三章 3
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「何だ、もう起きるのか」
重い瞼を無理やり持ち上げながら身体を起こすと、未だ紗のかかった視界の中で、筋肉の壁がそう言った。目を凝らさなくても、それが俵藤の背中だということは解かる。
「そっちこそ、少しは寝てんの?」
小澤は乾いて貼り付いた唇に難儀しながら問い返す。アトリエの俵藤は相変わらず、白いキャンバスを睨んで固まっていた。
携帯電話で時刻を確認する。現在午前七時五分。俵藤邸のアトリエに戻り、そのままソファーに倒れ込むように眠ってから五時間程経っている。睡眠時間としては充分だ。
「忙しそうだな」
俵藤のその言葉は、皮肉とも羨望とも取れる響きがあった。何でもいいから早く描けと言ってやりたくなったが、流石に居候の身ではそれも憚られる。
「息も吐けぬ急展開の連続でね。ホント、参ったよ」
昨日発覚した予想外の問題を思い起こすと、連鎖して殺意を覚える程の自らの醜態をも思い出してしまい、眩暈がするほどの怒りに襲われた。だが、今はその怒りに身を任せる訳にはいかない。気を落ち着かせ、内臓感覚の沈静化に集中する。
ふと気付いて顔を上げると、首を捻じ曲げてこちらを見る俵藤と視線がぶつかった。
「おまえ、隈が浮いてるぞ。ただでさえ顔色悪いのに、すげえ険相だ。本当に摂り憑かれているみたいだな」
「はッ、笑えないね、そりゃあ」
小澤は鼻にしわをよせ、茶化す様に言って洗面所へ向かった。
「あれ、おず屋さん?」
国道沿いに建つ大型パチンコ店の休憩室。自動ドアをくぐると、いきなり声をかけられた。目を向けると、そこに湯気の立つ紙コップを持った長身の青年が立っていた。茶色い長髪を首筋でゆるく結い、発達した胸筋や三角筋を誇示する様に黒いタンクトップを着込んだその青年は、細い目を人懐っこそうにさらに細め、小澤を見ていた。
[おず屋]とは小澤の仕事関係での呼び名で、以前適当に付けたネット上でのハンドルに、小澤の姓や、自身が名乗る情報屋が合わさり、本人も知らない間にそう呼ばれるようになっていた。この呼び方は本意ではないのだが、今目前にいる相手の様に、悪意無く使われると、咎めるのも難しい。結局うやむやの内に、[おず屋]が仕事関係や仲間内での通称になってしまっている。
「やあ池君」
「どうしたンすか、今日は打ちに?」
「うん、池君がいなかったら少し打とうかなと思ってたけど」
池と呼ばれた青年は小澤をテーブルの一つに促し、コーヒーでいいですかと、訊ねた。小澤はクーラーが効いた店内なのに、草いきれを感じた様な気がした。
「何か御用で?」
「ん、特に何てことないよ。たまには何か美味いもの食って、いい酒呑みたいかなって。ほら、この前紹介してくれたお店、マッコリが美味かった」
「いいすねぇ、行きましょうよ。あそこレバ刺しも美味かったッしょ?おず屋さん、もっと血になるもの食わなきゃダメッすよ」
しばらくそうして酒や食べ物の話に花を咲かせ、いつにしましょうかと、池はスケジュールを確認すべく携帯電話を開いた。小澤は、僕はいつでもいいよと言い、
「ところでさ、ここんとこどう?」
訊かれた池は、何がとは問わず、少し考え、
「そうすねぇ、白骨発見で全体にざわついてるッしょ、狭い田舎すから。その分、裏稼業の奴等は大方鳴りを潜めてンすけど」
池の言葉には、それは承知の事だろうとの含みがあった。だから小澤も肯くだけで応える。池はゆっくりと身を乗り出し、テーブルに両肘を突いた。そして低い声で、
「鬼丸の連中は、ちょっと妙な模様で」
山香会系鬼丸組。
橘・箕都竹連山に炭鉱が在った時代に炭鉱労組と共に発祥した古参暴力団の一つで、現在は新興勢力に圧され衰退の坂を下っている。しかし、背後に大立者が居て、その勢力が一定の水準を割ることは無いとも言われている。それでも小澤の認識は、昔は兎も角、今は落ち目。だが今の小澤にとっては、無視出来ない組織ではある。
「妙って、どんな?」
小澤も片肘を突き、耳を寄せ、声を低くして訊ねる。青臭さい臭いが鼻をかすめる。
「俺もちょいと関わりのある、流れのゴト師がいるンすよ。そいつ、ここじゃあ鬼丸とつるんでンすけどね」
ゴト師とはイカサマ師のこと。そのゴト師が暴力団とつるむとは、店や台の情報を売買したり、打ち子の斡旋を受けたりしていると言うことだ。
「連絡係につなぎ付けようとしたら割り振られた番号が繋がらない。ッてンで、連中のヤサ――いや事務所じゃなくて、下っ端の溜まり場の方――に直接行ったそうなンすよ。そしたらいきなりぶん殴られて、今それどころじゃねえって、追い返されたそうッす。そいつ、青丹顔で俺ンとこに何事だって訊きにきましてね」
訊かれた池にしても何も答えられなかったが、その後、似たような話がぽつぽつと聞こえてきた。どうも鬼丸組の連中は、何かを探している様だと。
「ほら、ただでさえ暴追で、そっち系の情報屋はほとんど潜っちまってるッしょ。忙しそうにしてたの、おず屋さんくらいでしたからね。そう言や、連中そちらには――ああ、やっぱ行ってないッすよね。で、三下どもが族ヤンのガキまで使って」
ふうんと、頷き、小澤は椅子の背もたれに寄りかかった。
「ただ、どうも下っ端の連中は自分達が何を探してるのか、ちゃんと解かってないらしいンすよ。それで余計に混乱してるっつーか、訳解かんなくしてるみたいなンすけどね」
馬鹿な話ッすよねと、池は笑った。
「それ、いつ頃の話?」
「俺のは一週間前ッすね。周囲から拾った話は、古いので一月程前、新しいので三日前ってとこッす。進行形だと思うンすけど」
「何かってのはヒトかな、モノかな……」
「さてそこまでは――何なら、少しあたってみますか」
池は小声でそう訊ねた。
「筋モンの問題に首突っ込んでも良い事無いけど……場合によっては御願いするかも。また何か変わった事耳に入ったら宜しくね」
笑顔でそう言い、その話は打ち切った。
「時に君、大麻を栽培てるね」
小澤のその言葉に、池は見事に固まった。
自称パチプロの池はテコンドー使いの荒くれ者としても知られる、一端の小悪党。仮に、他の誰かに同じ事を言われたら、良くて受け流す、と言うより無視する。悪くすると、と言うより普通なら敵意を剥き出しにする。いきなり殴りさえする
「部屋で大量栽培は拙いよ。どうしても臭いが付いちゃうから」
「……判り、ますか」
「判るねえ。それもパチンコ屋ではっきり判るようじゃ、かなりやばいよ」
池の髪や衣服に付いた一種独特の青臭い臭いはインド大麻のものだと、小澤はすぐに勘付いた。町のお巡りさんは兎も角、県警の暴力団対策部、所轄の捜四、薬物対策課等の捜査官、そして厚労省厚生局の取締官なら確実に判るだろう。
「点数稼ぎなんかで摘発されたらバカらしいよ。もしかして、自分でもやってる?」
「いえいえ、ちょいと小遣い稼ぎで植えてみただけで――」
「ああ、勘違いしないで」
慌てて言い繕おうとする池を、小澤は苦笑いで止めた。小澤自身は吸わないが、大麻程度を違法薬物として取り締まるのなら、国はそれ以前に禁酒禁煙を法制化すべきだと考えている。
「でもホシさんは好い顔しないッしょ?」
「ああ、ホッシーは健康馬鹿だからねえ」
二人はその場に居ない共通の知人をネタにしばらく談笑し、小澤は呑み事の約束を交わしてからパチンコ店を出た。
効き過ぎた空調で冷やされた身体に、残暑の熱気と、重苦しい湿度が纏わり付いてくる。その不快の中に、さらに不愉快なモノが雑じっている。小澤は苛立ちのあまり、思わず立ち止まった。
――相変わらず、視られてるな。
後頭部、首筋を中心に皮膚感覚がざわめく。視線は、相も変わらず付き纏ってくる。鬼魅が悪いと言う感覚は流石に薄れたが、慣れた訳ではない。怖気が嫌悪に変わったのだ。
――これなら、ヘタレた連中の方が、まだ可愛げがあるな。
鬼丸組が何かを探している。一月も前から。
その鬼丸組の背後に居る大立者とは、県議会議員の鳥海征一郎――正確にはその父、料亭とりうみの大旦那、鳥海喜助。
昨日の高荷の話もそうだが、何か符号めいたものを感じる。
肩に力が入り、舌打ちが漏れそうになる。それを抑え込み、溜息に変え、肩を落とした。
――いっその事、こっちから一歩踏み込んでみるか。




