9.オリビアの話②
その数日後のことだ。学園にはある噂が流れた。
『先日ブライアン・ティレットとアンジェリカ・クロイスの婚約が解消されたのはブライアンの浮気が原因だ』、という噂である。
さらには『ブライアンは浮気癖が酷く複数の女性と関係があるようだ』という噂までまことしやかに囁かれるようになった。
さて、これで困ったのはブライアン本人であるが、それ以外にも困惑した人物達がいる。
それはブライアンの『浮気相手たち』である。
そう、『たち』なのだ。複数人いるのである。
しかし彼女たちはそんなことは噂が流れるまで気づいてはいなかった。ブライアンに婚約者がいること、そして婚約が解消されたことまでは知っていても、みんなそれぞれ浮気相手、――否、『本命』は自分だけだと信じていたのである。
そうでなければ『婚約者のいる相手と浮気』などリスキーなことを彼女たちは犯さなかっただろう。
「あたしたちは彼に弄ばれたのよ」
そうオリビアはその『被害者たち』に呼びかけた。
その場にはオリビアを含めて五人の女性たちが集まっていた。
場所は学園の中庭である。
その中のうちの三名ほどは長女で身内に男兄弟を持たない、――つまり婿を取らなくてはならない女性たちだった。
「そんな……」
「ここにいる全員が彼から結婚を前提の交際を申し込まれていたのは事実なのね?」
ショックで真っ青な顔をする女性たちの中で、一人の女性がそう語気を強めて確認をした。
モニカ・トレメイン伯爵令嬢である。
彼女はその美しく波打つ黒髪を肩に払いのけると勝ちきな黒い瞳を釣り上げ、じろりとその場にいる四人を睨みつけた。
みんなそれに顔を見合わせると、おずおずと頷く。
「確かにみんなその申し出を彼から受けているはずよ? あたししっかり調べたもの。……まぁ、もしかしたらもっと居たかも知れないけど」
オリビアが頷くので精一杯な三人の後を引き取ってそう伝えた。
少なくとも噂が流れてから明らかな動揺を示して交際関係にあったことが露呈したのがこの四名なのである。
ブライアンをここ数日見張り、彼にあの噂は本当なのかを問い詰めているところをオリビアが確認したのだ。
なので尻尾を出さずに静かに過ごしている被害者ももしかしたらいるのかも知れない。
しかしそれは問題ではない。
重要なのは彼に不満を抱き、問い詰めようとする意思のある女性がオリビアの他に四人もいるという事実である。
モニカはオリビアの言葉に更に目を吊り上げた。
「……っ! 許せないわ! このあたくしがいるというのに、他の女性にまで……っ!!」
「まぁ、婚約者のいる男に手を出したのが悪いと言えば悪いんだけど、それは今は置いておきましょうか」
「……ぐっ!」
オリビアが刺した特大の釘に彼女はうめいた。それにオリビアはにこにこと笑う。
「あたし達も悪いわ。でもそれ以上に悪いのは五股も六股もする方だと思うの」
「……それで、あたくしたちを集めてあなたは一体どうしようというの?」
その問いかけと同時にその場にいた八つの瞳がオリビアに集中した。
それに彼女は唇を吊り上げて微笑む。
「復讐しない?」
その言葉に彼女たちは顔を見合わせた。
ブライアンは過去最大の危機を迎えていた。
(どうしてこんなことに……)
だらだらと冷や汗が流れる。
彼の目の前には五人の女性たちが立っていた。どの子も見覚えのある子ばかりだ。
すべての始まりはアンジェリカとの婚約解消である。
いままで隠し通せてきたブライアンの浮気が何故かばれ、親同士の話し合いの末『破棄』ではなく穏便に『解消』となったのだ。
(なんでバレたんだ……)
ブライアンはいままで慎重にうまくやってきていた。故にこの歳まで婚約を継続できていたのだ。正直元婚約者のアンジェリカは好みのタイプではなかった。いかにも箱入りのご令嬢といったクチで話題もあまり合わず、その上送られてくる刺繍は見るも無惨にガタガタな物ばかり。しかし彼女の立場は三男で後継ぎのスペアですらないブライアンには非常に魅力的だったのだ。
しかしまぁ、それ自体は別に致命傷ではなかった。
幼い頃からブライアンに関心のなかった両親からの叱責など気にはならなかったし、彼には他に家持ちの浮気相手がいた。アンジェリカよりも家の格は落ちるがアンジェリカよりは付き合いやすい相手だ。彼女の家にでも将来は転がり込むかと考えていた彼を、しかし更なる試練が襲った。
学園に噂が流れたのである。
ブライアンの、というよりは家の評判を気にして婚約解消理由は両親が頼み込んで内密にしてもらったはずなのに、一体どこから漏れたのか、ブライアンの浮気が理由だと、しかも浮気相手は複数人いると一夜にして学園中に知れ渡ったのだ。
結果としてブライアンは『浮気相手たち』の対応に追われることになった。
「わたし以外にも相手がいるのか?」と問い詰めてくる彼女たちのことをブライアンは一人ずつなんとか宥め、「そんなことはない、君だけだよ」と愛を囁くことでことの沈静化を図った。
本命はいるが彼女とうまく婚約できるかまだわからない以上、何人かはキープしておきたかったのだ。
そしてまた一人に呼び出しの手紙を渡されて、その場所へと彼は向かうところである。
今日の相手はオリビアだ。
彼女はとても魅力的な女性だ。しかし爵位は低いし家の後継ぎでもなかった。そのためブライアンの中では結婚の選択肢はない。
婿に入れる令嬢でなければならないのだ。
(惜しいなぁ……)
彼女が一人娘か男兄弟のいない長女であれば、ブライアンは喜んで彼女と婚約したかもしれない。
しかし現実は違う。彼女は騎士を目指してこの学園に来たのだという。将来騎士となる彼女と結婚しても、ブライアンは貴族としての位を保つことはできない。
ここで良い婚約者をつかめなければブライアンも騎士にでもなるしかないかも知れない。そうでなければ学園卒業後はニート確定である。
(モニカとの縁をなんとか繋がなくては……)
一番の本命はやはり彼女だ。
そう思いつつ、オリビアには今回を機にきちんと縁を切ろう、とブライアンは心を決めた。
元より彼女にはもう本命が他にいることを話している。どうにも彼女といると気が緩んでしまい、うっかり口を滑らせてしまったのだ。
(彼女なら俺なんかよりもっと良い相手がすぐ見つかるだろう)
さて、一体なんと言ったものか、と話す内容を考えているうちに待ち合わせ場所の中庭へと着いた。
ここはいつも彼女と話していた場所だ。
大きな木の下に、彼女はいつもと同じように立っていた。いつもと違うのはこちらに背を向けていることくらいだろう。
長いピンクブロンドの髪が風に揺れている。細くしなやかな肢体は騎士を目指しているだけあってぴんと姿勢よく伸びていた。
その凛々しい佇まいをいつもすごいな、と感嘆をもって見つめていた。
今も思う。
彼女は確かに美しい。外見だけでなく、その鍛えられた体躯や努力によって身につけたすべてによって。
「オリビア」
かけた声に彼女が振り向いた。強気な桃色の瞳がブライアンのことを捉える。
「すまない」
その視線を前に、ブライアンは考えていたことをすべて忘れて謝罪した。
「俺と別れてくれ。俺は君と将来を共にする気はないんだ」
「じゃあ一体誰と将来を共にする気なの?」
「それは……」
ブライアンは言い淀んだ。モニカが本命だ。しかしうまく行くかはまだわからない。
「……まだ決めきれていないけど」
「あら、モニカさんじゃないのね?」
「え?」
驚いて顔をあげる彼に、彼女は涼しい顔をして言葉を続けた。
「じゃあエイダさんかしら。それともクラリッサさん? それともジェニーさん?」
ブライアンの顔面は真っ青になる。
「な、なぜそれを……」
「いいから答えなさいよ」
睨めつけてくる燃えるような桃色の瞳に彼はたじろいだ。
「ぜ、全員だよ! まだ決めきれてないんだ!!」
その優柔不断を絵に描いたような返答に彼女は呆れて肩をすくめた。
「――だ、そうよ? みなさん?」
「……え?」
背後にかけられた声と共に現れた人物たちに彼は目を瞬かせる。
そこには今さっきオリビアが名前をあげた女性たちが悪鬼の形相で立っていた。
どうやら木の後ろに隠れていたらしい彼女たちはみんな目を吊り上げるとブライアンへと詰め寄ってくる。
「これはどういうこと!? あなた本当に好きなのはあたくしだけだって言ったじゃない!!」
「愛してるって言ってくれたのは嘘だったの!?」
「『全員』ってどういうことよ!? 私たちのことを一体なんだと思ってるの!?」
「わ、わたしは本気だったのに……っ!!」
泣き喚く女性や怒鳴り散らす女性、ブライアンはその胸ぐらや髪を掴まれてもみくちゃだ。
「ひっ! い、いや! 違うんだ!! これは……っ!!」
「何が違うのよ!!」
ひときわ大きく叫んだのはモニカだった。彼女はその黒く大きな瞳に涙を浮かべて叫ぶ。
「あたくしはあなたのことを愛していたのに……っ!! あなたは誰でも良かったのね!?」
「…………っ!!」
そのまま顔を両手でおおってわんわんと泣き出す彼女のことを、その近くにいた三人も目に涙を浮かべながらその肩や背中を支えて慰めた。
「これからの話だけど」
そんな地獄のような空気の中、オリビアは口火を切る。その場にいる全員の視線がオリビアに集まった。
「あなたにまともな未来があるとは思わないでね。噂はもう広まっているから他の相手を探そうと思っても無駄よ。五股もしただらしない醜聞にまみれた男のことなんて誰も相手にしないわ」
「……うっ」
ブライアンはうめいた。
彼女の言う通りなのが理解できたからだ。
彼はできれば伯爵位の家に婿に入りたかったのだ。しかしそんな高位の貴族が一度醜聞の流れたブライアンを婿に迎える可能性は限りなく低かった。それよりも下の家格の家だってきっとそうだろう。醜聞は貴族にとって命取りだ。一度ついたレッテルは外れないに違いない。
オリビアはゆっくりとブライアンに近づくと、地面に崩れ落ちるようにして膝をついた彼の顎に手をかけて顔を上げさせ、そしてその瞳をまっすぐに見つめながら――、その頬を勢いよく張り飛ばした。
その景気の良い音に周囲からばさばさと鳥の逃げ去る羽ばたきが聞こえる。
あまりの衝撃に脳を揺さぶられて言葉もないブライアンを置いて、彼女は背後を振り返って「どうぞ」と手で差し示した。
それに女性たちは目を丸くする。
つまりオリビアは、この男を殴る順番を次に「どうぞ」と譲っているのだ。
そのことを理解した一人が、おずおずと進み出ると、
「あんたなんて大っ嫌い!!」
そう叫んで彼の頬を打った。
オリビアが打ったのとは反対の頬を打たれた彼は逆方向へと顔を向ける。首がごきりと嫌な音を立てた。
それに勇気をもらったのか、次の女性が進み出た。
「最低っ!! くず男!!」
そう怒鳴ってまた反対の頬を張る。
「もう二度とその面見せんな!!」
四人目が頬を叩く頃にはその両頬は真っ赤に腫れ上がっていた。
先ほどまで泣いていたモニカがその目の前に立つ。
ブライアンはもはや何も言わず、無抵抗でその顔を見上げた。
モニカの瞳に再び涙が盛り上がる。しかし彼女はそれを頬に流すことはせずに顔を歪めると、勢いよく手を振り上げた。
「クソ野郎!! 一生許さないわ!!」
パァンっと鋭い音が周囲に響き渡った。
ブライアンは耐えきれずにその場に倒れ込んだ。