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エデンの天使  作者: 如月十五
エデンの天使
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河童_0412修正

 この国は戦争を仕掛けられるかもしれない。

 そんな噂がネットで囁かれていたとき、多くの人々は侵略者の存在すら知らなかった。

 そこはネット上に存在する幻の国家だという。

 仮にそこを〈エデン〉と呼ぶとしよう。〈エデン〉は旧約聖書に登場する楽園である。

 〈エデン〉は各界で迫害された狂気の天才たちによって作られた。

 彼らは強大なネットワークを駆使し、あらゆるタブーを犯して財を成し、ついには屈強な軍事力を手に入れて独立国家を宣言してしまった。


 ……無能なる者たちへ教えてやろう。どちらが〈正しい〉指導者であるかを。

 我らを迫害したことを後悔させてやるのだ。


 多くの〈不当に虐げられた者たち〉で構成される〈エデン〉の民たちは獲物を求めて世界中に散らばっていった。

 ある者は政府高官、ある者は新聞記者として。また、ある者は市井の勤め人として。

 彼らの〈獲物〉は国家規模の財産とモルモットとなる人間だ。

 〈エデン〉のつけ狙う獲物は、まさにこの平和な国の一都市・ヨコハマだった。

 運命の七月二十一日、ヨコハマは〈エデン〉の新型兵器の洗礼を受けることになる。



 当時、ミヤベタケルは中学三年生だった。スポーツ万能でお調子者、人懐こい性格の彼は学校の人気者だ。

 その日もタケルの話題で持ちきりだった。これまで幾多の有名選手を輩出してきた私立フタバ高校体育科への推薦入学が決まったためだ。

「すげえよなタケルは。水泳の記録保持者なんだろ。将来はプロ入りか?」

「いや、水泳は趣味。本業は円武流の奥義継承者だ」

 タケルは誇らしげに言い、格好をつけて居合いの構えをとる。彼は素振りをしながら教室の隅の方をしきりに気にしていた。

「でもタケル、体育以外全然ダメじゃん。勉強ついていけるのか?」

「勉強は得意な奴に教えてもらうからいいんだ」

 タケルは若干声を大きくして言い、再びちらりと教室の片隅を見た。

 彼の視線の先に、日本人形のような顔立ちをした女の子、オサダレンがいる。

 レンはタケルたちの話にはまるで無関心で、ひとり静かに本を読んでいた。

 タケルはむっとすると同時にがっかりした。だが、彼女がクラスメイトの輪から外れて本を読んでいるのはいつものことだ。

 彼はつかつかとレンのそばまで歩いていき、彼女に「何を読んでるんだ」と詰問した。

 レンは目を上げず、迷惑そうな顔をして言う。

「……本」

「……」

 タケルは言葉を失ったが、ここでひるむわけにはいかない。

「どうせ恋愛とかのくだらねえ本だろ。見せろよ、デカパイ」

 デカパイはタケルが彼女につけたあだ名だ。

 タケルはレンから本をひったくり、タイトルを見た。

「なになに、『幻想の国家〈エデン〉とテロリズム』……」

 恋愛ならともかく、自分がクチを挟む余地のまったくないジャンルの本でタケルは愕然とした。

 レンは冷ややかにこちらを見つめている。

 〈どうせ、貴方には理解できないでしょう〉と言われているような気がして、タケルは思わずかっとした。

「お前、本当に女なのかよ!」


 タケルが声を荒らげると、彼の仲間たちが何事かと集まってきた。

「またタケルがデカパイを構ってるよ。何、その本」

 タケルは人気者なので、彼が彼女をデカパイと呼べば学校中の皆が彼女をデカパイと呼ぶ。

「ぎゃあ、なにこの気持ち悪い本。お前、こういう本読むの」

 人が集まってくると彼女の顔がさっと青ざめた。それを見たタケルが仲間たちを追い払おうとしたとき、レンは無言で席を立ち教室を出て行ってしまった。

「惜しい。もう少しでいいとこ見せられたのにな?」

 誰かがタケルの肩を叩いた。タケルは憮然として、同級生からレンの本を奪った。

「余計なことすんなよ、お前らは」

 同級生は頭を掻きながら言い訳した。「少しからかっただけじゃん……」

「うそ。タケル君てやっぱりレンが好きだったの」

 タケルを慕う女子生徒たちが非難の声を上げると、彼はヘタクソにごまかした。

「別に。いつも無視するから構ってるだけだ」

 タケルは、自分が話しかけてもいつもすまし顔でお高くとまっているレンが気に入らなかった。彼女のそばにいると、どきどきしてしまう自分はもっと気に入らない。


 タケルはレンのことは一年生の頃から知っている。

 人目を引く綺麗な子で、勉強ができる。気取り屋だけど、ちょっとぼんやりで運動オンチ。

 ……そして、なぜか誰とも友だちにならない。

 レンは毎朝、防波堤の向こう側にいる海に面した崖っぷちに立っている。

 潮風に柔らかい髪をなびかせて、夢見るような目をしてたたずんでいる彼女をタケルが発見したのは二年生のときだ。彼女はとても綺麗で、少し危なっかしくて、とても寂しそうだった。

 はっきりとわかった。自分は彼女のことが好きなのだと。


それから毎日、タケルは海辺にたたずむ彼女を見ていた。

「おっす、デカ……じゃない、レン」

 手を振っても彼女はタケルに気づかない。一度も気づいてくれたことはなかった。


 ――いいじゃないか、友だちになるくらい。少しくらいにこりとしろよ。


 ムキになった彼は過激な行動に出ることもあった。

 彼女の答案用紙の名前を〈デカパイ〉と書き換えたり、授業中に指されると「デカパイが答えを知ってます」と答えたり。

 修学旅行のときはかなり大胆にやった。ぼんやり歩いているレンの肩を抱き、友だちに写真を撮ってもらった。

 しかし、レンは微動だにしなかった。怒るでもなく泣くでもなく、タケルを無視するのだ。

 ある日、部活を終えての帰り道、レンを見かけたタケルはぎこちなく言った。

「なんだ、偶然だな。お前は生徒会の帰り?」

 偶然と言ったが、わざわざ遠回りして自転車で待ち伏せしていた。

「ちんたら歩いてるなよ、ジャマっけだな」

 レンが無視しているので彼は憎まれ口を叩いた。

「ま、しょうがねえ。あまりに目障りだからお前を“特別に”乗せてってやる」

 だが彼女はいつもヘッドフォンをつけて歩いており、今回も見事に無視された。

 ……ありったけの勇気を振り絞ってデートに誘ったのに。タケルは愕然とした。

「こら、待て。無視するな。スカートめくるぞデカパイ」

 彼女はいつも遠くを見ていた。クラスメイトのことなどまるで眼中にない。

 タケルは彼女がどこを見ているのか知りたかった。

 そして本当は、自分のことを見てほしかった。



 七月二十日の夜。明日は一学期の終業式だ。

 タケルは居間で難しい顔をして本を読んでいた。

 祖父は和室におり、母と姉は台所で話しこみ、父はソファーに寝転がってニュース番組を観ている。

 本を読みながら、タケルは家族で一番時事に詳しそうな父に尋ねた。

「〈エデン〉って国が日本を征服しようとしてるってホント?」

 父は息子の素っ頓狂な問いに目をぱちぱちさせて言った。「大丈夫か。お前」

 二人のやりとりを聞きつけた母が口をはさむ。「この子ったら、妙な本を読んでいるのよ」

「クラスの奴から借りたんだよ。真面目な本だ」

 父は目を丸くした。「意外だな、お前がマンガでない本を読むなんて」

「俺だって読書くらいするよ」タケルは得意げに言った。


 実は、あれからすぐにレンを追いかけて奪った本を返しにいったのだ。

 すると彼女は少し微笑んで言った。

「しばらく貸してあげる。読んだら感想を聞かせてね」

 惚れた女にそう言われては、俺はマンガしか読まないもんねとは言えない。

 オトコとして断言した。「絶対読む。全部読むよ。夏休み前までに読みきってみせる」

 タケルが力強く言うと、レンは面白そうにくすっと笑った。

「きみっておもしろいね」


 ――笑うとけっこう、かわいいじゃん。


 初めて彼女が自分に微笑んでくれた。タケルがでれっとしていると、姉が冷やかした。

「エラソーにしてるけど彼女から借りた本だから読んでるんだよねえ。この前なんか、彼女に花をプレゼントするとか言ってさ、は、花言葉の本を貸してって……。ぷっ。あはははは!」

「うるせえ。余計なことを言うな!」

 タケルは真っ赤になり、大笑いをしている姉を怒鳴った。

 母が口を尖らせた。「あきれた。少しは勉強に興味を持ったのかと思えば」

「まあ、彼女くらいいてもおかしくないよな」父が本のタイトルを見ながら言った。「どんな娘なんだ」

「どんなって、変わった奴だよ。彼女じゃない。ただのクラスメイトだ」

 今は友だちですらないことが癪に障るが、チャンスは手元にある。

 明日こそは崖っぷちにいるレンに話しかけるんだ。本の話をして、今度こそ絶対に振り向かせてみせる。

 ――そのために高校もレンと同じフタバにしたんだもんな。

「ふ。ふふ」

「うわあ、不気味な笑い。いいなあ、バカでもスポーツできれば名門校に進学できるんだもん」

「サヤカは勉強がもう少し得意だといいんだがなあ」

「そうよ。ちゃんと受験勉強してるの?」

「やってるよ。タケルと一緒にしないでよ」

 周囲が騒がしくなり、タケルが落ち着ついて本を読めなくなったとき、和室から祖父の呼ぶ声がした。

「タケル。ちょっといいか」

「はーい。はい、はーい」

 剣道家の祖父は逞しく日焼けした孫を見ると頬をほころばせた。


 タケルの祖父は円武流という居合術の道場を開いている。

 祖父のひとり息子である父は武道に関心を示さず会社員になってしまったが、孫のタケルは幼い頃より厳しい稽古を嬉々としてこなし、道場を継ぐと宣言して祖父を喜ばせた。

「最近、朝が早いな。朝稽古をしているのか」

「波止場までランニングして、あとは朝稽古してるよ」

 タケルは中学校では水泳部に入っているため、剣の稽古は早朝と夜にやっていた。

 若いうちは剣道だけでなくほかのスポーツもたしなむべきだという祖父の方針だった。

「それよりどうしたの。用事?」

 タケルがやんちゃそうな笑顔を見せると、祖父は嬉しそうな顔をして押入れから大きな布包みを取り出してタケルに渡した。

「これをお前に譲ろう。少し早いが進学祝いだ」

 巨大な布包みだ。持ち上げるとずっしりと重かった。

 それはタケルが小さい頃、欲しいとねだっていた祖父の太刀だった。

 当時は持ち上げるのもひと苦労で、勝手に持ち出そうとしてタケルは祖父からひどく怒られたものだ。

 しかし、かわいい孫がしょんぼりしてしまうと祖父としてはバツが悪い。

「これはお前が一人前になるまで爺ちゃんが預かるからな」と小さなタケルに言った。


 タケルが興奮気味に言う。「これで一人前ってこと? ついに免許皆伝?」

 図体だけは一人前だな、と祖父が笑う。

「そういうわけではないんだが、実は、刀がお前に持って欲しいと言ってる」

 ……刀が言う? タケルは不思議そうな顔をした。

「そんなことがわかるの?」

「わかる。この太刀は持ち主を選ぶ。主に寄り添い、主の身を守る不思議な力がある」

 抜いてみろ、と祖父に促され、タケルは太刀を鞘から抜いた。

 まるで大昔から自分の持ち物であったかのように、その柄は彼の手にしっくりと馴染んだ。

 鏡のように磨き上げられた刃が新たな持ち主を歓迎するかのように光っている。

 そのときはタケルも深く考えていなかった。なぜ、太刀は自分に持ち主を変えたのか。


 それがタケルの見た元気な家族の最後だった。



 三年前に起こった災厄は、タケルからあらゆるものを奪っていった。

 家族や学校の仲間たち、そして希望に溢れていた日々は暗い〈海〉の底に沈んだ。

 彼も〈海〉に浸かり、危うく死にかけたところを奇妙な声によって救われた。


 〈……お前が人の姿を捨てて生きるというなら、行くがいい〉


 人の姿と引き換えに手に入れたのは、戦うために特化したかのような猛々しい肉体。

 四肢は太く、歯は牙のように鋭い。顔つきは獰猛な野獣そのものだった。

 極めつけは首から背中にかけて生えているタテガミだ。

 大抵の人間はまずこの容貌を見て彼に慄く。しかし、悪くなかった。街で生き残り、威風を吹かすには好都合だ。

 タケルという名はそのときに捨てた。今は河童という野良をまとめるチームの頭領だ。


 河童の率いるチーム「クズ鉄山」は、野良の中で最強・最大のチームで知られている。彼は野良の第一号だ。

 瓦礫の街の生き残りが〈家畜〉と〈野良〉に分裂していなかった頃、その異形ゆえに人の群れからはみ出した河童が同じく大人たちから虐げられていた戦争孤児たちを集め、〈雨〉の下で自衛自活を始めたのがすべての始まりだった。

 現在の〈野良〉の根底的な掟は河童が作ったといっても過言ではない。

 クズ鉄山は大所帯でありながら団結力に優れ、二百二十名ほどの少年たちが廃工場跡で役割分担をしながら暮らしている。

 河童は仲間たちから頼れる頭領と慕われていた。


「ちょっと、河童さん。誰すかこれ。この生意気そうなガキが連れてる女」

 部屋の掃除を言いつけられた新米子分のキタローが興奮気味にわめいていた。

「ああ? 勝手にそんなもん発掘してくるなよ」

 河童は断熱材を敷いただけの万年床に横たわり、面倒くさそうに言った。

 それなのに、写真は明らかにすぐ出せる場所に大切そうに置いてある。

 そこには日に焼けた背の高い少年と色白の少女が仲良く肩を並べている姿が写っていた。

「修学旅行のおふざけで撮ったヤツだ。その男前は俺。女はただのクラスメイト」

 河童はどうでもよさそうに言ったものの、キタローは目を剥いた。

「ええっ。そんな写真をしまってあるはずないっしょ。ホントは彼女なんでしょ?」

 河童はぶすっとしたまま、「さあな」と答えた。

 キタローは目の前の獣人と写真の少年とを見比べた。

 獣人はまるで原型をとどめておらず、まったくの別人だ。写真の少年は生意気そうだが、なかなかの男前といえた。

 ひとりもいないという幻想性も加わって、街に生き残った者たちの〈女性〉への憧憬は非常に強い。

 新米子分のキタローは写真の少女を食い入るように見つめていた。

「もしかして、河童さんて女を知ってるんすか?」

「そりゃ、まあな」

 河童はあっさりと言ったが、野良にとって女を知っていることは多大なステータスだ。

 キタローはものすごく羨ましそうな顔をした。

「いいなあ。俺なんて女と口をきいたことすらないのに」

「別によくねえよ。女なんて」吐き捨てるように河童は言った。

 

 ……三年前の災厄。すべてが消え去った瓦礫の街。そこで、レンだけが生きていた。

 あのときの彼女は、どこか遠いところではなくて自分のことを見ていた、と思う。

 やっと彼女が心を開いてくれたと思った。

 ……だけど、違った。


 〈バカな男。ころっと騙されるの面白かった。貴方なんか大嫌いよ〉


 突然、雷に打たれたようになり、河童のタテガミが逆立った。

「ど、どうかしたんすか……?」

「別に。何でもない」

 怪訝そうに自分を見ている子分に河童は掃除に戻るよう命じた。

 河童は窓を開けてテラスへ出た。冷たい〈雨〉が彼の頬を打つ。



 毎朝、タケルは防波堤まで走る。

 そこから向こう岸にいるレンの姿が見えるからだ。

 三年前のあの日も彼女が海を見ているのが見えた。だが、いつもの様子と違う。

 心配になったタケルが彼女のそばまで泳いでいったとき、街に閃光がやってきた。

 凄まじい爆風が襲いかかり、タケルは無意識のうちにレンをかばっていた。

 二人は海に落ちて流されてしまったが、水泳が得意な彼は彼女を抱えて岸まで泳ぎ、おろおろしている彼女の手を引いて戦火から逃げまわった。ただ必死で、死なせたくなかった。

 タケルの家が〈海〉に沈み、家族や仲間たちを失い、彼が絶望に打ちひしがれているときも彼女はぎこちなく慰めてくれた。


 〈きっと、お爺さんはタケルのことを見守ってるよ〉


 彼女の髪から甘い香りがする。

 不思議な力だ。彼女の匂いは荒ぶった心を静め、彼女の手は傷の痛みを癒してくれる。


「そういえば、お前の家は? 家族は?」

 背中を撫でられて落ち着いたタケルは、はっと我に返って彼女に尋ねた。

 レンは諦めたように首を振るだけだった。そしていつもこう言うのだ。

「私は昔から一人ぼっちだから。誰からも好かれないし、誰のことも好きじゃない。ねえ、この辺で別れようよ。タケルもその方が……」

「うるせえ、黙れ。バカ!」

 タケルは、ぶつくさ言っているレンを背負って走った。

 あまりにレンがタケルの前から去ろうとするので、ついに彼はレンに好きだと伝えた。

 一緒にいてくれるだけで俺は頑張れるんだと訴えた。

 ……彼女は泣きながら笑っていた。

 タケルは彼女を抱き寄せ、夜が更けるまで二人は肩を寄せてじっとしていた。それだけで幸せだった。


 その夜、緊張の糸が切れたタケルはぐっすり眠ってしまった。

 爆音は止み、あたりは波の音しかしない。しばらく眠ったあと、タケルが目を覚ますとレンの姿はすでになく、彼女の作っていた浮きと食料だけが枕元に置いてある。

「……レン!」

 どうして。あれほどそばにいてほしいと言ったのに。何も伝わらなかったのか。

 ――レンは死ぬつもりなんだ。

 タケルが泣きそうになって崖まで走ると、爆煙の向こうの朧月に照らされて、レンが裸で立ち尽くしているのが見えた。

「バカ! 何をしてるんだ」

「タケルは私の正体を知らないでしょ。きっと、ここを出たら私を見捨てるわ」

「まだわからないのか。馬鹿野郎」

 正体なんて関係ない。わかっているのは好きだという事実だけだ。

 タケルは月明かりに溶けそうな白い彼女の身体を夢中で抱きしめた。

 自分たちのすぐそばに、敵が忍び寄っていることにタケルは気が付かなかった。

 レンがいずこかに目で合図すると、タケルは背後から銃身で殴られ気を失った。

 海から風が吹いてくるのをタケルは感じた。女の泣き声のような風の音だった。



 気が付くと、タケルは銀色の戦闘服を着た集団に取り囲まれて銃を突きつけられていた。

「やあ、童貞卒業おめでとう。彼女の身体はよかっただろう?」

 流暢な日本語だ。だが、タケルは彼らが何を言っているのか理解できなかった。

「レンだよ。彼女は狙った獲物は逃さない。お前は彼女に嵌められたんだ」

 兵士のひとりが意地の悪い微笑を浮かべた。

「悲観することはない。女に捨てられたのはお前だけではない」

 残酷な言葉が彼の胸を掻きむしる。嵌められた? ……捨てられた?

「レンはどこだ。レンに会わせてくれ」

「大人しく我々についてくれば会わせてやる」

 〈エデン〉の兵士に捕まったタケルは兵士の野営キャンプに連行され、そこで〈海〉の中で発狂して死ぬか、彼らの仲間になるか、どちらかの道を選べと迫られた。

「我々も元は日本人だ。同志に出自や人種は関係ない。そう本に書いてあっただろう?」

 そうだ。あの本に書いてあった。〈エデン〉の国民は、世界中に散らばってその街の人間に成りすます。そして、その地でウイルスのように自国民を増やすのだ。彼らは人種や宗教、国籍ではなく、思想によって強固に繋がった新しい民族なのだ、と。

 タケルが無言でいると兵士は口を歪めた。

「そう不貞腐れるな、兄弟。なんといってもお前はレンのお気に入りだからな。〈エデン〉の国民として忠誠を誓えばお前を我々の側……指導者側に立たせてやるとレンは言っている」

 敵の言葉など、タケルには信じられなかった。

「あいつがそんなことを言うはずがない。レンはどこだ。俺の女だ、返せ」

 兵士が顎をしゃくると、一団の中から〈エデン〉の戦闘服に身を包んだレンが現れた。

 彼女は軽蔑したようにタケルを一瞥し、彼の前でわざとらしく兵士といちゃついて見せた。

「レンは俺たちの天使だ。彼女に惚れて俺たちは〈エデン〉についた。お前と同じだよ」

「惚れてる、ね。……どうだか」レンは意味ありげに呟いた。

「私、その男が大嫌いだった。保護者ぶって私につきまとうの。結局、私とやりたかっただけなのよね?」

 タケルの目の前に絶望が広がった。

 彼は浜辺に引きずり出された。夜までレンと一緒にいた浜辺だ。

「こっちを向けよ、レン!」

 叫んでも、彼女は最後までタケルと目を合わせようとしなかった。

「命乞いしろ。偉大なる〈エデン〉の国民にしてくださいと言え」

 〈エデン〉の兵士たちはタケルに暴行を加えながら口々に罵ったが、すでに放心していた彼の耳には届かなかった。

 やがて兵士は舌打ちし、ぼろぼろになった彼を〈海〉に放り投げた。

 レンは〈海〉に向かって地面に咲いていた花をぶちまけ、やがて呟いた。

「苦しみ、のたうちまわって私を恨めばいいわ……」



 〈海〉の中は、漆黒の闇の世界だった。闇には幾多の白い花が降っている。

 シロツメクサだ。クローバーの花。花言葉は〈復讐〉。

 ――レンは、俺のことをずっと憎んでいたんだな。

 タケルは〈海〉に沈みながらぼんやりと考えた。

 普段ならヘドロの海だろうと泳ぎきれるのだが、今は腕と脚の骨を折られている。それに、もうどうでもいい気分だ。

 すべてを諦めたとき、ふと感覚のないはずの手にずっしりとした重みを感じた。

「太刀……。爺ちゃん?」

 彼は家と一緒になくなったと思っていた太刀をいつの間にか握り締めていた。


 〈……死なないで。タケル……〉


 持ち主を選ぶという不思議な太刀だという。太刀を見ていると思い出す、尊敬していた祖父に明るい両親と姉。

 部活の仲間やバカ騒ぎをして遊んでいた友だち。彼らはこの海に沈んだきり帰ってこなかった。

 殺される理由なんて何もないのに。


 〈……生きて〉

 

 ――俺は生きる。このまま死ぬのは嫌だ、敵に一矢報いたい。

 タケルの心に悔しさと生きたいという執念が湧いてきた。

 そんな彼の耳元に、懐かしいような奇妙な声が落ちてくる。


 〈勇敢な戦士よ。野獣として生きる覚悟があるなら行くがいい、お前は選ばれた〉



 河童は戦いに身を投じ、敵対する者を威圧し、屈服させて己の力を誇示してきた。

 彼の目的は〈塔〉を制圧し、瓦礫の街を占拠することだ。

 そして、その後に〈エデン〉の連中を街へ引きずり出す。

 家族や仲間を殺し、街を破壊した連中に思い知らせてやるのだ。

 河童は恐ろしい風貌を持つと同時に、驚異的な筋力と生命力を誇っている。

 普通の人間なら致命傷になるようなケガをしてもびくともしなかった。

 少なくとも、街で河童の威風に恐れを抱かない者はいなかった。河童が声をかければ誰もが尻尾を振るし、睨みつければ泣いて謝る。

 ただ一人、カエルを除けばだが。

 カエルは河童が声をかけると明らかに迷惑そうな顔をした。仲間に誘うとバカにしたように笑った。

 ……生意気なソロだ。殺すのは簡単だが、それでは面白くない。

 あの変人を屈服させるにはどうしたらいいか、河童はいつも考えていた。

 それに、カエルはレンにとてもよく似ている。

 もし、カエルがレンの縁者だとしたら……。いや、あれが女でレン本人だとしたら?

 そう思うと河童はいてもたってもいられない。カエルの顔を確かめたくて仕方がなかった。


「河童。寝てなくていいのかよ」

 キタローと入れ替わりに参謀のミチハルが部屋に入ってきた。

「カエル頭の頭突きを食らったあげく、鉄パイプで思いきりぶん殴られたんだろ?」

 カエルは蛙を模した奇妙なフードをいつも被っているため、カエル頭と呼ばれていた。

「たいしたことはない、虫に刺されたようなもんだ」河童は強がった。

 ミチハルは綺麗に整えた眉を少し上げた。

「虫に刺されて担ぎこまれてりゃ世話ないな。傷口を見せてみろ」

 河童は憮然としてもう治ったと告げ、ミチハルを手で払った。

「治ってないだろ。傷が癒えないまま抗争に出るつもりかよ」

 ミチハルは河童を寝床に座らせ、頭の包帯を手際よくほどいて治療を始めた。彼の実家は鍼灸院で、自身も医療の心得がある。

 野良にしてはインテリ風のおとなしそうな青年だが、彼はチームにとって得がたい医師として河童に次ぐ発言力があった。

 治療をしながらミチハルが嘆息した。

「すごい回復力だ。傷がほとんどふさがってる」

「俺は不死身だって言ってるだろ。出かける前に水をくれ」

「マジかよ。お前、ひん死だったんだぞ」

 ミチハルがヤカンを手渡すと、河童はそれをひったくって飲み、太刀を携えて漆黒のレインコートを羽織った。カエルを捕まえに行くのだという。

「今度こそ捕まえる。勝手なマネをするソロは放っておけない」

 ミチハルはひそかに舌打ちした。――そんなこと言って、また逃がしちまうんだろ。

「カエル頭はいないぞ。ねぐらはもぬけのカラだった」

「捜しに行く。お前らも捜せ」

「カエル頭を捕り逃したのは誰だ。いい加減にしろ」

「なら、ひとりで捜しに行くだけだ」

 ミチハルにしてみれば、ソロ一匹いようがいまいが戦いに何の支障もなく、むしろ連携を乱しそうなソロなどいないほうがいい。

 彼はほかの幹部を呼び、河童を取り抑えて部屋に連れ戻した。クズ鉄山の仲間たちはソロのカエルを毛嫌いしている。


「リーダー自ら掟を破るつもりなら、俺たちにも考えがあるぞ」

 仲間を裏切るなかれ、チームの鉄則だ。河童は過酷な街を生きていくうえで不可欠なものがあると信じている。

 ひとつは生命力、ひとつは度胸、残るひとつは信じる者たち、仲間だ。仲間との絆が断ち切られれば、野良はソロか奴隷に身を堕とすしかない。

 河童はカエルを捕獲するという自分のためだけの楽しみを諦めざるを得なかった。

「今夜、作戦会議を開く。古参メンバーを全員集めておいてくれ」

 河童がそう言うと、子分たちはほっとして各自の持ち場に戻った。


 少し頭を冷やそう。河童はコートを羽織ったままアジトを出た。するとミチハルが河童の横を歩いてついてきた。

「なんだ。見張ってるつもりか」河童が不機嫌そうに口を歪めた。

「……まあな。掃除当番のキタローが言ってたぞ。また女のことで荒れたらしいな」

 河童が彼女の〈裏切り〉を思い出したとき、いつも不機嫌になってごねまくる。こういうときの彼は力任せに暴れることがあり危険だ。ミチハルはそのことを危惧していた。

「荒れてねえよ、毛が逆立っただけだ。……ムカついて」河童は言った。

 まだその娘に惚れているんだな、ミチハルは思った。


 河童は彼女のことになると冷静に語れなくなるが、大筋はミチハルも把握している。

 本気で惚れていた女がいて、その女にこっぴどく裏切られたとか何とか。

 だが、別に珍しい話ではなかった。

 ミチハルは戦争中に似たような状況の男女を何人も見ている。

 妻や娘を敵に差し出して命乞いする男、夫や恋人を見捨てて敵に助けを請う女……。

 ミチハル自身、敵に捕まり泣きながら助けを呼ぶ妹を見捨てて逃げた男のひとりだ。

「非常時だったんだ。みんな戦争と馬鹿な大人が悪い」

 河童は何も言わない。彼はミチハルが罪悪感に苦しんでいるのを知っている。

 でも、それとこれは違う。

 レンは自分が犬ころのように殴られて〈海〉に放り投げられるのを見て笑っていた。

 彼女は、〈タケル〉の想いを手玉に取って粉々に打ち砕いた。


「やあアニキ、今日もいい〈雨〉っすね」

 街を歩いていると二人は嫌でも人目を引く。なんといっても最強チーム「クズ鉄山」のリーダーとその参謀だ。

 河童が街における野良の地位を確立したことは誰もが知っているため、たとえチーム間の縄張り争いなどで対立していたとしても、彼らは河童には敬意を払っていた。河童を見かければ皆が彼らの歩く道を開け、挨拶をしてくる。

「抗争頑張ってくださいよ。応援してます」

 街の少年たちは気が荒く凶暴でドライだ。

 そうでないと〈雨〉の中を生きていけない。誰もが心に傷を負って生きているが、個人的な悩みを表に出すのはタブーだった。

 弱った〈獣〉は皆から狙われる。そこに待っているのは死だ。

 だから気持ちが沈みそうになると「みんな〈雨〉が悪いんだ」とうそぶく。


 裏切られた恨みを持つ一方で、河童はレンのことをいまだに引きずっていた。

 忘れてしまいたかった。でも、心に刻まれた彼女の影は消えるどころか際立つばかりだ。

 レンに匹敵する美しい者がそばにいれば、彼女の存在を消せるかもしれないと思う。恋愛感情はいらない、励ましてくれるだけでいい。

 だが、綺麗どころはすべて塔の家畜が占領している。

 見栄えに自信のある者は家畜に飼われていれば〈雨〉に濡れることもなく食べるにも困らない。

 そのため、自ら奴隷の道を選んでしまうのだ。

「もし街に美人が残ってるとしたら、よほどの変わり者だな。毎日覆面被ってよ」

 言ってからミチハルはしまったという顔をしたが、もう遅い。

「お前もそう思うか! 俺の勘ではカエル頭は相当だと思うぞ」

 ほら始まった。ミチハルは舌打ちした。

「ありえねえ、あのフードに騙されるなよ」

 美形ならいくらでも大事にされる。能力や性格なんて関係ない、見た目がすべてなんだから。

 好きこのんでしみったれた嫌われ者のソロをする必要はないのだ。

「そんなスケベ心で戦うから糞ソロにしてやられるんだ。恥だぞ、はっきり言って」

「違うな、征服欲だ。大いなる野望の第一歩だ」

 河童は、カエルと彼女が似ていると言い張る。兄弟に違いないというのだ。

 ミチハルも写真の彼女を見たことがあるが、どこが似ているのかさっぱりわからない。

 レンという娘は小柄で華奢だった。河童が守ってあげたい、などとベタボレしそうなタイプだ。

 だが、カエルの背は百七十は超えているし、痩身だが四肢はがっちりしている。しかも、あの人を食った態度。

 この世のすべての人間はバカと言わんばかりで感じが悪い。



 河童が初めてカエルを知ったのは一昨年だ。

 滑稽なカエル頭のフードを目深に被り、フードと同じ深緑色のレインコートを着た若者が人の群れを避けるように歩いていた。

「ほら、あいつだ。誰ともつるまないでソロなんかやってる変わり者」

「アタマも腕っぷしも悪くないが、ヘンクツでロクなもんじゃねえらしいぞ」

 ミチハルたちはざんざんなことを言っていたが、若者からは忘れたくても忘れられない〈レンの匂い〉がした。

 河童は人を掻き分けて若者の方へまっしぐらに走っていき、若者につかみかかった。

「お前、強そうないい匂いがするな。レンという女を知っているだろう」

 若者は初めて見る巨大な獣にまったく動揺したそぶりを見せず、そっけなく言った。

「……さあ。忘れた」

「ふざけた覆面を取ってツラを見せろ。お前、あいつの兄弟だろう」

「うぜえ」

 そう言うと、若者は河童に強烈な頭突きを食らわせて立ち去った。

 凄まじい石頭だという噂はどうやら本当のようだ。河童は一撃でノックダウンされた。


 それ以来、河童はカエルに執着した。必ず正体を暴いてやるぞと決意していた。

 そんな河童に、ミチハルは渋い顔をして言った。

「お前が彼女の兄弟を手に入れたいってのはわかるよ。だがな……」

 カエル本人は自分の素性を忘れたと言っている。すべて河童の思い込みでしかない。

「説教はいい。捜しに行かないと決めた」

 河童は口うるさい参謀を制した。ミチハルはやれやれという顔をした。

「実は、ナチとヨーコの部隊がカエル頭を捜しに行ってる。抗争のためだ、仕方ない」

 普段は冷酷なほどクールなミチハルだが河童には甘かった。チームの幹部は皆そうだ。

 彼らは何だかんだ言いながら、リーダーである河童に恩義と友情を感じている。

「そうか。なんだよ、水くさいな」河童は嬉しそうにミチハルの背中を叩いた。


 チームのメンバーにはきちんと身分がある。どんな強者であろうと仲間に加われば新米から始める。

 そしてチーム同士にも序列がある。格下のチームは格上のチームにはけっして逆らわない。

 無法地帯のように見えて、実はルールがあるのだ。それを無視して勝手に活動しているのがソロだった。

 ソロとはつまり、どこのチームにも所属できず奴隷にすらなれない落伍者。

「まともな野良ならとっくにどこかのチームに入ってるだろ、普通は」

 リーダーが死んだりして自分のチームが潰された場合、一時的にソロになる野良もいる。

 しかし、カエルの場合はただの一度もチームに所属していたことがないのだ。

「だからクズ鉄山に誘うんだ」河童はしれっと言った。

「街の流儀を叩き込んでやる。街で最後のソロを屈服させることで俺の名声はさらに大きくなる」

 ミチハルは唸った。どうやら河童は本気でカエルを仲間に加えるつもりのようだ。

 河童は一度言い出したら引かないし、敵とみなした相手にはまったく容赦をしない。

 以前は幹部ですらいつ首を掻き切られるか、びくびくしながら接していたものだ。

 だが、そんな河童がカエルと出会った頃から無闇に暴れなくなった。その点だけは、カエルに感謝している。



 侵略戦争が終わり、瓦礫の街に残された人間は約二千名。

 大人たちは早々に〈雨〉の当たらない塔に住み着き、街の支配者を気取っていた。

 〈エデン〉からの援助を独占し、孤児たちを復興作業と称した過酷な労働に駆り立てる。

 当時はミチハルも塔の作業班に所属しており、街を復興をさせようと壊れた発電機の修理作業に従事したり貯水庫を作ったりしていた。

 だが、完成してみればそれらはすべて塔だけに行き渡る電気と水で、自分たちは相変わらず瓦礫の下で〈雨〉をしのぐ生活だ。

「いい加減、食わないと死んでしまうぞ」

 ミチハルたち年長の少年たちは結託して塔へ抗議しにいった。

「ジジイ、いつになったら屋根のある家をくれるんだよ」

 実際は二、三十代の男だが、少年たちにかかればみな〈ジジイ〉になってしまう。

 少年たちに詰め寄られた大人は言った。「塔の修繕を済ませてからだ」


 役人となった塔の大人たちは、少年たちの訴えにまったく取り合わなかった。

「まったくお前らは、サボることしか考えないんだからな」

「何日も食ってないんだぞ。俺たちだって生きていく権利があるはずだ」

「生きる権利!」役人はせせら笑った。

「よぉく聞け、クソガキ。生きる権利ってのはな、ハタチ以上で選挙権があって、大なる〈エデン〉の皆様に服従してるヤツにだけ認められてんだよ」

 別の役人が言う。

「税金が払えるなら〈生きる権利〉をやってもいいぞ。食料か水、貴様の内臓でもいい。あとは二十歳以上の保証人のサインと身分証だな。印鑑も忘れるなよ」

 そんなものが孤児にあるはずがない。わかっていてわざと言っているのだ。

 ミチハルたちが激昂すると、役人は意地悪そうに微笑んで言った。

「まあ、俺たちのペットになるというなら特別に飼ってやってもいいがな」

「……はあ?」

 近頃、塔の大人たちの間では美しい顔立ちの少年をペット代わりに飼うことが流行している。

 タダ飯にありつけるので自ら奴隷に志願する者もいるほどだ。

 だが、ミチハルは飼われるなんて御免だ。ぞっとして呻いた。「……気色悪い。お断りだ」

「そうか。嫌か。なら、お前らはどうだ。お前たちは、なかなか好みだ」

 別の役人もにやにやと笑った。「芸を覚えたら毎日エサをやるぞ、どうだ」

 少年たちは少し迷っていたが、結局は〈雨〉に怯える生活はもう嫌だと言って役人たちについて行ってしまった。

 あの調子では、もう二度と戻ってこないだろう。


 ひとり取り残されたミチハルは憤慨したまま、無駄に立派な塔のロビーを出た。

「歪んでる。あいつらはアタマがおかしい」

 ミチハルの実家は鍼灸院をやっていた。

 彼は小さい頃から経絡や経穴のことを教わるでもなく覚え、将来は家を継ぐのだろうと漠然と思っていた。

 未来に不安はなく高校生活も順調だったのに、突如起こった侵略戦争で父母を失い、妹は〈エデン〉にさらわれた。

 特別に体力があるわけでもないミチハルが戦火をかいくぐって生き抜けたのは幸運といえたが、生き地獄の始まりともいえた。


 ミチハルが忌々しげに持ち場に戻ろうとすると、彼はいきなり背後から殴られ、塔のロビーに引きずり戻された。

 彼は大勢が見ている前で塔の兵隊数人によってリンチされた。

「ガキが大人に逆らうとどうなるか、お前らもよく見ておけ」

 兵隊はいずれも戦闘のプロだった。全身を蹴られ、ズボンを下ろされて尻に警棒を打ち据えられる。

「ぐはあっ!」ミチハルは痛みと苦しみで吐きそうになった。

 ……と、不意に、ミチハルの身体がラクになった。兵士たちがロビーに現れた客に気をとられたからだ。

「なんだお前。気持ちの悪いケダモノだな」

 兵士たちはミチハルを突き飛ばして奇妙な客に詰め寄った。


 そこに筋骨隆々の二メートルに及ぶ巨体の獣人が立っていた。

 外は〈雨〉が降っているというのに上半身は裸でびしょ濡れだ。しかも、背中にはタテガミまで生えている。

「お前らが奪った俺の太刀を返せ」ケモノは無表情のまま言った。

「ああ? ガオーとしか聞こえねえな」

 兵隊が嘲笑うと、ケモノのような珍客もニヤリとした。

 ミチハルはその笑みを見て背筋が凍りついたが、兵隊たちは気にもとめない。

「ホント、こいつ人間には見えないな。尻尾でも生えてるんじゃないのか」

 相手を侮った兵隊がケモノの毛深い背中を撫でると、ケモノは振り向きざま兵隊の頬を払う。

 ゴキッという、骨の折れる嫌な音がした。


 兵隊たちは面食らった顔をしたが、やがて拳銃を構えてケモノを撃った。

 しかしケモノは撃たれてもひるむどころか薄笑いを浮かべている。

 さすがに恐れを抱いたのか、兵隊たちは無線機で応援を呼んだ。

「バケモノがいる。ライフルを装備してロビーへ……」

 言い終わらないうちにその兵隊もケモノに倒された。

 兵隊たちは戦慄した。

「よせ。こっちへ来るな。探してやる、探してやるから」

「太刀ってのは、こ、これか。瓦礫の真ん中に落ちていたといって届けられていたんだ」

 兵隊のひとりが鞘に収まった太刀を持ってきた。実は孤児から没収したものだ。

 見た目は立派だが、やたらと重くて鞘が抜けず、捨てようと思っていたものだった。

「そうなのか。俺が目を離したスキにコソ泥にやられてな」

 ケモノは兵隊が持ってきた太刀を返してもらいながら言った。

「まあ、そいつは捕まえて……ちまったんだけど」

 ケモノが口から何かをぺっと吐いた。それはカランと音を立てて床に落ちる。

「……ナニをどうしちまったって?」

 おっかなびっくり兵隊が尋ねると、ケモノは何も答えず舌なめずりをした。

 知らないほうがよさそうだった。皆が腰を抜かしているなか、ケモノは悠然と塔から出て行った。


「おい、待ってくれ」

 ミチハルはビニールを被ってよたよたしながらケモノを追った。

 彼が振り返るとミチハルは思わずひっと喉を鳴らしたが、彼は意外に人懐こそうな表情でこちらを見ている。

 ミチハルは勇気を振り絞って彼が持っている太刀を指さした。

「いいエモノだ。あんたのか」

 ケモノは誇らしげに頷いた。「こいつは持ち主を選ぶんだ。俺にしか使えない」

「俺はミチハルってんだ。あんた、名前は? 作業の持ち場はどこなんだ」

「持ち場なんてあるか。俺はこの腕だけで食ってるんだ」

 ケモノは丸太のように太い腕を見せて笑う。聞けば、彼は塔から離れた廃墟から来たという。

「あ、あんた、野良か……?」

 瓦礫の街で施しを受けずに暮らしている〈野良〉という猛者がいると噂には聞いていたが、実際に見るのはミチハルは初めてだった。

「名前は、そうだな。〈雨〉に当たると元気になるから河童って呼ばれている」

 巨大なケモノは立派な鬣を揺らして言った。

「すごいな、羨ましいよ。俺にもそんな強さがあれば塔の奴らなんかにペコペコしなくてもいいのに……」

「〈雨〉の下で暮らしてりゃ誰でもこうなる。塔が嫌ならお前も来い。仲間になろうぜ」

「仲間……」

 久しぶりに聞いた、仲間なんて。こんな地獄で仲間……、か。

 ミチハルは河童にうなずいた。きっと、この地獄でもっとも必要なものこそ“仲間”なのだ。


 彼は街の流儀を徹底的に叩き込まれた。そこは完全な弱肉強食の世界。野生動物のルールがまかり通っている。

 縄張りを広げ、不潔な食料を奪い合う日々だ。

 河童は頼もしくて理想的なリーダーだが、ときどき理不尽に荒れていた。

 やたらと疑り深くなり、因縁をつけてきて癇癪を起こす。

 チームの先輩がミチハルに耳打ちする。「リーダーの前で女の話は絶対にするなよ」

 河童の恋人が〈エデン〉の人間に乗り換えたらしい、とミチハルは聞かされた。

 それから二年、〈雨〉にはいくらか慣れたが、ケンカはやっぱり強くなれない。

 それでもミチハルは参謀にまで昇りつめた。やはり医療の心得があるというのが効いていた。


 やがて重労働に従事していた孤児の大半は、塔から逃亡して野良となって散っていった。



 クズ鉄山では床に座布団を並べ、河童と幹部たちが戦略会議を開いていた。

「それで、カエル頭はどうした。見つかったのか?」

 河童は開口一番に聞いた。

「知ってる隠れ家はあらかた捜した。でもいなかった。もうわからん」

 幹部のナチが匙を投げた、というジェスチャーをして言った。

 河童は首座に置かれた五枚重ねの座布団に座り、足で苛々と床を叩いた。

「街中捜したんだ。でも、覆面と緑のコートを脱がれたらお手上げだ」

 ヨーコという幹部も言った。女だと誤解されがちだが、本名はヨコハマミナトというれっきとした男だ。

 高校時代にバンドを組みギターを弾いていた。ヨーコはそのときの呼び名だった。

「一応、めぼしいものをエサにと思って盗ってきたんだけど、乗ってくるかな」

 河童はナチが放り投げてきた乾電池を受け取り、眉を寄せた。

「……何だ、これは」

 ミチハルが咎めた。「二人を責めるなよ。お前がケンカで負けるのが悪いんだ」

「はいはい。俺が悪い」河童はぶうたれた。

「今回は諦めたらどうだ。俺はどうもあいつは好かない」

 坊主頭のゴクウという幹部が言う。ゴクウもあだ名だ。

 彼の実家は寺であり、その寺の名前がゴクウジなのだ。

 ヨーコも言った。「俺もあいつは嫌いだ。秘密主義だし、得体が知れねえし」

「まあ、いけ好かない野郎ではあるが、実際に強いからな」河童は言った。

「そんなこと言って、かなり手加減してるんじゃないのか?」ナチが冷やかした。

「バカいうな。あいつは本当に強いぞ」

 カエルのケンカは完全に我流だった。構えはなってないしガードもろくにできない。なのに圧倒的に強い。

 ――あいつも〈海〉に漬かって、不死身の身体を手に入れたクチか。

「でもお前、本気でやってないだろ。何を期待してんだ、このスケベ」ヨーコが言った。

「本気だって。……でも、殺したら子分にできないだろ?」

 幹部たちは失笑した。

 河童はおそろしく強い。実力があるのはもちろんだが、執念深さと闘争心の強さは群を抜いていた。

 負けるくらいなら刺し違えることを選ぶ男なのだ。だが、彼はカエルに対しては明らかにツメが甘かった。

 単身でケンカをふっかけに行ってはわざと負けて帰ってきて、「あいつは俺の獲物だから手出しをするな」などと言う。


 河童は幹部たちの頭をひとりずつ刀の柄で叩いた。

「今はそんな話をしてる場合じゃねえ。まずは作戦会議だ。諜報隊長」

 指名されたナチはしかたなく報告した。

「はいはいリーダー。まず、こっちの戦力はうちを入れて十二チームで五百名ほどだ。ま、俺らのチーム以外はザコに毛が生えた程度だけどな。次、塔側の司令官、つまり大将だな。今回はジュニアが出てくるらしい」

 ミチハルが眉をひそめた。「ジュニアってあのジュニア? ボスの奴隷(ペット)じゃないか」

 ジュニアという人物に関しては噂レベルでしか知られていない。

 塔のボスが猫かわいがりしている奴隷の青年だ。ドイツの上流階級出身で大金持ちで、女よりも美形だと言われている。かなり贅沢好みでワガママだという噂だった。

 河童は怪訝そうな顔をした。――〈塔〉は去年惨敗したはずだが、そんな司令官で大丈夫なのか……?

 とはいえ、河童もジュニアなる人物に詳しいわけではなかった。

「誰かジュニアって奴の情報を教えろ。どんな些細なことでもいい」

 部下たちはうーんと言って唸った。

「あんま詳しくないんだけどな。専門のコックとソムリエとスタイリストがついてるらしい。この街で。ありえねえよな」

「服はオーダーメイド、バカ高い香水をつけて、疲れるとボスに脚を揉ませてるとか」

 河童はバカにしたように言った。「そんなのが司令官。大勢の兵隊を率いるタマか?」


 昨年の抗争の時、塔は散々だったはずだ。

 河童は戦いに参加していた兵隊の四分の一を殺し、司令官の首を切り、地上五階までの貯蔵庫の中身をあらかた奪ってきたのだ。

「でも、本当にそいつが司令官か怪しいな。そっちは囮で、本命がいるかもしれないぞ」

 慎重な性格のミチハルが神妙な表情をする。

「その可能性はある。なにか策はないか」河童はミチハルに訊ねた。

「去年と同じようにやるしかないだろ。いずれにしろ、お前の戦闘力が頼りだ」

 どうも嫌な予感がする。塔はきっと何かを企んでいる。勘の鋭い河童は唸った。

 ――戦力はあっても策がない。ウチの弱点だ。カエル頭がいればなあ。

 カエルはソロだけあって抜群の機微を持っている。まさに臨機応変、動きにムダがない。

 しかも意表をつくような作戦をすぐに思いつく。彼が卑怯者と言われる所以だ。



 これといった良案もなく会議がだれてきたとき、河童の鼻先に〈レン〉の匂いが漂ってきた。獣の肉体を手に入れた彼は鼻が利くのだ。

 河童が入り口の方を見ると、見慣れたカエル頭が立っている。

 カエルは言った。「塔は冬まで篭城戦を決め込むつもりかもしれないな」

「野郎! 部外者がこんなところへ来るな。つまみだせ」ミチハルが怒鳴った。

「待て。最後まで語っていけ。俺が許す」

 河童はカエルを引き止めた。「お前は塔の周辺が狩場だったな、事情に詳しいんだろ」

 カエルはうるさい周囲を少し見まわして言った。

「正面口以外の出入口がバリケードで封鎖されていた。正面口から入るように誘っているように見えた。おそらく罠を仕掛けてる」

 ナチが噛み付いてきた。「なら正面以外から攻めればいい。封鎖がなんだってんだよ」

 ……まあ、こういう反応になるのは予想してた。カエルは辛抱強く言った。

「正面以外の入り口は狭すぎて去年は諦めたんだろ。さらに狭くなってるところをこじ開けていくのか? 正面も当然、危ない。たぶん相当な戦力を注ぎ込んでいる。いずれにしろ正攻法じゃ勝ち目はないよ。戦場を〈雨〉の下にするとか作戦を練ったほうがいい」

 家畜は日頃から塔の中に篭って暮らしている。〈雨〉への耐性がなく、すぐに刺激臭に酔ってしまうのだ。

 野外で暮らす野良はそこまでひどくはない。

 ヨーコは呆れた顔をした。「バカか? 家畜がのこのこ塔から出てくるかっつうの」

 カエルは肩をすくめた。

「家畜を外へ出さなくても、〈塔〉に雨水を流し込めばいいじゃない」

 ああ、そうか。幹部たちは合点がいった顔をしたが、すぐに気を取り直して騒いだ。

「お前、相変わらず考えることが姑息だな」

「小汚ねえカエル頭の話なんか信用できねえ。どっか行けよ」

 カエルは立ったまま話を続けた。

「たぶん塔の主力は別働隊を組んで河童を集中的に潰しにかかってくると思う。僕は、ジュニアって奴を舐めない方がいい気がする」

「たぶん、思う、気がする、お前のは全部予想か」ミチハルが呆れた顔をした。

「ジュニアなんてオカマだろ、顔がいいだけの」ゴクウも言った。

「お前らはボスのペットなんてしている人間がタダ者だと思うのか。どれだけの実力があるのかも知らないんだろ?  去年の司令官は河童に殺された。今回は目にもの見せてやろうと、新しい司令官にはボスのとっておきが任命された。十分に考えられるじゃないか」

「お前は大げさ……」そう言いかけたミチハルの頭を叩き、河童はにやりと笑った。

「スジは通ってるな。そうかそうか、ついに抗争に参加する気になったか」

「いや。取引に来た。今、情報を売ったぞ。お前の持ってる単四電池を返せ」

 カエルの差し出したメモにはヘタクソな文字で〈でんちはあずかった。――くずてつやま〉とある。

 河童は憮然としてカエルに乾電池を投げた。

 ヨーコが冷笑した。「売るほどの情報じゃねえがな。その程度なら俺でも考えつく」

 ミチハルも地図を見ながら言った。

「雨水を使うという発想自体は俺にもあった。境界線あたりから溝を掘れば、水を流すのはそう難しくないな」

「ポンプとホースを持っていけよ。安く調達しようか?」カエルはにやにやした。

 幹部たちは作戦をより具体的にするための議論に熱中し、露骨にカエルを無視した。

 カエルは肩をすくめ、部屋を後にした。



 河童は立ち去るカエルの後を追った。二人はクズ鉄山の出口まで連れ立って歩いた。

 そして彼は、別れ際に改めてカエルをチームに誘った。

「お前は手先が器用だし頭もいい。チームに入れ。奴隷扱いじゃない、仲間になろうと言ってるんだ」

 一瞬の沈黙があり、河童は首を傾げた。

 いつもならここで「寝言は寝て言え」とか「仲間なんて笑わせる」などと嫌味なことを言うはずなのに。

「……僕に仲間を持つ資格はないよ」カエルは言った。

 河童が反論しようとすると、彼は笑ってそれを制する。「本当に仲間はいらないんだ」

 カエルはウォークマンの蓋を開けて乾電池を入れると、イヤホンを耳につけた。

 フードからわずかに白い頬が覗く。レンも色白だったよな、と河童はいつも思う。

 それに、カエルはレンと同じ匂いがする。荒ぶる心を静める不思議な匂いだ。

 河童はカエルに尋ねた。「だいぶ前にも言ったと思うが、お前、姉妹がいるだろ」

「だいぶ前にも言ったと思うが、忘れた」

 カエルは記憶喪失だという。

 爆撃のショックで、過去のことをほとんど忘れてしまったのだそうだ。思い出なんてないほうが今を穏やかに生きられる、と彼は言った。

 ときどき河童は思うのだ。カエルはレン本人なのではないのかと。

 素顔を見せないのも、誰とも仲間になろうとしないのも、女であることを隠しているからではないかと。

 そう思ってから、あまりの荒唐無稽さに首を振る。

 〈エデン〉による女狩りは徹底していた。髪の毛一本で男か女がわかってしまうのだ。

「まあいい。それで、お前は抗争には出ないでどこへ行くつもりなんだ」

「冬支度だ。お前らとは別行動で塔を漁りに行く。せいぜい敵を引き付けてくれよ」 

 河童は眦を釣り上げた。「それが本当の目的か。てめえ!」

 繰り出されたパンチをカエルはひらりとかわし、にんまりと笑う。

 河童は憮然とした。――やっぱりこんなヤツは女じゃねえ。

「僕の狙いはショッピング街にある貯蔵庫じゃなくてテナントの倉庫の方だけどな」

「何。そんな上階まで上がるのか」


 どこかの大企業が建てたといわれるビル……塔は、全長八百メートルに及ぶ超高層ビルだ。

 地下には駐車場と地下鉄駅、地上階はコンサートホール、ショッピング街、ホテルがあり、高層階はテナントや外資のオーナー企業が使用していた。

 現在、一般市民クラスの家畜はホテルまでの階層で暮らしており、それ以上の階層は徹底したセキュリティがしかれている。

 河童でも五階にあるショッピング街に乗り込むのがせいぜいだった。

 それよりも遥か上階にソロであるカエルが忍び込んでいるというのだ。

「お前、本当に得体が知れねえな。塔がどういう構造をしてるか知ってるのかよ」

「倉庫へのルートくらいしか知らない」

 それだけ知ってりゃ上等だ。河童は舌なめずりをした。

「そういう情報は親友にも教えておくべきだ。悪いようにはしないから吐け」

 ……図々しい。カエルは冷ややかに河童を見て言った。「教えたら横取りするだろ」

 横取りはするさ。でも、お前がオレ様のものになれば、それは横取りではなく共有だ。

 河童はふてぶてしく笑った。「よし。俺も別働隊を連れてお前についていく」

 カエルは声を荒らげた。「お前みたいな目立つ奴が来たらすぐ見つかるだろ!」

「お前だってそんなカエル頭じゃ目立つだろうがよ」

 カエルは苦笑した。「バカだな。覆面なんかしていくわけないじゃないか」

 河童は瞠目した。――じゃあなにか、こいつは塔の中では素顔でいるってのか!

 誰ともつるまないカエルの素顔は街の七不思議とされていた。

 超絶ブサイク説、蛙人間説、亡霊説、実は塔の家畜なんじゃないかと言う者もいる。

 河童としては素顔がどうというより、なぜ顔を隠す必要があるのかナゾだった。……女であるかどうかは置いておいて。

 そして、そのことをカエルに聞いた。

「……別に。ただなんとなく」カエルはこめかみに手を当てて言った。


「理由がないならツラを見せろ」河童は吼えた。

 カエルはつかみかかろうとする河童を鉄パイプで軽くなぎ払った。

「見せろと言われると、意地でも見せたくなくなるものだろう?」

「ねえよ。そんなのヒネクレ根性のおめえだけだよ」

 河童は不機嫌そうに唸った。

「まったく。色白だし、毛は薄いし、声は甲高いしよ。お前、実は女なんじゃねえの?」

 何気なく言ったつもりだったが、カエルの動きがぴたりと止まった。

「……え。何、お前なんで固まってるんだよ」

 やはり女だったか。河童が興奮でどぎまぎしていると、不意に頭突きを食らった。

 昨日殴られた場所を再びどつかれ、彼は血を噴いて倒れた。

「バカにすんなよ、てめえ」

 カエルが肩をわなわな震わせて河童を足蹴にした。

 怒るのも無理はない。オンナ扱いは街では最大の侮辱行為なのだ。

 河童は荒ぶるカエルをなだめた。「悪かった。俺の秘密を話す。実は俺……女なんだ」

「気色悪! 実は熊だ、のがまだ信じられるわ」カエルは足で河童をぐりぐりと踏んだ。

「痛くねえんだよ、このボンクラ」

 河童は、攻撃の手を緩めないカエルに巴投げを食らわせた。

「やんのか、てめえは。今度こそ殺されたいか」フーッとネコのようにカエルが唸った。

「お前のヘナチョコ猫パンチで死ぬバカのツラが見てみたいもんだ」

 ――わざとゆるく投げてやったんだから感謝しろよ。


 リーダーは孤独だ。誰もが期待に満ちた目で自分を見る。

 自分についてきた者たちの命を預かるという責任は想像以上に重い。

 仲間が大事には違いないが、ときどきそれが無性に重く感じることがある。

 そんなとき、そばにいて励ましてくれる者がいればどんなにいいだろう。……三年前のあのときのように。

「どうした。傷口に響いたのか」

 寝転がったまま身動きしなくなった河童を見てカエルが近寄ってきた。

 そしてカエルが河童のケガをした頭に手を触れる。不思議と痛みが引いていくような気がした。


「……過去を思い出せよ、親友」


 レン。俺は理由が知りたい。どうしてあんなことをしたのか。本当に裏切ったのか。

「河童ぁ、いつまで遊んでるんだよ!」ミチハルがリーダーを呼んでいる。

「必ず、お前の正体を暴いてやる。それまでは生かしておいてやるよ、親友」

 河童はそう言うと、カエルの肩を叩いて皆の待つ部屋へ引き返していった。

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