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四章 4

   4


「――描けん」

 俵藤謹悟は弛緩した顔で、呆然と呟いた。

 十二月には個展が控えている。その実務運営をしてくれる画商には、目玉として一〇〇号サイズの新作を少なくとも二点描き上げるように言われている。

 ――何を、何のために描けと?

 俵藤は絵を描く事以外に能が無い、否、自分の絵が評価されていること自体、何かの間違いではないかと思っている。俵藤の絵は自身の心の葛藤や、軋轢から生じる叫びを線と色彩で画面に現したものである。常に何かから逃げ、まともに壁を乗り越えた事がない、何も出来ない駄目人間と自分のことを思い定め、そんな自分の描くものが何故評価されるのかも理解出来ない。

 絵を描くことは好きだ。描いている間は無心でいられる。言葉に出来ない思いを画面にぶつける事で、声にすることなく叫ぶことが出来る。心を責め苛むあらゆるものから解放される。そんな自分だから、絵描きとして食って往く道を与えてくれた画商達には感謝している。だが、現実逃避の工程が、今改めて自分を束縛している矛盾とも自業自得とも言える現状に、俵藤の精神は悲鳴を上げている。

 ――こんな思いをしてまで、俺は何を描こうとしてるんだ?

 倦み疲れた思考を追い出す様に激しく頭を振り、立ち上がる。アトリエを出ようと体の向きを変えると、空のソファーが目に入った。元々アトリエでの休憩用に据えた物なので自分が座らなければ空なのは当然だが、ここ数日は悪友の寝床として、夜から朝までは占有されていた。その悪友が、今日は帰りが遅い。昨日は昨日で夜明け頃に帰ってきて、昼頃まで寝ていたのだから、さして気にすることも無いとは解かっているのだが。

 ――遊んでいる様で、あいつも額に汗して働いてるんだよな。

 悪友――小澤逸郎は、お世辞にも堅気とは言えない職に就いているし、そのせいか些か倫理観に問題が有るが、その仕事振りは真面目と言える。今やっている事は誰かの依頼ではなく幽霊がどうとかで、どうにも金になりそうにないが、何か、小悪党は小悪党なりに退けない矜持の様なものが有るらしい。今にも倒れそうな顔色のまま積極的に動き回っている。それは、本当に何かに摂り憑かれている様にも見え、危ういものを感じさせもするのだが。


 母屋の冷蔵庫を覗いて、買い置きのスポーツ飲料が切れている事を思い出した。水を飲んで我慢するかとも考えたが、もう何日も家から出ていない事も思い出し、少し歩きたくなった。食生活と筋トレで余計な脂肪がつくことはないが、流石に足腰が萎えそうな気もしてくる。

 筋力トレーニング、柔軟体操はここ数年来の習慣で、睡眠障害を患った際に、身体を虐めて疲れさせれば、少しでも眠ることが出来るのではと、藁にも縋る思いで始めたのが切っ掛けだ。それまでは長身で骨太ではあったものの痩せ型だったが、気が付けば全身みっしりと鎧の様な筋肉で覆われていた。禿頭も睡眠障害と同じストレスが原因で、全体に剃らないと無様で醜い脱毛症が露わになるから。日本に戻り、故郷に帰ってきて、現在の俵藤にかつての姿を見た者は一人もいない。実の両親ですら、直接会って話を交わすまで信じてくれなかった程だ。アトリエに篭っている間も、行き詰まると筋トレをしてしまう。ボディービルダーも見惚れる身体だが、自身の肉体美に酔っている訳ではない。俵藤の筋トレは、一種の自傷行為に近い。肉体を酷使し、負担をかけていないと不安に襲われる。自分でも理解し難い罪悪感に囚われるのだ。


 財布をズボンのポケットに突っ込み、サンダルを履いて外へ出る。近場の自販機で済ますか、坂を下りて少し歩かなければならないがコンビニまで行くか思案していると、ジージーと響く庭草の虫の声に、僅かだがリンリンと、鈴を転がす様な音色が交ざっていることに気が付いた。夏の緩やかな終わりが既に始まっていることを告げていた。夏の終わりは、四季の移ろいの中で最も切なく物悲しいと、日本に戻って俵藤は思うようになった。渡欧中は生きる事、それを描く事に懸命だったので、そんな感慨に耽る余裕は無かった。

 ――そうだな、テーマからは外れるが、この季節感を描いてみるか。

 画商側から申し渡された(表向き俵藤と打ち合わせて決まった事になっている)今回の個展の主題は[融]。ミーティングで散々小難しい説明を聞かされたが、正直言って、何が何だか解からない。詰るところ、テーマなど有って無きが如し。理屈付けは向こうで勝手にやってくれるだろう。半ば投遣りにそんなことを考えながら夜道を往く。

 ちょうど長い下り坂に差し掛かった時、五〇メートル程離れた坂の下の十字路に動く影を見た。街灯に照らし出されたその姿は、居候中の悪友、小澤逸郎のものだった。小澤もこちらに気付いたらしく、小さく手を挙げた。

 異音――タイヤとアスファルトの路面が擦れて経てる、悲鳴じみた軋みが響く。

 十字路を渡り終えた小澤の背後に、突如一台のバンが滑り込む様に現れた。車は停止することなく、車体横のスライドドアが開いたかと思うと中から複数の腕が伸び、小澤は頭から袋を被せられ、車中に飲み込まれた。即座にドアは閉まり、車は加速して走り去る。その間、約一秒。あまりの唐突さに見事とさえ思ってしまう、水際立った拐取だった。


 バンの中には運転手を除いて四人の人間がいる。内一人――小澤は頭にキャンバス地の袋を被せられ、腕は後ろに回され、手首と足首を梱包用のフィルム粘着テープで巻かれて転がされている。被せられた袋も、頸を――特に声帯を圧迫する様にテーピングされている。運転手を含む他の四人は、何れも無言で顔を引き攣らせていた。小澤だけが呻き、もがいて身体をバタつかせていたが、取り囲んで座る男の一人がその腹を蹴ると、小澤も身体を丸めておとなしくなった。

「手間ぁ掛けさせんじゃねえ」

 低く静かに男は呟き、袋越しに小澤の頭を踏み突けた。

 車は時に激しく揺れながら、夜の闇を縫う様に走った。


 車が停まり、エンジンが切られる。ベアリングの軋みとダンパーの押し殺した溜息の様な音、そして振動で横腹のスライドドアが開いたと解かる。

「起きろ」

 男の声がして、小澤はシャツの襟首を後ろから掴まれた。力任せに引き起こされるが、両足首を括られている上、両手首も後ろ手に縛られている。バランスを保てずに倒れてしまった。

「手間掛けさせるなと言ったろうが」

 再び手荒に引き起こされるが、男はそのまま小澤の体を放り倒し、車外へ蹴落とした。衝撃に苦悶する暇も与えられず、小澤の体は蹴転がされ続けた。しばらくして、またも襟首を掴まれる。今度は跪く形で起こされた。そして、頸に巻かれていたテープが剥がされ、被せられていた袋を毟り取られる。その途端、強い光が眼を刺した。手で遮ることが出来ないので顔を背けるが、髪を掴まれ、無理矢理顔を光源に向けられた。それは、バンのヘッドライトだった。視界を黄色く染める強烈な光の中に、影が蠢く。小澤を拐取し、車に同上してきた男達。

「カスが、いい様に遣ってくれやがる」

「影でこそこそ動き回るしか能の無い奴が、ちょっと頑張り過ぎなんじゃねえか?」

「馬鹿が調子に乗るからよう」

「喋れる様にしてやったんだ。何とか言えやコラ」

 男達は口々にそんな事を言う。頭髪を掴まれ跪く小澤を、完全に馬鹿にしきっていた。だから、それじゃあお言葉に甘えてと、強い光に目を細める小澤が言った時には、誰もが言葉を失った。

「そこに御出でンなるのは若中頭の辰野たつのさんじゃあありませんか。てぇ事は、鳥海先生御本人は兎も角、”代わりの方”が御出でになってンじゃありませんかね?」

 男達に動揺が走り、小澤の背後の男は握っていた頭髪を引き上げ、その背中――腎臓の付近を爪先で蹴り上げた。

 光の中で一番端に居た――辰野と呼ばれた男は、小澤に振り掛かる暴力を制止し、

「何故ここに居るのが俺達だけじゃないと」

「僕をここまで連れてきた車にはドライバー以外じゃ、三組分の腕しか乗ってなかったでしょ?咄嗟でもそのくらいは解かりますよ。辰野さんは別の車ですよね」

「それだけか」

「僕としちゃあ連れ込まれるのは、もっと平和的解決が出来そうな場所が良かったんですけどね。ま、料亭とりうみは無理として、先生なら幾つかセーフハウスをお持ちでしょ?鬼丸さんの組事務所だって――それじゃ流石に先生のところの方が出入りしにくいですか?一応表向き関係無い――」

 頭髪を掴んでいた男が、小澤の頸に刃物をあてた。それは刃渡り二〇センチを超えるハンティングナイフ。細かい傷が無数に入ったブレードが、ぎらりと光を反射する。

「何が言いたい」

「先生はお知りになりたいんでしょ?僕が何を、どこまで掴んでいるかを」

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