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第六話 逆転のバランスシート

第六話 逆転のバランスシート


 大広間には、奇妙な静けさが落ちていた。


 つい先ほどまで、ここはアルカディア男爵家の終焉を見届ける場所だったはずだ。破産寸前の没落貴族が、銀行に領地を奪われ、婚約者にも捨てられる。誰もがそう信じて疑わなかった。


 だが今。


 空気は完全に変わっていた。


 窓から差し込む昼の陽光が、まるで長い曇天を裂いたように明るい。重苦しかった大広間の空気からは湿った淀みが消え、代わりに春先の風のような清涼感が漂っている。


 エドワードには見えていた。


 部屋中を覆っていた黒い靄が、ゆっくりと霧散していくのを。


 そして唯一、バド・ローゼンの周囲だけが、濁った泥のような瘴気に包まれている。


「ば、馬鹿な……」


 老人は顔面蒼白だった。


 汗が脂ぎった額を伝い、喉が引き攣るように上下している。つい先ほどまで余裕たっぷりだった老税理士は、今や追い詰められた獣そのものだった。


「そんなことが……こんな帳簿ごときで……!」


 トーマスは帳簿を閉じる。


 ぱたり、と乾いた音が響いた。


 それだけで空気が張り詰めた。


「バド・ローゼン」


 低く、冷たい声だった。


「貴殿の全口座を凍結する」


 その言葉に、バドの顔が完全に崩れた。


「なっ……!?」


「横領、詐欺、脱税。さらに長年にわたる不正会計。証拠は十分です」


「ま、待て! 違う! これは何かの間違いだ!」


「間違いではありません」


 トーマスの眼鏡の奥の瞳には、一片の感情もなかった。


「口座照会、送金履歴、貸付帳簿、全て一致しています」


「そ、そんな……!」


 バドはヘンリーへ縋るように向き直る。


「旦那様! 旦那様ならお分かりでしょう!? 私は長年この家を支えて――」


「バド……」


 ヘンリーの声は震えていた。


 目の前の老人は、彼が幼い頃から知っている男だった。父の代から仕え、苦しい時期も支えてくれたはずの存在。


 だが。


 机の上の帳簿は、残酷なほど正確だった。


 消えた税収。

 架空支出。

 吸い上げられた領民の金。


 全てが、数字としてそこに残っている。


「どうしてだ……」


 ヘンリーが呟く。


「どうして、こんなことを……」


「生きるためです!」


 バドが叫んだ。


「貴族は金がかかる! 領地を維持するにも人脈が必要だ! 私は必要経費を確保しただけだ!」


「三万ポンドも?」


 エドワードが淡々と聞く。


「……っ」


「随分と高い必要経費ですね」


 その声には怒りがない。


 だからこそ冷たかった。


 バドは初めて本能的な恐怖を覚える。


 普通なら怒鳴るはずなのだ。

 殴るはずなのだ。


 だが、この青年は違う。


 まるで壊れた時計を見るような目で、自分を見ている。


「き、貴様……!」


「はい」


「何故そんな顔をしていられる!? わしはこの家を牛耳っていたんだぞ!?」


「知っています」


「わしがいなければ、この領地は回らなかった!」


「だから歪んだんです」


 エドワードは静かに言った。


 その瞬間、バドの背後の黒い靄が大きく揺らぐ。


「あなたは金の流れを止めた。必要な場所へ回るべき資産を、自分の懐へ流し続けた」


「それの何が悪い!」


 バドは叫ぶ。


「領民など搾取されるためにいる! 貴族とはそういうものだ!」


 使用人たちが息を呑んだ。


 ヘンリーが絶句する。


 レティシアですら眉をひそめた。


 だがエドワードだけは無表情だった。


「なるほど」


「わしがいたからこそ、この領地は保っていたんだ!」


「違います」


 エドワードは小さく首を振る。


「あなたがいたから腐ったんです」


「……!」


「計算が合わないまま眠るのは、体に悪いので」


 静かな声だった。


 だが、その言葉は刃より鋭くバドを切り裂いた。


 その時。


 大広間の扉が勢いよく開かれる。


 鎧の金属音が響いた。


「王命執行!」


 近衛兵たちだった。


 銀の鎧を纏った兵士たちが雪崩れ込む。


 先頭の隊長が書状を掲げた。


「バド・ローゼン! 貴様を巨額横領および詐欺罪の容疑で拘束する!」


「ひっ……!」


 バドが後ずさる。


 だが足がもつれ、そのまま床へ転がった。


「待て! 待ってくれ!」


 近衛兵が容赦なく腕を掴む。


「やめろ! 触るな! わしは男爵家の税理士だぞ!」


「元、ですね」


 エドワードが訂正する。


「貴様ぁぁっ!!」


 バドは床を這いながら叫んだ。


「わしを誰だと思っている! わしがいなければこの領地は――!」


「だから歪んだんです」


 エドワードは冷ややかに見下ろす。


 その瞳には憎悪すらない。


 ただ、帳簿の誤記を修正する時と同じ静けさだけがあった。


「数字を支配の道具にした時点で、あなたは終わっていました」


 バドの顔が引き攣る。


 そして次の瞬間、彼の周囲に渦巻いていた黒い靄が、音もなく崩れた。


 まるで腐った泥が乾いて砕けるように。


「いやだ……」


 バドが掠れ声を漏らす。


「いやだ、いやだ……!」


 近衛兵は容赦なく老人を引きずっていく。


 床に爪を立て、泣き叫びながら。


「旦那様! 助けてください! 旦那様ぁぁぁっ!!」


 ヘンリーは答えられなかった。


 ただ呆然と、その背中を見送るだけだった。


 扉が閉まる。


 静寂。


 まるで長い悪夢が終わった後のようだった。


 その時だった。


 ふわり、と風が吹く。


 窓の外の白薔薇が揺れ、甘い香りが大広間へ流れ込んできた。


 使用人の一人が目を見開く。


「あ……」


「どうした」


「明るい……」


 確かにそうだった。


 今まで薄暗かった室内が、急に明るく感じる。


 空気が軽い。


 呼吸がしやすい。


 長年屋敷へ染み付いていた重苦しさが、嘘のように消えていた。


 ヘンリーが震える声で呟く。


「まさか……本当に呪いだったのか……?」


「呪いというより、循環不良です」


 エドワードが答える。


「金の流れが歪むと、人も土地も淀みます」


「そんなことが……」


「あります」


 トーマスが静かに口を開いた。


「私も初めて見ましたが」


 彼は帳簿を見つめる。


 その視線は、もはや単なる興味ではなかった。


 畏怖だ。


「あなたは、数字で領地を浄化した」


「大げさです」


「いいえ」


 トーマスは首を振る。


「普通の人間は、不正を暴くことはできても、ここまで完璧に流れを修復できない」


 ヘンリーが恐る恐る聞く。


「では……借金は……?」


 トーマスは書類を閉じた。


「横領資金三万ポンドを差し押さえます」


「さ、三万……!」


「未払い利子、一万ポンドを充当。残債も全額返済可能です」


 ヘンリーの口が開いたまま固まる。


「つ、つまり……」


「アルカディア家の借金は、本日付けで完済されます」


 その言葉が落ちた瞬間。


 使用人たちから小さなどよめきが起こった。


 泣き出す者までいる。


 破産寸前だった男爵家が、一夜で蘇ったのだ。


 ヘンリーはその場に崩れ落ちた。


「助かった……」


 涙声だった。


「本当に……助かったのか……」


 エドワードは静かに窓の外を見る。


 白薔薇が揺れている。


 空は青く澄み渡っていた。


「よかったですね」


「お、お前は他人事みたいだな……!」


「他人事ではありません」


 エドワードは真顔で言った。


「これで安心して定時退社できます」


 トーマスが思わず吹き出した。


 レティシアは呆然とエドワードを見つめている。


 誰も理解できなかった。


 なぜこの男だけが、最後まで平然としていられるのかを。


 だがエドワードにとっては単純な話だった。


 歪んだ数字を、あるべき場所へ戻した。


 それだけだ。


 それだけで世界は、少しだけまともになる。



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