枝葉 1
枝葉 1
「いったい何をしていた!?」
携帯電話と口元を手で覆い、押し殺した声で男は訊ねた。怒鳴り声――と言うより、それは悲痛な悲鳴の様に聞こえる。
「おまえ達に高い金を払っているのは、こんな事態を巻き起こすためではないんだぞ」
空調の効いた室内に居るのに、満面に浮かんだ汗で眼鏡が鼻梁からずり落ちる。神経質な仕種でそれを直しながら、レシーバーから聞こえる声を、男は早口に捲し立てて遮る。それでも、相手の言い分に耳を貸そうとしたその時、
「あああああああああああアァッ!」
長い板張りの廊下の先、角を折れた向こう側から罵声とも悲鳴ともつかぬ叫びが響いた。弾かれた様に顔を上げ、そちらに目を向ける。どすどすと鈍い音、陶器かガラスの割れる音、そして複数人の荒ぶる声。男はすぐに騒音の元凶を理解した。
――くそッ、よりによってこんな時に……
否。こんな時だからこそなのだろうと、汗でスーツの腋に大きな染みを作りながら、男は溜息を吐いた。
「また掛け直す。それまでに精々今後の方針を練っておけ」
一方的に告げて通話を切ると、男は早足で騒音の元へと向かった。
廊下の角の向こうから、若い男が一人慌てた様子で駆けて来て、男の顔を見ると安堵と非難の入交じった声をかけてくる。
「田村さん、今まで何を――」
「マスコミ対策と予定変更の通達だ。遊んでいたとでも思うか」
男は手にした携帯電話を振り、より高圧な態度を取ることで若い男の舌鋒をかわした。ひるむ相手に鼻を鳴らし、顎で方向を示す。
「もう、治まったのか?」
「ええ、何とか」
忌々しげに言う若い男の腕や頬は、ぶつけたのか擦ったのか、赤くなっていた。髪もくしゃくしゃに乱れている。
「いっその事、ふん縛って炭鉱跡にでも放り込んじまった方がいいんじゃないですかね」
「おい、滅多な事を言うんじゃない」
「ですが……ありゃあ、誰にとっても爆弾ですよ!このままじゃ」
「馬鹿!いい加減にしろ」
田村と呼ばれた男は顔を真っ赤にし、半ば裏返った怒声を上げた。その剣幕に気圧され、若い男は失礼しましたと、口篭る様に呟く。
「私の方から辰野さんへ連絡しておくが、今はこの騒ぎだ。迂闊に動けん。迎えが来るまで時間は掛かるだろうが、なんとかおとなしくさせておけ」
言われた若い男は、舌打ちしそうな程の不満を顔に浮かべたが、
「はい。それより先生がお呼びですよ」
「ああ、すぐに行くとも」
男はスーツの襟を正すと再び歩き出した。その後ろを、重い足取りで若い男が続く。
ふと、窓に目を向け、カーテンの隙間から外の闇を覗く。高い庭木の梢の向こう、夜空が、やや赤く染まっている様に見えた。
「妙な事になりましたね……」
背後の若い男が、萎れた声で独り言の様に呟く。
「ああ、長い夜になりそうだ」
返事の形にはなっていたが、男のそれもまた、独り言の様な呟きだった。
「クソッ!」
通話を切られた携帯電話を睨み、その男は罵り、舌打ちをした。痩せて背の高い若い男。バンの運転席に座っていたその男は、衝動的にハンドルを殴り付けた。
「あぁあ、何でこんな事なっちまうかねえ」
傍ら、助手席で身体を丸める様に座っている、頭髪を金色に染めた小柄な女が気だるげに言う。
「知るか!見失ったのは確かに俺達のミスだ。だが、この事態はクライアントの情報不足が原因だろう」
「そりゃそうだ。よもやあたし達も、ホントに……たあ思ってなかったもんねえ」
女の声にはどこか茶化す様な響きが有り、それが尚更男の怒りを煽る。
「……クソッ、おい、奴の動きは?」
バンの後部、積み込んだ機材に埋もれる様にして座り込んだ小太りの男が顔を上げ、答える。
「あれっきり。今日はもう動かないだろ」
ふてぶてしくも、僅かに怯えを滲ませた声。
「勝手に決め付けるな、この間抜け」
運転席の男は、コーヒーの空き缶を後ろの男に投げ付けた。女はそれを鼻で嗤い、
「さあて、これからどうしたもんかねえ」




