三章 4
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だが、踏み込むためには、まだそれに充分な取っ掛かりを見い出せていない。少し体重を預けただけで崩れてしまう様な脆いものでは駄目だ。しかし、後手に回っている限り、いつか喰われる。それが嫌なら、今すぐ全てを投げ出して逃げるか、一歩踏み込んでより深い情報を入手し、状況掌握に努めるか。
警察は、小澤逸郎の名を掴みながら動いていない。
まず浮かんだのは、小澤を餌にクライアントを釣上げようとしている警察内の他の部署が横槍を入れたという可能性。小澤に警告を発したクライアントも、そのことを危惧していた。この手の捜査員は流石に侮れない。だからその可能性は今も消えていないし、用心はしている。
次に浮かんだのは、県議会議員の鳥海征一郎が県警に圧力をかけて止めさせているという可能性。この場合、鳥海は小澤が自分にとって、非常に都合の良くない情報を握っていると判断していて、当然それを公にしたくないと考えている事になる。その情報が県警に渡るだけなら握り潰せもするが、下手に法廷にでも持ち出され、マスコミ沙汰にされたりしては困るという事だ。
蓋然性――とまでは言えないが、可能性が高いのはこちらだろうと、小澤は思う。
小澤は鳥海征一郎自身とは接点を持たない。接点があるのはその息子、鳥海力也。
この男の事は子供の頃から知っている。小中学校は学区が同じだったし、何の因果か高校まで一緒になった。一学年違うが、十年近い付き合いだったと言える。しかし、その関係の密度は希薄そのもの。直接会った事は数える程しかない。
鳥海力也は当時から馬鹿ぼん、馬鹿大将と陰口を叩かれていた。不良の取り巻きは多かったが、本人に人望があった訳ではない。兎に角尊大で粗暴、そして騒ぎを好む割に陰湿な面を持つ男だった。
箕都竹高校の老教師高荷は、鳥海力也の過去の悪行も含め、重要な情報を大量に抱えていた。その内容に、今も小澤は当惑している。
鳥海力也が何をしてもお咎めなしだったのは、県議である父が学校に圧力をかけているからだと、小澤が在学中の頃から学生の間でも囁かれていた。実際には、鳥海征一郎は県教育委員会と癒着していた。
公立校教師は各都道府県の教育委員会の支配下にある。唯々諾々と従う以外の選択は、仕事を変えるか他所の土地へ行くか。そして、どこでも同じ様なものだという諦観の言葉が、彼等を無気力に押し流す。鳥海力也が在学していた三年間、箕都竹高校は県教委幹部からのお達しで随分無理を通さなければならなかったそうだ。小澤のような職種の人間が高荷と接触したと知り、鳥海征一郎は不愉快極まりないと感じただろう。だが、問題はそれだけでは収まらない。高荷は平山美貴が二年生の時、ある相談を受けていた。
「平山君は鳥海力也に付き纏われていたらしい。今で言うストーカーだな」
小澤にそう告げた高荷の顔は、再会した時点より格段に老け込んで見えた。八年前、平山美貴の失踪を彼女の家族が作ったビラにより知らされて以来、高荷は心に蟠りを抱えていたらしい。当時は繋げる事も出来ない程に、情報が欠落いていた。白骨死体の身元が判明した時、漸くそれは連結し、小澤の訪問は啓示の様にその連結を補強した。だがそれでも確証は無く、高荷の告白を得るまでには、小澤も腹を割って話さなければならなかった。
「彼女は家族や友人にはその事、言ってなかったんですかね」
家族が知っていたのなら、捜索願を提出した時点で警察の生活安全課にもその話をしたはずだ。そして彼女の捜索は、もう少しましなものに――否、大して変わらなかっただろう。それは誰かを責めたい気持ちが生んだ、希望的観測だ。高荷を責めることもできない。
「彼女にしても相手が相手だったからな。おそらく相談を受けたのは私一人だ」
そして高荷も、その事を今まで誰にも言わなかった。でなければ、今頃マスコミがそれを流している。
「ストーキングは、続いたんですか?」
「平山君の言葉では、私に相談してしばらくしてから止んだそうだ。少なくとも私はそう聞かされたし、安心もしていた」
その言葉に嘘はないだろう。ここまで話せば、中途半端な言い繕いは無意味だ。
「でも、先生は鳥海力也を疑っている。そうですね?その根拠は?」
「あの男は、執念深い」
忌々しげなその言葉には、積年の感情が重く凝っていた。
小澤の知る限りでも、現在に至るまで鳥海力也の性質、行状は改まっていない。聞いた話では、とうに一族からも見離されているらしい。ただしお目付け役として、鬼丸組から何人かが付けられてはいるはず。
ここ数日、小澤は自らの周辺に監視の姿を見ていた。それが鬼丸組の構成員だということはすぐに解かった。仕事上、近在の暴力団、その構成員の顔は概ね把握している。仮令知らない顔でも調べる術は有るし、窓に偏光フィルムを貼った車を使われても、その車が看板の様なものだ。しかも、彼等の監視尾行は警察のそれに比べてもはるかに無様で稚拙。だから巻くのは簡単だし、俵藤邸への出入りや、昨日の様にクライアントに呼び出される等、その必要があった場合は実際に巻いた。それもこちらが監視尾行に気付いていると気取られない様に。そして、律儀に彼等の監視下に何食わぬ顔で戻る。鬼丸組の監視達は、小澤をしばしば見失う事を上へは報告していないのではないだろうか。隠れ家を見付ける事も出来ないで、上から叱責を受けないのかと他人事ながら心配になる。半分はそれが目的でやっているのだが。
何故鬼丸組が自分を付回しているのかが解からなかった。当初は鳥海の私有地に入り込んで死体を見付けた事が怒りに触れた――くらいしか思い浮かばなかったから。だが、それにしても遣り口が妙だ。嫌がらせをするでもなく、遠巻きに見張っているだけ。
監視に余人を使わない理由は先ほど池も言っていたが、暴追キャンペーンの影響で子飼いの情報屋が皆使えないから。
問題は、荒事が本業とも言える組構成員が、直接攻撃的な手段に訴えることなく、慣れない監視に甘んじて耐えている事。暴力団構成員とは、地道な辛抱や忍耐とは縁遠い存在。上から余程強制力の高い命令を受けなければ、地道な辛抱と忍耐を大いに必要とする監視活動など出来ない。
――まあ、出来てないから丸判りなんだけどさ。
そもそも箕都竹高校を訪ねたのも、特に平山美貴の情報を求めての事ではなかった。何か拾えればそれにこした事はないとは思っていたが、本来の目的は鬼丸組の監視を引き摺り回し、ボロを出させ、何が進行しているのかを掴む――その段取りの一つだった。そのためには幾つかハズレを重ねて引いた方が良い。いかに自分達が無駄な事をしているか思い知らせてやるつもりだった。ところがいきなりアタリを引いてしまった。
鳥海力也は平山美貴失踪に関わっている可能性が高い。そして、鳥海征一郎がそのことを知っている可能性も同じく。だから彼女の死体を鳥海の私有地で発見した小澤を鬼丸組が付回し、鳥海征一郎は警察が小澤に事情徴収をすることすら止めたのではないだろうか。
――仕掛けるなら、鳥海力也だ。
とは言え、これはまだあまりに短絡過ぎて穴だらけの憶測に過ぎない。だが、この土地に生き、鳥海の一族を知る者には有り得ると思わせる説得力がある。
しかし、違っていたら――馬鹿ぼんがどうなろうと知った事ではないが、隠然たる力を持つ古参県議と、その力の具現である暴力団をさらに怒らせてしまう上、クライアントも小澤を切り捨てるだけでは済まさないだろう。
それでも、小澤はこの線で大きな間違いはないと考える。否、ほぼ確信している。
幸い高荷が平山美貴からストーカーの相談を受けていた事を知るのは、高荷と小澤の二人だけ。小澤が高荷に接触したと鳥海が知っても、ここまでの話が出たとは思うまい。鬼丸組の無能な監視では盗聴でそれを知る事も叶わない。ただし県議と県教委の癒着は今も続いているだろうし、それも鳥海にとって好ましくない話題には違いない。これまでは鬼丸組も遠巻きに見ているだけだったが、すぐにでも強硬手段に切り替えてくるかもしれなくなった。
そしてここにきてもう一つ謎が浮上した。池がもたらした鬼丸組の不可解な行動についてだ。少なくとも一月程前から何かを探し続けているらしい。それが今も続いていると言うからには、対象は小澤ではないと思われる。これは鳥海絡みではなく、鬼丸組だけの問題なのかもしれない。しかし、根は繋がっているかもしれない。
――一月前に、何があった?
その頃、何か変わった事はなかっただろうか。誰かからそんな話を聞かなかったか。そう考えて、小澤は一つの可能性に辿り着いた。
道端で、しばし呆然と立ち尽くす。だが、やおら携帯電話を取り出し、今別れたばかりの池に宛ててメールを打ちだした。それが済むと続けざまに一之瀬葉菜にもメールを送る。
その可能性自体は、前に、少し違う形ではあったが一応考えていた。よもや、今頃になって、しかもこんな形で再浮上してくるとは思いもしなかったが。




