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二章 3


   3


「ああ、風呂があんなに気持ち良いなんて忘れてたねぇ」

 缶ビールを呷り、上気した顔で言い放つ。

 ふんと鼻を鳴らし、俵藤は眼前に広がるキャンバスから背後のソファーに目を向けた。それは、本来画業の合い間に俵藤が休憩を取るためのものだが、今は小男が踏ん反り返って、湯上りのビールをかっ喰らっている。

「やっぱ広い風呂は良いねぇ。時々使わせてもらおうかなぁ」

「おまえ何をお気楽な事言ってんだ」

 邸の離れを改装したアトリエ。F一〇〇号のキャンバスを前に、俵藤は仏頂面で床に胡坐を掻き、小澤は巨漢用の椅子に、玉座の王様よろしく身体を埋めている。

「大体おまえ何しに来たんだよ。幽霊が恐いんじゃなかったのかよ」

「んン、恐いよぉっ。凄い恐い」

 小澤のどこか多幸症じみた返事に、俵藤は太い指で摘んでいた素描用の木炭を、思わず砕きそうになった。

「それで、これからどうするつもりだよ」

 憮然とした顔で問う俵藤に、小澤はそうだねえと生返事をし、立ち上がって鼻歌まじりに庭に面する窓に歩み寄り、それを開けた。

「暑ちー、もう面倒臭い事させんでよね」

 聞こえたのは、低く抑えた不機嫌そうな女の声。驚いた俵藤は体を起こし、庭に目を向けた。外は既に闇に覆われていて、部屋の明かりが庭の一画を四角く切り取る様に照らしている。そこに浮かび上がったのは、黒衣に身を包んだ一之瀬葉菜の姿だった。

「何だ、おまえが呼んだのか」

 俵藤が小澤に尋ねる間に、葉菜は肩に提げていた軍用のシステムバッグを小澤に渡し、鬱陶しそうに上着を脱いだ。そして靴を脱ぎ捨てる様に転がし、部屋に上がり込む。

「何だとは御挨拶ね。それよりあんたン危機感無さ過ぎ。この辺で警備のシステム入れてないの、ここだけやん」

 せめて門柱にステッカーだけでも貼っとけばと、葉菜は言って、先程まで小澤の座っていたソファーにどかりと腰を下ろした。

「ウチには金も金目の物も置いてない」

「そんなの、押し入る側は知らんし。御屋敷町で警備が手薄な家ってだけで、狙われるには充分なんだから」

 外国人強盗は恐いようと続け、葉菜はからからと笑った。その脇で、葉菜の荷物からノートPCを取り出した小澤は、持参したUSBメモリを繋ぎ、キイを叩く。

「ここに来るまで何も無かった?変な奴がうろついてなかった?アパートの方は?」

「特に問題は無いけど――今度は何?」

 ソファーに座ったまま、葉菜は長い脚を伸ばして小澤の背中を小衝く。

「幽霊に付け回られてんだとよ」

 そう言って俵藤はキャンバスに向き直った。

「幽霊?幽霊ってこの前のアレ?」

 葉菜はニタリと笑い、つま先で小澤の背中を捏ね回した。されるがままの小澤はUSBメモリを外すと、次いで携帯電話とPCをケーブルで繋ぎ、

「そうだよ。だから幽霊の正体見たりって、やってみたくなってさ」

 葉菜は目をしばたかせ、俵藤は首を捻じ曲げて後ろを見た。

平山美貴ひらやまみき、二二才。ああ、この年齢は失踪当時、つまり八年前のもので……結局彼女の没年齢になっちまった」

「それって、笹ヶ丘の白骨死体の」

 葉菜の問いに、小澤は小さく頷いた。

「そう言やあ、何で幽霊に憑かれてんだ」

 俵藤の問いに、葉菜は意外そうに、

「知らんかったん?一月くらい前だったか、こいつ狐だの幽霊だのを見たとか言って縮み上がっちゃって」

 狐――恐いのは幽霊で、それは早急になんとかしたいのだが、何故かそれ以上に狐のことが気になる。心に引っかかる。そのことに気を取られている間に、葉菜は粗筋を俵藤に話してしまった。若干脚色は施されていたが、今更それに構うつもりはない。

「川沿いの――それでか。笹ヶ丘に近いな」

 納得したと言う様に、俵藤は顎を撫でた。

「俵藤、君あの御稲荷さんの祠ン処、行ったことある?」

「御稲荷さん。どこだそれ」

「笹ヶ丘の竹林、入ったことない?ガキの頃の遊び場だったんだけどさ、僕は」

「俺は実家が尾住だからなあ。ちと遠い」

「そうか。まあ、在るんだよ。竹林の奥、死体の出た壕のすぐ脇に小さな石の祠が。白い、骨みたいな丸木の鳥居と一緒に」

 自分の脳裡の光景に、小澤は墓標を見た様な気がした。

 平山美貴――わたつみ市尾笹町(当時は箕都竹郡尾笹町)在住の短大生。八年前の七月二日、午後九時十五分。しょう鉄道凪浜線尾笹駅で友人と別れて以降消息を絶つ。家族は勿論捜索願を出した。

「捜索願が受理される件数は、年間で一〇万超えるんだって。受理されない、もしくは捜索願を出さない場合も含めると、その倍になるとか言われてる。内容だって様々。警察を擁護する訳じゃないけど、一々とりあってられないとは、まあ思うだろうね」

 警察は家出人捜索願を受理すると、その対象を分類する。

 一つは一般家出人。本人が自発的に家出したと見做される場合はこれに分類される。事件性が低いので、積極的に捜索される事は無い。故に殆どの場合公開捜査される事も無い。

 もう一つは特異家出人。本人に家出の意志が無く、何らかの外的要因によって行方不明になった場合、家出人に生命の危険がある場合等がこれ。当人の日頃の言動や、遺書の存在から自殺の可能性がある場合も含まれる。

 何の足掛かりも無く突然消えてしまった平山美貴は、一般家出人に分類されてしまった。彼女が実家住まいの学生で、家出する様な理由を両親はもとより、周囲の誰もが思い浮かばなかったにも拘わらず。

「その挙句に八年後、戦時中の地下壕に埋もれていたところを発見された。事件性がなかったらそんな所で死んでないっての」

 彼女が一人でそんな場所に行くとは思えないし、死因こそ不明だが、失踪当時彼女が所持していたとされるバッグやその中身、履いていた靴等が壕の中からは見付かっていない。

「白骨で所持品が見付かってないのに、どうやって身元の特定ができたんだ」

「歯の治療痕だよ。DNAもあるかな」

「成る程、でも……死因は何故解からないんだ?司法解剖されてるだろう」

「白骨だからだよ。刃物傷や骨折でもあれば兎も角、衣服はぼろぼろで着衣の状態、出血の有無も定かじゃない。殺されたとして、そこが現場とも限らんしね。それと、司法解剖じゃなくて行政解剖なんだって」

 明らかに犯罪性があると断定された死体は司法解剖、そうでない、例えば行き倒れ等の異状死体は行政解剖に付される。死因究明と言う点で両者に大きな違いはない。ただ今回の場合は、何故行政解剖なのかが解からない。何らかの事件に巻き込まれた結果としか思えないのだ。

 聞いていた葉菜はふうんと鼻で頷き、

「で、彼女が幽霊だとする、その根拠は?」

 俵藤は小澤の幽霊目撃現場と死体の発見現場が近い事に、両者の因果関係の成立を見た。だが、言われてみれば確かにそれだけでは薄い。そもそも幽霊の都合など解かりはしない。それなのに――今、少し話を聞いただけで、小澤が見たと言う幽霊の実在を信じ始めている。そんな自分に愕然とした。

 問われた当の小澤は、

「根拠なんて無いよ。それに、彼女が幽霊だなんて言ってない」

「そう思ったから、そんな話したんだろ」

 俵藤にとって、それは当然の帰結だ。巧みな口調で人を信じさせておいて、自分は信じてない態を装うなど、小賢しい。

「何かの因果かなって、思ってる程度さ」

 あしらう様に小澤は答え、薄く笑う。俵藤は持っていた木炭を小澤に投げ付けた。炭化した柳の枝は回転して小澤の頭に当たり、音も経てずに落ちる。葉菜はまたニタリと笑い、

「この事件が騒ぎになってるのって、死体発見がマスコミ数社の共同で、それも匿名の通報によるもの――だったからよね」

「だったら何」

「別にぃ。あんたが見付けて通報したなんて、あたしは言ってないよぉ」

「何だ、そういう事か」

 ここにきて、俵藤は漸く納得が行った。

「そりゃあおまえ、摂り憑かれても仕方ないんじゃないか?普段の行いが悪いし、どうせまた罰当たりな掘り方したんだろ」

「勝手に決め付けるなよ知らないよ」

 小澤は床に転がる木炭を拾い上げ、弄ぶ。

 葉菜はするりとソファーから降り、小澤の背後からPCを覗き込み、手を伸ばした。

「そう言やこの前、面白いの見付けてさ」

 そう言って、保存してあった動画ファイルを再生する。夜間の映像なのだろうが、暗い。解像度も低い。携帯電話付属の機能で撮影されたものだろうか。

「何だよ面白いのって」

「だから、幽霊」

 耳元でくすぐる様に笑う葉菜の声に、小澤はたじろいだ。葉菜はネットを徘徊しては、背筋も凍る様な代物を蒐集している。そしてそれを小澤に見せて恐がらせる事にささやかな喜びを見出していた。

「ほらこれイツロー、あんたじゃない?」

 画面を指差し、葉菜は言った。

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