第5話 さよなら伯爵邸
「今月末でお暇をいただきたいのです」
私は侍女長の部屋に入り、机に向かったナーディアさんの背中に向かって言った。
ナーディアさんのペンが止まり、彼女は振り返った。
「ここを辞めて、どうするの?」
「縁談がありまして。受けてみようと思います」
「縁談? 結婚するの!」
「はい。以前から父に勧められていました」
「寂しくなるわね……でも、あなたが幸せになるなら」
ナーディアさんは立ち上がり、私の両手を包み込んだ。
「仕方ないわね」
そう言って、ニコッと笑った。
私は、ここらが潮時だと思った。
ライネーリ伯爵の悪事を暴こうとしたけれど、そんなものは見つからなかった。使用人の扱いは完璧で、不満を漏らす下男もいない。執事も侍女長も人柄が良く、私によくしてくれた。もうここにいる理由はないのだ。
「聞いたぜ、ここを辞めるってな」
焼却炉の前にはウーゴがいた。
「結婚するって本当なのか?」
「本当よ」
「相手はじいさんなんだろ? やめちまえよ、そんなの」
私は黙って、右手に持っていたリボン付きの箱を手渡した。
「なんだ、こりゃ?」
「葉巻。キューヴァ産の最高級品よ」
「へー、ありがたくもらっとくぜ」
マリエッタが左目から義眼を取り出した。医師のアゴストがそれを掌で受け取り、しげしげと眺めて言った。
「これは子供用の大きさだ。幾分大きめに作られてはいるが、成人の物じゃない。これでは動いてしまって、目の奥に炎症が起きるわけだ。だが、ぴったりしたサイズの義眼を使えばじきに治る。安心しなさい」
マリエッタが破顔した。そして隣に立つ私を見た。
良かったわね。
首都で名医と言われるアゴストさんをこの町まで呼ぶのは大変だったのよ。お金も相当かかったけれど、もちろん支払いは私がするわ。
「……モニカさんの手紙には、目の色のことが丁寧に書かれていました。とび色の虹彩の義眼を複数用意してきましたので、見てみましょう」
アゴスト医師は机の上の木箱を開けた。中には義眼が十個ほど並んでいた。彼は元の義眼より一段階大きいものを手に取った。
「まず、このサイズをはめてみましょう」
町には父・マゼッティ男爵が経営する商会があった。地元の特産品を買い付ける店を国中に置いているのだ。私はその店の奥で、父と密かに会った。
父はライネーリ伯爵のスキャンダルを探しており、そのために私を伯爵邸に送り込んだ。
けれど、使用人の評判はすこぶる良く、悪事の噂すら出なかった。書斎に忍び込むまでしたが、結局何も見つからない。もうここにいる意味はないのだ。
マリエッタと別れるのは辛いし、私がいなくなってからの子猫のルーの世話も気になる。実家に連れて帰ってもいいけれど、私以外にも懐いている。特にルーはナーディアさんが大好きだから、置いていくべきかしら。
「悪事の証拠はなかっただと? お前は使い走りか。半年も屋敷にいて、何の手がかりもないと言うのか!」
父が私を睨みつけた。
おー、怖い。
「書斎をあら捜ししましたけれど、何も見つかりませんでした。お父様、姉の婚約破棄の復讐なんて、もうやめませんか。敵を作りすぎるのはよくありません」
「わかったような口をききおって。一人前になったもんだな」
やれやれ、これでは堂々巡りだ。
「結婚の話を進めてください。私はどこへでも嫁ぎます」
「本気か? お前は老貴族との縁談をあれほど嫌っていただろう」
「あの屋敷にいるのが、辛くなってきました。みんないい人たちばかりで仲良くなりましたが、どうせいつかは別れなければならない。今ならまだ傷が浅いから、離れるべきだと思ったのです」
「その決断が、意に沿わぬ老人との結婚か……」
「ただし、条件があります」
「何だ、言ってみろ」
「持参金の前借りをお願いします」
そう、私は屋敷を出る前に、お世話になった人々に恩返しがしたかった。そのためにお金が必要なのだ。
持参金で自分を売ったようにも思えるけれど、貴族の娘なんてどうせ政略結婚の道具だ。せめて使えるお金くらいは好きにさせてほしい。
「わかった。使い道は聞かないでおこう」
休日に、ナーディアさんの実家を訪ねた。私が馬車で持ち込んだ車椅子に、ナーディアさんのお母様が妹さんの手伝いで座ってくれた。
「ありがとう。ナーディアにお礼を伝えてね」
私は、この車椅子はナーディアさんからのプレゼントだと嘘をついたのだ。
すっかり信じ込んだお母様の嬉しそうな顔を見て、私はこれで良かったのだと思った。
屋敷を出る日が来た。
部屋の片付けをする。トランクに入らない物はそのまま置いておくことにした。次の侍女が使ってくれたらいい。朝礼での挨拶は済ませていた。あとは門を出るだけだ。
「待ってくれ、話がある!」
屋敷の門の手前で、背後から声をかけられた。振り返ると、ライネーリ伯爵の長男ジェラルドが息を切らして立っていた。
「お別れの挨拶なら、昨日いたしましたけれど」
「そうじゃない! 君に行ってほしくないんだ!」
やはり、そうだったのか。
私が双子と一緒にいると、必ずジェラルドが様子を見に来ていた。最初は妹思いの兄だと思っていたけれど、いくら何でも頻繁すぎた。もしや私に気があるのではと勘繰ったこともあった。
ジェラルドの評判はすこぶる良く、下男や侍女たちにも人気がある。私は姉の元婚約者候補である彼に近づきたくなかった。
正体がバレる恐れもあったので距離を置いていたのに、彼はお構いなしに話しかけてくる。笑顔が眩しすぎて、私がぶっきらぼうに返しても、彼はちっとも気にしなかった。
いつの頃からか、私はジェラルドに会うのが辛くなっていた。当初、その理由は分からなかった。
もしかして、私はジェラルドのことが……。
駄目よ、絶対に駄目!
彼は姉の元婚約者。そんな人を好きになるなんて、ルール違反だわ。モラルに反することはできない。それは私の人生観を否定することになる。
でも、心がざわつくのを止められない。それが怖かった。
ジェラルドが私のトランクを取り上げ、私の左手首を強く掴んだ。




