二章 5
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目覚めは、いつも不快で死にたくなる。
眠りすぎて見る嫌な夢の残滓や、半覚醒と覚醒の狭間――微睡みに不意に訪れる絶望感。
もう、生きるのは嫌だ。このまま眼を覚ましたくない。死んでしまいたい。
そんな想いに胸を締め付けられ、体を丸める。その時、アラームが鳴った。身体がびくりと跳ねる。
――アラーム――警告――不吉な予感――いや、違う。これは――
小澤は手探りで携帯電話を取り上げ、けたたましい目覚まし音を止めた。口中が苦い。液晶画面に未だ光を拒む眼を向ける。表示された時間は午前九時一五分。
「起きたか」
男の重く低い声。小澤はソファーの中で丸めて強張った身体を伸ばし、声の方を見た。俵藤はまるで時間経過など無かったかの様に、白いキャンバスを睨んで胡坐を掻いていた。また寝てないのだろうかと小澤は思った。俵藤はかつて、睡眠障害で三週間程全く眠れなかったと漏らしたことがある。そして、その障害は今でも治っていないと、小澤は俵藤との付き合いの中で感じていた。
「何か食うか」
背中を向けたまま、俵藤は訊ねる。
「いや、すぐ出るから。外で食べるよ」
両手で顔を擦りながら小澤は答えた。そもそも朝は食べない。無理に詰め込もうとすると嘔吐感に苛まれる。
「そんなだからおまえは顔色悪いんだよ」
首を捻じ曲げ睨みながら、俵藤は見透かした様にそう言った。それを受け流し、小澤はアトリエを出る。
「トイレと洗面所借りるよ」
「んじゃ、ちょっと出かけてくる」
手早く身支度を済ませ、まだキャンバスの前に座り込んだままの俵藤に声をかける。
「ああ、帰りは」
「さて、夕方か夜か。遅くなったら直接こっちに来るから」
「母屋はいくらでも部屋空いてんのに、なんでここで寝るんだおまえは」
「独りじゃ恐くて、よう眠れん」
笑って出ようとする小澤に、俵藤は呆れの目を向けていたが、ふと声をかけた。
「そう言やおまえ、原付はどうした」
「原付言うな小型二輪」
小澤は普段の足に90ccのミニバイクを愛用している。車に比べると場所を取らず、燃費が良く、小回りが効き、混雑に巻き込まれる事がないため、何かと使い勝手が良い。
「置いてきたよ。当面歩きだね」
その答えに俵藤は何故と訊こうとしたが、小澤は足早に出て行き、背中を見送るだけになった。
精環鉄道凪浜線は、その線路の大部分がJR福わた線と並走している。都心とのアクセスならJRだが、旧箕都竹郡当時から、地域住民の日常の足として、活用され親しまれてきたのは精鉄凪浜線。
私鉄ローカル線によく見る単線で、どの駅にもプラットホームは一つ、一番と二番しかない。車輌も、平日朝夕のラッシュ時で六輌、乗車率の少ない時間帯では二輌と編成は少ない。故に、プラットホームも短く、自動改札機も無い駅舎はコンパクトに造られている。全十駅中六駅は午後十時をもって改札を無人化し、尾笹駅もその一つ。
改札口前の、椅子が四脚しかない小さな待合室に立ち、小澤は構内を見渡した。駅構内は八年前はおろか、小澤の記憶にある限り二十年以上ほとんど何も変わっていない。改札の右手に券売窓口と、さらにその右に自動券売機。改札口をはさんで向かい側の壁には、昔ながらの黒板式掲示板と、沿線観光地などのポスター。
八年前の七月の夜、平山美貴はここでの目撃を最後に消えた。同じ短大に通う友人と別れの挨拶を交わして。十時前だったので改札に駅員は居たため、その証言もある。彼女の家は駅から五〇〇メートルと離れていない。そして、彼女が変わり果てた姿で発見されたのは、八年の月日と約二キロの距離を隔てた笹ヶ丘丘陵の埋もれた地下壕の中だった。八年という時間は兎も角、この尾笹駅から笹ヶ丘の地下壕までの間、彼女に何が起こったのか。それ以上の情報は、マスコミ、ネットでは拾えない。恐らくは警察も掴んではいないだろう。
――それを、薄汚い裏街道専門の情報屋風情が、どうやって調べるって?
駅舎を出ると、すぐ隣の小さな売店の前で、TVクルーが撮影をしていた。午後のワイドショー辺りの取材らしい。
この事件は、社会的にじわじわと大きな広がりを見せている。兎に角、不透明な部分が大きい。若い女性が一人、何の前触れも無く失踪し、数年後死体で発見されているのだからこれは事件に間違いない。しかし、発生から発覚への経緯が丸ごと抜けている。ミステリアスな事この上なく、マスコミにとっては大衆受けする格好の素材だろう。確実に事件化することを狙ったとは言え、これは小澤の自己保身が元になっている。その意味では上手くいったが、手出しも難しくなった。自分で調べるつもりなど、毛程も無かったのだから仕方無いのだが。
撮影していた男がカメラを下げたのを見て、小澤は火の点いていない煙草を咥え、ぶらぶらと売店へ向かって歩きだした。窓口の奥には、白髪まじりのパーマの女が退屈そうに座っていた。
「くださいな」
店頭の使い捨てライターを一つ取り、カウンターの上に置く。マネークリップから千円札を引き抜き差し出しながら、
「今度はどこの局?」
ちらりと後ろの取材陣を振り返りながら、女に訊ねた。
「さあね、どこだか知らないけど、いい加減なもんだよ」
「いい加減って?」
お釣を受け取り、煙草に火を点けながら問いを重ねる。
「いやね、八年前に、警察とマスコミがこうやって動いてたら、あの娘も、もしかしたらって、思ってね。死んでから騒がれたって、遅すぎるし、浮かばれないよ」
ゆっくりと、気怠げにそう答えた。
「ま、あたしがここでこんなこと言うのも、今更なんだけどね」
「あのコの事、知ってるの?」
「話した事は無いけどね。あの娘の家、ここから遠くないし、高校三年間もこの駅から通ってたからね」
「あ、箕都高だもんね」
小澤がそう言うと、女は怪訝な顔をした。
「ああ、僕も箕都高生だったから」
ああ、そうかいと、納得を示し、女は警戒を解いた。これまでにも何度か聞き込みを受けて、うんざりしているとの事だった。相手は警察だったり、得体の知れない雑誌も含むマスコミだったりで、何れにしろ不躾で無遠慮なものばかりだったらしい。
「以前に何度もね、あの娘のお母さんが訊きに来たのよ。いなくなったあの娘の事、何か知らないかって」
その時の憔悴しきった母親の顔が忘れられないと、女は呟いた。
平日の、もう朝とは言い難い時間だが、午前中の電車内は空いていた。携帯電話を開いて画面を眺めながら乗り込むと、座席に座っていた行商らしい年配の女に睨まれた。携帯電話を閉じ、女から離れた席に向かう。
ピリリリリッ――
古めかしい警笛がなり、床を軽く震わせて扉が閉じた。
座席に腰を下ろし、ビロードを模した臙脂色の布地に掌を這わす。その感触は、何故だか子供の頃を思い出させる。天井で首を振る鉄の羽根の扇風機や、吊り革の止め具に表示された鉄道会社のロゴも、やはり古い記憶を喚起する。その色褪せて黴臭い記憶に、想像が重なった。
平山美貴は冬の装いで扉脇の手すりに掴まっている。学校指定の濃紺のコートに、茶系のタータンチェックのマフラー。黒革の学生鞄とナイロンの補助バッグ。髪はあまり長くない。
平山美貴の容姿はテレビでもネットでも散々流されて見ている。だがその殆どは彼女が失踪する直前――つまり短大時代に撮影されたもの。高校時代のものも少しあったが、それは冬の登下校時のものではない。だから今、小澤が幻視している姿は完全に想像の産物だ。どんなに記憶を探っても、彼女と面識は無いのだからそれは間違いない。
それに、あの満月の夜に見た女の姿とも違う。
――そりゃあ想像だって、ちゃんと生きてた時を見て欲しいだろう。誰だって薄気味悪い姿なんか、晒したくないだろうに。
否、鬼魅悪い姿を見せ付けたい者はいるのだろう。自分をそんな姿にした相手になら、見せ付けて、己が罪を思い知らさなければ、逃れられないと思い知らさなければ気が済まないだろう。
――勘弁してよ、僕は君と話したことすらないんだよ?
苦笑を浮かべ、胸中に嘆いてみせても、想像の中の少女は車窓の外を黙って見ているだけだった。




