16.シェリルの話⑤
その時、くすくす、と笑い声が響いた。決して大きくはないが確かな存在感を持ったその楽しげな笑い声は徐々にその範囲を拡大し、批難めいた囁きをやがてかき消した。
「な、何がおかしいのよ!」
それに不穏なものを感じたのだろう。アイリスがそう叫ぶ。その声に密やかな笑い声をあげていた女性達は顔を見合わせると、そのうちの一人がゆっくりとシェリルの前へと進み出た。
「失礼いたしましたわ。また随分と面白い『嘘』をおっしゃられると思いまして」
そう言ったのはアンジェリカだった。彼女は美しい薄紫のドレスを揺らしながら、同じ色の扇で口元を隠して再び近くにいた令嬢達と視線を合わせるととても愉快そうにくすくすと笑った。
「う、嘘なんて……っ」
「あら、嘘じゃなくて一体なんだというの? だってわたくしたちはそんな話見たことも聞いたこともありませんわ」
「ねぇ」と彼女が問いかけるとそれに呼応するように令嬢たちが頷いた。
「シェリルさんが『悪質な噂を流す』だなんて……、ありえませんわ。むしろわたしに酷いデマが流れた時、一番に慰めてくれましたのよ」
そう反論したのはマリーだった。彼女が眉を顰めるのに合わせてシックな緑色のドレスが揺れる。
「『芝居をうつ』だなんて……。それに『ざまぁみなさい』? でしたっけ? シェリルさんはそんなこと言う性格じゃないわ! 少々被害妄想が過ぎるんじゃない?」
そう反撃したのはオリビアだった。黒と赤色の挑発的なドレスに相応しく派手な扇で彼女はアイリスのことを指し示す。
「そもそも、嘘をついていたのはそちらでしょ? シェリルの作った刺繍を横取りして……。そのドレスだって以前着ていたのを見た覚えがあるわ! ご自分じゃあ碌なものが作れなくて未だにシェリルから横取りしたくて堪らないのね! お可哀想に!!」
それに同意するように周囲にいた若い令嬢たちからはさざめきが起こった。
「哀れねぇ」「シェリルさんがそんなことをするはずがないのに」とみんな扇の内側で囁きながらアイリスのことをおかしなものでも見るように忍び笑いをもらす。
「ここにいる皆さんは誰一人そんな話ご存知ないそうよ?」
アンジェリカがそう静かに告げた。そして困ったように首を傾げてみせる。
「おかしいわねぇ、あなたのお話が本当なら、誰か一人は知っていそうなものだけれど……」
彼女のその呟きに令嬢たちはみんな困った顔をして顔を見合わせ、首を横に振った。
その様子にホールの空気は一転していた。最初はアイリスの告発に緊張していた空気が徐々に弛緩し、またアイリスのでっち上げか、と眉を顰めて非難する人々の視線が集まる。
「ち、ちが……っ! 嘘じゃないもの! 本当にわたしは……っ!!」
自分の発言が欠片も信用されないことに焦って喚くアイリスに、ますます周りの温度は下がっていった。
シェリルはそのホールの空気を見て、ショックを受けたように目を伏せると扇で口元を隠して見せる。
その口元は笑みの形に歪んでいた。
――そう、この作戦は少しタイミングが遅かった。
おそらくシェリルが周囲との交流を深める前に仕掛けられれば彼女は絶体絶命のピンチに追い詰められていたことだろう。
しかし今は違う。
先ほどシェリルのことを庇った女性たちはみんな『恋の妖精』に相談に来た者たちだ。
つまり、みんなシェリルの『共犯者』である。
ここで『シェリルが裏で悪どいことをしていた』という告発を受け入れれば、芋づる式に自分たちの『秘め事』もバレかねない。
そしてそもそもアイリスに味方するメリットは彼女たちになにもないのだ。
彼女たちがシェリルを売ることはありえない。
「お義姉様」
シェリルはいかにも殊勝な態度で悲しげに目を伏せて見せた。
「そのような誤解……、とても悲しいです。ですが信じてくれませんか? わたしはそのようなことはしていません」
「……っ!!」
追い詰められたアイリスは周囲を見渡した。おそらく義弟のウィリアムを探したのだろう。
シェリルもちらりと視線だけでその目の行先を追う。
姉二人の視線の先で、遠巻きに事態を伺っていた彼は、その視線に気づくと悪びれもせず軽く肩をすくめてみせた。
『今日は完敗』
その口元が口パクだけでそう告げる。
(あの愉快犯……)
顔面を蒼白に染めるアイリスの横で、シェリルはむぅ、と眉を寄せた。
義弟ウィリアムは『愉快犯』と呼ぶに相応しい少年だ。面白半分にアイリスのことをけしかけてシェリルのことを虐げるのに参加していたが、それはただの『遊び』であってそこに大した感情はないように見えた。
今だってそうだ。『完敗』と言いつつ悔しがる素振りもない。
きっと彼にとってはアイリスとシェリル、どちらが勝とうが負けようがどうでもよく、ただの暇つぶしの鑑賞に耐えうればそれで良かったのだろう。
(前々からおかしな奴だとは思っていたけど……)
その態度に没落すらも彼は歯牙にもかけていないことがわかる。
(……読めないわ)
呆れるシェリルの目の前で、彼はひらりと手を振るとその場を立ち去ってしまった。
「……っ!? ウィル!! 待ってよ……っ!!」
あっさりと見捨てられたことにアイリスが慌てて声を上げて立ち上がる。そのまま彼の背中を追いかけようとして、
「どこへ行く? アイリス・トリスタン」
その静かな声に遮られてそれは叶わなかった。
王宮の護衛騎士たちがその前後左右へと立ち塞がり、人々の間を割るようにして彼は現れた。
ルーファスである。
今回の主催、第一王子である彼は常の柔和な笑みは消し去って、今は険しい眉間の皺をその顔に浮かべていた。
「ル、ルーファス……」
「もう君に僕の名前を呼ぶ資格はないよ」
美しい銀の瞳を伏せて、彼はそう嘆息する。
「前回だけに飽きたらず、僕の生誕祭まで台無しにしに来てくれるとはね。……君から嫌がらせをされるようなことを僕はしたかな?」
「そ、そんな……、ちが……っ!!」
「一体何が違うのかな?」
慌てて弁明しようとするアイリスに、彼は厳しい視線を向けた。その鋭さにアイリスはびくりと身を震わせる。
その様子を見てルーファスはふっ、と静かに息を吐いた。
「まぁいい。今回の件も合わせてトリスタン子爵には責任をとってもらおう」
「……え? いやっ! 離してっ!!」
彼が手で合図を送ると同時に護衛騎士達が動いた。彼らはアイリスの身柄を素早く拘束する。なんとか振りほどこうともがいているようだが、その身体を抑える手は微動だにしなかった。
「もちろん、君にもね」
「え……?」
「子爵が引き取りに来るまで、少し留置所で頭を冷やすといい」
その言葉にアイリスの顔からサーっと血の気が引いた。
それはそうだろう。『留置所』とはいえ身柄を拘束されるのだ。それは犯罪者に対する扱いであり、アイリスに前科がつくことを意味する。
「いやっ! やめて!! どうしてわたしが……っ!!」
「君の行動を鑑みれば十分に妥当な判断だよ。不法侵入に僕の招待客への誹謗中傷、それによる舞踏会の中断、……むしろ処分が甘すぎるくらいだ」
ルーファスはゆっくりとアイリスへと近づくとその瞳を覗きこんだ。そして微笑む。
「まぁ、君に騙されてしまった僕にも落ち度があるからね。戒めの意味も込めて多少の情状酌量だよ。しかしこれ以上問題行動を繰り返すのならば次は容赦しない」
銀色の瞳が冷たく光る。その凍えるような温度の低さにアイリスは言葉を詰まらせた。
「言っている意味はわかるね?」
「…………っ!」
否定も肯定もできずに唇を震わせる彼女に、ルーファスは意図が伝わったと判断したのか「連れて行け」と短く指示を出した。
もはや抵抗する気力もないのか、アイリスはそのままずるずると引きずられるようにしてホールから退出して行った。
「さぁ、お騒がせしたね、皆さん! 妙な乱入はあったけれど、おかげでシェリル嬢の素晴らしさを再認識できたようだ。少々品のないものだったが、どうか今宵の余興の一部として先ほどの件は流してくれ」
ルーファスは周囲を振り仰ぐとそう言葉をかけた。そして楽団へと目配せを送る。
その視線に意図を察した指揮者が慌ててタクトを振るった。先ほどまで騒動で中断されていた音楽が再開される。
「シェリル嬢、僕と一曲踊ってくれるかな?」
そしてルーファスはシェリルの前へと跪いてそう言った。
どうやら彼はこれを『余興』として完成させるためにシェリルを利用するつもりらしい。
確かにあれだけ場を濁されては多少の口直しが必要だろう。
アイリスと元婚約者であった彼が直接アイリスのことを批判し、そして虐げられていた立場であるシェリルを尊重する行為を行うことは「もうアイリスとは手を切っている」というデモンストレーションとしては最適だ。
特に他の貴族令嬢からの支持を受けているシェリルと懇意だとアピールできれば、それはルーファスにとってプラスの印象を周囲に与えることになるだろう。
もちろん、ルーファス派閥であるオーウェン家に嫁ぐ予定のシェリルとしても、この行為に否やはない。
「喜んで」
シェリルは微笑むとそっとその手を取った。