四章 2
2
車は街並を抜け、道は直線からワインディングへと変わってゆく。ガードレールと反射板以外には、道路照明灯と自動販売機、そして、時々畑の中でライトアップされた看板がぽつんと浮かび上がるだけの田舎の夜道。周囲の田畑は闇に沈み、丈高く居並ぶ竹や杉の枝葉は、道に覆い被さる様にして星明りを隠す。対向車線に車影は無く、行過ぎるカーブミラーも、葉菜の車のライト以外は映していない。だが、夜更けにも拘らず蝉の輪唱合唱は止まず、じわじわじいじいと実に喧しい。寂しい夜道という感じはない。
「でも夏も終わりかねえ。カエル鳴かないし、この頃は族ヤンもおとなしいし」
小澤は暗視スコープを通して、車窓の景色を横に後ろに眺めながら言った。
「まあ、静かで良いけどさ」
「うん、馬鹿がいないと快適」
こんな山中を走っているところで出くわせば、それこそ目も当てられない。限度知らずで箍の外れた馬鹿どもに車を囲まれるなど、絶対に御免だ。
葉菜は外の音を聞くために、運転席側の窓を半分下ろした。途端、冷たい夜気がどっと流れ込んでくる。だが、それは夜気だから冷たいのではない。箕都竹山は標高こそさして高くないが、それでも街中とは格段の温度差がある。それは昼日中でもはっきり体感できるのだから、夜は尚更だ。
エアコンを切り、オーディオのヴォリュームを落す。小澤も助手席側の窓を下げ、冷たい風が髪を弄るにまかせる。心地好さ気に目を細めたその顔は、子供の様で猫の様で、偶には夜のドライブも悪くないと、葉菜は思った。が、目前に迫った場所を思い出し、気分はすぐに萎えた。
山の南斜面に広がる、市立みつづき山霊園。総敷地面積約五万坪の広大な墓場は、やはり三桁台は停められそうな程広い駐車場を擁している。しかし、山中でも夜間不届き者に勝手に入り込まれるのを良しとしないのだろう。その入り口は鎖を渡され閉ざされていた。
葉菜と小澤は車を大分手前の路肩に停めて、門前まで歩いた。ちなみに正門の方はスライド式の鉄柵で閉ざされ、施錠されている。時間外の来園者を頑なに拒む姿勢だ。
「今時墓荒らしなんていないだろうに」
門柱に貼られた警備会社のプレートを眺めながら、小澤は呟いた。
「荒らしはいるんじゃない」
葉菜はその脇で煙草をふかす。
「こんな山ン中で?」
問いながら、膝のポケットから携帯灰皿を取り出し、蓋を開けて葉菜に差し出す。葉菜は肺一杯に吸い込み、一息で煙草の残りを灰にして、それを小澤の手の上の灰皿に落した。そして盛大に煙を吐き出す。
「ほら、さっき言った族ヤンとか」
成る程と、小澤は相槌を打つ。暴走族ならそんな罰当たりなこともしかねない。墓石だろうが平気でペンキを吹き付けそうだ。
「で、どうすンの?」
門が閉ざされている以上、良識ある大人としては入るべきではない。それ以上に好んで入りたい場所でもない。葉菜はそう思ったが、
「ん、まあ中に入る必要は無いしねえ」
小澤はスコープを右目にあてると、柵に沿って歩き出した。葉菜は肩を竦めながらも片手に提げていた暗視スコープの電源を入れ、後に続く。
「でも、こんな場所で警報鳴っても、すぐには駆け付けて来れんでしょうに」
場所柄か、車を降りてからの葉菜は自分でも不思議に思いながら小声になっていた。小澤もやはり雰囲気からか、囁く様に返す。
「そりゃそうだ。墓守っていうか、管理人くらいは居るのかも知れないけど――一人じゃちょっとね。通報は警備会社経由で警察にも行くんだろうけど、どちらにしろ余裕で逃げられるんじゃないかな。危なくなっても山ン中に逃げ込んじまえば、翌朝明るくなるまでは、まず山狩りもされないだろうし」
「余程の事じゃなきゃあ、山狩りとかせんでしょ」
「そりゃそうだ。まあ現行犯逮捕は狙ってないんだろうね」
管理人だって麓からの通いだろうしねえと、小澤は笑った。残されたビデオ映像などを元に捜査するつもりかもしれないが、防犯目的のはずが随分後手だなと、葉菜は思った。
「カメラ、動体検知かな?動物とか入り込んでも、センサー反応するンかいな?」
「場所が場所だしね。人間の背の高さに合わせてンじゃない?匍匐前身なら無問題とか」
試す?と、問う小澤に、
「あたしは御免。あんたがする分には止めんよ」
「僕だってそんな泥塗れは御免だよ」
御免と言えば、夜中に山中の墓場の周りをうろつく事自体、本当なら御免なのだ。
確かに怖い。が、こうしてその場に立つと面白いと言えなくもない。葉菜は前を行く小澤の姿をモノトーンの世界に追いながら、忍び笑いを漏らした。
霊園周囲の道は緩い傾斜の遊歩道になっていた。細い丸太が数十センチおきに階段状に並べられている。その脇に並ぶ木々も原生のものではなく、斜面を削り、整地した後に植林したのだろう。どの木の幹も細い。まるでどこかの公園やキャンプ場の様だ。反対側、高い鉄柵とそれを包むように植えられた垣根の向こうには、整然と墓標が並んでいることを忘れてしまいそうになる。
「っても土葬なら兎も角、火葬して納骨だし、ここで人が死んだ訳じゃなし、お化けの出そうな場所じゃなくなってるよね。今日日の日本の墓地って」
悟った様に言う小澤に、葉菜は軽く噴き出しそうになった。
「あんたが見たのは実際人が死んで、そのまま骨になったとこやもんね。そりゃ恐かろ」
「だから、そんなもん見てないって」
「さよけ」
「あ、そこ、足元気を付けて」
言われた途端、葉菜は足を踏み外した。左足が地の底に吸い込まれる様な感覚に、一気に総毛立つ。だがすぐに小澤が腕を取ったので転倒も転落もせずに済んだ。
「危ないなあ、何のための暗視鏡だよ」
見ると、歩道の一部がごっそり抉れ、脇の並木も無残に薙ぎ倒され山肌を露にしている。どうやら植林の後、根付きが悪かったらしい。その向こうは急な下り斜面――と言う以上に、既に崖になっていて、原生の森林の中に消えている。葉菜はあらためてぞっとした。
「これ、足元見難いやん。懐中電灯の方がよっぽど――」
照れ隠しで悪態を吐いている最中に、葉菜は言葉を失った。小澤は少しの間訝るが、はっとして葉菜の視線を追う。そして、固まった。自分達が歩いてきたその道、肉眼では闇に呑まれてしまったその向こうに、見慣れぬものが浮かんでいた。
蛍火の様に揺れ動く、淡い光の玉。
勿論蛍ではない。この近く、ダム湖下に在る小川では蛍の放流が行われているが、成虫が舞うのは初夏で、今は晩夏。それに、その光は蛍にしては赤味が強く、遠目にも大きい。
――違う、大きく成ってるんだ。
変化に気付き、葉菜の全身の肌はまたも粟立った。ゆらりゆらりと揺れながら、確実に大きくなり、形を変えてゆくそれは――
ひとがた
小澤が固唾を呑む音を、葉菜は聞いた。
あれは何かと訊こうとして、葉菜は口を塞がれた。小澤は葉菜の身体を引き寄せ、耳元に押し殺した声で早口に囁く。
「あれを見るな。足元に気を付けて、行く手にだけ集中しろ」
再びスコープを目にあて、小澤は殆ど小走りに歩き出す。葉菜の腕を強く引くその手は、微かに震えている。その震えは、葉菜には悪寒として伝染した。
原初的で純粋な感情が沸き起こる。今までの興味本位なものではなく、逃げ出さずにはいられない、本能的なもの。
山中異界――そんな言葉が不意に頭に浮かぶ。ドライブコースがあり、ハイキングコースもあり、小さいながら温泉地でもある慣れ親しんだこの近所の山も、やはり異界なのだと思い知らされた気がした。
胃を中心にじわじわ痺れる様に広がる不安。全身の皮膚をちくちく刺しなが滲む汗。涙が滲み霞む視界。後ろを振り向き確認したいが、小澤の言葉が心に楔の様に打ち込まれ、それを許さない。丸太の段に爪先をぶつける。積もった落葉に足を捕られる。何度も、何度も。足元だけを見ていようと思ったが、それもままならない。小走り同然の早歩きは、いつの間にか疾走になっていた。
駆ける。ざくりと落ち葉を蹴って、みしりと丸太を踏みしめ。
駆ける。はあはあひいひいと、荒く獣の様に喘ぎ。ふっと、鋭く吐いた息の音も、自分のものか同行者のものか判らない。
いやだ、いやだ、いやだ。あんなもの知らない。あんなもの見たくない。
葉菜は兎に角その場を離れたい一心で、もがき、あがいた。だが、気が急くばかりで身体は思った様に動かない。そして遂に足を取られた。上体が大きく泳ぐ。何かに縋ろうと伸ばした左手が、ぐいと掴まれ引き寄せられる。小澤はそのまま葉菜の身体を抱える様に腕を回し、倒れる様に地に伏せた。葉菜はまた小澤の手に口を塞がれる。
その時、悲鳴が夜闇を貫いて響いた。




