8.オリビアの話①
「彼があたしのことを捨てるつもりなのよ!! 信じられる!?」
その金切り声が響いたのは静かな午後のことだった。
木の葉が静かにそよそよと揺れ、小鳥もぴちぴちとさえずっている。
しかし目の前のテーブルを勢いよく、ばんっ! と叩くその音に小鳥たちはみんな散り散りに飛び去りいなくなってしまった。
その光景を青い瞳で見送ってから、紅茶を静かに口に含み、ゆっくり飲み込むとシェリルは尋ねる。
「なんでそれをわたしに?」
目の前でいきり立っているのはオリビアだった。彼女は先日友人であるマリーの婚約者に言い寄ることに失敗し、そしてアンジェリカが浮気症な婚約者を押しつけるために利用した女性である。学園に通う彼女と家庭教師から学んでいるシェリルの間には直接的な関わりなどはない。
――間接的には、シェリルの友人達が彼女の『お世話』になったわけではあるが、とにかく直接的な面識はなかったのだ。
今日までは。
そんな彼女が突然アポイントもなしに尋ねてきたのはとんでもない珍事であった。とても室内で相手をする気にはならず、いつでも追い出せるようにと中庭のテラス席に案内をしたのは正解だったな、とシェリルは思う。
彼女は少し騒がしすぎる。
背後に立つメリアに「いつでも追い出せるように準備しておいて」とシェリルは目配せをした。忠実なメリアはその視線に静かにうなずく。
警戒する二人の様子に、しかしそんなことはお構いなしとばかりに彼女はきょとんとシェリルのことを見つめて言い切った。
「だってあなたが『恋の妖精』だって評判だから」
その呼び名にシェリルはめまいを覚えて額を押さえた。
『恋の妖精』。その呼び名が今のシェリルの目下の頭痛の種である。
一体どこからどうやって広がったのか。その単語は元々は神話に出てくる妖精の名前であり、その名の通り、男女の縁を結ぶ存在である。
わりとメジャーな存在でよく女性向けの商品の謳い文句としても使われていたりもするのだが、なぜか今、シェリルは影でそう囁かれているのだ。
いわく、シェリルに相談すると叶わぬ恋が成就するらしい、と。
(頭が痛い……)
おそらく相談にのった内の誰かがその噂を流したのだろう。あれだけ自分が関わったことは黙っていてくれと言ったのに酷い話である。
とはいえその『相談』の具体的な内容までは広まっていないのが幸いである。今のところ、表向きのニュアンスとしてはシェリル自身の技量がどうこうというよりは最近恋が成就したシェリルに相談するとその幸運にあやかれる程度の『幸運のお守り』扱いのようだ。
(まぁ、一部の方にはそうではないことも伝わっているようだけど……)
情報戦は貴婦人のたしなみだ。クレアやアンジェリカが察していたように、あらゆるルートから情報を仕入れてシェリルの行ったことに予測を立てているご令嬢やご婦人はいてもおかしくはない。
しかしそうは言っても予想以上に変な方向に広まってしまった認知度に戸惑っていることも事実だった。
憂鬱にため息をつくシェリルの前で、彼女はその美しいピンクブロンドの髪を振り乱し、大きな桃色の瞳を潤ませながら熱弁する。
「はじめはあんなに可愛い、好きだって言ってくれたのに! 今はすごくそっけないのよ!! 婚約が解消になったら一緒になってくれるって言ってたのに、いざ解消されたらそんな素振りもない!! それどころか彼、他の女性に言い寄ってるみたいなのよ!? あたしの他に何人か女がいる気配もあるし! もうっ! なんでなのよぅ!!」
(そりゃあ……)
シェリルはいきり立つ彼女の様子に呆れながら、手に持っていたティーカップをソーサーへと戻した。
「言い寄られて浮気するような男性は浮気相手と結ばれた後も他の女性と浮気する確率は高いでしょうね……」
一度味を占めれば繰り返すのは人の性質というものだろう。
「でもそういうモテる人が好きなの!! わかるでしょ!」
しかし続けて訴えられた言葉にシェリルはうなった。
まぁいわんとすることはわからないでもない。
モテない人よりモテる人に惹かれるのもまた、人の性質だろう。
「あの人、あれだけあたしのことを好きだ、婚約者とは別れるとか言ってたくせに、最近はあたしとは本気じゃなかったとか言い出してるの! 他の本命を見つけたから別れてくれって!!」
「……はぁ」
そのヴィンセントとはまるで違う人間性に呆れる。
というよりも、
「あなた、本当にそんな相手でいいの?」
「彼がいいの!!」
シェリルの至極真っ当な疑問に彼女はその桃色の瞳をつり上げてそう言い切った。
普段は柔らかな印象を与えるその瞳の色は、今はその切実な感情を映し出したかのように深い色味を増している。
「……あなたなら、他にもっと良いお相手がいそうだけど」
しかし続けて言ったシェリルの言葉にわずかに怯んだように揺らぐとうつむいた。
シェリルの言葉はただのお為ごかしではない。本心からそう思っている。
彼女は美しい。そして学園に通える程度には教養と知識のある人物である。
ただちょっと男癖が悪いのが最大の難点であるだけだ。
「あたし、初めてだったのよ……」
うつむいた彼女はぽつりとつぶやく。そしてすぐに顔を上げた。
「あたしって可愛いの!」
「はぁ……」
それには同意するが自分で言うのはいかがなものか、そう思ったがそれを語る彼女の瞳は真剣そのものだ。
「みんな可愛いって綺麗だって言うわ。お父様もお母様も褒めてくれたわ。そして続けて言うの。『きっと高位の貴族に嫁ぐことができるだろう』」
「…………」
「あたしがどんなに勉学で優秀な成績を収めても、剣術で強くなっても、言う言葉はみんな一緒。『あなたは綺麗だからいいわね。高位の貴族に見初められるのもすぐなんじゃないかしら?』」
強い光を宿す桃色の瞳がわずかにだが湿っぽくゆがんだ。
「あたしは騎士になりたいのに」
「……そう」
シェリルは静かにうなずいた。それは確かに困難な道のりだったことだろう。
彼女の学園での成績が優秀なのは知っている。学園に通う友人達から聞いたことがあるからだ。だからみんなある程度の彼女の『素行の悪さ』はお目こぼししているのだ。
今までとんでもないトラブルに発展するようなことは起こしていない、というのもお目こぼしの理由ではある。
現在、この国に本当の意味での女性騎士は存在しない。
過去に名誉騎士として名目上の女性騎士は存在したことがある。しかし彼女たちは武芸に秀でているというよりは民衆の先頭に立つための旗印であったり、元は平民だった者が優れた功績から騎士の位を与えられたなどの理由であり、実際に騎士として活躍することはほとんどなかったと言ってもいい。
おそらく、オリビアが目指したいのはそんなものではないのだろう。
実際に他の男性騎士達と共に戦場を駆ける。そんな女性騎士になりたいのだ。
「彼は『素敵な夢だね』と言ってくれたわ」
オリビアは静かに告げる。
「周りの言葉に振り回されて、自暴自棄になって期待通りのあばずれにでもなってやろうって、男に言い寄ってたあたしにはとても嬉しい言葉だった。彼はあたしの容姿じゃなくて成績を褒めてくれた。剣術の授業の時に手合わせをして、『君は強い。才能がある』と認めてくれた。あたしの手にある剣だこを見て、『とても努力家だ』と言ってくれた!」
徐々にその瞳から涙が盛り上がり、彼女は目を閉じることもシェリルからそらすこともせずにぼろぼろと涙を流した。
「単純でしょう? でもその言葉がずっと欲しかったの……」
彼女は目をそらさない。シェリルもまた、目をそらさなかった。
「そう……」
伯爵家の令嬢の元婚約者だったのだから当然、その彼の爵位もオリビアよりは高い。しかし三男のため家を継ぐことはできない彼になぜそんなにも執着するのかと思ってはいたが、
(まさか純粋な恋情だったとは……)
シェリルはほぅ、と静かに息を吐くと、
「じゃあ、知恵を授けてあげる」
そう告げた。
「え?」
「何を驚いているの? それを聞きに来たのでしょう?」
目を瞬かせる彼女にシェリルは首をかしげる。お下げに編んだ髪がそれに合わせて揺れた。
青い瞳が深みを増して彼女のことを射貫く。
「人から奪ってでも欲しいんでしょう? なら最後まで奪いなさいよ」
その言葉にオリビアはその目を見開き、そしてすぐに満面の笑みを浮かべるとうなずいた。その頬にはまだ涙の跡が残っているが、もう涙は流れていない。
「そうよね! ぜひそうするわ!!」
「……頼もしいこと」
そしてたくましい。しかし彼女のような女性のことがシェリルは嫌いではなかった。
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