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四章 3

   3


「人魂――いや、差し詰め狐火って奴かい」

 [藪金]の店主は太い腕を胸の前で組み、興味深げに訊いた。

 キツネ狩り霊園ドライブ翌日の夜の蕎麦屋。客は小澤と葉菜の二人だけ。カウンターの上には徳利が数本に、枝豆、豆腐、蕎麦掻に天ぷらなど肴が数品。

「あはは、上手いねおっちゃん」

 小澤は力なく笑い、冷奴を口に運んだ。隣の葉菜はうんざり顔で、

「笑い事やないよ。兎に角この世のものとは思えんかった」

「驚いたね、御前さんでも怖がったりするんだな」

「昨日はもっと可愛かったんだよ」

「うっさい黙れ」

 店主は呵々と笑い、カウンター越しに常連客二人連れを眺めた。

「そのなんだ、暗視鏡ッてので見てみりゃ良かったじゃねえかよ」

 小澤は疲れた笑顔で酒を呷り、

「そんな余裕、全然無いよぉ」

 ゆっくり溜息を吐き、自分のぐい呑みに酒を注ぐ。小澤の手にある二合徳利は器を満たす前に空になり、葉菜は自分の傍にあった徳利を手に取り、それに注ぎ足した。

 皺深い顔に苦みばしった笑みを浮かべ、店主は空いた徳利を下げると新たな酒を出す。

「珍しく二人揃ったかと思やあ、相変わらず面白いことしてんな、御前ら」

「これと一緒にせんで」

 葉菜は心底嫌そうに小澤の肩を押し、小澤はやめてぇと、情けない声をあげる。

「で、悲鳴ってのは何だったんだよ」

 小澤はへらりと笑い、葉菜は一層苦い顔をして、箸でちぎった蕎麦掻を口へ放り込んだ。

「ッたく、聞いた瞬間死ぬかと思ったわ」

「葉菜、足滑らせてね、掴まれたままだったから腕が抜けるかと思ったよ」

「それ、あたしが重いって言いたい訳?」

 葉菜は拳で小澤の肩を殴った。

「今朝方――いや、もう昼かな?霊園下の崩落した斜面で、動けなくなってる鳥海力也が保護されたんだって」

 小澤のその言葉に、店主と葉菜は文字通り目を丸くした。

「何かヤク中で脱水症状だったり、打ち所が悪かったりで大変なんだってさ」

「おいおい、鳥海の馬鹿ぼんかよ。何やってんだ、そんな所で」

「さあ?僕らそのまま逃げたから。元来た道は恐くて戻れないから、ぐるっと廻って」

 小澤は宙に指で円を描き、ぐるりを強調してみせた。葉菜もうんざり顔で頷く。

「あのだだっ広い霊園をひたすらね」

 何の罰ゲームかと、葉菜は小澤を睨み、ぐい呑みに口を付けようとして手を止めた。

「で、トリウミって誰?」

 店主は、ああ知らねえだろうなあと、包丁を使いながら鳥海力也について掻い摘んで説明した。そして、二人の前に新たな皿を追加する。

「へえ、あの料亭のぉ。でも、ホントあんなとこで何してた訳?」

「さあ?僕らみたいな趣味人とは違うし」

 趣味人ねえと、葉菜は呆れ顔で受けながら、「でも、あの遊歩道の地滑りは酷いねえ。危うくあたしらがそうなってたのかも」

 植樹された木が根付かず、ごっそりと道を抉って崩れていた様と、そこに足を取られた時の感触を思い出し、葉菜は改めて怖気を震った。

「てことは、そのナンタラも――見た訳?」

「さて、見て驚いて足を滑らせたのか、単に足元不如意で落ちちゃったのか。本人まともに話せる状態じゃないらしいし。いや、怪我もだけど、ヤク中の方で随分なとこまでイっちゃってるって」

「何だよ足元不如意って」

「おっちゃん、突っ込んだら負けよ」

 刺身を摘み、酒を一口啜って葉菜は小澤に目を向けた。

「でもだったらさ、悪いことしたかな」

「何が?」

「そのナンタラ。あたし達が気付いてれば大事にはならなかったんじゃない?」

 小澤が目を丸くし、珍しく殊勝な事言うねと言うと、その脚を葉菜は蹴った。

「仕様が無いじゃん。あそこに僕ら以外の誰かが居たなんて知らないし、ほら、行きに葉菜の車の前後は麓から霊園まで、一台も走ってなかったッしょ?霊園に着いてからだって、停まってる車は無かったし、人の気配だって無かったし」

 それもそうかぁと、葉菜はカウンターに頬杖を突き、ぐい呑みを口に運ぶ。

「ヤク中ッてンなら真っ当な奴じゃないんだろうし、巻き込まれンのも嫌だし、あれで良かったのかもね」

 そう言った葉菜は、一瞬だが見透かす様な眼で小澤を見た。

 葉菜にしても店主にしても、小澤が鳥海力也の話をどこから仕入れてきたか訊こうとはしない。小澤が情報源を正直に明かす事はないと知っているからだ。それは探偵の職業倫理などではない。そうでなくてはその道で遣って行けないからだ。


 自称パチプロの池から、ゴト師、鬼丸組の三下と辿り、鳥海力也を探った小澤は、力也が殆ど隔離、軟禁と呼ぶべき状態にある事を知った。力也が一族からも疎まれていることは以前から噂になっていた。そして、違法薬物にはまっている事も。どんなに隠しても、人の口に戸は立てられない。

 鳥海力也が病を深めたのは、七月初め頃の事。元々言動は怪しかったらしいが、それが本当に意味不明なものになった。『ゆうれいだ』『でもおれじゃない』と繰り返し、怯え、時に暴れる様になった。だが軟禁とは言え、預けられた鬼丸組も無下には出来なかったとみえ、ガードは駄駄甘だった。しかも鬼丸組に於いてでさえ、力也はお荷物扱いだった。

 鬼丸組の三下――金本かねもとはゴト師との連絡役の一人だが、その上納金を着服し、さらには兄貴分の女にまで手を出していた。以前から池は知り合いのゴト師に泣き言を聞かされていたのだが、小澤が少し突付いただけでそれらの事が明らかになった。小澤も池も金本の前に名前も姿も晒してはいない。兄貴分の携帯電話のメールアドレスを偽装し、露見した悪事を送り付けただけでこの三下は堕ちた。

 鳥海力也は幽霊を見ている。

 そして、化けて出られる憶えがあったからこそ恐怖に憑かれた。だからもう一度、幽霊を見てもらうことにした。

 餌は二つ。

 一つは力也が服用していた合成麻薬―元はオランダ製とも云われる、中国から密輸されてくる錠剤。本物である必要は無い。同じ外観に偽装した、薬事法に抵触しないサプリメントを用意した。プラシボー効果か、短時間だが心持ち幸せになり、思考も心持ちはっきりしたらしい。その短い時間で充分だった。

 もう一つの餌は小澤逸郎。力也の所在を探った際に、何故小澤が付き纏われているかも一応解かった。より正確には、鳥海力也の訳ありな所持品が消え去り、鬼丸組はその捜索に駆出されたのだ。そして、その嫌疑は小澤に掛けられていた。それが世に出ると、鳥海力也だけではなく一族が甚大な損害を被る事になる。無論、小澤には身に覚えの無い傍迷惑な話。鬼丸組は情報屋[おず屋]の尾鰭背鰭の付いた噂を耳にしていたらしく、いきなり拉致される事態にはならなかった。何より、小澤の事を怪しいと言ったのは錯乱して軟禁中の力也なのだ。これ程あてにならない証言も無い。下手を打って大事にしたくはなかったのだろう。しかし、子供時分の顔見知りで、他者を見下す事しかしない力也はそんな噂で手を拱いたりしない。無理矢理だと梃子でも動かないが、それが自らの望みであれば何があっても動かずにはいられない。鳥海力也とはそんな男だ。

 鳥海力也を唆して連れ出し、小澤が指定した場所――みつづき山霊園まで送り届けたのは金本。力也が幽霊を見た後どうなるかまでは小澤は与り知らぬところとし、放っておいた。金本が力也を放って逃げ出す事もまた、関知するところではない。

 みつづき山霊園という選択は、半ば小澤の思い付きである。平山美貴の遺体は荼毘に付され葬儀も済んでいるが、納骨はまだだ。この霊園との縁の有無も定かではない。そこに目を付けたのは、造園したのが鳥海征一郎の息のかかった業者だったから。霊園周囲の遊歩道もその管轄で、遊歩道の崩れは手抜き造成の現れだった。

 みつづき山霊園は市立。その造園は公共事業であり、業者の選定は入札で行われた。だが、そこに不正があったらしいと、平成の大合併で生まれたばかりに等しいこの市の市民オンブズマンがささやかながら動いていた。そして、造園を請け負ったその業者は、材料費を浮かせ施工期間を短縮するために手抜きを行うと、悪い噂が立ち始めている最中にある。使わない手は無いと思った。

 その場に一之瀬葉菜を伴ったのは、女連れの方が鳥海力也を警戒させないだろうし、それと同じくらい重要な事として、葉菜に幽霊・・を見せたかったから。幽霊を見るとはどういう事か、葉菜には是非にも解からせたかった。普段虐められている分、ささやかな復讐だ。

 ――まあ、結局見抜かれてるっぽいし、奢らされてるけどなあ。

 隣で平然と酒を呑む葉菜の横顔を盗み見て、小澤は肩を落とした。


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