五章 1
五章 1
光の中に踏み込んできた田村を見咎め、辰野の苛立ちは頂点に達した。だが、それと同時に自分の左腕に違和感を覚えた。それを確認しようと目を向けた瞬間、胸から腹に掛けて衝撃を受け、倒れた。この一瞬で辰野が目にしたのは、胸倉を掴んでいた左腕を両手で掴み、跳び上がって両足をこちらに向けてくる小澤の姿だった。
その場に居た誰もが唖然として小澤を見る。小澤は自由になった両手で足の縛めを解き、立ち上がるところだった。その右手には、小さなポケットナイフの刃が光っていた。
「ヒッ」
小澤は悲鳴とも躁じみた笑いとも取れる声を漏らし、身を翻して駆け出す。横跳びに光の輪から抜け出すと、瞳孔が収縮していた男達は、あっさり小澤の姿を見失った。
「糞ッ、逃げられると思っているのか」
強い光をまともに浴びていたのは、寧ろ小澤の方だ。闇に眼が馴染むまで自分達より余計に時間が掛かるはずだと誰もが思った。こちらは車に懐中電灯を積んでいるし、盲目で走っても、転ぶのが関の山だと、その場の誰もが思っていた。
小澤は闇に包まれた廃墟を駆けていた。その左目に暗視スコープを当てて。
――何で持ち物検査をしないかなあ。
小型の折り畳みナイフは何度となく後ろ手に縛られた経験から、用心と気休めで常にベルトや靴に仕込んでいる。暗視スコープは特に隠すでもなく、ズボンの膝ポケットに入てあった。
ヘッドライトの前に引き出されてからは、左目は閉ざし続けていた。瞼越しに影響は受けるが、網膜の焼付きは防ぐ事が出来る。誰かが後ろに居る間は動き様が無かったが、挑発に乗った辰野がそれも解決してくれた。
――やくざってのは自分達に自信持ち過ぎなんだよな。
だが、これ以上幸運の長続きには期待出来ない。向こうには少なくとも二つ、車載懐中電灯が有ると考えるべきだ。もっと多いかもしれない。引き裂いたシャツの端布を頸の傷に当て、足音を忍ばせて小澤は闇を駆けた。
緊張と興奮が綯交ぜになって、身体に力が入らない。足首はふわふわと覚束無く、膝はがくがくと震えている。口中では鼻から流れ込む血が鉄臭くぴりぴりと舌を刺す。心臓と胃が抉られる様にずきずきと痛む。そのくせ、アドレナリンの高揚がまだ続いていて、顔から笑みが剥がれない。吐きそうな程怖いのに、楽しくて脳がちりちりと灼ける。
――畜生、この揺り返しはキツイぞ。
きっと、死にたくて死にたくて堪らなくなるだろう。心が鉛の様に――本当に、胸郭の内側に鉛の塊りが詰め込まれたかの様に重く感じるのだ。厄介なのは、それがあまりに重過ぎて死ぬことも出来なくなる事。いっそ、笑っていられる今、死んでしまおうか。そんな考えが頭を過ぎる。その自棄的な思考が隙を生んだのだろう。唐突に、顔の右半分が照らし出された。廃墟の壁が途切れている事に気付かず、遮蔽物の無い場所へ飛び出してしまっていた。その瞬間を、懐中電灯の光が捉えたのだ。
「ははあぁッ!見付けたぞこの野郎!」
凶暴な雄叫びが響く。咄嗟にスコープを下ろし、光を透かして見ると、そこには散弾銃を構え、それに懐中電灯を添えて立つ男の姿があった。
――あ、蜂の巣は痛いな。
凍り付く身体に、そんな思考がぼんやりと浮かぶ。どうせなら、即死出来る武器を使って欲しいと思った。
バン――弾けると呼ぶにふさわしい破裂音が、山間と廃墟に木霊する。
小澤はその銃声を、悲鳴を上げ、斜面を滑り落ちながら聞いた。
「野郎!」
「やめろ、殺すな!」
そんな遣り取りが上から聞こえてくる。肋骨を硬い物に打ち付ける衝撃。そこで滑落は止まった。上を見上げると丸い光が二つ三つと現れ、斜面を照らすところだった。その目測からすると、どうやら一〇メートル近く落ちたらしい。
再び破裂音。今度は距離のせいか、少し篭った感じの銃声だった。だがそれ以上に、ほぼ同時に鳴った着弾の音に驚かされた。一メートルと離れていない場所で大粒の雨が固まって降ったかの様な地面を叩く音と、巻き上がる木っ端に土埃。思わず首を竦めた時、ベルトを掴まれ、腰から体を持ち上げられた。何事かと思う間も無く、否応なしに動き出す。咄嗟に暗視スコープ――手首にストラップを掛けていたので落さずに済んだ――の存在を思い出す。それを目に当て赤外線照射のボタンを押し、自分を吊るして、闇の山中を走る者を見上げた。焦点が合わない。だが、モノトーンに手ブレでピンボケでも、その正体はすぐに解かった。
「謹ちゃん!?」
「誰がキンちゃんかッ!」
小澤の体を左手に抱え、鬼の様な形相の俵藤謹悟は蔓草の密生する山の森を、巨大な体躯、長い四肢で突き破りながら驀進していた。
「止まれ、音で位置がばれる」
小澤は俵藤のシャツを掴み、力任せに引いた。俵藤は解かっていると、唸る様に言い、小澤を抱えたまま斜面を跳び、滑っては走り、また跳んだ。蛇行しながらそれを何度も繰り返す。そして、いきなり立ち止まり、尻餅を突いた。荒い息を無理矢理抑え、俵藤は獣の様に両手を地に付ける。小澤はスコープを通して周囲を見渡した。そこは風化と植物の侵食を受けてこそいたが、炭鉱跡周辺に点在する廃墟の一部だった。巨大な切り株の根方と、煉瓦造りの竈跡が見受けられる。そして、蔓草に埋もれてはいるが小屋の残骸らしき物も。
「ここ、どこだか解かるか」
ぜいぜいと喘ぎながら、俵藤は訊いた。
「解かっててここまで来たんじゃないの?」
「走っている内に、方向感覚無くした」
闇の中で互いに溜息を吐く。小澤は俵藤を促し、小屋の方へと向かった。
「それで、何でこんなとこに居るの」
ガラスを失った窓から内部に侵入し、腰を下ろし、壁にもたれてから小澤は訊いた。
「何でもクソも無い。目の前で拉致られて放っておけるかバカ」
聞けば、小澤が車で連れ去られた後、俵藤は道端に止めてあった自転車の錠を素手で破戒し、ここまで追ってきたとの事だった。
「車、スピード出してなかったし、途中から目的地の見当は付いたしな」
交通機動隊の巡回に停められない様に法定速度を遵守したのだろう。それに、俵藤も橘・箕都竹山炭鉱跡の噂は聞いていた。子供の頃に何度か訪れた場所でもある。地元で知らない者はいないと言われるその噂とは、この炭鉱跡が鬼丸組の私刑場や射撃訓練所に使われているというものだ。人を車で拐取し、こんな山間へ向かうのは鬼丸組くらいのものだ。
「いや、それにしても、君ン家からここまでって相当な距離――自転車で?」
見ると、俵藤は裸足だった。踝や爪先には汚れを越して血が滲んでいる。暗くてはっきりとは判らないが、その程度で済んでいる事自体不思議だ。どれだけタフなのかと思う。
「久しぶりに……を思い出したよ」
耳馴れない言葉に、小澤は続きを待ったが俵藤はそれについては、もう話さなかった。
「いつから居た?」
「いつからって……辿り着いた途端、撃たれる寸前のおまえを見付けたんだよ」
炭鉱跡に潜り込んでみると、複数の灯りが動き回っていた。俵藤は見付からない様に建物下の斜面から廻り込んで動いていたのだが、建物が途切れたところで様子見に覗いてみると、そう遠くない場所に散弾銃を持った男が居た。しばらく隠れて窺っていると、そこに小澤が跳び出して来たのだ。だから咄嗟に足を掴み、小澤を斜面に引き摺り下ろした。
「だがショットガンとはまた物騒だな」
「まあね、場所が場所だから、何か使うだろうとは思ってたけどね」
小銃と散弾銃の見分けは、銃器と縁の無い人間には付け難い。そして俵藤にはモデルガン蒐集や、ガンアクションの映画を好んで鑑賞する様な趣味は無い。やはり何がしかの経験が有るのだろうと、小澤は思った。俵藤は東欧を旅していた頃の事を話したがらない。そこに何かあるのだろうと、以前から思ってはいた。
「ケータイは」
「あるけど、この辺は電波入らないよ」
小澤は携帯電話を取り出し、画面を開いた。暗闇の中に白い光が広がる。
「何だその顔……!」
俵藤は照らし出された小澤の顔を見て愕然とした。血塗れで鼻柱は捻じ曲がっている。何って何?と、小澤は不思議そうに訊ねた。俵藤は少し考え、小澤の破れて海草の様に垂れ下がるシャツを更に破った。抗議しようとする小澤を制し、
「鼻血止まらないだろ。多分おまえが思っているより酷いぞ」
そう言って端布を渡す。
「丸めて噛み締めろ。声は出すなよ」
俵藤は小澤の肩を左肘で押さえ、左手は端布の上から口を押さえた。そしてその鼻を右手の人差し指と中指で挟むと、一気に引っ張る。鼻腔から血が音を経てて噴き出し、見開かれた目からは涙が溢れ出す。小澤は身体を仰け反らせ、くぐもった絶叫を上げた。




