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五章 5


   5


 十月某日――

 雨の音。障子を開けると仄かに煙る海が見えた。波頭を立てずにうねる海面は、鉛色。

「『秘書が勝手にした事で私は知らない』を、地で行ってますからね」

 席に戻り、徳利を手に取って差し出す。飯尾は杯を空けて小澤の酌を受けた。

「知らぬままなりに、納得して戴いているよ。ウチは鬼丸組とは違うって事にも、慣れてもらうしかないね」

 注がれた酒を一口含み、飯尾も徳利を手に取る。小澤も器を空け、酌を受ける。

「田村がフォローしてンでしょ」

「一件を仕組んだ張本人だからね。これであの男の野望も一応達成された訳だ。先生も田村に引き継ぐまでは頑張って戴かないと」

 飯尾は醤油を付けた白焼きの鰻に、山葵を少量のせ、口へと運ぶ。小澤は重箱の蓋を開け、甘く香ばしいタレの香りを吸い込んだ。

「あ、これ報告書の最終版になります。田村の管理してた裏帳簿も同封しときました」

 小澤は鞄から大判の封筒を取りだし、卓の上に置いた。飯尾はそれを取り上げ、それでは拝見と、杯を片手に中身に目を通す。

 鬼丸組の辰野らに拐取された際に小澤が商品サンプルとしてちらつかせた鳥海征一郎と、県警、県教委幹部との癒着に関しては、あの時点では殆ど調べは付いていなかった。単に噂の表面を舐めただけ。辰野の指摘通りのブラフ。だが、事実上それで充分だった。第一版の報告書を待つまでもなく、県議会議員鳥海征一郎は早々に折れていた。

「イソミタール購入履歴――裏が取れたね」

 飯尾は添付された資料を見て眉を顰める。

「馬鹿ぼんを操った方法が謎だったんで、調べてたんです。伝聞判断ですが、バッドトリップぽかったし。そしたら例の悪徳探偵の一人があっさり教えてくれましてね」

 イソミタールとはバルビツール酸系の睡眠鎮静剤。田村はこれをネットで購入し、自白剤として鳥海力也に使用していた。蒐集品に関する事を聞きだし、それをどう使えば効果的かを探るために。その過程で、混沌の中にあった力也は平山美貴に纏わる者として小澤の名を挙げたのだ。ただし、それは子供の頃の事。よくも今現在の[情報屋]にまで辿り着き、利用しようとまで考えたものではある。

「田村は君の事を見誤り過ぎたんだなあ。体のいい噛ませ犬と思ったんだろうけど」

 小澤が辰野に尋問を受けた時に薬の事を挙げたのは、その場に事情を知る者が居ると読み、揺さぶりをかけるためだった。鳥海征一郎の悪行を並べ立てたのも同じ理由。

「にしても、主家の嫡子を排斥して御家乗っ取りですか。嫌な世界ですね」

「嫡子ったって、アレじゃあね。どうも馬鹿ぼん、田村のことも虐めてたらしいし。奴さんにすれば自分が引き継ぐ前に身代食潰されたり、不祥事露呈で地盤ごと失う様な事になる前に、何とかしたかったんだろ」

 田村が鳥海力也排除を決意したのは、力也が毒牙にかけてきた女性達からの戦利品を保管している事に、偶然気付いてしまったから。

 多恨多情のくせに執念深い力也は、多くの女性に付き纏い、襲っていた。蒐集品は几帳面にもパッキングされ、本来の持ち主の個人情報を記したラベルまで施されていた。そして調べた結果、持ち主の現在の所在が特定出来ない物が一組だけあった。その持ち主は、ラベルの日付の日時に失踪していた。

「そう言や、馬鹿ぼんの容態は?寝たきりなんですよね」

「うん、もういけないらしいね」

 薬物汚染で疲弊しきった体に頚椎損傷。しかも山中に半日放置されていた鳥海力也は、漸く限界を迎えようとしているらしい。

「警察の方は、どうなりました」

「ああ、君の項目は改竄済み。今は良く似た名前の別人。調書も指紋も取られてないし、後は”杜撰な資料管理”に任せとけば良い」

「いや、まあ、それもなんですけど――」

「無事、遺族の元へ返せたよ」

 鳥海力也の蒐集品となっていた平山美貴の遺品を遺族に渡すために、鳥海征一郎の力を利用した。笹ヶ丘の地下壕跡から、再調査で発見された事にしたのだ。長らく土中に埋まっていた様に劣化を偽装までして。本来なら、そんな危険は犯すべきでは無い。だが、小澤はどうしても家族の元に遺品を返したかった。なるべく、穏やかな形で。

「その位の事はさせても罰は当たらんさ。ついでに遺族への見舞金も出させた」

 実家が所有する土地から死体が出ただけでも聞こえが悪いと言って、司法解剖を行政解剖にさせた挙句、その報告の提出までゴネて遅らせた鳥海征一郎である。見舞金を出したとは言え、それで平山美貴が浮かばれる事もなく、遺族が癒される訳でもない。

「死因はやはり、不明のままですか」

「落盤による窒息死って事で、決着が付くそうだね」



 その日の夜――

 開け放ったアトリエの窓から、庭木を打つ雨の音が聞こえる。小澤はソファーに沈み込み、手にしたロックグラスを揺らした。俵藤は一〇〇号キャンバスを相手に、ペインティングナイフを振るっている。使っている絵の具は油彩ではなくアクリル。使い勝手より、乾燥の速さを優先していた。

「それで、思い出したのか」

 俵藤は滴る汗を拭いもせず、ナイフを使いながら訊いた。ざしざしと音を経て、ドンゴロスの画布に斬り付ける様に絵の具をのせて行くその様は、まさに格闘。

 まあねと、力なく答え、小澤はグラスの縁をなぞった。それは箕都竹高校に高荷を訪ねた時の話。小澤が平山美貴とは一面識も無いと言うと、高荷はそれを否定した。小澤は戸惑い、何を根拠にと、笑った。

「では、何故君は平山君の事を――話が見えなくなった」

 高荷は困惑と猜疑の眼で小澤を見た。このままでは死者を食い物にしようとしていると誤解されてしまう。全てを話しても信じてもらえる確証は無い。否、余計に疑われかねない。だが迷った末に小澤は話した。見得も打算も無く、こちらの手の内を全て晒し、言葉を尽くすしか信用は勝ち取れないと判断した。高荷は失われた環を埋める重要な情報を持っているとの直感だった。

「彼女が浮かばれるために必要な事……そういう事だったのか」

 高荷の眼から、少なくとも猜疑は消えた。

「私は幽霊の存在を信じていない。今の話も普段なら一笑に付しただろう」

 普段なら?と、小澤は慎重に訊ねた。

「普段ならな。だが、今はその話を信じても良いと思っている。しかし、この期に及んでも君の言う根拠を開示する事は出来ない。それでは彼女が報われない。思い出してくれ。平山君と君には――」

 その口振りから、高荷は平山美貴の口から小澤の事を聞いた事があるのだと悟った。


 それでと、俵藤は重ねて先を促す。小澤はスコッチを一口含み、ゆっくり飲み下した。

「小学生の頃、探検隊ごっこが流行ってさ。その中に一人、女の子がいたんだ。別のクラスの友達が連れてきたコで、みっちゃんて呼ばれてた。僕はあまり話した事、無かった」

 それはまだ、男子女子の体格差、体力差が目立たない頃の事だ。女子の中には稀に男子に交じって遊ぶ事を好む者がいる。みっちゃんはそんな子だった。一緒に笹ヶ丘丘陵で遊び、橘・箕都竹山炭鉱跡へ遠征にも行った。そして、それが発覚して自治体から探検隊ごっこ禁止令が出され、隊は解散を余儀なくされた。場所が場所だけに当然ではある。それ以来、みっちゃんと遊ぶ事は無かった。

 中学も同じだったのだが、その頃になると学年の違う男女は接点を持ち難い。成長期は人の面差しを大きく変えもする。小澤は、みっちゃんを忘却の彼方に埋もれさせてしまった。だが、みっちゃん――平山美貴は、イツロー君――小澤逸郎を忘れてはいなかったらしい。彼女がいなくなってしまった今、それを知る者は老教師一人だけ。そして彼は口を噤んでいる。

「結局、彼女は何で地下壕に?」

「さて、ね」

 今の鳥海力也には、懺悔や述懐をする気力も体力も無い。田村は力也からある程度の事は訊き出しているが、それも薬物による譫妄状態での発言。真実か否か、判別し難い。

 駅から彼女の家までの途中で、力也は車を使って接触した。事に及んだ場所は河川敷。そして、そこから彼女は逃げ出し、力也は見失った。少なくとも本人はそう言ったそうだ。この先はもう、推測する事しか出来ない。

 パニック状態で路上に上がった彼女は、人に助けを求めるより、力也から身を隠す事を優先し、幼い頃の記憶から、近くの笹薮から入ったその先に、地下壕が在る事を思い出し、彼女はそこに潜り込んで――

「落盤は偶然だったと言うのか」

 実際に体験した小澤にはそう思えた。小規模な崩落だったはずだが衝撃で気を失い、酸欠で目覚める事が出来なかったのだろう。

「幼い頃の記憶おもいで、か」

 鋭い擦過音を経てながら広い画面を駆逐して行く俵藤は、少しの間手を止め、呟く。

「切ねえな」

 小澤は目を瞑り、グラスを額に当てた。

 平山美貴の想いも、鳥海力也の妄執も――

「僕には、重過ぎて――痛ましい」


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