第一話 定時退社を望む転生者、歪んだ帳簿に出会う
第一話 定時退社を望む転生者、歪んだ帳簿に出会う
午後五時を告げる時計塔の鐘が、アルカディア男爵邸の窓硝子をかすかに震わせた。
エドワード・アルカディアは、そこでようやく羽ペンを置いた。
机の上には何もない。仕事を持ち帰る習慣は、前世で死ぬほど味わった。二度と御免だった。
窓の外では、夕陽を浴びた白薔薇が風に揺れている。甘く柔らかな香りが開け放した窓から流れ込み、紅茶の湯気と混ざり合っていた。
「……平和だ」
思わず呟く。
それだけで幸福だった。
前世では、こんな時間は存在しなかった。気づけば終電を逃し、会社の蛍光灯の下で冷えた缶コーヒーを飲み、数字を合わせるためだけに生きていた。
眠れない夜。
鳴り止まない通知。
責任という名の鎖。
最後は心が壊れた。
視界が白く霞み、会社のトイレで吐きながら、それでも電卓を叩いていた記憶だけが残っている。
だから決めたのだ。
今世では無理をしない、と。
定時で帰る。
よく眠る。
庭の薔薇を眺めて暮らす。
それだけでいい。
エドワードが静かに紅茶へ口をつけた、その時だった。
廊下の向こうから慌ただしい足音が響いてくる。
「エドワード! エドワードぉぉっ!」
ばん、と勢いよく扉が開いた。
父、ヘンリー・アルカディア男爵が、顔面蒼白で飛び込んでくる。額には脂汗が滲み、髪も乱れていた。
「た、大変なんだ!」
エドワードはカップを置いた。
「定時後の相談は明日にしてください」
「そんな場合じゃない!」
ヘンリーは机へ縋りつく。
「領地が破産する!」
「それも明日で」
「今日中なんだ!」
悲鳴に近い声だった。
エドワードは深く息を吐いた。
夕方の静けさが壊される感覚は嫌いだった。せっかく薔薇の香りで頭が落ち着いていたのに、今は冷えた胃薬の味を思い出しそうになる。
「……要件だけお願いします」
「借金が返せないんだ! 王都の銀行から催促が来ている! このままでは差し押さえだ!」
「いくらです」
「利子だけで一万ポンド……」
「随分と膨らみましたね」
「バドが大丈夫だと言っていたんだ! 一時的な不作だと!」
その名前に、エドワードの眉がわずかに動く。
バド・ローゼン。
男爵家に仕える老税理士だ。子供の頃から見てきた男だが、エドワードはあまり好きではなかった。
目が濁っている。
数字を扱う人間の目ではない。
「それで……レティシア嬢からも、婚約を考え直したいと……」
ヘンリーが弱々しく付け足した。
「そうですか」
「お前は悔しくないのか!? あんなに仲が良かったのに!」
「別に」
正直、どうでもよかった。
レティシアは美しい。だが、彼女の視線はいつも金額を値踏みしているようで疲れるのだ。
前世でも見た。
人を数字でしか見ない目を。
「と、とにかくこれを見てくれ!」
ヘンリーが分厚い帳簿を机へ置いた。
どさり、と重い音が響く。
革表紙は擦り切れ、湿った紙とインクの臭いが鼻についた。
エドワードは嫌な予感を覚えながら頁を開く。
その瞬間だった。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
黒い靄。
帳簿の行間から、煙のようなものが滲み出ていた。
他人には見えない。
だがエドワードには見える。
数字の歪み。
不正。
誤魔化し。
搾取。
それらが瘴気となって、この世界には現れる。
「……ひどいな」
思わず声が漏れた。
「え?」
ヘンリーが首を傾げる。
エドワードは無言で頁をめくった。
数字が合っていない。
収支が噛み合わない。
税率がおかしい。
農地収益が去年より減っているのに、倉庫保管量は増えている。
あり得ない。
しかも計算式が雑だ。
単式帳簿。
古い記載法。
訂正線だらけ。
まるで腐った沼を覗き込んでいる気分だった。
黒い靄が、紙の隙間からじわじわと溢れてくる。
気持ち悪い。
本能的嫌悪だった。
前世で、粉飾決算の尻拭いをさせられた夜を思い出す。
朝まで数字が合わず、胃液を吐きながら電卓を叩いた。
あの時と同じ感覚だ。
「……気持ち悪い」
「エドワード?」
「この帳簿を書いたのは?」
「もちろんバドだ。彼は三十年も男爵家を支えて――」
「支えてませんね」
ヘンリーが固まる。
エドワードは帳簿を閉じた。
ぱん、と乾いた音が部屋に響く。
「少なくとも、まともな計算ではありません」
「そ、そんな……だが、バドは信頼できる男で――」
「数字は嘘をつきません」
静かな声だった。
だが、その瞬間、部屋の空気が少し冷えた気がした。
ヘンリーが不安げに息を呑む。
「改革なんて興味ありません」
エドワードは椅子へ深く座り直した。
「領地経営にも、政治にも、成り上がりにも興味はない」
本心だった。
働きすぎる人生など、もう嫌だ。
だが。
机の上の帳簿からは、今も黒い靄が立ち昇っている。
まるで腐臭のように。
まるで誰かの怨嗟のように。
視界に入るだけで頭痛がした。
エドワードはこめかみを押さえ、小さく息を吐く。
「ですが」
窓の外で、白薔薇が揺れた。
夕陽が赤く差し込み、歪んだ帳簿を照らす。
「この数字の歪みだけは、見過ごせない」
その言葉と同時に。
帳簿の黒い靄が、わずかに震えた。




