは仲間たちに目配せした。
――ち。さすがに家畜のようには乗ってこないか。
ルイは小さく舌打ちした。先ほどから激しい頭痛と吐き気がして倒れそうだ。
今、これほど多数の軍勢に攻められたら確実に死ぬ。ルイは逃げるスキを伺っていた。
最近、体調がすぐれないのは自覚していた。
普段はどうということもないのだ。ただ、身体を酷使すると全身が悲鳴を上げる。
先ほどの河童との戦いでルイは消耗しきっていた。
〈お前はもうすぐ死ぬ〉
よかろう、つねに死は覚悟していた。そうでなくては殺し屋など務まらない。
だが、これでキングが莫大な私財を投入して育成した組織の〈後継者〉はいなくなる。こうなっては赤の他人を一から育て直すしかないだろう。その体力と情熱が果たして老齢のキングに残っているかどうか。
――結局、何も残らない人生だったな。
それでもルイは約束だけは果たすつもりだ。死ぬ前に、母へ時計を届けてくれそうな人物を捜そうと思った。
塔の人間は話にならない。塔の外で信用に足る者を捜したほうがいい。
それに……、街から出られさえすれば希望はあるかもしれない。
ルイはにじり寄ってくる野良たちを一瞥し、寄りかかっていた大型バイクに乗り込んだ。
アクセルをふかし、野良たちを跳ね飛ばしながら進む。装甲車並みの馬力と丈夫さが取り柄のバイクだ。
狭い通路に固まっていた野良たちは逃げ場を失って次々となぎ倒されていった。
「バイクを転倒させろ!」
ゴクウが怒鳴った。だが、彼自身も飛ばされてきた仲間にぶつかって、後方へ吹き飛ばされた。
「くっそお!」
※
ヒュオオオ……。
仮設テントに冷たい風が吹きこんできた。天井にパラパラと何かが落ちてくる音がする。
「なんてこった。冬だ。雹が降ってきやがった」
ミチハルは息絶えたナチに毛布をかぶせて外へ出た。昨年よりも一週間も早い冬の到来だ。
「そのメガホンで撤退を呼びかけろ、ヨーコ! 吹雪になったら帰れなくなるぞ」
ミチハルはナチのそばでうずくまっているヨーコに命令した。
ヨーコは涙をぬぐって立ち上がり、ナチが持っていたメガホンを手に持って大声で叫んだ。
「吹雪だ! 撤退! 撤退しろ!」
落ち込みそうになったときはこう思おう。――みんな〈雨〉が悪いのさ。
「これは確実に吹雪くぞ。逃げろ」
撤退命令が出たあとの野良の動きは速かった。皆、一目散に塔の外へ飛び出していった。
ルイもそんな彼らをバイクで追撃しながら、塔の外へ出た。
この抗争で百人以上は殺しているはずだ。倉庫もほぼ無事。彼の司令官としての面目は立ったといえよう。
「市民も百人は死んだか。まあ、塔のために死んだのだから英霊として称えてやろう」
バイクにまたがったルイは雹に打たれながら煙草を吸った。
もうユーイチのところへ戻るつもりはなかった。
トランクの中には五百キロもの金塊と携帯しやすい武器類が入っている。
塔の〈開かずの間〉から、バイクと一緒に持ち出してきたものだった。
――王は堅物で何の面白みもない男だと思っていたが、洒落たこともするのだな。
ルイは面白そうに笑った。
〈開かずの間〉を開錠するパスワードは、ルイが唯一ピアノで弾けるパッヘルベルの『カノン』だった。母が父と初めて出会ったときに弾いた曲だという。
英数字の文字盤を鍵盤に見たて、楽譜をすべて入力すると開く仕組みになっていた。
どんな天才でも解読できるはずはない。人の心の中までは。
ふと、ルイは大きな荷物を抱えた野良にしては利口そうな青年と目が合った。
こちらを見て青くなって逃げ出そうとする彼をルイは引き止めて尋ねた。
「お前、この街で女に会ったことがあるか?」
「あ、あるわけねえだろ。放せよ」
ナチの遺骸を抱えたミチハルは内心殺されるのではないかとドギマギしながら答えた。彼はケンカにはまったく自信がないのだ。
「……そうか。抗争は終わった、早く瓦礫へ帰れ」
ルイはおでこのコブに触れ、にやりと笑った。
※
今では誰も使っていない地下鉄道跡をカエルは歩いていた。
いつものカエル頭の格好に着替えた彼は、河童の巨体を背負ってクズ鉄山の前にある出口を目指していた。
カエルはこういった地下道をいくつも知っているのだ。
「……レン」
河童がうわ言を言っている。
最初は腹減った、ニク食わせろといった妙なことを口走りながらカエルの頭をペロペロとなめまわしていたが、今は誰かを呼んでいる。
レンという名前を聞くと、カエルは胸がざわついて落ち着かなかった。
「レン……。てめえゆるさねえ」
許さねえと言いながら、わざとなのか寝ぼけているのか知らないが、河童はしきりにカエルの頭にすりすりと顔を擦りつけてくる。
と ても精神的に耐えられそうにないので、カエルは背中に乗っている重いケモノを振り落とした。
ドテっという音と、「いでっ」という声が同時に聞こえた。
「起きろ。ヒトのフードを涎だらけにしやがって」
「お。おおお? 抗争はどうした。ジュニアはどこへ消えた?」
「しっかりしろよ」カエルは呆れ顔で言った。
「カエル頭! なんでお前がここにいるんだ」
河童は突然目の前に現れた〈親友〉を見て目を剥いたが、今がチャンスとばかりに嬉しそうな顔をして戦闘体勢をとった。
「まあいいや。ここで決着をつけようぜ親友」
カエルは天を仰いだ。――こいつ、今まで誰に運んでもらってたと思ってるんだ。
「さっさと帰って冬眠の準備でもしろ。外は吹雪き始めてるぞ」
ようやく河童は〈ジュニア〉との戦いに敗れて塔から連れ出されてきたのだと思い出した。
彼は恥辱で顔を赤くさせた。「くそ、ジュニアのヤツ……」
河童は自分が線路の上にいることに気づいた。
「ここは地下鉄跡か。お前よくこんな場所知ってるな」
「三年もソロをしているんだ、だいたいわかるよ」
カエルはすまし顔で言った。「忠告しておくが、ここをお前らの縄張りにしようったって無理だぞ」
ばれたか。河童は舌打ちしてあたりを見回す。
あたりは暗闇に包まれており、今はカエルの持っている小さな懐中電灯だけが頼りだ。
河童は何かで頭を思い切りぶつけた。
「天井にも気をつけろよ。お前は馬鹿でかいんだから」カエルは言った。
「もうぶつかってるっつの。ここ、道がほとんど見えねえぞ。肩を貸せ、引いてくれ」
カエルは赤くなって河童の手を叩いた。「お前は匂いでわかるんだろ。ついて来い」
ばれたか。河童はふたたび舌打ちした。
地下道は暗く静かで、お互いの足音と自分の心臓の音しか聞こえない。
「ヒマだな。なんかしゃべれよカエル頭」
無言なのが気詰まりなのか、河童が言った。
「いきなり言われても困る」
カエルも居心地悪そうに言った。「腕。腕当たってる」
「狭いんだからしょうがねえだろ。……しりとりでもするか?」
……尻? カエルが目を剥いた。「あ、ああ。しりとりか。遠慮しておく。心臓に悪い」
「じゃあ、歌うか。今日、新曲を作ったんだ」
「頼むから、それだけはやめてくれ」
カエルは河童と触れないように避けながら言った。
河童は眉を寄せた。――なぜ、そんなに俺を警戒する。
「わかった。離れて歩こうぜ、百メートル向こうに行ってるから」
奇妙な沈黙が二人の間を走りぬけた。
「さっきからなんなんだよお前は! なんか文句あるのか!」カエルが逆切れした。
「何でお前が怒るんだよ!」
「ついて来いと言ってるのに百メートルも離れたら意味がないだろ!」
「近いと嫌がるし遠いと怒るしどっちなんだよ、てめえは!」
再び沈黙が訪れ、カエルが気まずそうに言った。
「僕が悪かった。人と行動するの慣れなくて緊張して。話すよ、聞きたいことがある」
「おう。何でも聞け」
河童は少しどきどきしながらカエルの質問を待った。
「よく映画なんかで、こうして二人で移動するシーンがあるだろ。彼らはどうやって間を持たせているんだろう」
「……そんなの知るか」
ふと、河童の足に何かが当たった。
それは駅名表示看板で、〈みなみかんなか〉と書かれている。駅名には覚えがあった。
彼にとってはとてもなじみがあり、懐かしい駅だ。
「ここ、南カンナカか。朝のランニングでこの駅前をよく通ってたんだ。レンの通学路がこのへんだったから」
「……ふうん」
「レンがよく通ってる本屋がそこの角にあって」
「ああ……」カエルはあくびをしながら聞いていた。
「いつもMマートのブラックコーヒーを買ってたな、レンは」
「……」
カエルは相槌を打つのも面倒になった。さっきから〈レン〉の話ばかりだ。
「道をぼんやりしながら歩いてて、よく角の電柱にぶつかってたっけ」河童は目を細めた。
「危なっかしいから、いつも学校の行き帰りに後ろつけてた。断っておくが、ストーカーじゃねえぞ、声かけても無視されるんだからな!」
カエルは冷や汗をかいた。――こいつ、以前からストーカー体質だったんだな。
「あのさ、参考までに聞くけど、レンてのはお前の何なの。片思いの相手かなんか?」
全然関係ない女の話を聞かされてカエルは面白くなかった。
「片思いじゃねえよ! 絶対違う」河童は激しく否定した。
ああ、片思いなんだ。カエルは納得した。
「生き別れた因縁のある女ってとこだな。お前は何か思い出さないか。レンという名で」
「全然」
カエルはあっさり答えた。
河童はがっかりした。想像した以上にカエルの記憶喪失は重症らしい。
「何かあんだろ。近くに学校があったとか、駅前に家があったとか」
「さあ、家も学校も日本のどこかにあったとしか……」
ヒトが真面目に話しているのにこのクソガキが。河童はむっとした。
「さっきの話は全部お前のことだよ、レン。お前がレンなんだろ」
「はあ?」
カエルは思わずかっとした。
――よりによって僕が電柱にぶつかる女? ソロ歴三年の、街で最強クラスの僕が? 侮辱もはなはだしい。
「そんなことを考えながら僕に一年以上もつきまとってたのかよ!」
「いや、最初は兄弟だろうと思ってた。どっちかだろ、違うのか?」
「……」
カエルはショックを受けていた。自分は河童に能力を買われていたわけではなかったのだ。
街で最大規模のチームリーダーが嫌われ者のソロに構うなんておかしいと思っていた。
たまには物好きもいるのだろうと少しばかり親しみを感じていたのに。
――親友だとか言って油断させて。嘘吐き。
結局そうなんだ。自分に友だちなんてできるはずがない。心が凍っていくのをカエルは感じた。
「それなら最初からそう聞けよ。紛らわしい奴だな。……違うに決まってるだろ。お前の知ってるレンは顔に傷があったか?」
「いいや。傷なんか見たことがない」河童は否定した。
「僕には顔に大きな傷があるんだ、昔から。手足にアザがあったか?」
カエルは上着とズボンの袖をまくって自分のアザだらけの腕と足を見せた。
「いや、そんなものはない。……すげえ傷だらけだな。俺も負けてないけど」
「よく見ろ、古い傷だろ。この傷は〈戦争〉が起こる前につけられた。僕は学校中の嫌われ者で、同じ場所で息を吸うことも許されないいじめられっ子だったんだよ。……今と同じだ」
河童の表情が固まった。
「兄弟は年の離れた弟だけ。だいたい僕は女っぽく見える? レンと似てるのか?」
「……いいや」
レンは話し方もしぐさも女らしい娘だった。体型に関してはまるで似てない。
「わかったろ。僕はレンという子じゃないし、家族でもない。人違い、別人だ。ふざけんな」
河童は何も反論できなかった。
そういえば、これまでにレンに兄弟がいるという話は聞いたことがない。
カエルとレンを結ぶ決定的なものは匂いだけだ。
「匂いが、同じなんだ。同じ甘い匂いがする」
カエルは呆れた顔をした。「石鹸かシャンプーだろ。同じものを使えば同じになるよ」
「人違い……」河童はがっくりと肩を落とした。
「わかったら二度と僕につきまとわないでくれ。このハシゴを登ればクズ鉄山だ」
カエルが不機嫌そうにハシゴを指差したとき、突然河童のパンチがカエルの頬めがけて飛んできた。
カエルは数メートルも吹き飛んで、壁に頭をぶつけた。
「俺を舐めるな。お前は俺のエモノだ、人違いとか関係ねえ。……ま、今日は助けてもらったから捕まえるのだけは勘弁してやるよ。またな、親友」
失望なんかしない。……親友だろ?
ケモノのような河童の顔が、カエルの記憶の隅に隠れた〈彼〉の顔とひとつになった。
「う……。あ……」
カエルは顔についた血をぬぐいながらうめき声をあげた。
鼻の頭がつんとして、涙が止まらないのは殴られた痛みのせいなのだろうか。
……それとも〈彼〉の無事がわかったからだろうか?
※
河童の姿が見えなくなるとカエルは痛む頭をさすった。
壁にぶつけた頭は痛いが、殴られたところはさほど痛くない。
あいつ、やっぱり手加減してやがるな。カエルは憮然とした。
外へ出ると吹雪に巻き込まれそうだ。カエルは地下鉄を引き返して帰ることにした。
「お。湧き水発見。ツイてるな。ここはクズ鉄山のそばだし、河童に教えてやるか」
〈雨〉の水はそのままでは飲めたものではないが、地面にしみこみ粘土質の地層にろ過されると真水になって、こうした地下洞に染み出してくる。野良にとっては貴重な水源だった。
カエルは水筒を出して、そこに水を満たす。濡れた手で傷に触れるとひんやりとして気持ちよかった。
そのとき、不意にいつものノイズが彼の耳元に落ちてきた。
……レン。大丈夫か?
カエルの目が大きく見開かれた。――僕は、レンを知っている……?
オマエノコトガ スキダ。
「あああああっ」
凄まじい頭痛と吐き気がカエルを襲い、目の前にいくつものフラッシュバックが現れては消える。
それは満ち足りた気持ちとは程遠い。〈彼〉への罪悪感と……憎悪。




