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【短編小説】ファルス三鷹キャロットタワー

掲載日:2025/12/21

 黒いジャージは生地が薄く、秋先に羽織るものとしてはやや心許なかった。

 生憎と天気は雨降りで、下にもう一枚なにか着て来るべきだったなと小鹿 金太郎は若干の後悔と共に身震いをした。

 つい先週までは夏日が続いていたのに、衣替えのタイミングが掴めなかった。


 小鹿 金太郎が着ているジャージの背中には、金色の菊が大輪のプリントを咲かせている。あとは読めないフォントの英語と、当て字の日本語でなにやら書かれていた。

 宇宙船じみたデザインをした図書館前の広場で煙草を吸っている小鹿 金太郎に、綺麗な身形の老人が話しかけた。

 


 老人は穏やかな、しかし微かな怒気を隠した声で訊いた。

「天皇陛下ガチ勢ですか?」

 小鹿 金太郎には、リベラリストを名乗る人間が多い街の治安ポイントを少しだけ下げている自覚がある。

 しかし、駅前の喫煙所と一緒に、この宇宙船図書館の前にあった芝生まで無くしてしまう街に、自由なんてあるのか?

 小鹿 金太郎には果たして疑問であった。


 小鹿 金太郎は、薄っぺらいリベラル仮面の老人に

「わたしは天皇陛下ガチ勢です」

 と答えるやいなや老人を公衆便所に押し込み、鉄拳による教育的社会保障を与えると、衣服を脱がせてしまった。

 シミだらけのスラックスを履かせ、ブランド物の素敵な上着は古びたポロシャツと釣りベストに早変わりし、ピカピカのボルサリーノは、日焼けと汗染みでクタクタの野球帽になった。


 つまり、その老人は三軒茶屋の住人になったのだ。キャロットタワーが建つ前の三軒茶屋の老人に!

 老人は手にカップ酒と競馬新聞を持ち、駅前のアーケードを歩き始めた。


 それは小鹿 金太郎の見た夢だった。

 三軒茶屋の駅前は学校帰りの学生と角打の老人たちで占拠された。安酒と揚げ物の臭いが立ち込める中、ポルノ映画館から出てきたサラリーマンたちは曖昧な表情で足早に駅へと向かう。

 刹那的な情事を終えた主婦や、まだ人生にうんざりする事もできない学生たちがふわふわと歩く。

 それは、間違いなく小鹿 金太郎が見た景色だった。


 小鹿 金太郎が顔を上げる。

 建設途中のキャロットタワーが小鹿 金太郎を見下ろす。小鹿 金太郎は恥ずかしくなって顔を反らせた。

 まるで便所から見える富士山みたいだ。

 恥ずかしい。恥ずかしい!

 小鹿 金太郎は、羞恥心のあまり勃ちかけた陰茎を隠しながら叫んだ。


「ビルと言うのは建っているという事が重要で、その後の事はあまり重要視されないんですよ。もちろん、その基礎に穴も建てるには大切なのだけど」

 それを聞いていた女が笑った。

 同意とも嘲笑とも取れた。女は、高円寺か阿佐ヶ谷から流れ着いた女に見えた。女は手にした500mlのブンガクをストローで飲むと、左右で黒と金に分かれた髪の毛を揺らしながら笑うように訊いた。

「勃起すれば良くて射精はどうでもいいって言うの?それなのに私が大切で必要?」


 確かに小鹿 金太郎は、サブカル女の日当たりの悪い不健康な青白色の谷間で探検をしたいと思っていたし、きっと月の見える丘は茂みなんてないと思っていた。

 結局、小鹿 金太郎は緩やかに血流を集めていた。股間に。

 だがそれを隠すのに必要なパンツもズボンも穿いている。

 小鹿 金太郎はまだ余裕があった。



「ビルの建設と言うのは街に対する愛情なんですね。そして街が発展すると言うのは、もしかしたら射精の暗喩と言えるのかも知れませんね」


 サブカル女は消えた。

 抱けない女は存在していないのと同じだからだ。女は景色になり、小鹿 金太郎の血流は渋滞を解消した。

「手に入らないからこそ欲しいと言えるんですよ」

 景色になったサブカル女に言ってみたが、小鹿 金太郎にはその言葉が届いているか知る術がなかった。


 矮小な自信を取り戻した小鹿 金太郎が顔を上げると、そこには立派な三軒茶屋キャロットタワーがそそり立っていた。

 足場の外されたキャロットタワーはコンドームを外された陰茎の様に赤黒く、先端は鼓動するように毒々しく光っていた。

 三軒茶屋はコンドームをしないセックスみたいに精子を撒いた。立派なオシャレシティーとして発展した。


 だが小鹿 金太郎は発展していなかった。

 キャロットタワーを見上げる小鹿 金太郎はあの時のままだった。小鹿 金太郎はパンツもズボンも穿いたままだった。

 小鹿 金太郎は思うようにセックスができず苦しんでいた。



 願いは叶わない。それは祈りがあまりにも迂遠だからかも知れない。



 つまり。

 仮にあの景色に溶けたサブカル女と同じ部屋にいても、小鹿 金太郎は本を読み、名前のないサブカル女(もしかしたら顔すら無いのかも知れない!黒と金に別れた髪の下はピアスだらけの耳だろう。インターネット知識ばかりで、あまり頭は良くないかも知れない。少なくとも小鹿 金太郎を知識量で圧倒する事は無いだろう。少なくとも小鹿 金太郎の言葉遣いや単語の選び方を指摘する事もない。しかしサブカル女を前に、清純だとか処女だとかに拘りが無いと言いつつ、結局は自身が精神的に童貞なんだから相手にもそれを求める事になる。今日は処女ですか?そうでない場合、過去と言う長い長い影が小鹿 金太郎を苦しめる事になる。)は別の何かをして過ごす。

 それはキャロットタワーのようなビルの無い街が、それでも栄えているという矛盾に似ている。


 小鹿 金太郎は勃起しながら呟く。

「別にそういう事をしにきた訳じゃないから」

 サブカル女が笑う。

「セックスしに来たんじゃないなら帰ってくれない?」

 小鹿 金太郎がサブカル女を見据える。

 それはむかし、抱きたくても抱けなかった女に変わっていた。だが顔も名前も声も曖昧だった。抱きたくても抱けなかった、その思念だけがそこに具現化したみたいだった。



「嘘だ、そんなストレートな事は言わなかったよ」

 小鹿 金太郎は蜘蛛の巣を振り払うみたいに切り返した。それでも女は小鹿 金太郎を笑った。

「そうね、でもそうやって格好つけるのはあなたの悪い癖だわ」


 それはもしかしたら悪夢かも知れないし、単なる現実なのかも知れない。

 小鹿 金太郎は取り残されていた。目を開けたまま夢を見ていると言うのは、こう言う事なのかも知れない。

 小鹿 金太郎が見ているのは、宇宙船図書館で見ている現実かも知れないし、三軒茶屋のゲームセンターに置き忘れた夢かも知れない。

 あのゲームセンターの地下トイレには裸の女がいて、確かに小鹿 金太郎は白い涙を流した気がする。

 じゃあ宇宙船図書館のトイレには何がいるんだ?リベラル仮面の老人?



 しかし結局のところ、小鹿 金太郎にできるのはあらゆる可能性へと進んだ自分を全員殺してしまう事であり、そうする事でしか今の自分を肯定できないのだ。

 キャロットタワーの先端にある巨大な眼が金鹿小太郎を見下ろしている。

「俺はいつからその名前だった?」

「あなたには最初から名前なんて無いのよ」

 サブカル女が本を閉じると、そこで物語は一度終わりを迎えた。

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