6.アンジェリカの話
「ねぇきいてくださらない? わたくし一目惚れをしましたの」
そう恍惚とつぶやかれたアンジェリカの言葉は、幼馴染のカインのことを震撼させた。
時刻は午後三時、二人がアンジェリカの屋敷の庭園でティータイムを楽しんでいる時の出来事だった。
豊かな銀髪をシンプルに結い上げ、まるで晴れた日の空のような美しい碧眼をうっとりと細める少女と、その向かいに座るブラウンの髪を撫で付け緑色の瞳を見開いたまま動かない少年。
アンジェリカとカインは今年十五歳になる幼馴染である。アンジェリカは伯爵家の令嬢、そしてカインも同じく伯爵家の次男だ。
家格的には釣り合っている。しかし残念ながら二人はただの幼馴染で婚約者ではなかった。
――今はまだ。
一人娘のアンジェリカには幼い頃から婚約者がいた。しかしつい先月、その入り婿となる予定だった男の不貞が露呈して御破算になったのだ。
(最初から気に入らない男だった)
カインは忌々しく思い出す。
長い黒髪をして伊達男を気取った少し年上の男。アンジェリカの父親の友人だかなんだかの紹介であっさりと婚約が決まり、当時幼かったカインには口を挟むことが出来なかった。
それから虎視眈々とカインはその男の失態を探し続け、これはもう結婚の日取りが決まってしまう前にハニートラップでも仕掛けるかと思った矢先に当の男が自ら浮気をしてくれたのだ。
喜び勇んでその証拠を押さえ、それをアンジェリカの父にそれとなく知らせたのは実はカインである。
そうしてやっと、やっと! アンジェリカがフリーになり後はプロポーズをして両家の了承を得るだけだったというのに。
(一目惚れだと……?)
一体どこの? 誰に?
カインは思考を巡らせる。
アンジェリカの周囲にそれらしき男の影などないはずだ。なぜならカインがずっと目を光らせて排除してきたのだから。
それにアンジェリカは元々そんなにモテる方ではない。容姿はとても美しく性格もおっとりとしていて穏やかだが……、刺繍の腕がいまいちなのだ。
(今だって……)
幼馴染のカインの目の前でアンジェリカは取り繕う様子もなく刺繍をしていた。しかし一つ刺しては首を傾げてそれを直し、しばらく刺していたかと思えば一度途中までほどいて再び刺し直すような不器用ぶりである。
(可愛いなぁ……)
その様子をカインはでれでれと蕩けた顔で見守った。しかしすぐにはっ、と我に返って首を横に振る。
つまりそのカインの監視の目をすり抜けて、彼女の不器用さなど気にもせず接触をはかった不届者がいるのだ。
ぎりぎりと歯を食いしばりたいのをなんとか堪える。そんなカインのことなど知らない様子でアンジェリカは再びほぅ、とため息をついた。
「とても艶やかで長い黒色が風になびく様がとても素敵で……」
黒髪! 長髪! よりにもよって元婚約者と同じ特徴の男である。
カインは学園に通う生徒の中からその特徴に当てはまる数名をピックアップする。
「ブラウンの瞳がとても素朴で……」
ブラウンの瞳。元婚約者ではない。カインの脳内で候補者が十三名ほどに絞られた。
「楽しそうに笑う顔がとても可愛らしくてね。わたくしもう、大好きになってしまって……」
『可愛い』という表現からして年下か同い年の可能性が高い。
否定はしきれないが暫定的に年上は排除する。
候補はあと八名。うち同学年は三名だ。
(一体どいつだ?)
カインは目をギラギラと血走らせる。もう少しヒントはないかと彼女に「ねぇ、アンジェ」と問いかけたと同時に、
「あ、来たわ」
と彼女がつぶやいた。
「え?」
「さっき話してた子よ。あなたにも紹介してあげるわね」
「…………えっ!?」
カインは顔を盛大に引き攣らせた。
暖かな日差しの中無邪気に微笑む彼女は最高に可愛い。可愛い、が、
(ぜっっっったいに嫌だ!)
一体何が楽しくて片想いの相手の意中の人など紹介されたいというのか。
とはいえ探す手間が省けるのはありがたい。
(こいつも排除すればいいんだ!)
そうなんとか思考を切り替えるとカインはやっとのことで笑みを口元へと貼り付けた。
「お嬢様」
「ありがとう、エリザ。連れてきてくれて」
そして侍女と共に現れたその姿を見て、目が点になった。
艶やかで長い黒色の毛並み、きょとんとしたブラウンの瞳、そして柔和に緩んだ口元。
「わうわふ!!」
「ね、可愛いでしょう?」
――の、犬がいた。
大型犬だ。彼女は椅子から立つとその犬のそばへと駆け寄った。犬は嬉しそうに彼女に抱きつく。
「きゃっ! うふふ、もうっ、シーザーったら!」
(う、羨ましい! じゃなくて!!)
その和やかな光景に呆然とする。
犬。
犬だった。
思い返してみると彼女は確かに一目惚れの相手が人間だなどとは一度も口にしてはいない。
つまり新たな恋敵の出現はすべてカインの勘違いだったということだ。
(なんだ……)
ではまだ彼女はフリーなのだ。それならば焦る必要はない、と一度肩を撫で下ろし、しかしすぐにカインは顔をしかめた。
(いや……)
今回は勘違いだったからいい。しかし勘違いで終わらなかった可能性もあるのだ。
カインがうかうかしている間に、彼女が誰かに一目惚れしたり、逆に口説かれる可能性はいくらでもある。そして婚約者のいない彼女にそれを阻む壁はないのだ。
彼女はもう自由なのだから。
そこまで考えて、カインは力強く拳を握った。
そしてテーブルの上の紅茶を一息に飲み干すと自らも椅子から立ち上がり、犬と戯れる彼女に近づく。
「ねぇ、カイン。あなたもシーザーと遊んであげてちょうだい。可愛いでしょう? ……カイン?」
しかし彼女のその無邪気なお願いは無視した。真剣な瞳で、彼女の目の前へと跪く。
そしてカインの意図が分からずきょとんとする彼女に微笑みかけた。
「アンジェ、いや、アンジェリカ」
「……なぁに? カイン」
改まった呼び方に彼女は不思議そうにしつつも穏やかに応じる。その手の甲を取るとそこへと軽くカインは口づけを落とした。
「…………!」
「どうか俺と結婚してください」
本当はもっと入念に準備をする予定だった。花束の一つでも用意して、どこか観劇にでも出掛けてその帰りにでもさりげなく伝えるつもりだったのだ。
しかし今はその時間すらも惜しい。彼女がまた自分の手の届かないところに行ってしまうかも知れないと思うと耐えがたかった。
カインの言葉に彼女はその青い瞳を驚きに見開き、そして静かに微笑んだ。
「はい!」
そして満開の花が咲くような笑顔で頷く。
「嬉しいわ、カイン。わたくし、本当はずっとあなたのことが好きだったの」
その言葉に目を見開くのは今度はカインの方だった。そしてカインも穏やかに微笑む。
「俺もだよ」
そして二人は見つめ合うとどちらともなく抱き合った。
その周りを祝福するかのように犬のシーザーはぐるぐると駆け回った。
続きの「アンジェリカの話 裏話」は本日10/2の19:10頃に投稿予定です。
よろしくお願いいたします。