表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エデンの天使  作者: 如月十五
エデンの天使
1/9

カエル_0412修正

本文では話の内容上、暴力的な表現や過激な描写が含まれます。

あらかじめご承知ください。

また登場する名称、団体、国家はすべてフィクションです。

どこかにある別の世界であることをご了承願います。

 街に黒いヘドロの雨が降る。

 雨の瘴気が僕らの住むちっぽけな箱庭を覆う。

 黒い雨は街を染め、人々を染め、僕の心を闇色に染めていく。

 けっして晴れない空にやまない雨。この街の光景は、僕の心を映す鏡そのものだ。

 僕はずぶ濡れになりながら海へ向かって歩いていく。

 毎日死の海へと通う。見知らぬ同胞たちが眠る海へ、暗い闇の〈海〉へ。

 そして崖っぷちに立ち、海に向かって祈りを捧げる。

 ――もし、この世に神という存在がいるのなら、僕の願いを叶えてほしい。

 だが僕は途中で祈るのを止め、口の端を歪めて笑ってみせた。……クソッタレ。


 神はいつでも真の善人を愛さず、真の罪人を裁かない。

 ここで何を願ったところで辛気臭い〈雨〉が降り注ぐだけだ。

 僕はやるせない気持ちで花を手向ける代わりに紙切れに四葉のクローバーの絵を描いて海に投げた。

 そして静かに目を閉じる。神ではなく、〈海〉で眠る霊に語りかける。

「どうか、あなた方に冥福を。無慈悲な神々に呪いを与えたまえ」


 祈りを終えた僕はコートとフードを脱ぎ捨てて猛毒の〈海〉に飛び込んだ。

 〈海〉の中ではとてもいいものが見られるんだ。そりゃあ綺麗な風景さ。

 脳に刷り込まれた記憶と記録の断片が原色の夢の中で融合と剥離を繰り返す無限の万華鏡。

 この〈海〉は無数の死者が眠るヘドロの墓稜。生きとし生ける者を閉じ込める闇の檻。

 そして、ここは僕が待ち望んだ新たな世界。

 そもそも、世界がこんなふうな地獄になったのは、僕が悪魔と契約してしまったからなんだ。

 僕の願いが叶わないなら、こんな世界は滅びてしまえばいいって。



 ……少しだけ、僕の身の上話をしていいかな。

 かつて、眼下に広がるこの海の下には首都圏と呼ばれた巨大都市があった。

 三年前まで、この世界は素晴らしかった。街は愛と幸福で満ちていた。

 鳥の群れが大空を舞いながらゴミ袋を物色し、子供たちは無邪気に笑いながら公園で眠る老人に石を投げる。

 心優しき紳士は、雑誌を開いて世界の不幸な子供に涙する。目の前の失業者には見向きもしないで。

 自分を誤魔化し、追従笑いで保たれるあの甘い甘い平和。

 全然素晴らしくないだって? ……今よりはだいぶマシだったよ。僕はみんなが羨ましかった。

 真実の愛も存在した、僕以外の誰かに。幸福も訪れていた、見知らぬ誰かのもとに。

 世の中には、泣いて甘えれば撫でてもらえる子供がいる裏で、泣くと輪をかけていじめられる子供がいる。

 泣いて助けを求めると、大人から怒鳴られる子供がいる。僕はまさにそういう人間だった。

 僕にとって、〈平和〉などただの嫌味な世界でしかない。

 他人の幸福を見せつけられて、お前だって恵まれているんだと言われても虚しいだけで。


 学校には大勢の子供がいたけれど、彼らはただの〈風景〉。僕と接点のある子なんてひとりもいない。

 ……僕は、いつもひとりぼっちだった。誰かのそばに近づくといじめられるから。

 僕がいかに残念な人間であるか、いろんな奴から聞かされた。

 性格が暗いとか、顔に汚いアザがあるとか、気味が悪いとか。とにかく人を不快にさせるのが僕という人間らしい。

 幼かった僕は完全に萎縮し、殻に篭って孤独でいる少年期を選んだ。

 僕はべそをかきながら誰もいない海へ行く。空想に耽ることで自分が孤独なことを忘れようとした。

 目を閉じればあらゆる美しいものが見える。耳をふさげば天上の歌だって聞こえる。


 ――心を解放しろ。夢の世界なら、僕は無敵だ。


 海辺に立ち、凪に耳に澄ませて心を飛ばせば僕はどこへでも行くことができた。

 海の上や綿雲の上を歩くことだってできる。降り注ぐ雪のような星の川を泳ぎ、ラクダの背中に乗って月の砂漠を横断することだってできる。そして、次に出てくるのは……、僕に差し伸べられた優しい手。


 〈こっちへ来いよ。一緒に遊ぼう〉


 僕はその手を必死でつかもうとするけれど、いつもつかむまえに夢から覚めてしまう。

 僕は海へ通い、夢で見た情景をスケッチブックに描きとめる。

 空想の世界への旅は、僕が現実を忘れられる唯一の手段。僕にとって、〈夢〉はあらゆる現実よりもリアリティのある〈現実〉だった。

 そんなどうしようもない僕でも、真面目に努力すれば報われることを信じて勉強だけはよくした。取り柄はそれしかなかったし、僕だってやればできるという誇りがほしかったのだ。

 でも、難関といわれた私立中学の受験に失敗した。自分が無能だと悟った瞬間だ。

 人には誰でも身の程というものがあって、努力したって決して手に入らないものがあるのだと思い知らされた。

 ……あがいても、あがいても、明るい未来が見えないんだ。


 ――ねえ、教えてよ。僕はどうしてこの世に生まれてきたの?


 いつしか、僕は死に魅せられるようになった。それは誰にでも訪れる平等な終焉だから。



 集団の中にいるのは、ひとりきりでいるよりもずっと孤独だ。

 学校という場所は、僕にとって牢獄でしかなかった。ここには極めて原始的な社会の縮図がある。

 権力を握るリーダーがいて、それに追従する大多数のイヌコロがいて、連中のウサ晴らしの対象になる生贄がいる。僕らは役割の定まった出来レースを永遠に繰り返す。

 心を閉ざした陰気な僕は相変わらず嫌われ者だったけど、それでもよかった。僕も人なんて大嫌いだったから。

 僕は誰にも期待しない。誰にも迷惑をかけないようにひとりでいるし、誰の世話にもならない。

 だから誰も僕に構わないでほしい、そう思っていた。


 ……ヒトと関わるとロクなことがない、というのが僕の持論だ。最初は物珍しさから親切そうに近寄ってきても、飽きればポイとゴミ箱へ。そして、つねに安全な場所から他人のアラを探している。

 ある日、僕がスケッチブックを広げていると、後ろの席に座っている男子生徒が声を上げた。

「先生、こいつ授業中にラクガキしてますよ」

 すると担任教師がやってきて僕のスケッチブックを取り上げて言うんだ。

「今は数学の時間だぞ」

「すみませんでした」

 僕が素直に謝罪すると、担任は僕のスケッチブックの絵を一瞥し、鼻を鳴らすとそれをゴミ箱に捨ててしまった。

 周囲からくすくすと笑う声がする。

「おい、ボードの下が汚れているじゃないか。ここを掃いておきなさい。

 あと、プリントをまとめて職員室へ持ってくるように。……聞こえたのか? 聞こえたのなら返事をしなさい」

「はい……」

 掃除や雑用、使い走り。面倒な用事はいつも僕にまわってくる。こういうことは弱者に押し付けるのが一番だものな。

 用事を済ませて職員室を出ようとすると、担任に呼び止められた。鬱陶しかった。

「お前はまたケンカをしたそうだな。態度が悪いと成績が良くても内申に響くぞ」

 ……笑える。一方的にこずかれ、頭をひっぱたかれる。それに抵抗するのがコイツにはケンカに見えるらしい。

「誰も助けてくれないなら自分で自分を守るしかないじゃないか」

 僕が反撃すると担任は顔を赤くした。予想外の反応に驚いたらしい。

「なんだ、その不貞腐れた態度は。親を呼ぶぞ。お前はフタバ高校が志望なんだろう。

 今のお前の態度では、俺はとてもお前をフタバ高に推薦する気にはなれんな」

「最初から推薦するつもりなんかないでしょ?」

 怒声を上げている担任を無視して、僕は職員室を出た。


 教室へ戻ってくると、クラスメイトたちが破れた紙切れを足で踏みつけて笑っていた。

「なんだこれ。ヘッタクソな絵」

 ゴミ箱から僕のスケッチブックが拾われていて、絵が床にぶちまけられている。

 いつものことだが、いい加減にうんざりしていた。

 今までも上履きがなくなったり、教科書やノートを汚されることがあったが、完全に無視することでしのいできた。

 僕は顔の傷跡にそっと触れた。――人間なんて消えてなくなればいいのに。

 この傷は、お前の顔を見ていると不快だから、という理由で小さい頃につけられたものだ。そのときに泣いていたら、人を不快にさせるお前が悪いんだと言われた。

 ならば、僕はどうすればよかったの。顔を隠していればいいの? ……死ねばいいの?

 怒っても反撃されるだけ。泣いたら余計にエスカレートするだけ。

 僕にできるのは、ただ黙って何でもないフリをすることだけだった。

「おら泣けよ。ザコのくせに生意気だな」

 僕は雑音を無視して破かれた絵を拾った。

 これは他人にとっては下手な絵でも僕の宝物だ。叶わない夢ばかりを描いた幻でも、誰にも冒すことのできない僕だけの世界なんだ。

 ……でも、もう我慢の限界だ。


 翌日、僕は大事なスケッチブックをリュックサックにしまい、身のまわりを整理して家を出た。

 たまたま生まれた命。死んでないから生かされているにすぎない無意味な存在。

 僕はいつも通っている海辺の崖っぷちに立ち、一晩をそこで過ごした。

「もし、願いがひとつだけ叶うなら……がほしいんだ」

 恥ずかしくなって僕は顔を赤くした。バカバカしい。願いなど、叶うはずがないのに。

 海はびっくりするぐらい静かで、まるで僕を嘲笑うかのようだった。

「……こんな世界、滅びてしまえ!」

 僕はガケから足を踏み出し、闇の中へと落ちていく。何かが僕を包んでいる。

 これから死ぬというのに不思議と心は落ち着いていて、苛立ちも不快感もなくなっていた。


 お前の望みは叶えられた。


 耳元で誰かの声が落ちてきた。そうだ、これでやっと願いが叶う。遠くへ行こう、誰もいない世界へ。

 深い安らぎに包まれて、僕は目を閉じ心を大空へ飛ばす。あれは、満天の星空の下で満開に咲くヒナギクの花。

 次は真っ赤に染まる空と大地。あの光は、サバンナの夕日だ。

 ――次は差し伸べられる手。今度こそ、あの手をつかみたい。

 しかし現れたのは口を歪めて笑っている女神だった。


 〈望みは叶う。生まれ変わり、くだらない連中に復讐するがいい〉


 ……なんだって。復讐?

 僕は体の芯が凍りつくのを感じた。「そんなことは望んでいない。僕は……」


 〈格好をつけることはない。自分を迫害する者たちが憎くてたまらないのだろう〉


 僕は……。いつも朝起きるのが憂鬱だった。毎朝、目覚めても誰もいないんだ。

 灰色の家の中。テーブルの上に置かれた一日分の食事代。

 

 ハジサラシモノ。


 連休や夏休みはずっと塾の合宿だ。

 家族は楽しい旅行中、僕は寿司詰めの室内で規則だらけの共同生活。

 規則・ヒト・規則・ヒト。人いきれで気が狂いそうになる。

 繰り返し耳元に届く嘲笑と、突き刺さる軽蔑のまなざしと。

 答案用紙は真っ白。頭の中も白い。白い闇だ。

 

 シネバイイノヨ オマエナンカ。


「うるさい。だまれ!」

 僕は空に向かって手を伸ばす。でも、迎える手は現れない。

 ――お前らの望みどおり、死んでやるさ。

 女神が僕を見下ろしている。「……死なれては困るのだ、〈神の子〉よ」


 〈お前は死なない、罪深くも未来を作る者よ……。お前は選ばれた〉



 僕は自分の叫び声で意識を取り戻した。

 〈雨〉が僕の身体を打ち据える。肌に焼けるような痛みを感じる。

 僕は大きく息を吐いた。やはり、今回も死ねなかった。

 崖っぷちへ戻って捨てたコートとリュックサックを拾い、フードを被りなおした。

 〈雨〉に当たっても〈海〉に沈んでも死なない。僕はそういう体質らしい。


 ――ぼくなんて、いらない子なんだ。


 〈海〉にいると僕の脳内で悲痛な(ノイズ)が駆け巡る。

 それは思い出したくもない過去の記憶。捨てても打ち寄せる波のようにやってくる。


 ――ぼくなんて、きえてしまえばいいのに。


 霞んだ記憶の海に、泣いている子供が見える。顔から血を滴らせ、それは涙とともに落ちて砂に吸い込まれていく。モノクロの風景の中でそこだけが赤い。


 三年前、僕は命を絶とうとして失敗し、代わりに不死身の肉体を手に入れた。

 でも、自分が何者なのかがわからない。名前も顔も忘れてしまった。

 記憶のパーツが脳内に散在し、さっきのようにひどい頭痛をともなって戻ってくることはある。でも、脳裏に浮かぶ情報のどれが自分のもので、どれが空想のものかもわからない。

 ……夢か現実かの区別もつかない。

 以前の僕が今と変わらず味方ひとりいない〈ソロ〉だったということはわかる。でも、今の僕は無頼のソロだ。ひとりで生きていけるチカラを手に入れた。

 それは、これまで以上に他人と関わるなということだ。ひとりで生きよという天の思し召し。

「それがあんたの望みなんだろう、神よ」

 〈海〉は何も応えず、〈雨〉は僕のレインコートを濡らすだけだ。



 三年前、呆れるほどに平和ボケした僕らの街に銀色の悪魔がやってきた。

 白い閃光が街を包み、地面から噴き上がる無数の火柱。

 炎と地響きに翻弄されて逃げ惑う人々を、銀色の悪魔が取り囲む。彼らはこの侵略を聖戦だと言った。

 ずるくて卑劣な罪人である僕らを滅ぼし、あるべき姿に戻すための儀式である、と。

 お前たちに正義があるというのなら、歯向かってみせろと敵が僕らを嘲笑う。

 ことごとく破壊され尽くした平和で素晴らしき我が世界。

 神が味方したのは、哀れなピエロたる僕らではなく銀色の悪魔の方だった。

 美しかった僕らの街は、ヘドロの海に囲まれた瓦礫の孤島となった。

 ここはかつてヨコハマと呼ばれた一画の、黒いヘドロの海に浮かぶ小さな孤島。

 僕らはこの島を〈瓦礫の街〉と呼んでいる。


 瓦礫の街では、つねに毒混じりの黒い雨が降っている。

 ヘドロの〈海〉から気化した海水が街を覆う雲となり、〈雨〉となって降り注ぐ。〈雨〉は容赦なく僕らの肉体に苦痛を与え、きつい刺激臭は僕らの理性を蝕んでいく。

 だが、この焼けつく痛みこそ、今日もまだ自分が生きているというなによりの証だ。

 悪魔たちは街を蹂躙し、僕らが人らしく生きるために必要なものをすべて破壊した。僕らは毒の〈雨〉が降る瓦礫の孤島で完全に孤立した。救助はこない、希望もない。

 敵は乞食となった僕らをなぶるため、空からわずかな物資と武器をばら蒔いていく。

 食い物も水も全員に行き渡るほどの量はない。


 ……さあ、野獣たちよ。立ち上がれ、生存競争(ゲーム)の始まりだ!


 僕らは武器を拾い、わずかな食料をめぐって殺しあう。

 漆黒の〈雨〉が僕らを煽る。「生きるがいい。もっと生を謳歌し、凶暴に生きろ」と。


 〈雨〉は、僕らの肉体と精神に少なからず変化を与えた。

 その臭気は僕らを激しい苛立ちで包みこみ、晴れない空は僕らの心をどす黒い負の感情で曇らせていく。絶望と苦しみは、やがて果てない怒りと破壊衝動にすり替わる。

 大勢の人間が〈雨〉の毒に当たって死に、あるいは凶暴化した人々によって殺された。

 今も生き残っているのは〈雨〉にしぶとく適応し、野獣と化した人間ばかりだ。

 いうなれば、僕らは生存競争というゲームを勝ち抜いた〈選ばれし者〉たち。


 銀色の悪魔な天使が瓦礫の街で歌うのさ。

「やあ、数万人の中からみごと選ばれた幸運な君。

 君には、もれなくボロいレインコートと、ガス中毒にならないためのマスクをプレゼント。

 不潔な餌にドロの水。金なら一枚、銀なら五枚でプレゼント」


 ……舐めてるね。まったく嬉しくない選ばれ方だ。

 だが、この街の人間は飢えや渇きに苦しみ、死と狂気に怯えようとも生きようとする。

 たった一匹のドブネズミを巡って殺し合いになろうとも生き残ろうとする。悪魔の仕掛けたゲームから降りるつもりなどないのだ。

 僕らは武器を手にして踊り出す。どうせ死ぬんだというあきらめと、欲しいものは力づくで奪えばいいという短絡思考。生き残った俺たちは特別だという選民意識。裏切り、騙し、欺く。弱肉強食。力だけが幅を利かせるこの世界。


 しかし、〈雨〉に侵された僕らは、いつしかこの環境に馴染んでいった。

 ここにはかつて幅を利かせていた偽善や綺麗ごと、平和という名のファシズムはない。ただ冷徹な現実が横たわるだけだ。〈生〉は必ずしも幸福ではなく、〈死〉は必ずしも不幸でないことを僕らは知った。

 もし疲れてゲームから降りたくなったのなら、レインコートを脱いで〈雨〉に打たれていればいい。

 軽い吐き気と幻覚症状が出るが、少しばかり辛抱していれば安らかに逝ける。

 ここでは生きるも死ぬも、殺すも殺されるも自由。すべてが自由、自分の責任だ。

 そして、それこそが僕の待ち望んだ新しい世界。……そのはずだった。

 今の生活に不満はないが、ときどき僕は孤独と喪失感にさいなまされ、〈海〉に飛び込んでみたくなる。

 〈海〉に飛び込むと夢を見られるからだ。

 不死身となった今でも、僕はあの手を一度もつかめないままでいる。

 あの手をつかむと僕にも幸福がやってくる。小さいときのおまじないさ。


 三年前も、僕はひどい夢を見てしまい自分の絶叫で目を覚ました。黒く変色したからっぽのリュックサックを背負ったまま、この浜に打ち上げられていたのだ。

 すでに悪魔の姿はなく、街には〈雨〉が降っていた。

 〈雨〉は、肌に触れるとしみるような痛みがあり、きつい刺激臭がする。

 僕は瓦礫から厚手のビニールシートを拾い、それをマントのように羽織る。もうひとつ、面白いものを発見したので頭にかぶる。蛙の頭を模したフードだった。

 それは僕の顔をすっぽりと覆えるサイズで、マスク代わりとしても、顔を隠すにもうってつけだ。

「緑のマントに蛙のフードか。カエル人間だな、これは」

 ……気に入った。〈カエル〉というのが僕の新しい名前だ。



 僕はガラクタを集めてねぐらを作り、自前の武器を作って食料を調達しにいく。

 空から降ってくる物資だけでは足りないので、湧き水の出る場所や動物が獲れる場所が縄張りになる。生き残った奴と食い物を巡って命がけのケンカもする。

 手先が器用な僕は街を探索してまわり、瓦礫の中からたくさんのものを拾い上げて暮らしに役立てた。

 自由で気ままなひとり暮らしは素晴らしかった。今の方が、ずっと命を実感できる。

 僕は〈海〉に漬かったせいか、運動神経が恐ろしく発達していた。ケンカは今のところ全勝だ。街では強い人間がとにかく目立つため、やがて僕は街の顔のひとつになっていった。

 有名になっても相変わらず仲間はできない。

 僕が仲間に誘われることはなかったし、僕も仲間を作ろうとはしなかった。

 ……でもいいんだ。人といると、言い知れない息苦しさと辛い気持ちに支配される。

 僕のように単独で行動する者は、〈ソロ〉と呼ばれている。

 どこへ行っても鼻つまみ者だが、集めたガラクタを売って報酬をもらう便利屋として重宝されていた。


「おい、カエル頭。……便利屋!」

 突然、くぐもった声に呼び止められて僕は振り返った。

 マスクにレインコートの男が立っている。知り合いが僕に声をかけてきたのだった。〈雨〉をしのぐため、こういう胡散臭い格好が街の標準装備だった。

「聞こえてる。イモムシか」

 街の人間は他人の名前がカエルだろうがイモムシだろうが頓着しない。わかりやすい呼び名があればいい。

 イモムシはこのあたりをたむろしている十人程度のチームのメンバーだった。

 最初こそ街の連中は好き勝手、てんでバラバラに行動していたが、やがて気の合う仲間を見つけて群れだした。気づけば今も死なずにソロをしているのは僕ひとりになっている。

 イモムシはゴーグルを外して僕に目で挨拶し、世間話をしてきた。

「近いうち、〈塔〉の連中に抗争を仕掛けるらしいぜ。お前も当然出るんだろ」

 少しでも戦力がほしい抗争になると、今どきソロなんてやってる変わり者にも声がかかる。逆に抗争に出ないと臆病者だと非難されるわけだが、僕はいつも辞退していた。


 僕は瓦礫の街の中心部にそびえる〈塔〉を見た。

 それは尖塔部分も含めると全長八百メートルもある超高層ビルだった。窓から漏れるライトの光が放射状に伸びて、雨雲に覆われた薄暗い空を不気味に照らし続けている。

 塔と呼ぶに相応しい螺旋状を描いて天に伸びる美しい建物で、かつて街のシンボルとして親しまれていた。

 市民たちから愛された街のシンボルは侵略戦争後も原型のまま残った。だが、あそこには今、悪魔に魂を売った〈街の支配者〉たちがふんぞり返って暮らしている。

「抗争には行かない。僕、集団行動は嫌い」

 僕が答えると、イモムシは顔をしかめた。

「バカだな。いい加減に仲間を作れよ。河童たちがお前を探してたぞ?」

 彼らは僕に仲間を作れと勧めるが、けっして僕を自分のチームには誘わない。その意図するところを僕も知っているので、こちらも仲間に入れくれとは頼まない。

「……河童か。僕、あいつのことニガテなんだよね」僕は眉をひそめた。

「今回も断ったらシメると息巻いてたぜ。何なら俺が口をきいてやるけど?」

 街で最強の誉れ高い河童に認められるということは、この街で存在が認められているということを意味する。河童に口利きすればイモムシの株も上がる、というわけだ。


 僕らにとってケンカは素敵なレクレーションのひとつだ。

 戦いはつねにその辺で起こる。誇りと威信を賭けた戦いで本気で殺し合う。戦いに負ければ、殺されるか勝った相手に絶対服従だ。そして、ケンカよりもっと大規模で、より熾烈な戦いが抗争だった。

 僕はケンカを売られれば買うし強盗もするが、人殺しは絶対にしない、手下もいらない。

 一方的に恨まれるのも、懐かれるのも嫌いだ。だから誰ともつるまない。

 だが最近、河童と呼ばれている物好きが僕にしつこくつきまとってくるのだ。

 河童はクズ鉄山という名の廃墟を根城にしている最大級規模のチームのリーダーだ。

 もちろん本名ではないだろうが、僕にはどうして彼が河童と呼ばれているのかはわからない。

 河童はいつも漆黒のレインコートを着て、トレードマークの日本刀を携え、大勢の手下を連れて街を練り歩いていた。機嫌がいいときはドスの利いた声でヘタクソな歌を大音量で歌う。殺傷力抜群の音痴だ。

 だが、彼は屈指の実力者であり街の人気者だった。


「お前からは強そうな匂いがする。覆面とれ。ツラを見せてみろ」


 奴はのっけから僕に絡み、ケンカを挑み、拳で語り合おうとしてきた。もちろん、親しみを感じてのことじゃない。どちらが強いか、格上かを確かめるためだ。

 僕は得意の頭突きで河童をぶちのめし、僕が上だということを示してやった。

 今思えばそれがよくなかった。僕は河童の闘争心に火をつけてしまったらしい。

「河童に気に入られてんだろ? 案外スミに置けないよな」イモムシは呑気に言った。

「気に入られてるというか、目をつけられているようだな」

 征服欲の塊である河童は、街で最後のソロである僕をねじ伏せてたがっていた。

「いいじゃん河童なら。お前スゲエってことだろ」

 河童を倒して以来、彼はことあるごとにツラを見せろとちょっかいを出し、子分になれと誘い、やらせろと迫ってくる。……激しく迷惑だった。


 そういえば、この街には生物学上のオンナがいないんだ。

 悪魔が攻めてきたときに、捕まった男と女は完全に仕分けられた。僕らの未来を断ち切るためらしい。

 だから、女顔だったり、大人しい性格だったりすると荒ぶった野郎どもに狙われるのさ。……いろんな意味で。

「だいたい僕は、あいつが言いふらしているほど強くないんだぜ?」

 河童は最強な自分がカエル頭のイカレたソロに敗れたことに納得がいかず、かなり大袈裟に僕のことを評価していた。だが、僕はあまり人から注目されたくない。

 イモムシは「だよなあ」と同意して頷いた。なんだよ、謙遜しただけなのに。

「やっぱり顔を見せないのが気になるんじゃね? すごい美人だって噂だけどホント?」

 僕は誰ともつるまないので、外でしか人と会わない。当然ながら人に素顔を見せたことはなかった。人によっては僕の顔がどんなものなのか気になるようだ。


 オマエノ カオヲ ミテルト ムカツクンダヨ。


 耳にノイズが落ちてきて、思わず僕の手が震えた。

「……全然。ブサイクだし、顔に傷があるから隠してるんだ」

「ブサイクに傷なんて珍しくないだろ。隠す必要ないじゃんか」

 自身にも多くの傷跡があり、イタチのような容貌をしたイモムシは口を尖らせた。

 まったくそのとおりで、この街では小綺麗であるほどあらゆる意味で危険といえた。

「自分のツラが嫌いなだけだ。気にするな」

 そのことをほじくり返されたくなかった僕は、知人との話を切り上げた。

「仕事があるから。またね」

「待ってくれ。抗争に着ていくレインコートと軍手を頼むつもりだったんだ」

「了解。二日後にここで」

 僕はイモムシに手を振って別れ、〈狩場〉に向かった。

 手に汗をびっしょりかいていた。猛者ぶってバカ話に花を咲かせるのは難しい。でも、怯えた素振りを見せれば知人といえども襲い掛かられることもある。

 彼らは部外者と仲良しごっこなどしない。むしろケンカ、殺し合いが当たり前だ。

 知人とはすなわち、〈俺の獲物〉の意。


 ……しかし抗争とは面倒な。河童のやつ、今も僕を探し回っているに違いない。

 僕はこれまで河童に何度も襲撃されていた。

 奴は怪力でタフ、身のこなしが速く鼻が利くという獣のような男だ。見た目も野獣で、タテガミが背中まで生えており、ウワサでは尻尾まであるらしい。

 〈雨〉の影響で体質や顔つきが変わる者は大勢いるが、変化するにもほどがある。

 でも、僕は奴のことが嫌いではない。鬱陶しくて暑苦しいと思っているだけだ。

 河童が仲間集めに躍起になるのは、冬がやってくるからだった。

 気温が氷点下まで下がり、人など吹き飛ばす勢いの強風と凍った〈雨〉が猛威を振るう。冬の到来が近づくと野良たちは冬篭りにそなえての一大イベント……抗争の準備のため誰もが忙しくなる。



 ……瓦礫の街では、ふたつの勢力が互いに睨み合っている。

 ひとつは街で暮らす〈野良〉、もうひとつは塔に住む〈家畜〉だ。

 塔の連中は大人が中心となった街の富裕層で、銀色の悪魔に身も心も売り渡し、援助を受けて暮らしている。僕らは連中のことを家畜と呼び蔑んでいた。

 一方、僕ら街の連中は子供を中心とした戦争孤児。瓦礫の中で〈雨〉をしのぎ、地べたを這いずるように生きている。家畜たちは僕らを野良と呼んで蔑んでいる。

 この二つの勢力は憎みあい、蔑みあい、互いを虫けら以下だと思っていた。


 敵に銃を突きつけられても「私は平和を愛しています」と恥知らずにのたまった大人。

 子供たちを足蹴にし、自分だけケツまくって逃げていった大人。

 そんな連中の生き残りが、今は空調の効いた快適な塔の中で、従順な〈市民〉としてのうのうと暮らしている。

 家畜たちは僕ら野良を食い物にすることしか考えてなかった。野良は家畜に捕まったが最後、奴隷やペットなどと呼ばれて人としての尊厳を奪われる。そして野良は野獣のように凶暴で家畜から恐れられている。敵とみなした者はゲーム感覚で血祭りにあげる。

 物資を持たない僕ら野良は、塔を襲撃して食料を盗み出す。百人以上の徒党を組んで行う襲撃を僕らは抗争と呼んでいるのだ。


 今年で三度目となる抗争は、毎年冬が来る前に行われる。

 〈雨〉が吹雪に変わると、僕らは狩りをするために外へ出ることができなくなる。

 普段はチーム間の縄張り争いに明け暮れている野良たちも、このときばかりは結託して共通の宿敵・家畜に立ち向かう。塔には冬を越すのに欠かせない保存食や飲料水、火種などが貯蔵してあるからだ。

 それは本来ならば、銀色の悪魔が街の住人すべてに与えた施しのはずだった。だが、家畜が独占しているのだ。

 家畜は、物資は市民に与えられたもので野良は市民ではないと主張し、野良たちは自分たちの取り分を横取りする汚い家畜から物資を奪還するため、塔に抗争を仕掛けると主張する。

 僕らはつねに死と狂気を身近に感じて生きている。それゆえに生は凄まじく鮮烈で、みな生きることに貪欲だった。 

 いうなれば、僕らはピアノ線の上で、バランスをとりながら歩く曲芸師。



 〈街〉と〈塔〉の境界にはバリケードが幾重にも張り巡らされている。

 僕は家畜のテリトリーに潜りこんでいた。ここには獲物向きのぼんやりした家畜や奴隷がうろついているが、定期的に銃を装備した屈強の“兵隊”も巡回している。

 野良の行う狩りには二種類ある。ひとつは採集。真水を汲んだり、食料となる動植物を確保する。〈雨〉の降る中を人が生きているように、動植物も生命力の強い種がわずかながら生きている。また、頑張って探せば水も手に入る。

 もうひとつの狩りは盗みや強奪。標的は別の野良になることが多いが、僕の場合はいつも家畜を狙う。塔の中へ忍び込んで盗みをすることもあるが、難度が高いのであまり行わない。

 今日は家畜の持ち物を狙った狩りをする予定だ。

 家畜は塔で暮らしているためか、僕らほど〈雨〉に耐性がない。そのくせ〈雨〉を舐めきって傘をさしている。ただ、兵隊と呼ばれる猛者は重装備なので注意が必要だった。

 傘をさしているのが市民や奴隷だ。本来は塔から出る必要がまったくないはずなのだが、家畜の出したゴミを拾いにきた野良をいびるために出張ってくる。

 家畜に飼われている奴隷が、僕というオモチャを発見し、さっそく絡んできた。

「クソ野良発見! 蛙の覆面なんか付けて、バカじゃねえの」

 声のしたほうを見ると、清潔そうな格好をしている奴隷がいた。

 奴隷は主に飼われるペットに過ぎないが、ご主人様のお気に入りになれば贅沢をさせてもらえる。洒落た服を着て、食うにも寝るにも困らない。連中は自らをエリートと称して一般の奴隷を蔑み、無頼を気取る野良を心底憎んでいた。

 なぜかって? 贅沢していても連中は奴隷だ。自活する僕ら野良に対して強い劣等感を抱いているからさ。


「ここは塔の縄張りだぞ。クソ野良ちゃんよ」

 小奇麗な奴隷どもは相手が一人ということに安心しきっていた。コミカルなフードを見て僕を舐めきっているようだ。こういうとき、カエル頭は役に立つ。

「おい、カエル頭。そのふざけた覆面を取れよ。どんだけブサイクか検分してやる」

「見せられないほどひどい顔なんだろうな、気の毒に」

 僕が黙っていると、家畜のひとりが不用意に僕の覆面を取ろうとしたので、そいつの顔に頭突きを食らわせてやった。額を割られたガキは一瞬でぶっ倒れた。

「……な。こいつ、カエル頭のくせに強いぞ」

「キサマ、〈塔〉に逆らったらどうなるかわかってるんだろうな」

 ガキどもは銃を抜き、すばやく僕を取り囲んだ。

 家畜はたいてい五、六人で徒党を組んでいる。ヘタレでも頭数があればケンカに勝てるもんな。ちなみに、野良の場合はとりあえず群れる。群れて隙あらば横取り、掠め取りを狙う。危なくなったらトンズラだ。つまり、群れていても効果がない。それどころか、前方の敵と対峙しながら、隣のトモダチの動向まで気にしなければならなかった。

「わからない。いいから差している傘以外を置いて帰れよ、ガキ」

 ぶったおれた奴隷の襟首を掴んで、そいつのポケットを探りながら僕は言った。

 ポケットからキャンディとウォークマンが出てきたので、僕は口笛を吹いた。ほんと、こいつらいい暮らしをしてやがる。野良でソロなんかしてるの、少しバカバカしくなってきた。

「なんだと。自分だって声変わりしきってないガキじゃないか」

 ガキどもはきゃんきゃんと喚きだした。僕は肩をすくめて彼らを諭した。

「あのな、僕はこう見えても街では強くて有名な野良なんだぞ?

 お前たちみたいな、〈女の子〉とは格が違う。僕を本気で怒らせる前に言うことを聞いとけ。な?」

 ほかの野良なら連中が真っ赤になって怒り出す効果的かつ侮辱的なことを罵るのだろうが、僕は優しく言い聞かせるのをモットーとしている。実に良心的といえた。

「お、女の子だと……? この野郎。許さねえ」

「どうやら、てめえは股間えぐりとられて本物の〈女の子〉になりたいらしいな」

 なぜかガキたちは顔を真っ赤にして怒りだした。

 せっかく警告したのにバカだな。この地獄で誰とも群れず、家畜にも捕まらず、しぶとく生き残っているソロ。それがどういうことを意味するか、少しは足りないオツムを働かせてみたらいいのに。

 僕は飛びかかってきたガキを蹴飛ばし、拳銃を持っている奴の腕をつかんで銃を奪う。

「ぎゃっ。〈雨〉が。痛い!」

 ガキは〈雨〉に触れて悲鳴を上げた。

 もうひとりのガキが僕に向けてオート拳銃を発砲してきた。左肩に熱い痛みが走る。

「クソ嫌味な野良め、ぶっ殺してやる」

 僕は不敵に微笑んだ。「誰を殺すって? そんな簡単に死ねるなら〈雨〉に打たれてとっくに死んでる。……拳銃なんかじゃ死なないね。僕は不死身だ」

 僕は銃を撃ってきたガキの頬を思い切り張り飛ばした。彼の身体が宙に浮き、そのままバリケードの向こうに吹き飛んでいく。その瞬間、彼らの目が恐怖で凍りついた。

 ようやく相手がタダ者ではないと気づいたらしい。ガキどもは完全に逃げ腰になり、上着と手持ちのお菓子を僕に向かって放り投げた。

 わかればいいのだ。慈悲深い僕は素直な彼らのために傘を拾って返してあげた。

「倒れている奴も連れていけよ。あのままにしてたら死んでしまう」

 しかし、連中は傘をひったくり僕を罵倒してきた。

「うっせえ、この変態蛙!」

 僕の頬が引きつった。「変態だと……?」

「不死身って、おい。こいつ、河童とかいうバケモノじゃねえの?」

「何、河童? やばいぞ、逃げろ」

 世間知らずの奴隷でも大チームの河童のことだけは知っているらしい。同じ水棲生物の名だけに不愉快だ。僕は反論しようとしたが、すでに奴隷たちは塔の方へ去っていた。

「ち。誰が変態だ」僕は肩の傷口を押さえてうずくまった。

 異変に気づいた兵隊たちが迫ってきたので、僕は慌ててその場を逃げ去った。

 利き腕を撃たれてしまったが、弾は貫通している。銃に上着、菓子とウォークマンを確保した僕は、それらをリュックサックに詰め込んで、とっておきの隠れ家へ向かった。



 瓦礫をかき分け、隠してあった地下室への扉を開けると白い湯気が漂ってきた。

 ここには温泉が湧いている。かつてここにはスーパー銭湯があったのだが、爆撃で階上の建物が吹き飛んでしまい、地下フロアだけが残っているのだ。壁は崩れているがほかは無事で、石鹸やタオル、酒の自動販売機も残っている。

 僕は汚れた服を脱ぎ捨てて、酒を肩の傷にぶちまける。そして髪の毛を抜いてライターの火であぶった針にさし、 傷口をちくちくと縫った。

「……これでよし」

 応急手当が済んだ僕は湯船に飛び込んだ。


 ――しかし、それにしても胸が重い。肩が凝るんだよな、こんなにでかいとさ。


 この街には生物学上のオンナはいない。……たぶん、僕以外は。

 でも、僕はずいぶん以前からオンナをやめている。重たい胸なんてジャマなだけだ。

「どうせ変身するなら正真正銘のオトコになっていればよかったのに」

 僕は自分の腕を見た。背が伸び、腕も足も信じられないくらい筋肉がついて引き締まっている。いたるところに傷跡があり、赤い花のようなアザになっていた。

 傷跡はほとんど小さい頃にできたものだ。

 今はアザなんてさほど珍しくないけど、平和な頃はこのアザだらけの身体を見るとみんなから気持ち悪いと言われて石を投げられた。だから僕は、真夏でも長袖を着てズボンを履き、アザだらけの肌を隠していたっけ。


 アイツ ニ サワルト バイキンガ ウツルゾ。


 僕は過去を振り払うように、自分のふにゃんとした腰のないネコっ毛をつまんだ。

「髪がだいぶ伸びたな……」

 風呂場の姿見は壊れて埋まっており、僕は自分の顔を何年も見ていない。自分がどんな顔なのかも覚えていない。

わかっているのは右のこめかみから耳にかけて大きな傷跡があるということぐらい。

 そんなことを思っていると、また例のノイズと頭痛がやってくる。どうせ、ろくな思い出なんかないのだ。戻ってこなくていいのに。

 ひと心地つくと、僕は手のひらに塗料をつけて壁に絵を描いた。

 三年前から何となく描き続けている。海に浮かぶ小島と夜空と星の絵だ。

「たしか、浜辺に白い花が一面に咲いてた」

 

 ……この風景をいつ、どこで見たのかは覚えていない。

 ただ、その絵を描いていると、大切な〈何か〉を失ったような切ない気分になる。

 なのに、不思議だ。絵を描いていると、僕のからっぽの心がなぜか満たされていく。


 〈ほら、手を出せよ。一緒に行こう〉


 僕の目の前に差し出された、マメだらけの大きな手。

 不意に発作のようなひどい頭痛がして、僕は手を止めた。



 三日もすると傷も癒え、僕はカエルのフードをかぶり、ライフジャケットとコートを羽織って地上へ出た。

 北風が強い。冬が近づいてきているのだ。

「よう親友。誰かをバラしにいこうぜ」

 そのとき僕は、誰も寄り付かないヘンピな場所にある隠れ家で先日せしめたウォークマンを聞いていた。孤独を楽しんでいる最中に、どこかのバカが僕のねぐらへやってきたらしい。

 ……ちなみに、「誰かをバラしにいこう」とは「こんにちは」を意味する。


 訪問者に心当たりがないでもなかった。しかしなぜ、奴は僕の隠れ家を知っているのだろう。

 僕は気配を殺して招かざる客が諦めて立ち去るのを待った。

「カエル。いるんだろ? 遊ぼうぜ」

 「遊ぼう」とは、「やろうぜ!」ということだ。「こんにちは」の類義語として用いられるが、実際にやっちまうことも多いという。……まあ、この街で娯楽といったらそれくらいしかないからな。

 たとえこのカエル頭であろうと、パンツを脱げば誰かしら引っかかるだろう。

 しかし僕は全人類が等しく嫌いだから、徹底して純潔を貫いていた。

「カエルくせえと思ったらやっぱり居たな。俺様に居留守を使っても無駄だと言ったろう」

 ……ち。見つかったか。僕は内心舌打ちした。

 訪問者はやはり河童だった。発達した犬歯、もっさもさの体毛、グリズリーみたいなでかい図体をしていて、これでもまだ十八なのだそうだ。たぶん僕と同じ年か少し上。

 奴の獣じみた姿を見ると、たいていの人間は震え上がるという。だが、僕は最初に河童を見たときから平気だった。むしろ僕はどんなバケモノよりも人間の方が不快だ。

 僕はできるだけ不機嫌そうに顔をしかめ、河童を徹底的に無視してウォークマンを聞くのに熱中した。

「かーえーるーのーうーたーがー、きーこーえーてーくーるーよ」

 河童は僕の足元にしゃがみこみ、ヘタクソな唄を大声で歌って僕の音楽鑑賞をジャマしてきた。

 こいつは無視されるとムキになってジャマするのだ。しかし、無視しなくてもこいつは僕につきまとう。つまり、何をしようが同じことだった。

「ん。なんだこの匂い。石鹸か?」

 河童がふんふんと鼻をならし、僕の頭に顔を近づけてきたので頭突きをくらわした。

 ドタっという音がしたのでテキは倒れたらしかった。

 そのとき、耳のあたりがちくっと痛んだので触れてみると、フードが裂けて耳から血が滲んでいる。

 いつの間にか河童が太刀を抜き、僕を見てニヤニヤしていた。……アブねえ。

 僕は椅子を蹴ってテーブルに立てかけてある鉄パイプで河童の頭を数回ぶん殴った。

 ぼんやりしていると後ろから刺されてしまう。だが、刺される奴が悪い。騙される方がバカ。そして、返り討ちするのはカッコイイ男前。

「ふん。絶賛大歓迎だな」

 河童はアタマから血をだらだら流しながらわけのわからないことを毒づいた。

 なんだ、生きているのか。こいつも相当にしぶといな。

「ああ、もう。いい加減にしつこいんだよ。鬱陶しい」

 相手はどう見ても獣人なので、人間と接するときのように緊張するとか、相手の一挙一動が気になって落ち着かないといったことはないが、鬱陶しいことに変わりはなかった。

「俺も飽きたよ親友。そろそろ俺に服従しろ。嫌ならここで死ね」

 河童はいつも腹立たしいことを言う。〈親友〉だと。

「笑わせるな。寝言は僕より強くなってから言え」

 突然、河童の拳が飛んできた。それを僕はギリギリでかわす。

 はっきりいって河童は強い。奴が獲物として狙った百人のうち、九十人は死に、九人はパンツを脱ぐだろう。あとのひとりはこの僕だ。僕は奴より賢い。単純お馬鹿なコイツは僕を倒せない。

 だから、虎視眈々とスキを伺いながら親友ぶってつきまとう。親友とはすなわち、〈いずれ殺す男〉の意。


 河童のパンチを鉄パイプでガードしたはいいが、僕は思わずよろけて体勢を崩してしまった。愛用の鉄パイプがぐにゃりとへし曲がっている。ヤツの怪力から繰り出されるパンチは鋼鉄を折り曲げるほどの威力があった。

「ははははっ! ついにオマエの薄汚えツラを拝めるな!」

 河童は腰に手を当てて勝ち誇った。

 だが、僕が体勢を崩したのは実はただのフリで、床に仕掛けてある回転扉を蹴るための演技だ。それは勢いよく跳ね上がり、河童の股間を強打した。

「て、てめえ、汚ねえぞ」河童は膝をついて苦しげにうめいた。

「ふはははは。バカめ。忍法・畳返しだ」

 今度は僕が勝ち誇る番だった。そして容赦なくもう一回河童の急所を蹴り上げると、倒れた奴に馬乗りになって首を絞めた。なのに、河童は薄ら笑いを浮かべたまま言ったものだ。

「そんな小細工で俺サマを倒せると本気で思っているのか」

 河童の腕が伸びてきて、バカでかい手が僕の前に差し出される。

「意地をはるのはよせ。仲間になろうぜ、親友」

 それは、一番言われたくない言葉だ。――物珍しさで寄ってきても、どうせ僕に失望して去っていくんだろ?

 かっとした僕は首を締める手にチカラをこめた。

「人間なんか嫌いだ。人間なんかいなくなればいい。今さら仲間になれなんて図々しいんだよ」

 はっきり言って八つ当たりだが、僕は河童を締め上げて気絶させ、倒れた巨体をつかんで小屋の外へ投げ捨てた。窓と壁の一部が壊れてしまったが、修理すれば問題ない。


 外で河童の子分たちの声が聞こえた。

「またリーダーの負けかよ」

「ちえ、予想通りカエル頭の勝ちか。つまらん。賭けになんねえよ」

 これだからニンゲンてヤツは……。僕は眉間にシワを寄せた。

 せっかく人気のないヘンピな場所を選んでねぐらにしているというのに、気が付けばどこでも人が湧く。

「そいつを連れてさっさと消えろ。戻ってきたときにまだいたら全員の腕を折る」

 外にいる連中を怒鳴りつけ、出かける支度をして外へ出た。隠れ家を移るためだった。僕は人を避けるため、十カ所以上の隠れ家を持っている。

 しかし、河童の子分たちが僕の行く手を遮った。「おとなしく河童さんに従っとけ」

「自分より弱い奴に従うわけないだろ」

「手加減してるに決まってるだろ。そうでなきゃ、お前なんかとっくに殺されてる」

 子分の中でも偉そうな奴が言った。たしかチームの幹部だ。名前は忘れた。

「だったら本気でくればいい。〈河童さん〉は最強なんだろ?」

 僕が冷たく言うと、相手も嫌みったらしく言い返してきた。

「お前がコイツの気を引くようなマネをするからだ。どうせ高く売り込むタイミングでも計ってるんだろ。お情けでウチの雑用係にしてやる。本気になったこいつに噛み殺される前にな」

 むっとした僕は言い返した。「どかないと本当に殺すぞ?」

「ヘタレ蛙が殺しなんかできるのかよ、このオカマ野郎」

 河童の子分たちが嘲笑った。

 僕が人を殺めたことがないからバカにしているのだ。僕はレインコートのポケットから自作の煙幕を出して連中に投げた。大したダメージにはならないが目くらましにはなる。

「……ゲホ。こら、糞ソロ。この卑怯者!」

 背後から喚き声が聞こえた。



 古い世界が壊れ、人々がすべてを失ったとき、僕は正直ほっとしたんだ。

 これで僕は他人と対等だ。ここでなら僕は僕らしく生きていける。ここは僕がいてもいい世界なのだ。皆が自力で獲物を探し、しくじれば野たれ死ぬ。これこそが僕の望んだ自由だって。

 でも、結局人々は仲間を作って群れはじめ、僕は鼻つまみ者の〈ソロ〉のまま。

 世界が変わっても、過去をなくしても、何も変わりはしないのさ。

 僕は〈海〉に向かって手を伸ばす。

 差し出された手につかまれば幸せになれる……。わかってるんだ、こんなの子供の迷信だって。

 他人の手をつかんだところで幸せになれるはずがない。どうせ連中は僕の縄張りがほしいだけさ。


 そして何かあると、やっぱり僕は〈海〉の見える崖っぷちに立ってぼんやりしている。

 ここには僕以外は誰も近寄らない。皆はこの〈海〉に死と絶望を連想して忌み嫌っていた。

 僕はいつものように四葉の絵を描いて〈海〉に投げるためにポケットから紙を探した。

 ちょうど紙を切らしてしまったらしく、僕はリュックサックをまさぐった。リュックサックのポケットをひとつずつ開けていくと、ポケットのひとつが破れて二重底のようになっている部分があるのに気づいた。

 ……いつ破れたのだろう。

 いままで見つからないように縫いつけてあったのだろう。

 縫い目のほつれたところから手を突っ込んで、中にある硬いものを引っ張り出すと、黒く汚れた小さなスケッチブックが出てきた。それは三年前に家を出たとき、僕が持ってきたスケッチブックに違いなかった。


 オマエハ ワタシガ ケシテアゲタ オマエノ ツミヲ アバキタイノカ。


 頭の中を例のうるさいノイズが駆け巡る。警告の頭痛がする。

「どんな罪って、窃盗、傷害、器物破損、不法占拠。生きるためだ、文句ある?」

 僕は懐かしさのあまり、それを開いてみたい好奇心に負けた。


 ヒトゴロシハ?


 ぞっとするような声に悪寒が走る。

「ヒトなんて殺すもんか。そんな度胸はないね」

 僕はおそるおそるスケッチブックを開いた。だが、どのページも海水で真っ黒だ。

「は。これが僕の罪?」

 馬鹿馬鹿しい。僕は黒く染まったページをめくりながら呟いた。しかしほっとしてもいた。たぶん、ここには何かが描かれていて、僕はそれをリュックサックに隠して海に飛び込んだのだ。

 ふと、最後のページに目をとめる。黒く染まった何かがページに張り付いていた。

「葉っぱ? クローバー?」

 ふと、封印された記憶の一部が暴発し、凄まじいフラッシュバックが襲ってきた。


 オマエノ ソンザイジタイガ ツミ ナノダ。



 あふれ出すのは、封印された僕の記憶。封印された僕の……罪。

 突き刺さるような悪意の槍。心臓を押しつぶすかのような負の感情。

 僕は耳をふさぎ大声を上げた。何も見ない、聞かない。誰にも会いたくない。夢の世界へ行こう、誰もいない世界へ。そこはニンゲンのいない世界。僕が存在してもいい世界。

 違う……。違うよ……。僕がいてもいい世界なんか……、どこにもない。

 孤独な子供は、寂し紛れに空想の〈友だち〉をスケッチブックに描き出す。

 どうしても顔をイメージできなくて、そこには〈手〉しか描かれていない。


 ――もし、願いがひとつだけ叶うなら……。僕ね、友だちがほしかった。 


 三年前のあの日、僕は海を前にして、今さらながら怯えて石のように固まっていた。

 誰かが探しにくるかもしれない、見つかるかもしれないなどと考えて、一晩をそこで過ごした。でも、僕の不在を気に留める者などいないと思い知らされただけだった。

 自分の殻に篭って空想の友だちとだけ話す僕を、傷跡のせいでオンナでいることをやめてしまった僕を、家族も学校の人間も気味の悪いものを見るような目で見ていた。

 どこにも僕の味方はいない。僕が僕であるかぎり、死ぬまで何も変わらないよ。

「……なくなっちまえばいいんだ。こんな世界」


 よかろう。お前の望みは叶えられた。


「え。なに?」

 誰かに呼ばれたような気がして周囲を見渡したが誰もいない。

 すると、突然足元から人の声がした。

「お前、何してんの?」

 僕は飛び上がるほど驚き、声のした方を見た。

 〈彼〉は、まさに海から崖をよじ登ってやってきた。ずぶ濡れで、ランニングシャツにトレパンという格好で。

「いや、知った顔が見えたから。偶然通りかかっただけなんだけど」

 そう言いつつも、ずぶ濡れの彼は肩で息をしながら苦しそうだ。

「……ぐ、偶然て。どこから湧いたんだよ」

「向こう岸から」

 僕は瞠目して遠くの対岸を見た。あ、あんな場所から泳いできたの。どんだけ変態?

 僕が訝しげに見ていると、彼は胸を張って言った。

「お前、いつもここに来てぼんやりしてるだろ。俺は昨日もおとといもその前の日も手を振った。

 さっきも手を振ったのに無視しやがったな。……知ってる?」

 やっぱり偶然通りかかったなんてウソじゃない。

「全然。というか、そもそも誰なの?」

 彼は僕の発言に激しくショックを受けたようだ。だが、すぐに気を取り直した。

「オマエの同級生だろ。いいかげんに名前と顔を覚えろよ。何回すっとぼけているんだよ。

 ……もう覚えたな? 今度手を振ったら振り返せ。絶対に振り返せよ」

 申し訳ないけど、僕は同級生の顔と名前なんか覚えていないんだ。いじめっ子とその他大勢というイメージしかない。「もう死ぬから無理。見世物じゃないんだからさ、どっか行ってよ」

 僕は虚勢を張って彼に怒鳴った。すると、彼は、僕の顔と崖下とを見比べた。

「つまり、お前はここから飛び降りるつもりなんだな」

「そうだよ。ジャマすんなよ」

 僕がそっぽを向くと、少年はにんまりして言った。

「いいぞ。飛び込んでみろ。俺は止めない」

 ……はあ。そう言えば僕がためらうとでも思っているの。

 今の言葉で僕は俄然、やる気になった。「それはどうも。じゃ、そういうことで」

「……なんて言うと思ったか。自殺なんざ百万年早えんだよ!」

 彼が僕をすごい力で羽交い絞めにしてきた。

「離せ。この、偽善者!」

 僕がバカを思い切り蹴飛ばそうとしたとき、朝焼けの海が真昼のように明るくなった。続いてやってきた突風で、僕たちは海の中に投げ出された。

 ……銀色の悪魔がやってきたのだ。 



 僕らがどうやって敵から逃れたかまでは覚えていない。

 あの日、僕らがたどり着いた島の空には壮大で美しすぎる星の川が流れていた。

 島には一面にシロツメクサの花が咲き、僕は地面に座って夢中で鉛筆を走らせる。彼の顔をまともに見られなかった。僕の隣に誰かがいるのが慣れなくて。……照れくさくて。

 隣で彼が僕のスケッチブックを覗いてる。

 不思議だった。別に楽しく話をするわけでもないのに、彼はいつも僕のそばにいた。

 退屈じゃないのかと僕は彼に尋ねた。手遅れになる前に逃げろと僕は何度も忠告した。

 僕らのいる島は海の上を不安定に浮いていて、いつ沈んでもおかしくない状態だったのだ。

 海は原油をぶちまけたかのように日に日に黒く染まっていき、不気味さを増している。


「お前の絵ってかっこいいけど、人間がひとりもいないんだな」

 彼は僕のリュックサックからスケッチブックを出し、それをめくりながら言ったものだ。

 僕は恥ずかしくなって、彼に「勝手に見るな」と怒鳴った。

 すると彼はへへっと笑って胸を張る。「俺の勇姿を描けよ。絵になると思うんだ」

 図々しい。僕はスケッチブックを彼から取り上げ、円と線だけの人型を描いて投げた。

 彼は愉快そうに笑い、「お前って面白いヤツだな」などと言った。

 僕は〈面白い奴〉じゃないし、彼はただ人恋しいだけだ。僕は自分にそう言い聞かせてきた。


「なんで君は僕と一緒にいるの。置いていけばいいじゃない、利口な奴はそうするよ」

 彼がむっとしたような、それでいて傷ついたような顔をしたので僕は慌てた。

「君は僕がどんな人間か知らないだろ。きっと僕に失望するよ」

「失望なんてしない。友だちだろ」

 友だちと言われて嬉しかった。でも、僕はその好意にどうやって答えたらいいかわからない。

 僕の心の中で、彼が早く僕に飽きて立ち去ってほしいという気持ちと、嫌われたくないという気持ちが交錯していた。そんな気持ちは、僕に言い知れない不安をもたらした。


「僕、本当に足手まといだよ。先に泳いで逃げろって。島、沈むぞ」

「一緒に行こうぜ。また担いで泳いでやるから」

 彼が差し出した手は、大きくてマメだらけだった。

 僕はその手をつかまなかった。見てみぬフリをして軽く笑った。……今日こそ言おう、君の想いは錯覚なんだって。

「あのさ、いいかな。そろそろここでお別れしないか」

 震える声でそう言うと、彼はポケットから何かを出して言った。

「ちょっと手を出せ」

「いや、だからさ。僕は大丈夫だから。これ以上迷惑をかけたくないし……」

 困惑する僕の手に、彼はそっと何かを握らせた。

「四葉を見つけた。……たまたまな。縁起がいいんだろ、これ。やるよ」

「こんなもの、ただの葉っぱじゃないか!」

 鈍すぎる彼に腹が立ち、僕は彼を怒鳴りつけた。

 四葉のクローバーは幸福の象徴。そしてそれは、生まれて初めて僕に訪れた〈幸福〉。

 たまたま見つけたなんて嘘だろ。すぐ、嘘をつくんだから。

「どうして今頃そんなことするんだよ。僕はニンゲンなんて……」

「自分を厄介者だと思ってるみたいだけど、違うよ。ずっと見てた。俺は、お前が好きだ」

 それは錯覚だよ。君が大事にすべき人は僕みたいな人間じゃない、断じて。


 ……でも、錯覚でいい。君が好きだ、僕のたったひとりの友だち。


 その夜、彼が眠りにつくと、僕は作っておいた浮きと残った食料を彼の元に置いた。

「いろいろとありがとう。……さようなら」

 暗い闇の〈海〉から風が吹き上げる。嘆きのような風の音。

 僕は崖から飛び降りた。暗い闇の〈海〉へ。



「うあああああっ!」

 記憶の一部を取り戻した僕は、自分のしでかした罪に恐れおののいた。

「……僕は、なんということをしてしまったんだ」

 彼は……、彼は無事なのだろうか。

 僕は〈海〉へ飛び込んだ。でも、いくら泳いでもあの島が見つからない。僕は叫びにならない声を上げた。

「ねえ、どこにいるの!」

 初めての友だちだったのに、彼の名前も顔も思い出せない。

「ごめんなさい。……許してください」

 幻覚の中で銀色の悪魔が僕を見下ろし嘲笑う。


 オマエハ ヒトゴロシ ダ。


 ……そうです。僕は罪人です。どうか僕をころしてください、神様。

 僕は、たったひとりの友だちを見殺しにして生き延びてしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ