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エデンの天使  作者: 如月十五
エデンの天使
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ジュニア_0412修正版

 彼は幼い頃から〈ジュニア〉と呼ばれ、大勢の大人たちに囲まれて暮らしていた。

 本名はクラウスⅡ・ルイス・クレメント。

 クラウスは(キング)と呼ばれるドイツ系の父親と同じ名前、ルイスはフランス人の母親がつけた名前〈ルイ〉のドイツ語読みだ。彼は父のくれた名前も父のことも好きではなかったので、名を尋ねられればルイだと答える。

 彼に名を聞くような人間は皆無に等しかったけれど。

 ルイの父親はタイム誌の表紙を飾る大物資産家よりもはるかに金持ちであった。

 だが、世界規模の武器密輸・契約殺人を仕切る組織の総帥であり、公の場には姿を現さない。ルイも若干十六歳ながら横浜に拠点を構える極東支部のボスとして君臨していた。

 彼に与えられた最初のポストは見習いだ。そこから自力でのし上がってきた。


 当初、キングは監視下にあるミュンヘンの屋敷からルイを野放しにすることに難色を示した。

 息子がフランスにいる母親に会いに行くに違いないと危惧したからだ。

 普段は非常に自制心の強いルイだったが、彼は冷静な仮面の裏に燃えたぎる激情の炎を隠している。彼が逆上すると、組織に君臨するキングですら手を焼いた。

 自分の実力を試してみたい、と熱弁を振るう王子ルイの要求をキングは渋々呑んだ。

 欧州から遠く離れた極東へ行くことと、キングの選んだ五人の側近をつけるという条件付きで。

 東京国際空港に着くや、ルイは側近という名の監視たちを見回した。

「うるさい(ケーニッヒ)がいなくて清々するな。奴の顔を見なくて済むと思うと気分がいい」

 側近たちが非難めいた視線で見返すのを見て、ルイは鷹揚に微笑んだ。


 ルイは五歳のときに母親の暖かな膝の上からひっぺがされ、コンクリートの部屋に放り込まれて組織の一員として教育された。

 キングが半ば誘拐するようにルイを連れ去ったのは、息子として可愛がるためではなかった。

 ……彼を自分の忠実な手駒として仕込むためだ。

 キングはかつて優秀な殺し屋でもあり、現役を退くと〈殺し〉を代わりに引き受ける手駒が必要になった。彼には三人の娘がいたがいずれも妻の連れ子であり、実子は愛人に生ませた末子のルイだけだ。

 ルイはキングにとって唯一の子だったが、愛人の子、庶民の血筋と蔑まれてきた。

 徹底して他人を信用せず、自ら手を汚すことを厭わない。ルイは極東支部の頂点として君臨してからも、商談のため、あるいは商売敵を始末するために世界中を飛び回っていた。組織では大胆不敵で冷酷だと評判だ。

 だが、いくらルイが荒稼ぎをしても、キングの彼に対する態度は常に冷たい。

 度々、キングに呼び出されては叱責を受ける。


 今回もろくでもない用事で呼び出された。しかも、北米にある組織の本部ではなく、幼い頃を過ごしたミュンヘンに呼ばれた。

 ルイにとって、嫌な思い出しかないこの屋敷に足を踏み入れるのは苦痛なことだった。

「勝手に支部を仕切ってボス気取りか。お前は私の命令が聞けない愚か者のようだな」

「僕は組織に貢献しています、ケーニッヒ」

 ルイは心底憎む相手を前にして事務的に告げた。彼は徹底してキングの部下である態度を崩さなかった。

 赤の他人のように振舞うことが、彼流の報復であり反抗だった。

「他の誰よりもうまくやっている。今まで取引のなかった〈東〉に密輸ルートを作った。稼ぎは昨年の五倍になりました」

 ルイは大量の粗悪品を〈東〉に高額で売りつけ、荒稼ぎをしていた。

「おかげでかなり恨まれているようだな。私なら、そんなリスクは背負わない」

 キングの態度はいつも冷ややかだった。

 ルイがいくら熱心に働いても、むしろ必死であるほど父親は彼を思い上がっていると罵り、「さすが、気位が高いだけの不遜なフランス人だ」と貶める。

「お前は母親とそっくりだ。つけ上がるな」

 母親の話をされると、ルイのふてぶてしい鉄面皮のなかに殺気が宿る。

 息子の怒りを見てとったキングはほくそ笑んだ。

「マツイにすべてを相談しろ。彼はお前より経験豊富だ」

 ルイの座っているソファーの横に控えていた極東支部長のマツイが笑みを浮かべた。

 媚を売ってのし上がってきた男だ。キングはなぜかこの東洋人をいたく信頼しており、極東支部長のポストを与えたどころか、今はルイのお目付け役になっている。

 しかし、ルイはこの男が大嫌いだった。

「私は日本人に敬意を払う。日本人の美徳をお前も学ぶのだ」

 ルイは冷笑した。――媚び笑いが得意なのと、追従好きで主体性のないところを?

「忍耐強さと忠誠心だよ」

 吹き出しそうになるのをルイはかろうじて抑えた。

 ――今までさんざんお前のために働いてきたじゃないか。殺してやりたいのを我慢してしたがっているというのに。

 ルイは皮肉を込めて言った。

「忠誠の証として貴方の靴にキスでもいたしましょうか」

「高慢なお前にそんなことができるのかね」

 キングが口を歪めて言うと、マツイも追従するように微笑した。

 ルイは目を細め、ソファーから脚を投げ出して靴をマツイの前に突き出した。

「おい、マツイ。日本人の忠誠心とやらを見せてみろ」

「つまらないことをするな、クラウス」キングは息子をたしなめた。

「仰せのままに」

「マツイは組織の幹部だ。自分の身の程をわきまえろ」

 正式には組織の見習いでしかないルイは薄く笑い、自分が住まい兼オフィスとして使っている極東支部の快適なアジトを思った。

 あのビルはキングがマツイに与えた城だ。

 キングは可愛い部下にはビルを与えるが、息子のルイには任務と叱責しか与えない。


 ――この男に何を求めても無駄だ。……昔からそうだった。

 ルイは乾いた気持ちで席を立った。対談は終わった。

 キングがマツイと二人だけで話がしたいというので、ルイがひとりで部屋から退出しようとすると、キングがルイを呼んだ。

「クラウス。お前はアントワーヌと会っているのか」

「まさか。一度も会っていません」

 ルイは隙のない微笑を浮かべて言い切った。

 キングが慈悲深そうな、悲しげな表情を作って他人を騙せるように、ルイもまた魅力的な笑顔を作って他人を騙すことができる。

 しかしキングはすべてを見透かしたように言った。「そろそろ乳離れをしたらどうだ?」

 ルイはかっとし、一瞬だけ気性の激しそうな十六歳の少年の素顔を覗かせる。

 だが、キングは息子の粗相を咎めず、深い悲しみをたたえた司教のような表情で言った。

「主の御加護を。アーメン」


 父の執務室を出たルイは、実家に五分も留まらずに国際空港へ向かった。

 車中で煙草でも吸おうと思い、内ポケットを探っていると、古い懐中時計が出てきた。

 ルイが幼い頃に母のアントワーヌ・ボナからもらったものだ。


 〈ほら、この時計。変わっているでしょう〉


 かつてキングはルイを非情な殺し屋にするため、例の悲しみに満ちた目をしながら彼が大切にしていたものをことごとく奪って捨てた。

 だが、この時計だけは捨てなかった。


 〈……いい子ね、ルイ。貴方はママの大事な宝物よ〉


 アントワーヌは小さなルイを膝の上に乗せていつもピアノを弾いていた。

 曲目はパッヘルベルの『カノン』だ。芸術とはまるで無縁のルイもこの曲だけはピアノで弾ける。


 ――僕、必ずママに会いにいく。偉くなって迎えにいくよ。誓うから、泣かないで。


 我に返ったルイは時計をポケットにしまった。感傷は冷静な判断力を奪う。

 車から降り、空港のロビーに入るとルイのカンに障る煩わしい声がした。

「ボス。日本行きのファーストクラスチケットを手配しました」

 お目付け役のマツイが先回りして空港で待っており、涼しい顔でルイを出迎えた。

「僕はこれから休暇だ。ひとりになりたい。迎えにこなくていいと命じたはずだ」

「ボスをひとりにするなというのがキングの命令です」

 ルイは舌打ちし、さっさとリヨン行きの飛行機に乗り込むとマツイも続く。



 彼らは空港から車を拾ってリヨン郊外にある小さな町を訪れた。

 毎年、この季節になるとこの町ではチャリティー・コンサートが開かれる。アントワーヌもピアニストとして出演していたのだが、ここ二年ほど体調不良を理由に欠場していた。

 ふと、ルイがショウウィンドーに貼られたコンサートのポスターに目を留めたので、マツイもそれにならった。

 そこには神秘的なまなざしの黒髪の美女の写真と、それを見つめる彼女とよく似た若い顔が写っている。

 美しいが儚げではない。凄みのある端正な顔立ちだ。

 ――こいつが女だったら俺のテンションも上がるのだがな。

 華のある力強い美貌をマツイは好む。性格を除けば、ルイは理想のタイプだった。

 だが、大嫌いな男の視線に気づいたルイは冷ややかに言った。「僕を見るな。お前の視線は不快だ」

 ルイはいつもマツイをあからさまに邪険にした。このプライドの塊は、東洋人が自分を差し置いてキングの信任を得ている現状に我慢がならないらしい。マツイは聞こえないふりをして言った。

「アントワーヌ様に会われるのですか。キングから禁止されているはずです」

「ただの音楽鑑賞だ」

 ルイは会場のオーナーがよこしたリムジンに合図した。彼は毎回、このチャリティー・コンサートに莫大な寄付をしている。オーナーは〈さる財閥の御曹司〉の顔をすっかり覚えてしまい、毎年招待のメールを送ってくる。

「言いたければ言えばいい。密告はお前の得意分野だろう?」

 ルイは軽蔑したように微笑んだ。

 組織では如才なさでならしたマツイも、御曹司のルイだけは苦手だ。そばにいると憎しみしか湧かない。

 見た目が好みのタイプだけに余計に腹が立ってくる。主人への嫌がらせはマツイのささやかなウサ晴らしだ。


 コンサート会場は規模こそ小さいが、音響設備が整っており本格的だった。

 今夜は特別ゲストとしてピアニストのアントワーヌとその家族が演奏する。

 ルイは『ジングルベル』を演奏する幸せそうな一家を眺めていた。

 背の高い男はヴァイオリンを弾き、ルイと同じ黒髪の美しい女性はピアノを弾いていた。

 三、四歳くらいの小さな女の子がアントワーヌの隣に座り、母親と一緒に鍵盤を叩いている。

「あれはボスの妹さん、ですか。母上はご結婚されたんですね」

 マツイはそれとなく御曹司の反応を伺った。

「……静かに聴けないのか」

 ルイはお目付け役を叱っただけで平然としている。



 ここは幼いルイがアントワーヌと一緒に暮らしていた町だ。

 十八歳の若きピアニスト、アントワーヌ・ボナは留学先のミュンヘンでキングと不倫の恋をし、わずか二年で冷酷な愛人に別れを告げられこの町へ帰ってきた。ルイはその八ヶ月後に生まれた。

 後に息子が生まれたことを知ったキングはボナ家を陥れて借金まみれにさせ、借金のカタとして当時五歳のルイを連れ去った。そのときに彼はクラウスという名前を与えられた。

 別れの日、ただ泣き崩れるだけのアントワーヌの手をとって、幼いルイは母親と神に誓った。

「必ず会いに行く。偉くなって、ママを迎えにいくよ」

 アントワーヌはずっと待っていると言った。何年でもルイを待ちながら、毎年ここでピアノを弾いている、と約束した。

 それがこのチャリティー・コンサートだ。


 ルイは悪に染まりきっていたが、約束は必ず守る。

 会いに行くと誓えば死体になってでも会いにいくし、殺してやると告げれば地獄の果てまでも追って殺す。

 ルイは毎年、それこそ命がけでコンサートに駆けつけて母親の姿を目に焼き付けた。

 コンサートが終わると楽屋から母親がひとりで現れないだろうかと待っていたりもした。

 だが、アントワーヌは男と一緒に楽屋から出てきた。今、ステージでヴァイオリンを弾いている男だ。

 そのとき、ルイは母親の前に現れようとしている自分がひどく場違いに感じられた。


 やがて母は結婚し妹が生まれ……。ついにアントワーヌは約束の日になってもピアノを弾かなかくなった。


 今年アントワーヌが復帰すると聞き、ルイは今度こそ母に会おうと思っていた。そういう約束だったからだ。

 彼女がまだ息子のことを心残りに思っているのなら、名乗り出て「もうピアノは弾かなくていい」と告げるつもりだった。

 すべての曲目とアンコールが終わると、イベント主催者であるオーナーとゲスト奏者のアントワーヌの一家が舞台から降りて、観客席へ挨拶にまわり始めた。

「マツイ」

 ルイは傍らに控えている男を呼んだ。「オーナーに寄付をしてきてくれ」

「差出人は〈クラウス・ジュニア〉でよろしいですか?」

 ルイはバカな部下の発言を鼻で笑った。殺し屋のコードネームを出してどうする。

「名乗る必要などない」

 邪魔者を追い払い、ルイは髪を撫でつけ呼吸を整えた。


 ルイは静かに目を閉じた。いつからだろう、大好きな母が他人よりも遠くに見えるようになったのは。

 母親の一家はルイの座っている席に少しずつ近づいてくる。落ち着かず、彼は懐中時計を握りしめた。

「ボス。オーナーがぜひボスに挨拶したいとおっしゃっています」

 ルイは小さく舌打ちした。名乗る必要はないと言っているのに。人前で〈ボス〉はやめろと言っているのに。

 あのバカを止めなければ。ルイが席を立ったとき、声をかけられた。

「……あの。ムシュウ」

 はっとしてルイは声の方を振り向く。

 マントワーヌだった。彼女は夫と娘を連れ、ルイが今まで見たこともない穏やかな笑顔を浮かべてルイのすぐそばに立っている。

「これはあなたの帽子かしら?」

 アントワーヌはどこか遠くを見るような神秘的な瞳をしてルイに帽子を手渡した。

「ね、ママ。この人のお帽子だったでしょう」

 少女がアントワーヌのドレスにまとわりつきながら言った。

「これはどうも」

 ルイは静かに息を吐いた。「素晴らしい演奏でしたよ、マダム」

 かつて母だった女性はルイを見てにこりと微笑んだ。

 その表情はどこまでも穏やかで、動揺の片鱗もない。目の前にいるのが自分の息子だとは夢にも思っていないのだ。

「あの……」

 アントワーヌは穏やかに微笑んだままだ。ルイが決意をして名乗ろうとしたそのとき……。

「こんなところにおられたのですかムシュウ。特別席をご用意しておりましたのに」


 オーナーがマツイと共にルイのそばにやってきた。

 ルイは心の中でため息をつき、母親に向かって隙のない笑顔を浮かべた。

「いえ、なんでもありません。失礼」

 ルイは微笑みながら帽子を目深に被った。

 ――気づくはずがないか。僕はもうあの頃とは違う。すっかり顔つきが悪人ヅラになってしまってね。

 昔の約束だ。ルイは遠ざかっていくアントワーヌの後ろ姿を見ながら誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。


 さようなら。お母さん。



 月明かりが町に差し込んでくる。幻想的で美しい町だ、とルイは歩きながら思った。

 ルイはオーナーからの夕食の招待をマツイに押し付け、ひとりリヨン郊外の小さな街を歩いていた。

 ――空港へ戻ると朝になってしまうな。帰国は明後日にするか。

 彼は知らぬうちに古ぼけた懐中時計を眺めている自分に苦笑した。

「ふん。習慣とは恐ろしいものだな」

 こんなものをいつまでも持っているから感傷的になるのだ。捨ててしまおう。


「純金か。あんた、いい時計を持っているな」

 ふと横を見ると、スキンヘッドの大柄な男がルイの側を歩きながらニヤニヤしている。どうやら街にたむろしているチンピラらしい。

 ちょうどいい時計の処分先を見つけたルイは男の方を向いて鷹揚に微笑んだ。

「これか。もう要らないものだ。欲しければやるぞ」

「欲しけりゃやるだと。横柄なガキだな」男は残忍そうな微笑を浮かべ、拳銃をルイに突きつけてきた。

「どうぞもらってください、だろ。お坊ちゃんよ。まだまだ持っているんだろう、持っている金を全部よこせ」

「時計だけで我慢しろ」ルイは肩をすくめた。

「おかしなマネはするな。まずは時計をこっちへよこせ」

 ルイはチンピラに懐中時計を放り投げた。

 ……と、同時に彼は袖に仕込んでいたナイフで瞬時に相手の心臓を串刺しにした。

 ナイフを握った拳をわずかにえぐると、時計に向けて伸ばしたチンピラの手が空を切り、時計はルイの掌に納まった。

「どうした、いらないのか。では返してもらおう」

 ルイは革手袋にわずかについた血をハンカチで拭き、道ばたに転がっている死体を見下ろした。

 何も感じない。モノが転がっているだけだ。


 キングに引き取られたルイは、ミュンヘンにある屋敷の薄暗い牢獄のような部屋に閉じ込められ、キングの優秀な手駒となるため徹底した教育を受けてきた。

 子供らしいことはさせてもらえず、話し相手もいない。泣き言をいえばキングや教官の鞭が飛んでくる。

〈非情に徹しろ。私とお前は親子ではない、敵だ〉

 それはルイが教わったキングの人生哲学、ひいては組織の哲学だ。

 キングは、これまでにただの一度もルイに父親として接したことはなく、彼に憎しみだけを植え付けた。


 険悪な親子仲が決定的になったのはルイが十歳のときだ。

 クリスマスにルイはキングからラフ・コリーの子犬を贈られた。

 孤独な少年は子犬を見て頬を紅潮させ、「ケーニッヒ、ありがとうございます」と何度も礼を述べた。

 生まれて初めて父親からもらったプレゼントに有頂天になった。

 ルイは子犬をアルノーと名付け、どこへ行くにも犬を連れて行った。眠るときもベッドに入れて一緒に寝た。

 明るく笑うようになったルイに驚いた使用人が思わず声をかける。

「その犬はどこから連れてきたんですか。旦那様に叱られますよ」

「平気だよ。お父さんからもらったんだもの」生まれて初めて、彼を父と呼んだ。

 ルイのただひとりの友だち、アルノーがワンと吼える。

 ふさふさした首に顔をくっつけると生き物の匂いがする。血の脈打つ音がして暖かい。

 母親と引き離されて以来、初めてルイに訪れた幸せの日々だ。

 しかし一年後、愛犬はルイの目の前でキングに撃ち殺された。


「犬が友だちなどと甘ったれるな、クラウス。私の教えを忘れたのか」

 キングは、死んでいるアルノーを抱き呆然としている息子の襟首を掴んで言った。

「誰も信じるな。つねに疑え。この世には自分と敵しかいない」

 ルイはキングにこれでもかというほど鞭でぶたれながら思った。

 ――殺す気だったんだ、最初から。僕を試すつもりだったんだ。

 自分には心を許していい存在など何もないのだ。ルイの中で何かが壊れていった。

 十二歳のとき、初めて人を手にかけた。

 とある国の政界の大物が演説中、バラの花束を抱えた無邪気な笑顔の少年によって一撃で殺された。

 少年にひとかけらの躊躇いもなかった。

 殺し屋〈クラウス・ジュニア〉は世間を震撼させた。



 ローヌ川に面したリヨンのホテルの最上級の部屋で、ルイは窓辺に座って夜景を眺めていた。

 彼は前髪をかきあげ、自嘲気味に笑った。

「仕事しか知らない人間は、こういうときに退屈で困る。くだらないことを思い出す」

 彼はプラチナ製のシガレットケースから煙草を出して吸った。美味くはないが、気は紛れる。

 キングに知れたら依存性のあるものを摂るなと激怒するだろうが。

 ルイは鼻で笑った。――あいつは僕のやることすべてが気に入らないらしいからな。

 部屋にお目付け役のマツイがやってきた。

 彼には、何も告げなくてもルイの居場所を嗅ぎ当てられるという特技がある。さすがは忍者の国の人間といったところか。

「オーナーは大喜びでした」

「ご苦労」

 ルイは口の端だけ歪めて言った。「下がっていいぞ、明日ここを発つ」

 マツイが下がろうとしないのでルイは怪訝に思った。

「何だ、褒美でもほしいのか?」

「いえ、ボスが辛そうに見えましたので」

「辛そう。僕が?」

 ルイは片眉を上げた。辛いなどと感じたことはここ数年、ない。

 マツイは神妙そうな顔で言う。

「わが子の顔を忘れるなんて、とても母親とは思えません。さぞ落胆されたでしょう」

 ルイはつまらなそうに煙草の煙を吐いた。

「僕は招待されたコンサートの演奏を聴きに行っただけだ」

 どうりでやたらと大声を上げていると思った。こいつは邪魔をしにきたのだ。

 ……だが、母親が自分に気づかなかったのは事実だ。

「キングもボスに冷酷すぎます。貴方が父親似ではないからでしょうな」

「口が過ぎるぞマツイ」ルイはうるさそうに首を振った。


 マツイはほくそ笑んだ。――取り繕っているが、これは相当ダメージを受けてるな。

 ルイは同情や憐れみを何よりも嫌っている。それを知りながらマツイは彼を煽っていた。

「ボスはまだ若い。本当の愛を知らないのです。そろそろ私を邪険にするのはやめて頼ってくれませんか。私はキングよりもむしろ貴方の味方になりたい」

 ルイは薄笑いを浮かべた。

「頼りにしている。お前は利用しがいのある豚だ」

 どこまでも根性のひねくれたガキだ、マツイは思った。

 これが十数年後にはシンジケートの王となる男、俺の雇い主になる男だ。

 親子仲は険悪に違いないが、老いぼれが死んだらこの小僧が組織を牛耳るようになるのは確実だ。


「息子は誰にも懐かない猛獣だ。お前に飼い慣らせるかね、マツイ」

 御曹司を預かりたいとマツイが申し出たとき、キングは冷たい微笑を浮かべて言ったものだ。

〈ジュニア〉は、かつて氷の心と揶揄されたキングよりも難物だと。

 愛情に飢えているらしいので、ちやほやすれば寵愛を得られるかもしれないとマツイは思ったが、かたくななルイにはまったく通じない。

 酒や女、ドラッグを与えても眉ひとつ動かさない。

 ルイは男のマツイが見ても、はっとするような美形だ。本性は高慢陰険我侭残虐とひどいものだが、物腰には品がある。先程のコンサートもすごかった。女たちは演奏を聴くどころではなく、彼に見とれていたのだ。


 それなのに、ルイには浮いた話ひとつないのがマツイには不思議だった。

 十六歳なら色気付く年頃だろうに、彼が目の色を変えるのは母親と仕事の事だけなのだ。

「ボスには心の隙間を埋める存在が必要だ」――自分は哀れなガキだとさっさと気づけ。

「……」

 ルイは煙草の煙を吐いた。

「恋人を作られたらどうです。禁欲主義では体に毒だ。よければ私がまたお相手を紹介いたしましょう。ボス好みの女性を……。あ、もしかして女でない方がお好みですか」

 ルイは無表情のままマツイを手招きした。

 マツイがいそいそと御曹司に近寄るとルイは煙草を口に咥え、バカなことを言うバカな部下を思い切り蹴り上げた。

 ルイにキックされたマツイは血を噴いて床に突っ伏した。

「くどいぞ脂豚。下がれ」

「アブラ豚……?」

 マツイは口に付いた血をぬぐい、恨みがましい目で彼を見た。

 ルイは嘲笑して札びらをマツイの顔にぶちまけた。

「性欲をもてあましてるのはお前だろう。街で雌豚でも買ってこい、褒美だ」

 マツイの目に憎悪の炎が燃えた。――今日は豚呼ばわりか。まったく日本語が達者なガキだよ。母親に忘れられたとベソをかいてるかと思えば薄笑いを浮かべていやがるし。

 マツイはルイの背信行為について、逐一細かくキングに報告していた。

 毎年母親の顔を見にフランスへ行っていること、〈エデン〉を相手に勝手な詐欺行為を行っていること、幹部である自分に対する侮辱的な行為の数々などだ。

 報告は功を奏しているようで、キングのルイに対する態度はますます冷たくなっている。あんなガキは勘当されてしまえばいいのだ。

 ――もし勘当されて無一文になったら、俺の息子にしてやろう。


 二年前にマツイの補佐として十四歳になったばかりのルイが日本にやってきた。

 忍耐力と忠誠心を叩き込んでほしいとのことだった。また、キングは極東支部のために超高層ビルまで新築してくれた。以前から御曹司を狙っていたマツイは大喜びした。

 マツイは美少女に限らず美しい少年も好きだ。類まれな美貌の持ち主である御曹司を篭絡し、父のように慕われ頼られることを妄想して悦に入った。もちろん、それでマツイの将来も安泰になる。キングの死後、組織に君臨できるかもしれない。

 だが、ルイを可愛い王子様だと思っていたマツイの目論見は大きく外れた。

 御曹司は日本に来るなりボスの椅子でふんぞり返り、高圧的な態度でマツイに言った。

「僕はお前の指図は受けない。今年中に稼ぎを倍にする」

 ルイはマツイにまったく敬意を払わないどころか、使い走りとして利用した。マツイが苦労して築き上げた組織で勝手に実権を握り、やりたい放題だ。

「稼ぎが五倍になったぞ。お前は今まで何をやっていたのだ」

 ――キサマのお守りだ。クソガキめ。

 部下たちが見ている前で侮辱されたマツイは御曹司への憎悪の炎を燃やした。

 何とか弱みを握ってやろうと躍起になっているのだが、遊興を勧めても冷たくあしらわれる。〈ジュニア〉は子供ながら弱ったところをまったく見せない難物だった。

 最近はすまし顔の王子様を妄想の中でいたぶるのがマツイのひそかな楽しみだ。

 ――ガキが絶望して泣き崩れるところを俺は一度見てみたい。



 こうして災厄の七月二十一日がやってきた。

 キングによって帰国命令が下ったルイと五人の側近は組織のチャーター機が待機している横須賀へと、各自別行動で向かっていた。

 出国までに数日も要したのはルイの想定外であった。

 アジトに設置してあるヘリポートが何者かに爆破されたのだ。

 ルイはオフロードバイクで移動していた。彼はバイクから飛行機まで、たいていの乗り物は運転できるのだ。


 首都高速道路は〈エデン〉の兵士によって封鎖されており、避難民たちを検問しているのが見えた。

「通れるのは外国人だけだ。日本人は取り調べを受けてからでないと通せない」

 ここでもやっぱりルイにへばりつき、自動車に乗ってきたマツイが悲痛な顔をした。

「IDカードを見ろ、俺はアメリカ国籍だ。日本人じゃない」

「名前も顔もいかにもアジアだな。取り調べをしてから解放する」兵士は言った。

 ルイは他人のふりをしてすましていた。こういう場合、黙秘することと仲間を売らないことが暗黙の了解だ。もっとも、マツイを助けたいとも思わなかった。

「僕はフランス人だ。お前らの戦争とは関係ない、ここを通せ」

「身元が証明できれば出国を許可する。身分証を見せろ」

 ルイはヘルメットを取り、あらかじめ用意していた偽装パスポートと免許証を出した。

「ルイ・アンコニュ、フランス国籍か」兵士はルイの顔を確認した。「よし通れ」

Merciありがとう

 礼を言ってエンジンをかけたとき、背後からマツイの声がした。

「奴は〈クラウス・ジュニア〉だ。お前らから数千憶を騙しとった男だぞ。通していいのか!」

「なんだと?」

 エデン兵がマツイに向けた銃をルイに向けた。「止まれ。もう少し調べたい」

 ルイに向かってマツイがわざとらしく泣き出した。

「ボス、私を見捨てるなんてひどいじゃないですか。……貴様も道連れにしてやる」

 ――どこまでも忌々しい豚だ。

 ルイは舌打ちすると、アクセルを全開にふかしてバイクを発車させ、検問のバリケードを強引に突破して逃走した。

 しばらくカーチェイスを繰り広げたのち、突然頭上に何かが落ちてきたことだけは覚えている。強い衝撃とともに身体が宙を飛び、ルイはそのまま闇に落ちた。



 ルイは闇の中を漂っていた。見渡す限り漆黒の闇が広がっている。

 ――海へ投げ出されたのか。あれから何が起きた。ここはどこだ。

 闇の中に、白い人影が漂っているのが見えた。ルイは反射的に袖に仕込んでいるナイフに意識を集中させた。

 しかし人影は微動だにせず、ただ空を見上げているだけであった。

 人影につられて空を見上げると、天には無数の星空が広がっている。


 ワン。ワン。

 ふと、犬の鳴き声がして、ルイははっとした。

 目の前に、見覚えのある若いラフ・コリーがこちらの顔を覗きこんでいる。

「アルノー。どうしてお前が」

 撃ち殺されたはずだ、と言いかけてやめた。自分は死んだのだと思った。

「おいで、アルノー」

 ルイは殺し屋の仮面を脱ぎ捨て、愛犬の首を抱きしめた。

「ずっとお前に会いたかった」

 ――これが死というものか。なんて静かなんだ。このまま何も考えずに闇に溶けていきたくなる。

 ルイが目を閉じていると、手に生暖かい液体が流れてくるのを感じた。

 嗅ぎ慣れた血の匂いに驚いて、彼は目を見開いた。

 さっきまでいたはずの愛犬の姿がない。


 〈……このまま静かに眠れると思うのか。凶悪犯罪者クラウス・ジュニア〉


「誰だ」

 ルイはサバイバルナイフを構えて周囲に視線を走らせた。

 耳には気にさわる雑音が落ちてくる。だが、目に見えるのは闇と亡霊のような人影だけだ。

「ルイ……」

 目の前に、アントワーヌの人影が現れたのでルイは思わず後退った。

「貴方、どうしてフランスへ来たの。来てはいけないとお父様に言われたでしょう」

 ――落ち着け、これは幻覚だ。

 ルイはナイフで影を引き裂こうとした。しかし、なぜか手は動かなかった。

「なぜフランスに来たかだと。約束したからだ。だが、もう会うことはない」


 〈母親から抱きしめてもらえると思ったのだろう?〉


 ルイの表情が強張った。「ば……ばかな」

 最初から諦めていた。あの女は息子に気づきもしなかった。とっくに僕を忘れていたのだ。

 楽屋裏から男と一緒に出てくるのを見た時からわかっていたことだ。


 ……でも、認めたくなかった。

 違う。ルイは、我に返って母の白い影を切り刻んだ。

「くだらない幻覚だ。いや、夢か?」

 ルイは気を紛らわせようと上着のポケットに入ったシガレットケースを探した。

「煙草はやめろと言っただろう。クラウス」

 幻覚だとわかっていてもルイの手が震えた。だが、精一杯の虚勢をはった。

「……次はお前か。残念だったな、僕はお前を見ても腹立たしさしか感じない」

 父親の影は面白そうに笑う。「そうかね。その割には仕事熱心だったではないか。私に認められたい一心で」

「お前がそう仕向けたんだ」

 あいつは組織の総帥、僕の主だ。親だと思ったことは一度もない。

「憎いというのかね。ならば私を殺せばよかった。チャンスはいくらでもあったはずだ」

 激怒したルイは父親の影を切り裂いた。

「……お前に何がわかる!」


 幼い頃は、しごきのような訓練を受けながら、母に会うことだけが生きがいだった。

 鞭でぶたれながら、自分には帰る場所があると言い聞かせていた。

 閉ざされていた窓の隙間から、父が姉たちと一緒にどこかへ出かけていくのが見えた。

 初めて見た。あの冷血漢が、養女たちの前ではあんなに穏やかに微笑むのだ。

 やがて覗き見に気づいた教官がやってきて、慌ててブラインドを閉める。

「……見てはいけません。あれは、貴方の生きる世界ではない」

 あいつが欲しかったのは息子ではなく、自分の名を継ぐ〈殺し屋〉。

 僕が飼ったために死んだアルノー。僕はあのとき、自分が死神だと思い知らされた。


 ……からっぽだ。心にあいた大きな穴には、なにも埋めるものがない。


 心の傷から血が流れる。ルイは目を閉じて必死に平常心を取り戻そうとした。

 ルイは無意識にポケットに入れた丸い金属を握りしめていた。不安になると、いつも握るクセがある。いまだに古ぼけた時計にすがりつくしかない、みじめな自分。

「僕には敵しかいない。誰も望まない、誰も信じない。誰もだ」


 〈今さら自分の不遇を嘆くのか。これはお前が戦うと誓ったときから決まっていた道だ〉


 闇の中で誰かがルイを見下ろしている。

 彼はシガレットケースから煙草を出して吸い、冷めた目でルイをじっと見ている。

「お前は誓いを必ず守る」彼の端正な唇から紫煙が流れた。

「逃げることは許されない。誓いを破れば、お前は堕落するだけだ」


 〈求めるものは戦いの果てにある。行け、鋼をまといし忠誠の騎士よ。お前は選ばれた〉


 ルイは吐き捨てるように言った。「求めるものなどない」

 暗い闇が光に引き裂かれ、彼は鬱陶しいほどまぶしいライトに照らされた。



 片目だけ開けると不細工に膨張した脂顔が視界に入ってきた。……マツイだ。

「ようやく意識がもどったか」

 ルイは眉をしかめた。やはり夢だったのか。寝覚めに飛び込んできたのが豚の顔とは。

 彼はぼやける視界で周囲を見渡した。ここはアジトの最上階、見覚えのあるルイの私室だ。

 マツイや極東支部の部下たちの顔が見えるが、五人の側近の姿はない。

「バイクごと海に投げ出されたんだ。それでも死なないなんて相当に悪運が強いな」

 意識がはっきりしてくると、自分が固い木の椅子に座らせられた格好で縛られているのに気づいた。

 ルイは不機嫌そうに尋ねた。「これは、何のマネだ」

「今後のお前の身の振り方を教えてやろうと思ってな」

 マツイが嬉しそうに笑いながら、ルイを椅子ごと蹴り倒した。

「我々は組織から〈エデン〉に乗り換えることにした。俺は新政府の大統領(ボス)、お前は奴隷だ」


 逃走して〈海〉に落ちたルイはしばらく行方不明になっていた。

 しかし、一週間ほど前に浜辺で伸びているのを〈エデン〉の兵士が発見した。

 それがまんまと敵に寝返ったマツイの手元に送られてきたのが作日のことだ。憎き凶悪犯罪者に死よりも辛い罰を与えるためだった。

 〈エデン〉はルイを彼と因縁浅からぬマツイに預けた。そしてルイが絶望し、〈エデン〉に屈服するまで拷問するようマツイに要請した。

 宿敵が手元に飛び込んできたことで、マツイが狂喜したことはいうまでもない。

 マツイは無様な王子を見て心底嬉しそうだった。

「新しい主に忠誠を示せ。靴を舐めろ」

 だが、ルイは鼻先に突き出されたマツイの靴を見てバカにしたように笑った。

「こんなことをしてただで済むと思っているのか。脂豚」

 マツイはルイの頭を踏みつけて勝ち誇った。

「お前は本当に嗜虐性をかきたてるガキだな。その余裕ぶったツラを泣きべそかくまで思い知らせてやれると思うとゾクゾクするぞ」

「お前が悪趣味なのは知っている」

 自分は拷問されるのだとルイは思った。これまで苦痛に耐える訓練は積んできた。

 痛みを感じないわけではないが、無様なマネを晒さない自信はある。

 マツイは嬉しそうに舌なめずりした。

「今日から貴様は俺の犬として厚遇してやる。……おい、こいつに首輪をつけてやれ」

 ルイの首と手足に太い拘束具がつけられた。

「いいザマだな。ワンと吼えてみろ」

「くだらん。さっさと拷問に移ったらどうだ。これだからバカは困る」

 心底どうでもいい挑発だった。これこそ時間の無駄というものだ。

 しかし、マツイも吼えた。

「バカなのはお前だ! 俺がお前をぶちのめすなんて無駄なことをすると思ったのか。お前の腕を折ろうが爪を剥がそうが、効きやしないのはわかっている」

 マツイは部下たちに言った。

「俺の連れ歩く犬は美しくなくてはな。次はこいつに女の服を着せてやれ。〈ジュニア〉はみっともなく命乞いをし、助けてもらう代わりに俺の女になったと皆に公表してやる」

 さすがのルイも顔から血の気が引いた。彼の誇りはモンブランよりも高いのである。

「ふざけるな。お前は男と女の区別もつかないのか」

「今、この街には女がいない。ババアすら連れていかれちまったからな。だから相手が男だろうが犬だろうが関係ないんだ。お前みたいな上玉は誰でも飛びつく」

 ルイは椅子からひっぺがされ、縛られたまま床に転がされた。

 そして、舌なめずりをしているマツイたちを目の当たりにした彼は、ようやく自分の置かれた立場を理解した。

「マツイ、冗談はよせ。何が欲しいのだ。望みのものをやるから馬鹿な真似はやめろ」

「俺の欲しいものはお前だ、ジュニア。今までさんざんコケにしてくれた礼をしてやる」


 懐中時計を奪われそうになるとルイは怒鳴り散らし、狂ったように暴れ出した。

「絶対に許さないぞ。必ず殺してやる」

 御曹司は恐ろしいほどの怪力だ。縛られているというのに部下を両足で蹴飛ばし、マツイの手を噛み砕こうとする。

 辟易したマツイはルイにとどめを刺した。

「飼い主が変わっただけだ。母親に売り飛ばされ、組織に金で買われた“みなしご”が」

 凍りついたルイを見てマツイはせせら笑った。

「なんだ、知らなかったのか? フランス女はキングから金をもらって奴と寝た。ガキを生ませるためにな。キングが今までお前を手放さなかったのは、バカ高い代金がかかってるからだ。元をとるまでは利用し尽くす男なんだよ。お前の両親とは、そういう連中だ」

 マツイの言葉は彼を打ちのめすのに十分な効果があった。

 ルイは一切の抵抗を止めた。彼の手から懐中時計がこぼれ落ち、乾いた音を立てる。

「いや、見違えたな。本物の女みたいに見えるぞ」

「……」

 心のより所を破壊されたルイはさきほどから目を閉じたまま壊れたオモチャのように何の反応も示さない。

 それがマツイの気に障り、着飾った彼を塔の一階にあるロビーの柱に縛り付け、晒し者にした。



 塔のロビーに凄みのある美貌の〈女〉が晒されていたので、皆がこぞって見物に来た。

「見ろ、女がいるぞ! すごくいい女だ」

「女じゃないだろう、オカマだ。でもこれならアリだな」

 興奮した男たちがルイに触ろうと近づいてくる。

「こいつはボスのペットだ。おまえらは触るな。触った者は射殺する」

 ボスの兵隊は好色そうな笑みを浮かべて叫んだ。

「こいつは凶悪犯罪者だが、新政府の寛大な措置でペットとして生かされることになった。……死ぬくらいなら俺の〈女〉になるそうだ」

 夜になるとルイは最上階に監禁された。

 彼はかつての私室であったマツイの寝室の隣にある遊技場を住居として与えられた。毎日食事を与えられ、身体を磨く専属の世話係がつけられた。ペットとしては破格の待遇だが、侮辱以外の何ものでもなかった。

 彼は特殊金属製の枷に手足を拘束され、抵抗できないようにされた。

 だが、心を閉ざした彼には必要がなかったかもしれない。一切口をきかず、食事にも手をつけなかった。


「ショックのあまり頭がおかしくなったんじゃないですか」

 床に転がっている王子を見下ろし、マツイの部下は言った。

 ルイは声も上げず表情も変えず、いつもされるがままになっていた。食べないため痩せて衰弱しはじめている。

「騙されるな。こいつはそんなヤワなタマじゃない」

 そう言いつつもマツイ、いや今や〈ボス〉と呼ばれるようになった男は心配になった。

「流動食を流し込め、死なれたら困る。こいつには使い道がありすぎるほどあるのだ」

 ルイの暗殺術は狙った獲物をかならず仕留めることで定評があった。

 〈雨〉で凶暴化した野良を蹴散らすには彼の戦力が必要だ。それに、この塔にはまだ秘密がある。

「ジュニア、拗ねてないで何とか言え。お前の親父がこのビルに隠した秘密を教えろ」

 塔は地上百四十階の巨大なビルだ。ビルをアジトとして使っていたマツイでも開けられないフロアがいくつかある。

 開錠するパスワードは幾人もの天才を擁する〈エデン〉ですら、何度調べでもついに解くことができなかった。


〈エデン〉はボスに情報を聞き出すよう要請した。

「知っているのはキングと息子のお前だけだ。下手な芝居を打っても無駄だ、言え」

 ボスは生気を失ったルイを鞭で打ち、これでもかというほど殴りつけた。

 しかしルイは虚空を見つめているだけで、自分が何をされているかもわからないようだ。

 これでは人形を殴っているのと変わらない。泣き喚く王子を見たかったのに。ボスは落胆した。

「お前が吐かないならお前の親父に聞くまでだ。今のお前のザマをジジイにばらしてやる」

 ルイは一瞬だけ反応したが、すぐにまた心を閉ざしてしまった。



 侵略によって日本は首都圏の機能がマヒし、〈エデン〉は日本の同盟国と称して臨時政府を発足した。

 人工衛星から撮影した航空写真には、日本列島の半分を覆う黒い雲が映し出されている。

 死亡または行方不明となっている人数は、数万とも数十万とも言われている。

 洗脳でもされているのか、無表情なアナウンサーが事件の様子を淡々と告げる。


〈臨時政府の発表によりますと、ヨコハマ地区で大規模な震災が起こったとのことです〉


 新兵器をぶち込むことを〈エデン〉では震災と呼ぶらしい。キングは鼻を鳴らした。

 マツイが〈エデン〉と組んで街のボスとして君臨したことはキングの耳にも入ってきた。

 部下の反逆を知ったキングは、悲しみに満ちた眼差しで日本から帰国した五人の側近を見た。

「愚息は逃げ遅れたか。あれほど己を過信するなと言ったのに」

 キングはこうした非常事態を想定し、あらかじめ塔のヘリポートにヘリコプターを用意していた。

 だが、ヘリは何者かによって爆破されてしまった。そのためルイや側近らは横須賀まで車で移動せざるをえなかったのだ。

「マツイごときを操縦できないようでは、ヤツもまだ甘いな」

 お前たちの責任も重大だ、とキングは言った。

 穏やかな口調だが、アイスブルーの瞳は氷よりも冷たく、王に見つめられた側近たちは生きた心地がしなかった。

「裏切りは見過ごせぬ。アジトも返してもらわねばなるまい」

 とはいえ、日本は完全に〈エデン〉の軍艦に包囲されていた。これではさすがのキングも手出しができない。

「お前たちは〈エデン〉と交渉してマツイの引渡しとアジトの損害賠償を請求しろ。組織の軍事力をちらつかせてもいい。無理でもやり遂げろ。必ずだ」

 たとえ手も足も出なくても、キングの命令は絶対だった。

「あの、ジュニアは?」側近のひとりがキングに尋ねた。「いつ救出を……」

 キングは冷たい瞳を光らせた。

「奴のヘマを尻拭いする必要はない。放っておけ」

 雷に撃たれたようになった側近たちは、旅支度のために慌ただしく執務室を出て行った。

 誰もいなくなると、キングはデスクの引き出しから古い懐中時計を取り出した。

 数日前に〈エデン〉を経由して日本から手紙と一緒に送られてきたものだ。

 ルイは知らないことだが、時計はかつてキングが生まれてくる子供のためにアントワーヌに贈った品だった。


〈子息の無事を願うなら、封鎖されているフロアを開けるパスワードを教えていただきたい〉


 思い上がりもはなはだしい手紙と、醜態を晒している息子の写真を冷ややかに見る。

 ルイとマツイでは水と油ならぬ火と油だ。双方でどういった確執があったのか、キングは容易に想像できた。

「まったく……。本当に母親に似て甘ったれた奴だ」



 ボスがキングに宛てた脅迫状の返事がやってきた。実にそっけない返事だった。

 息子への情をひとかけらでも思い出させてやろうと思い、懐中時計を送ってみたが効果はなかったようだ。返却された懐中時計に同封された白いカードには、「息子の形見は不要」と英語でメッセージがタイプされている。

「おいおい。一人息子なんだぞ……?」

 ボスはメモを透かしたり火にあぶったりしてカードを念入りに調べた。

 また、純金製の時計も分解してみた。しかし、何の変哲もない古ぼけた時計だ。

 ――あの父にしてあの息子あり、か。なんというひねくれたジジイだ。


 当のルイは遊戯室で虐待のかぎりを尽くされている。

「お前の親父は噂以上の鬼畜だな。ひとり息子がどうなっても構わないらしい」

 塔の幹部キタハラは煙草を吹かしながらのんびり言った。

 ルイは上気した頬をクッションに乗せたまま遠い目をしている。

 どんなに乱暴に扱っても無反応なので、最近では皆がこの御曹司を舐めてかかっていた。

 手枷を勝手に外してしまう者さえいる。この日もルイは手枷を外されていた。

「ほら、ママの時計だ。アントワーヌって名前なんだろ。お前は母親似なんだってな」

 ルイには何の反応もない。こいつも相当鬼畜だな、キタハラは思った。

「ボスが返してやるとよ、ほら」

 キタハラはルイの目の前に古い懐中時計を放ってシャワーを浴びに行った。


 無意識のうちにルイは懐中時計に手を伸ばした。そして時計の蓋を開ける。

 幼い頃からルイは秘密の宝物があればこの時計の中に入れて隠していた。

 ボスあたりが分解したのか、中を開けた形跡がある。だが、本体部分を分解してもただの時計にすぎない。

 これは単純なトリック、時計本体が本当の蓋で蓋が本体なのだ。

 蓋は意外に厚みがある。鏡のように反射するため、厚みに気づきにくくなっていた。

 ルイが蓋に仕込まれた中蓋を開けると、母親の写真や愛犬の毛玉が出てきた。

 それらを愛おしそうに撫でていると、見覚えのない小さな紙片に目が留まる。

「……?」

 メッセージが走り書きされている。見慣れた筆跡のドイツ語だ。

 それを読んだ瞬間、これまで何も映していなかったルイの目に燃えるような炎が宿った。


「ち。あんな偽物じゃなくて本物の女が抱きたいもんだぜ」

 キタハラはシャワーを浴びながらぼやいていた。泣きも笑いもしない人間を相手にするほどつまらないものはない。

 しかし部屋へ戻ると、ルイが懐中時計を握りしめて唇を震わせていたのでキタハラは飛び上がって驚いた。

 幹部になりたての彼は、自分の意志で動いているルイを見るのは初めてだ。

「何をしている、ジュニア」

 キタハラが尋ねると、アーモンド型の黒い瞳が彼を見た。

 強い生気のある眼光だった。これまでの抜け殻とは明らかに違う。

「どうした。何を怒っているんだ」――しかし、こうして改めて見るといい女だな。

 少年の凄みある美しさに魅了されたキタハラはベルトをつかみ、それを鞭のように振るう。

 ルイが反応した。キタハラは無性に興奮してきた。

「俺を楽しませろ、アントワーヌ。今からお前はフランス娼婦だ」


 ルイを閉じ込めている部屋から凄まじい悲鳴が上がった。

 ボスたちが駆けつけると、キタハラが血だるまになって床でのたうち回っていた。

「何事だ。ジュニアはどこだ」

 ベッドに人の気配はなく、特殊金属製の手枷だけが転がっている。

「馬鹿野郎、拘束を外すなと言っただろう」

「キタハラが死にました。ナイフで全身を切り刻まれています」

「刃物なぞ部屋には置いていないはずだ」

 ボスは広くて薄暗い室内をくまなく探した。

 ビリヤード台の下や、バーカウンター、そしてようやく部屋の隅で何かを握りしめてうずくまっているルイを見つけた。

 よく見ると彼の手は血まみれだ。〈ジュニア〉がキタハラを引き裂いたのか。でも、どうやって?

「ジュニア。手に持っているのは懐中時計か」

 ボスがルイに近づくと怒声がした。

「近づくんじゃねえブタ。これはオレの持ち物だ」

 彼は放心状態になってから初めて声を発した。古ぼけた懐中時計が彼を現実へ引き戻したとしか思えない。ボスは唸った。

 ――それほどあの時計が大事だったのか。

「ジュニア、それは誰も取らない。いい子だからこっちへ来なさい」

 ボスは猫なで声を出したが、ルイは髪を逆立てて威嚇してきた。かなり興奮している。

 逆上した〈ジュニア〉はキングよりも恐ろしいのだ。しかも、今は手枷が外れている。

「何か食べて落ち着いたらどうだ。たしか、タルタルステーキが好物だったろう?」

 ルイは眦を釣り上げ、低いドスの利いた声で言った。

「テメエはオレの好物も知らないのかブタ。……ローストチキンだ」

 ボスは豹変したルイを見て眉根を寄せた。

 ――とうとう壊れたのか?

 しかし、食欲が湧いたのはいい傾向だ。ボスはコックに命じて急いでローストチキンを作らせ、料理の皿をルイの前に置いた。

 ルイは料理を一瞥して言った。「ナイフとフォークを忘れているぞ」

「武器になるものはダメだ」

 手づかみの豪快な食事をしてようやく落ち着いたらしいルイは、十人余りの兵隊に取り押さえられ、再び手枷をはめられた。

「マツイ、僕は喉が乾いた。炭酸水が飲みたい」

「どうやってキタハラを殺したんだ」

 ボスは水差しに入った炭酸水を世話係から飲ませてもらっているルイに聞いた。

「……この爪で」

 ルイが猛禽類のように鋭く尖ったカギ爪を見せたのでボスは瞠目し、すぐに彼の爪を切らせた。

 いったいなんなのだ、この小僧は。

 ルイは指についた肉汁を猫のようにペロペロと舐めている。

 以前の〈ジュニア〉は、こんなケモノのような体質ではなかったはずだ。まるで〈雨〉を浴びた野良のようだ、薄気味悪い。


「僕はこういう格好は嫌いだ。顔もベタベタして気持ちが悪い」

 王子は自我を取り戻すといきなり服装への不平を口にした。

 こうしてレザーボンテージを着て優雅にふんぞり返っている姿は非常にサマになっていたが、キレるとまた何をするかわからない。ボスは彼に好きな格好をさせることにした。

 ルイは風呂に入り、体にフィットしたタイトな黒のカットソーに革ズボンという私服でボスの前に現れた。

 顔つきが以前よりも精悍になり、凄みが増しているように見える。

 マツイの前に現れたルイは恭しく頭を垂れた。「……ボス。僕は貴方と組むことにした」

「どういう心境の変化だ。何を企んでいる」

 思い切り怪し気なボスとは対照的に、ルイはけろっとしている。

「僕はキングに利用されたあげく見捨てられた、お前と同じ捨て駒だ。いがみあっても意味がない、割り切ることにした」

 たしかにルイにはこういう一瞬で利害を見極めるドライな一面がある。性格は父親似なのだ。

「従順なのはいいことだ。俺に忠実であれば悪いようにはしない」

 ルイの目が妖しく光った。

「それは本当か。マツイ……ボス。貴方は僕を助ける。僕は貴方に手を貸す。僕はどうしても街から出たい。そのためなら何でもする。貴方に忠誠を誓ってもいい」

「出てどうする」

「アメリカとフランスへ行く。僕を欺いた連中に復讐するのだ」

 ルイは手首に巻きつけた懐中時計をボスに見せた。

「奴を殺す。クラウス・ジュニアの誓いは絶対だ」

 ボスはほくそえんだ。部下のキタハラを失ってしまったが、古びた懐中時計に感謝しなければならない。

 ――何でもするときたか。両親への恨みの方がよほど根が深いらしい。

「お前の〈忠誠〉次第では解放してやってもいいぞ。さあ、忠誠を示してみろジュニア」

「仰せのままに、ボス」

 ルイは膝をつき、ボスの足に口づけた。



 あれから三年の月日が過ぎ、ルイは十九歳になっていた。

 身長が伸び筋肉がついて少年期は完全に脱したが、優雅で美しいこの白人青年にボスは夢中だ。

 ルイはボスの最愛のペットとして寵愛を一身に受けていた。

 だが、相変わらず手足は邪魔くさい枷でつながれ、塔の最上階にある居住エリアしか出歩かせてもらえない。

 ボスはルイに対してますます横柄になり、ルイの忠誠心を試すために無茶な要求をしてくる。

 そして、ルイが他の男と会っていたと知ると露骨に嫉妬するようになった。


「モリ、キバラ、サナダは仕事もしないで〈遊技場〉で遊んでばかりだな。降格する」

 ルイは苦笑しながら言った。

「彼らの仕事はペットの世話だろう。実に仕事熱心だよ」

 実際、塔の幹部が熱心にやっている仕事といえば奴隷をいたぶるくらいなもので、〈エデン〉から要請されているはずの実務は兵隊や奴隷に任せきりだ。

 もっとも、兵隊といえども塔の外に住んでいる野良を把握している人間は皆無だが。

 ただ、ルイだけは塔の外と野良の存在に強い関心を抱いていた。

「ボス、そろそろ解放してもらえないだろうか。僕は塔の外について調べてみたい」

「ダメだ」

 ボスは即座にはねつけた。「俺はまだお前を信用していない。さっさと背中を流せ」

 以前のルイなら冷たい目をして反抗したかもしれないが、ボスに忠誠を誓った彼は大人しくボスについて風呂に入った。

 〈ジュニア〉のボスへの忠誠ぶりは目を見張るほどだ。


 彼は「何でもする」と言い、実際にボスの無茶苦茶な要求をすべて素直にのんだ。

 ボスはルイに命令する一方で彼を溺愛して甘やかし、あらゆる贅沢をさせた。

 おおむねペットとしてのルイに満足しているボスだったが、不満もある。彼が街に安住しようとしないことだ。

 贅沢三昧をさせているのに、いつまでも街を出ることにこだわっている。

「外の話はいい。それより、塔の秘密で思い出したことはないのか」

 塔の秘密を教えろ。何度も繰り返される問答だ。

「あいつが僕にそんな秘密を教えるはずがない」

 キングのことを語るとき、ルイはいつも忌々しげな表情を浮かべる。

「このビルは、貴方に与えられたものだと思っていた」


 冷酷無比なキングは無償でモノを与えたりしない。絶対にだ。

 従順になったとはいえ〈ジュニア〉の言う事を鵜呑みにもできなかった。

 何らかの形でヒントを受け取っているかもしれない。

「お前の背中も流してやろう。かなり溜まっているのだろう?」

 ボスはルイの耳に熱く湿った息を吹きかけながら尋ねた。

「遠慮しておく。貴方が満足すればそれでいい」

 ルイはさっさと服を着て浴室を出た。

 彼のスタミナは脅威的で、連日連夜に渡る屈辱を強いられてもまったくバテなかった。どんな命令でも淡々と、だが確実にこなす。

「満足なぞしとらん。今日もパーティをやるから出席しろ」

 男の威信を傷つけられたボスはいつもの余興を始めるという。幹部や奴隷を呼んで酒やドラッグに耽り、乱交を繰り広げるのだ。

 着飾らせた奴隷を舞台に立たせてショーを開くこともある。

 正直なところ、それはルイにはまったく理解できない行為だった。時間の無駄だとも思う。

「僕は眠いんだ。部屋にいたい」

 彼は密かに鈍ったカンを取り戻すため自室でトレーニングを積んでいた。

「それはダメだ。今日はお前が主役だ。お前がいると場が盛り上がるからな」

 ルイは眉をひそめた。またくだらないショーをさせるつもりなのだ。

「気分がハイになる薬をやろう。たまには堕落と退廃を楽しめ」

「その必要はない。自分の務めは果たす」

 ボスはむっとした。ルイにとってはボスへの奉仕も饗宴も〈務め〉でしかないのだ。

 楽しんでいるのを今まで一度も見たことはないし、ルイからボスに快楽を求めてくることもない。

「命令だ。ドラッグを飲め。どうせお前には効かないのだろう?」

 ボスはルイに青い錠剤を渡した。たしかにルイには塔で出回っている興奮剤はおろか、麻薬すら効かない。

 ただ、今回のは〈エデン〉からもらったとっておきだ。

 先日、〈エデン〉からマツイに宛てて気になる報告がやってきた。


〈犯罪者クラウス・ジュニアはゴッドチャイルドの可能性が高い。

 非常に興味深い観察対象なので今後も徹底した管理と監視を要求する〉


 ごくわずかな確率で〈海〉へ落ちても死なず、ほぼ不死身のバケモノのように強靭な体質に変貌する者がいるという。〈エデン〉は彼らを〈ゴッドチャイルド〉と呼んでいた。

 ボスの額から嫌な汗が流れた。

 ――ゴッドチャイルド……。冬の抗争で司令官フジタを殺った野良がそれに違いない。

 フジタはかつて特別機動隊にいた男だった。それなのに、反撃する間もなく一撃で命を絶たれたのだ。〈ジュニア〉が、あんなバケモノと同類だというのか。


 〈ボス・マツイに試薬を輸送する。酔えばゴッドチャイルド、死ねば人間だ。

  ――なお、劇薬につき使用は一回きりを厳守〉


 もし、死んだら。ボスは塔の秘密と優秀な戦力、お気に入りの玩具を失う。

 彼は固唾を飲んでルイが薬を服用するのを見守った。



 その夜、ボスの長男で二十歳になったばかりのユーイチは塔の最上階に呼び出された。

「ジュニアに会わせてやるぞ」

 内線電話の向こうの父はやけに上機嫌だった。

 また親父が余計なことをしようとしている。ユーイチは憂鬱な気分になった。

 彼はあらゆる女が大嫌いだった。過去に容姿や内気な性格について、女どもからさんざんバカにされていたからだ。

 永遠に穢れず、決して逆らわない映像の中の美少女を愛でているだけでいい。

 そこでボスは息子のため、熱心にボーイフレンドを世話しようとしている。ところがユーイチは男だって嫌いだ。

 彼は生身の女が嫌いなだけで同性愛者ではない。ボスはユーイチの嗜好を誤解していた。


 だが、ユーイチにとってクールで誇り高い〈ジュニア〉だけは特別な存在だった。

 初めてルイを見たとき、こんな綺麗な男がいるのかとユーイチは驚いた。

 ルイは肩まで届く豊かな黒髪をなびかせ上品な黒のスーツを着て、革張りのソファーにゆったりと腰掛けていた。

 彼の両脇にはニューヨークから同行した五人の側近と、父たち極東支部の幹部が並んで控えている。

 その様子は騎士を従えた少年王のようだった。これでユーイチと同い年だという。

 ルイの存在感に圧倒されたユーイチは緊張のあまり真っ赤になり、一言も口をきけなかった。

 そんなユーイチにルイは穏やかに微笑み、流暢な日本語で言った。

「よかったら、日本での最初の友人になってくれないか。ユーイチ」

 ユーイチは感激して涙した。彼は一瞬でルイに魅了された。


 ルイと会うのは三年ぶりくらいだろうか。

 百四十階に捕らわれているとは聞いていたが、ボスはこれまで息子たちをそのフロアへ入れたことはなかったのだ。

 ユーイチは緊張した面持ちで百四十階を訪れた。

 本当は嫌だった。変わり果てた〈ジュニア〉を見たくなかった。だが、断ったら代わりに弟のガイを呼ぶとボスは脅してきた。

 ガイは後継者の座を狙っている。彼なら兄貴の先を越してやったと自慢たらしく周囲に吹聴するだろう。

 それだけはユーイチには我慢できなかった。


 スカイラウンジに入ると、ボスである父がワインを飲みながらだらしない笑みを浮かべているのが見えた。

「ほらポチ、この骨を取ってこい」

 ある幹部が骨のついた肉を放ると、黒い影がすばやく駆けて肉を口で受け取る。それを見た皆は一斉に口笛を吹いた。

「いい子だな、ポチ。ご褒美に酒をやろう」

 そう言うと、幹部は酒樽を倒して中身を床にぶちまけた。

 呆然とするユーイチの肩をボスが軽く叩き、指をさす。指差す方を見たユーイチは目を剥いた。

 床に撒かれた酒をすすっている〈ポチ〉は、ルイだった。

「やめろ、ジュニア」

 見かねたユーイチはルイの両脇を掴んで彼を床から引き離した。

「親父の〈遊興〉っていうのは拷問のことかよ。アタマおかしいんじゃねえの」

 ボスは舌打ちした。――まったくこいつは甘ちゃんで困る。

「ただの余興じゃないか。こいつは楽しく酔っ払っているだけだ。来いジュニア、ご褒美をやろう」

 ルイを呼ぶと、彼はユーイチの手を振り払い、ボスの足元に跪きそのつま先に口付けた。

 ボスは薄く笑い、ルイを抱き寄せて唇を重ねる。ルイはすっかり快楽に酔っていた。

 〈エデン〉からもらった薬の素晴らしい効果だった。

 ボスは素直になったルイに囁いた。

「ジュニア、本心を聞かせろ。俺が憎いか?」

「愛しています。ボス」

 ユーイチはぽかんと口を開けた。

「お前はずっと俺のペットだ。忠誠を誓ったことを忘れるな」

「……はい」

「よし。いい子だ」

 ボスは、自分が最強のペットを手に入れたことを確信した。ルイはゴッドチャイルドであり、ボスへの忠誠心も本物だった。そろそろ拘束だけは外してやり、〈殺し〉の方を再開させてもいい頃かもしれない、ボスは思った。

 〈クラウス・ジュニア〉の戦闘力が加われば、野良を根絶やしにすることも可能だろう。

「彼を覚えているか、ジュニア。俺の息子のユーイチだ。お前は今夜、倅の夜伽の相手をしろ」

 耳元でそう囁かれて、初めてルイはユーイチの顔をまともに見た。

 ユーイチはいたたまれなくなって彼から顔をそむけた。

「俺はいいよ。やっぱり部屋へ帰る」

「まだそんなことを言っているのか、面倒な奴だな。ジュニア、こいつに教えてやれ」

 愛撫を中断されたルイは不満げな顔をしたが、ボスに促されたので素直にユーイチのところへ行く。

 目の前にルイの端正な顔が近づいてくると、ユーイチは思わず直立不動になった。

 ルイはユーイチに唇を押しあて、慣れた動作で唇をこじ開けて舌を這わせた。 

「さすが王子だ、上手じゃないか」

 男たちが面白そうに二人の様子を見物している。

 ざらざらした猫のような舌で口の中を舐められ、体をぐいぐいと密着させられてユーイチは悲鳴を上げた。

「やめろ。くすぐったい」

「ユーイチさん、だんだん気持ちよくなりますから」

 人に見られている恥ずかしさでユーイチの顔が真っ赤になった。


「やめろって。やめろ、この変態!」

 ユーイチはルイを殴りつけた。ルイはよろけて壁に身体をぶつけ、そのまま尻餅をついて薄笑いを浮かべている。

 殴られた頬に赤くアザができていた。

 ユーイチはルイの懐中時計とそっくりの時計を外して床に叩きつけた。

「お、お前を見損なったぞ! くそ!」

「ユーイチ。ジュニアは薬でハイになっているだけだ」

 ボスは言いかけてやめた。彼はようやく息子が激怒している理由を悟った。

「まさか、お前。本気でジュニアに惚れていたのか」


 〈ゆ……ち……〉


 ルイの口が何かを呟いているように見えた。ユーイチはルイを凝視した。


 〈たす……けてくれ。約束……だ〉


 あの日、ユーイチはルイと友情の誓いを交わした。

 〈僕たちは友人だ。危機のときは助け合うと誓おう。この血にかけて〉

 ルイと一緒に行動するとき、ユーイチは気分が良かった。いつもバカにしてくる女たちが自分に媚を売ってくる。

 女どもの嫌がらせをひと睨みで黙らせてくれたのは彼ではなかったか。

「ジュニア……。ジュニア」

 ユーイチは涙を流してルイに抱きついた。今、彼を助けられるのは次期ボスの座につく自分しかいない。

「わかったよ、親父……。言うとおりにする」



 薬の効き目がようやく切れ、最悪の興奮状態から醒めたルイはボスから二つの任務を言い渡された。

 ひとつはユーイチの部屋へ行って彼の夜伽の相手をすることだった。

「彼の部屋は百三十九階のはずだが」

 ルイは限られたフロアしか移動できない。

「今から塔の各フロアを移動していい。ただし、長居は許さん」

 ルイはIDカードをもらい、身元を照合するためのバーコードを刺青された。

 追跡装置付きの革ベルトを装着すると、今後は行動が自由になる代わりに居場所を二十四時間追跡される。

 奴隷ではなく、正式な家畜となったのだ。

 もうひとつの任務は次回の抗争の司令官になることだった。

「野良どもを殺してこい。俺に手を貸すという契約だったからな」

「……貴方もな、ボス」

 ボスはニヤリとした。

「褒美はハイになる薬だ。気持ちが良かっただろう?」

 ルイは引きつった笑顔を浮かべた。――やはり、僕を解放する気はないのだな。


 手足を拘束していた特殊金属の枷を外されたルイは洗面所へ行き、歯を念入りに磨いた。

 悪夢のような忌々しい薬だ。だが、途中から醒めていた。ボスに「愛している」と告げたのは効いたようだった。

 身支度を整えたルイは最後に宝石ケースから懐中時計を取り出し、それに口付けた。

「……長い三年間だった」

 あの日、戻ってきた懐中時計の中から出てきた紙片には、キングの筆跡でこう書かれていた。


 〈お前の母は病を患い目が見えない〉


 アントワーヌは視力を失った。だが、彼女は今後もピアノを弾き続けるだろう。……息子に再会するまでは。

 懐中時計の蓋に映ったルイの顔が深い悲しみで歪んだ。

 ――見えないのにピアノを弾いていたのか。母は、僕のことも約束のことも忘れてはいなかった。

 また、メモにはこうも書かれている。


 〈マツイはそのことを知っている。あの日、私が伝えた〉


 ……まったく、舐めたマネをしてくれる。あまりに憎くてぞくぞくする。

 ルイは残忍な微笑を浮かべた。

「奴を殺す。クラウス・ジュニアの誓いは絶対だ」

 手始めは奴への復讐だ。そう、時計に映ったあの顔に。


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