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14.シェリルの話③

 楽団の演奏がホールには響いていた。美しい水色のリボンがまるで本物の蝶の羽のようにひらりひらりと宙を舞う。その足元はまるで重力などないかのように軽やかだ。

 そんな彼女の正面に立つ男性もまた優雅だった。軽いステップで軽々と彼女の腰を支えるとくるりとターンを決めて見せる。

 その二人のダンスに周囲は羨望のため息をもらした。

「まぁ!」

「やっぱり素敵ねぇ。今日は『水の蝶』がテーマなのね」

「わたしあのお話好きよ。叶わぬ恋に身をやつした蝶が最後に湖に飛び込むと『恋の妖精』が蝶の体を水に変えてくれるのよね。そのおかげで蝶は愛した『湖面に映る月』と永遠に一緒に居られるようになるのよ」

「でもあれって確か悲恋でしょう? シェリル様には相応しくないのではなくって?」

「そんなことはないわ、だってとてもロマンチックな話ですもの。ロマンチックな恋愛の末に結ばれたお二人にはぴったりよ!」

 あらそうね、うふふ、とさざめく噂話を耳に挟みながらシェリルは素知らぬ顔で踊る。

 周囲には他にも踊っているカップルが何組もいるため、それらの声はすぐに聞こえなくなった。

(いいえ、あの話は『悲恋』などではないわ)

 しかしその話がシェリルの耳にはこびりつく。

(そしてわたしにはとても相応しい)

 目の前で自分の手と腰を支える人を見つめる。

 艶やかな黒髪に静かな紫の瞳。その精悍で整った顔立ちは化粧などしていないにも関わらずため息を吐きそうなほど美しい。

 黒い燕尾服は彼のよく鍛えられた肉体をびしりと引き締め、そのスタイルの良さを引き立てていた。

(なんて格好いいの……)

 彼のことを見るたびにシェリルは夢を見るような心地になる。ずっと憧れていた。初めて会った時からずっと。その彼のがっしりとした無骨だけれど温かな手に触れられているだなんて、多幸感で頭がぼうっとする。

 彼はシェリルにとって『湖面の月』だ。とても美しく触れられそうな距離にあるのに手に入れることは決してできない。

「シェリル」

「はい、ヴィンセント様」

 彼の静かな声がシェリルの名前を呼ぶ。それだけで得がたい奇跡である。

 彼はわずかな微笑みをその口元へと浮かべる。

「楽しんでいるかい? もしかしたら母は色々と君に言ったかもしれないが、気負わなくてもいいんだよ」

「……ええ、とても楽しんでいます。気負ってなどいません」

 にこり、と彼女はそれに笑顔を返した。

「ヴィンセント様がお側にいるんですもの。心から安心しています」

「そうか」

 その言葉に彼は安心したようだった。二人はにこにこと微笑みながらダンスを続ける。

(ヴィンセント様は『湖面の月』だ)

 しかしその微笑みの裏でシェリルは思う。

 そばにいるためには、自らを水へと変え、湖と同化するしかない。

 ヴィンセントはシェリルの全てを知っている訳ではない。シェリルが義姉への復讐のために意図的にヴィンセントを巻き込んだことも、他のご令嬢にこっそり入れ知恵したことも、彼の母であるクレアと色々と密談していることも。

 しかしそれはシェリルがわざとそうしていることであって、知って欲しいとは思わない。

 彼は知らなくていい。

 シェリルの正体が本当は『美しい湖』ではなくただの羽虫であることなど。

 知られれば最後、彼はシェリルの手の届かない場所に行ってしまうだろう。

 彼がシェリルに向ける感情はおそらく純粋な恋情ではないのだろう。自分が保護しなくてはという庇護欲がきっと多分に含まれている。

 それでもいいと手を取ったのはシェリルだ。恋情などなくても彼となら幸せな家庭を築ける自信がシェリルにはあった。誠実な彼は浮気などはできない。彼が他の誰のものにもならないのなら、シェリルはきっとどこまでも献身的に彼を支え、愛し続けることができる。

 その愛がたとえ一方通行だとしても。そばにいてくれるのならばそれで良かったのだ。

 だから『水の蝶』の話は悲恋などではない。だって蝶は結局自らの身を犠牲に湖面の月に触れるという願いを成し遂げたのだから。

(これは悲願成就のハッピーエンドだわ)

 音楽が終わり、休憩へと入った。シェリルとヴィンセントも歓談の場へとゆっくりと移動する。

「シェリルさん」

 かけられた声に振り向くと、そこには、

「アンジェリカさん」

 銀色の髪に澄んだ青い瞳をした伯爵令嬢、アンジェリカが立っていた。

 彼女は美しいが派手になり過ぎずシックなデザインのドレスを身に纏っていた。その薄紫色の落ち着いた色合いが彼女の穏やかだがどこかミステリアスな魅力を引き立てている。

 その隣で彼女をエスコートしている男性が、噂の犬をけしかけてプロポーズさせた『意中の方』なのだろう。

「今回の会にはシェリルさんもきっといらっしゃると思ってましたわ」

 彼女はにこにことシェリルとヴィンセントに近づくとヴィンセントへと優雅にカーテシーをしてみせた。

「わたくし、アンジェリカ・クロイスと申します」

「……あなたが。俺はヴィンセント・オーウェンと申します」

「シェリルさんとは大変仲良くさせていただいてますの」

 アンジェリカと面識のなかったヴィンセントは驚いたようにシェリルのことを見た。それにシェリルは曖昧な笑みを浮かべる。

「アンジェリカさんは大変お優しい方で……、よくお茶に誘っていただくんです」

「ねぇお二人とも、良ければあちらで話しませんこと? 実は今回わたくしのお祖父様も参加してるんですの」

 にこにことアンジェリカはこともなげに言う。それにヴィンセントはますます目を丸くした。

 彼女の祖父といえば有力な辺境伯である。彼と繋がりを持ちたい人間も多いのだ。

 しかしさすがは育ちの良いヴィンセントである。彼は決してがっつくことなく遠慮がちに「ご迷惑でなければ、ぜひ」と穏やかに応じた。

 その反応にアンジェリカは嬉しそうに目を細める。

「わたくしから誘っているのですもの。迷惑なんてありませんわ。さぁ、どうぞこちらへ」

 アンジェリカに促されて一行は歩き出す。しかしすぐに目的地には着かなかった。

「あら、シェリルさん、ごきげんよう」

 そう声をかけてきたのはマリーだ。彼女は緑色の落ち着いたシックなドレスを身に纏って微笑んだ。その隣には婚約者のジェイクの姿もあり、彼も穏やかに会釈をしてくれる。

「シェリルじゃない! あなたも参加してたのね!!」

 そう言って近づいて来たのはオリビアだ。彼女は派手な桃色と黒の色合いの美しいドレスを見事に着こなしていた。

 胸元が大きく開かれていてそこに宝石をふんだんに散りばめたデザインはともすれば下品にもなりかねないが、明るい表情を浮かべた彼女が着ると色気がありつつも不思議と不快な印象は抱かなかった。

 その隣にはアンジェリカの元婚約者と思しき男性が気まずそうに立っている。彼はちらちらとアンジェリカの方を気にしていたが、当のアンジェリカはというと気づいていないはずもないだろうに全く視線を向けずに涼しい顔をしている。

 図らずも、シェリルが一歩前に進む度に『恋の妖精』として相談にのった人物たちに次々と声をかけられる羽目になってしまった。

「シェリルさんは人気者ねぇ」

「……お手間をとらせてしまって申し訳ありません」

 気にした様子もなくアンジェリカはにこにことそう言ったが、シェリルは気まずくてしょうがない。

 まぁ、狙い通りではあるのだ。

 ヴィンセントのため、ひいてはオーウェン家のための人脈を築くことがシェリルの役割だ。少なくとも話題性だけではない関係性をここ数ヶ月でシェリルは築き上げていた。

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