表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

第6話 あやしいヒ・ミ・ツ

 その様子を、庭師や下男たちが怪訝そうに見ていた。

 ウーゴ、マリエッタ、そしてナーディア侍女長の姿もあった。屋敷の玄関先では、ライネーリ伯爵夫妻と双子のルチア、ミーアがこちらを注視している。



     ◇



 七歳の私は怒り狂っていた。寝ている間にフィオレが私の髪の毛をバッサリ切るなんて! そんな馬鹿なことをする子には思えなかったから、ショックだった。


 いつも私のそばにべったり引っ付いていた子が、初めて反抗したのだ。私はフィオレをぶん殴ってやろうかと思ったけれど、やめた。

 だってフィオレは可愛いんだもん。私がこの世で一番好きな妹なのよ。


 あのティーパーティーでフィオレの顔に落書きしたのは、愛情の裏返しよ。五歳のフィオレは天使のように可愛くて、パーティーの話題を独り占めした。

 私はフィオレの可愛さがみんなに知れ渡るのが嫌だった。あのかわいさは私だけのものにしたかった。独占したかったの。


 だから、フィオレの顔に無茶苦茶な化粧を施した。もちろんフィオレは悪意と受け取ったけれど、それは間違いよ。


 ──私は、フィオレを誰よりも愛していた。


 私が黒髪おかっぱのカツラを被って一週間後、フィオレは流行り病にかかった。


 夜中、薄暗い廊下から、わずかに開いたドアの隙間に目を凝らす。


 ベッドに横たわるフィオレの顔は、燃え上がる火のように赤く火照っていた。肺を削るような荒い呼吸が絶え間なく続き、胸の上下が激しい。


 医者が重い足取りで立ち上がり、ゆっくりと首を振った。


「今夜が峠です」


 その言葉が落ちた瞬間、隣で目を腫らしていた母の膝が折れそうになる。父が咄嗟にその身体を支え、いたわるように肩を抱いた。 二人は医者に促されるまま、縋るような背中を見せて隣の部屋へと消えていく。


 ぽっかりと空いた空白。静寂の中、私は音を殺して部屋に足を踏み入れた。


「フィオレ、大丈夫?」


 枕元の椅子に腰を下ろすと、不規則だった呼吸がふっと止まった。フィオレの視線が彷徨い、こちらの姿を捉える。


「お姉ちゃん……ごめんなさい。カツラ、早く取れるといいね」

 胸の奥がぎゅっと縮む。喉を突き上げる塊を飲み込み、視線を逸らさずに言葉を返した。


「そんなことどうだっていい。いいフィオレ、あなたとはもっと激しい喧嘩をしたいの。みんなを呆れさせようよ」


 フィオレの唇が、かすかに震えて弧を描いた。


「それ面白そう。いいの、お姉ちゃんをけちょんけちょんにやっつけるよ」


「受けて立つ。私は強いよ」


「分かってる。お姉ちゃんのことは、私が一番知ってるもん」

 繋いだ指先に、かすかな力がこもる。


 その時、壁の向こうから慌ただしい足音が響いてきた。両親が戻ってくる気配に、私はそっと手を離し、立ち上がる。


「じゃ、明日ね」


 背後から、消え入りそうな声が届いた。


「お姉ちゃん……大好き」



翌朝、フィオレは静かに息を引き取った。


 葬儀が終わってからずっと、私はフィオレのベッドで眠った。フィオレの体温を感じたかったのだと思う。可哀想なフィオレ、あなたの代わりに私が死ねばよかった。涙を流しながら眠りについた。


 翌朝、私の変調に気づいたのは母のジルダだった。朝食のテーブルについている私を見て、彼女は驚いていた。


「そこはフィオレの席でしょ。自分の席に座りなさい」


「ここが私の席よ」


「どういうことだ。お前の席は隣じゃないか」

 対面の父・マゼッティ男爵が言った。


「なんで? 隣はお姉ちゃんの席じゃない。フィオレの席はいつも真ん中よ。そうよね、お姉ちゃん」

 私は隣の空席に話しかけた。実際には、そこには誰も座っていない。


「ほら、お姉ちゃんもそうだって言ってるわ」

 父は執事のパガーニに目配せした。困った時に頼りになる男だ。


「フィオレ様、今喋っていらっしゃったのはルイーザ様ですか?」


「うん、お姉ちゃんだよ。なんでそんなこと聞くの?」

 父と母が、お互いの顔を見合わせた。


 私はフィオレを取り込んだつもりだった。もちろん、そんなことが不可能だとは百も承知。フィオレの肉体が消えて魂が彷徨っているのなら、私の体を捧げるつもりで、フィオレの振りをしてみせた。七歳の子供が考えた、精一杯の献身だった。


 大人たちには、不謹慎な悪ふざけにしか見えなかっただろう。父や母は露骨に嫌な顔をして私を叱った。


 しかし、私はフィオレの振りをやめなかった。やめたら、本当にフィオレがこの世から消えてしまう。私がフィオレを演じることで、妹がこの世に存在していた爪痕を残す。それが私の使命だと思ったのだ。


 家ではフィオレ、外ではルイーザ。奇妙な二重生活が始まった。ルイーザでいなければならない場面ではルイーザに、フィオレが必要な場面ではフィオレになった。喋り方、性格までフィオレそっくりになった。もはや演技の域を超え、私自身もフィオレと共存している感覚に陥った。


 ある日、霊媒師がやってきた。父がツテを頼って見つけた人物だという。


「おぬしは、妹の霊に取り憑かれておる!」

 その言葉に父は蒼白になり、母は泣き崩れた。


 やれやれ、こんなお婆さんを呼んでどうするのよ。除霊? 好きにすればいいわ。


 私は丸テーブルの椅子に座らされた。向かいのお婆さんは物凄く怖い顔で私を睨み、水晶玉を見ながら呪文のようなものを唱えている。額から汗が吹き出した。


「むむむっ、手強いぞ。この女の子の霊は、お姉さんに執着しておる!」


 嘘よ。執着しているのは私の方なのに。


「ええい! 妹よ、おぬしの居場所はそこではない。天国の扉は開いておる。早く行くがよい!」


 霊媒師が私に向かって叫んだ。私は呆れた顔で彼女を見つめた。


「よせ、わしはおぬしのために……」

 突如、霊媒師の様子がおかしくなった。小刻みに震え、口から泡を吹き出したかと思うと、椅子から転げ落ちて気絶したのだ。

 


 しばらくして気がついた彼女は、怯えたように言った。


「──マゼッティ男爵、妹の魂を無理に引き離すことは諦めるのじゃ。二人の絆は強烈だ。無理やり別れさせれば、姉は死を選ぶであろうぞ」


 それ以来、私の振る舞いは聖域アンタッチャブルとなった。私の「妹ごっこ」が公認されたのだ。



 十三歳で貴族学校に入学した。二つ上の先輩にジェラルドがいた。彼は入学当初から私に目をつけていたらしく、教室の周りをよくうろついていた。


 私はジェラルドと交際することになった。フィオレ(の中の意識)に話すと、賛成してくれた。私のことが大嫌いなくせに、やはり女の子らしく恋愛には関心があるみたいね。


 十八歳で卒業。ジェラルドはすぐにプロポーズしてくれた。私は自分一人が幸せになっていいのか悩み、返事を引き延ばしていた。二年が過ぎ、ついに我慢の限界を迎えたジェラルドに、ライネーリ伯爵邸へと呼び出された。


「ジェラルド、あなたのことは好きじゃないの。もし強引に政略結婚に持ち込むなら、自殺するわ」


 本当は愛している。でもフィオレを思うと、一歩が踏み出せない。

 こうして結婚の話は一度白紙になった。私はジェラルドに提案した。「振られた」と噂されるのはあなたのプライドが許さないでしょうから、あなたが私を振ったことにしましょう、と。


 ジェラルドは頷いた。

 しかし、何の因果か、フィオレがライネーリ伯爵邸に潜入することになった。私はただ、見守ることに決めたのだ……。



     ◇



 門の前でジェラルドに引き止められた。左手首をがっしりと握られている。


「僕のこと、嫌いじゃないよね?」


「……はい」

 思わず本音が漏れた。


「だったら、出て行くことは認めない。フィオレ・マゼッティ!」


 バレていた。「モニカ」ではなく、本名を呼ばれた。


「もういい加減、カツラを取ったらどうだい」


 ジェラルドが手を離した。微妙な空気が流れる。

 もしかして、彼は最初から知っていたのかしら。だとしたら、私はただのピエロじゃない。


 私はカツラを取った。

 ブロンドが風になびき、周囲の下男たちが感嘆の声をあげた。


「モニカはカツラをしていたのか!」


「なんて綺麗な髪。うわー、美人だったんだな」


「やっと本物のフィオレと面会できた。これで、君にプロポーズできる」

 えっ、何を言っているの。ジェラルドは姉ルイーザの元婚約者じゃない。私が姉から男を奪うような真似、できるわけないでしょ。


「フィオレ、僕と結婚してください」


 ジェラルドが片膝をつき、右手を差し出した。この手を握れば、プロポーズを受けたことになる。惹かれていたのは事実。姉の元婚約者が、こんなに魅力的だなんて思わなかった。


 心がぐらつく。すると、私の意志に反して右手が動いた。


『フィオレがOKなら、結婚しましょう』

 頭の中に、姉・ルイーザの声が響いた。


『お姉ちゃん、そんなことできないわ!』


『いいのよ。フィオレは私、私はフィオレなの。あなたが幸せになることが、私の幸せなのよ』


 ジェラルドが私の体を抱きしめた。「結婚しよう、フィオレ!」



 ──そうだ。私はジェラルドに秘密を打ち明けていたのだ。亡くなった妹の人格が私の中にあり、彼女の幸せのために生きていることを。そうしたら、彼は言ったのだ。


「だったら、君とフィオレ、二人と一緒に結婚すればいい。僕は二人とも愛することができると思う」


 生身の姉妹なら重婚だが、心の中なら問題ない。だが、相性がある。もしフィオレ(の意識)がジェラルドを嫌えばすべては水泡に帰す。だから試すために、彼女を侍女として潜り込ませた。時間をかけて相性を見る。それが私、ルイーザの策略だったのだ。


「はい」


 フィオレはプロポーズを受け入れた。周囲から拍手が沸き起こる。


「おめでとう、モニカ!」


「やっぱり貴族の娘だと思ってたよ」


 私の変装は何だったの。うまく紛れ込んだつもりだったけれど、みんな気づいていたのね。

 ジェラルドの家族に紹介された。

 双子のルチアとミーアが私の髪を興味深げに見ている。弟のラウロははにかんでいる。ライネーリ伯爵夫妻もにこやかだ。


「半年間、君をじっくり見てきたが、わが家に迎えるのに申し分ない人物だとわかったよ」

 こそばゆい。でも、フィオレのままで結婚はできない……。あの書斎で見た


「フィオレ死亡」の報告書が、喉に刺さった棘のように気になっていた。

 



 砂利を踏む音が、静寂を際立たせる。耳に届くのは、湿った風が通り抜ける音と、重なり合う葉が鳴らす乾いたささめきだけ。


 休日の墓地は、余計な音をすべて拒絶していた。

一族の墓所は、貴族の矜持を保つように隅々まで整えられている。手入れの行き届いた石造りの並びを、一つずつ視界に収めていく。


 厚く苔の乗った古い石碑や、角が丸く削れ、朽ちかけた彫刻。時の重みがそこには積み上がっていた。


 その列の端に、周囲とは明らかに質感の違う、真新しい墓石が立っている。


 小ぶりなその墓の前で、膝をついた。冷たい石の表面に指先を滑らせ、そこに刻まれた文字を凝視する。



 フィオレ・マゼッティ。



 間違いなく、私の名前だ。

 滑らかな石の溝を、人差し指でなぞる。指先に伝わる硬質な感触が、事実を突きつけてくる。

 私は間違いなく死んでいた。戸籍の上でも、この社会の理の上でも、私はこの世に存在していない。


 どくん、と胸の奥が跳ねた。肋骨の裏側で暴れる鼓動が、掌にまで響いてくる。生きているのに、存在しない。血の通った身体を置き去りにして、世界が私を葬っている。



 ──その不可思議の扉を開けた。



 その瞬間、すべてが走馬灯のように蘇った。


 私はフィオレではない。ルイーザなのだ、と。



     ◇



 結婚式が挙げられた。形式上はルイーザの式だが、私はフィオレのままだった。ルイーザは現れなかった。


 私の記憶はフィオレだが、肉体はルイーザ。私は死んだはずなのに、姉の体の中に存在している……。いや、私はルイーザそのもので、自分をフィオレだと思い込んでいるだけなのか? 父もジェラルドもそう言う。


 けれど、私には五歳で死ぬまでの記憶が鮮明にある。姉が異常をきたして生み出した架空の人格だとは思えないのだ。


 結婚して半年。すべては順調だった。

 唯一の問題は、夜の営みだ。ジェラルドは私を抱こうとしない。いい雰囲気になっても、朝になると一人寝のベッドで目が覚める。


 私は彼を問い詰めた。


「何を言っているんだ。昨夜だって激しい一夜を共にしたじゃないか」

 ジェラルドは呆れたように言った。嘘をついているようには見えない。


「もう、君って好きものなんだから……。昼間だけど、まあいいか」


 ──次に気がついたとき、私はベッドの上にいた。全裸だった。

 着替えを終えたジェラルドがウインクして部屋を出ていく。


 私は処女妻ではなかった。安堵と同時に、怒りが込み上げる。なぜ愛し合った記憶がないの!


《フィオレ、あなたが私の名前を引き継いで結婚したのだから、これくらい良いでしょう?》


 ルイーザの声だ。


《私の肉体はあげる。でも、ジェラルドとの夜の営みは私に譲ってもらうわね》


 姉は、私に人生を与える代わりに、快楽だけを奪いにきたのか。


「お姉ちゃん、それは酷いよ! そんなに私が嫌いなの?」


《……そんなことないわよ、フィオレ。私は誰よりもあなたを愛しているの。これは愛情の裏返し。でも、また悪い癖が出たみたいね。フィオレが可愛いから、意地悪したくなるのよ。だから、これが最後よ》


「最後……?」


《一人の体に二人の魂はいらないでしょ。私が消えるわ。私の望みは、フィオレがこの世に蘇って幸せになること。私の妹でいてくれて、本当にありがとう》



 ──胸の中に、ぽっかりと穴が空いた。





 姉が完全に消え、私一人になったことを実感した。寂しくてたまらなくなった。


 私は決意した。姉の人生もひっくるめて、生きていくことを。


「ルイーザ様、旦那様がお待ちです」

 扉の向こうでマリエッタの声がした。親友の彼女は、私付きの侍女になってもらったのだ。


 私はマリエッタを驚かせてやろうと思った。全裸のままの私を見たら、彼女はどう思うかしら。


「入って」


 何かワクワクする。いけないことが起きるような、そんな予感がした。



お読みいただきありがとうございます。


この小説がお気に召しでしたら、ブックマークや↓の✩✩✩✩✩評価等、応援よろしくお願いします。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ