第八話 歪みが消えた領地
第八話 歪みが消えた領地
最初に変化へ気づいたのは、領民たちだった。
「……あれ?」
早朝の畑で、老農夫トビアスが空を見上げる。
春の冷たい風が吹いている。だが今年は妙に空気が軽かった。ここ数年ずっと胸へ貼りついていたような重苦しさがない。
土を踏む感触まで違う。
ぬかるみが減り、土壌が柔らかい。
「親父、どうした?」
息子が荷車を押しながら近づいてくる。
トビアスは鍬を握ったまま、畑を見つめていた。
「……麦の色がいい」
「は?」
「ほら見ろ」
朝露に濡れた若麦が、淡い緑を帯びて風に揺れている。
去年までの畑は違った。
色はくすみ、葉は痩せ、何かに生気を吸われたようだった。
だが今は違う。
土が息をしている。
「そういや最近、税の取り立ても減ったよな」
「男爵家が変わったらしい」
「変わった?」
「悪徳税理士が捕まったとか」
息子が肩を竦める。
「でも、たかが税金だろ? 畑まで変わるもんかね」
トビアスは答えなかった。
ただ長年土を触ってきた勘が告げている。
何かがおかしい。
いや。
今までがおかしかったのだ。
同じ頃。
領内を流れるアシュレイ川でも異変が起きていた。
「川が澄んでる……」
洗濯女たちがざわめく。
以前の川は常に薄く濁っていた。工房排水と泥が混じり、魚すら減っていたのだ。
だが今朝の水面は違う。
陽光を受けて、きらきらと輝いている。
小魚の群れが泳いでいた。
「なんだいこれ……」
「呪いが消えたんじゃないか?」
「やめなよ、怖いこと言うんじゃないよ」
だが皆、心のどこかでは感じていた。
アルカディア領はずっと“淀んで”いた。
空気も、人も、土地も。
それが急に流れ始めたのだ。
変化は工房街でも起きていた。
鉄工職人のガレスは、朝から何度も首を傾げている。
「おい、なんだこれ」
「どうした親方?」
「火力が安定してる」
鍛冶炉の炎が、美しい橙色で燃えていた。
以前は違った。
火はすぐ弱まり、煤が異様に多かった。
それが今は空気の流れまで滑らかだ。
鉄の質もいい。
加工効率も上がっている。
「材料費が減ってるぞ……?」
「本当だ、失敗品も少ねぇ!」
職人たちがざわつく。
工房の空気には汗と鉄の匂いが満ちている。だが以前のような息苦しさはなかった。
ガレスは腕を組み、ぼそりと呟いた。
「男爵家の呪いが消えたな、こりゃ」
その噂は瞬く間に広がった。
『アルカディア家の呪いが消えた』
『悪徳税理士が連れていかれてから土地が蘇った』
『新しい若様は浄化の魔術師らしい』
尾ひれが付き、話はどんどん大きくなる。
だが。
その噂の中心人物は、まるで興味がなかった。
「……平和ですね」
エドワードは庭園で薔薇を剪定していた。
白いシャツの袖を軽く捲り、鋏を動かす。
しゃく、しゃく、と枝を切る音が静かな午後へ溶けていく。
庭には柔らかな陽光が降り注ぎ、カサブランカの甘い香りが漂っていた。
エドワードはこの時間が好きだった。
数字より花の方が、ずっと疲れない。
「エドワードぉぉっ!!」
そこへ、またしてもヘンリー男爵が駆け込んできた。
最近の父は本当に騒がしい。
「今度は何です」
「大変なんだ!」
「最近それしか聞いていません」
ヘンリーは息を切らせながら紙束を差し出した。
「見ろ! 領地収入だ!」
「勤務時間外です」
「まだ三時だ!」
「なら聞きます」
エドワードは鋏を置き、書類を受け取った。
ざっと目を通す。
収穫率上昇。
工房利益増加。
燃料採掘利益急増。
「……ああ」
「“ああ”じゃない! 荒れ地から高品質な泥炭層が見つかったんだぞ!?」
「そうですか」
「そうですかって、お前なぁ!?」
ヘンリーは半泣きだった。
「数十年掘っても何も出なかった場所だぞ!? それが急に大量発見って!」
「適正予算へ修正しましたから」
「意味が分からん!」
エドワードは淡々と書類をめくる。
「無駄な中抜きが消えた。流通コストが正常化した。結果として、人と金の流れが戻っただけです」
「それだけで土地まで変わるか!?」
「変わります」
エドワードには分かっていた。
この世界では、数字の歪みそのものが瘴気になる。
不当搾取。
横領。
隠蔽。
それらは土地を蝕み、人を疲弊させる。
逆に正しい循環は、世界を正常化する。
ただそれだけだ。
「……やはり数字は大事ですね」
エドワードは紅茶を飲む。
今日の茶葉は香りがいい。
以前より味まで澄んで感じる。
「お前、もっと喜べないのか?」
「何故」
「領地が大復活してるんだぞ!?」
「私は無理をしていませんので」
「そこじゃない!」
ヘンリーが叫ぶ。
だがその声には、以前のような悲壮感がなかった。
顔色も良い。
肩の力も抜けている。
エドワードは父を見ながら思う。
やはり環境改善は重要だ。
人間、疲弊すると正常な判断ができなくなる。
「そういえば」
ヘンリーが急に声を潜めた。
「王都から変な噂が来てるんだが……」
「なんです」
「お前、“数字の魔術師”って呼ばれてるぞ」
「やめてください」
「即答!?」
「仕事が増えそうなので」
エドワードは本気で嫌そうな顔をした。
前世で学んだ。
目立つと仕事が増える。
仕事が増えると定時退社が壊れる。
つまり危険だ。
「マルコム」
「はい、エドワード様」
「今後、来客は減らしてください」
「かしこまりました」
「あと、残業禁止を使用人にも徹底してください」
「ですが最近、皆かなりやる気を出しておりまして……」
「長時間労働は判断精度を下げます」
真顔だった。
ヘンリーが呆れたように笑う。
「お前、本当に変わってるな……」
「普通です」
「普通の貴族は領地復興より定時退社を優先しない」
「それで前世は死にましたので」
「また前世って言ったな!?」
エドワードは聞こえないふりをした。
風が吹く。
白薔薇が揺れ、花弁が陽光の中を舞う。
庭の空気は穏やかだった。
遠くからは、領民たちの笑い声が聞こえる。
以前の領地にはなかった音だ。
「……悪くないですね」
「ん?」
「静かなのは」
エドワードは目を細める。
数字の歪みが消えると、人はちゃんと呼吸できる。
それだけのことなのだ。
彼は再び鋏を取り、薔薇の枝を整え始めた。
しゃく、しゃく、と小気味良い音が響く。
定時まで、あと二時間。
今日は穏やかに終われそうだった。




