その身に星を抱くあなたへ
まるでよく晴れた冬の夜、澄んだ空気の中で輝く星空のよう。
授業中にじっと何かを考えている横顔を、体育の時間にバスケでシュートを決めたその時の目を、わたしの隣で何気なく笑うその目じりを。
彼女のそんな瞬間を見るたびに、わたしはそんなことを考える。
そして今もそんなことを考えながら、わたしは隣に座る彼女をじっと見る。
11月のはじめにもなると、わたしたちの住む札幌はもうだいぶ寒い。お弁当を食べた後いつもなら教室で過ごすところを、「中庭いこ」と手を引いたのは彼女の方だった。
いくら昼間だと言っても、日当たりの悪い中庭でベンチに座って過ごすのは寒がりの彼女にとっては堪えるだろうに、文句も言わずに集中しているのをわたしはぼんやりと見つめていた。
彼女の手には、いつの間にか取り出したスケッチブック。食後の眠くなる時間だというのに、彼女はびっくりするほど真剣な顔でそれに、鉛筆を走らせていた。
「何描いてるの」
「空。きれいでしょ」
そう言いながら、彼女は得意そうな顔でわたしに画用紙を見せてくる。
そこにあったのは、秋特有の抜けるような青空――ではなく、満天の星が輝く夜空だった。
「昼の空見ながら、夜空描くの?」
予想外のものを見せられて、わたしは思わず変な声を出してしまった。
そんなわたしの反応に、けれど彼女は「わかってないなぁ」とドヤ顔で笑ってみせる。
「星は、いつでもそこにあるんだよ。見えないだけで」
「……なんか、どこかで聞いたようなセリフだね」
「マジか」
オリジナルだよ、と唇を尖らせる彼女に、わたしは思わず少し笑った。
星はいつでもそこにある。使い古された言葉だけど、確かにそうだ。今だって、目を凝らせばうっすらと白い星が見えている。
だけど彼女には、目を凝らさなくったっていつでも星が見えているのだろう。
だって彼女の目には、いつもたくさんの星が瞬いている。その名前の通り、恒河沙の星々が。
有本恒河。
恒河沙のように満天の星が輝く夜に生まれたから、という実に美しい名づけの由来を持つ、わたしの親友。
寒空の下だというのに熱心に絵を描き続ける恒河に、わたしはそっと息を吐く。
恒河の突飛な行動はいつものことだから、普段ならきっとなんということもなく「きれいだね」と適当な感想を言っただろう。
彼女が昨日、突然「進路決めた。美大に行く」なんて言い出さなければ。
わたしの名前は、結城詩歩という。詩と歩むと書いて、「しほ」だ。
恒河の名前も素敵だが、わたしもわたしの名前が嫌いじゃなかった。文学青年と文学少女だったという本好きの両親が、美しいものと人生を歩んでほしいと願ってつけてくれた名前だ。画数もほど良くて、書道の時に筆で書いてもごちゃつかないのが気に入っていた。
だけど今は、あんまり好きじゃない。好きじゃないというより、少し苦しくなる、という方が正しいかもしれない。
そのきっかけとなった出来事は、あまり嬉しくないことに恒河と初めてまともに話した記憶と紐づいている。恒河はちっとも悪くないのに、人生ってそういうところがある。
恒河がわたしに話しかけてきたのは、中学二年の一学期末。
「今週は詩を書きます。良い作品は今年も『にれ』に送るから、頑張ってください」
国語の先生が授業の中でそういった時、わたしはシャープペンを握る手に力を込めた。
「にれ」とは、札幌市が発行している冊子だ。市内の中学生が作文とか、書写とか、小説とか、詩とか、そういう文芸作品を応募して、選ばれた人だけが載る本。
うちの中学では、毎年国語の時間に作った作品を先生がいくつか「にれ」に送っていた。
わたしの作品が「にれ」に載ったのは、中一の冬。掲載されたのは、お母さんについて書いた詩だった。
もともと、文章を書くのは好きだった。小学校の頃に書いた川柳がお茶のパッケージに載ったこともある。
だから、「にれ」に載ったことは素直に嬉しかった。背表紙が太くて、ちゃんと製本された立派な冊子。表紙にはきれいな楡の木が描いてあって、あの頃のわたしはそれもなんだかとてもいいものに感じたのだ。
そんな本に自分の書いたものが印刷されているのは、特別なことに思えた。
だからその時も、張り切って詩を書き始めたのを覚えている。
テーマは、お父さんにした。去年がお母さんだったから、今度はお父さんにしよう。そんな単純な思い付き。
思いつくままじゃなくて、教科書に載ってる詩とか、お母さんの持ってる詩集とかを参考にして書き上げた詩は、自分でも満足のいくものだった。
また「にれ」に載ったらお父さんとお母さん、褒めてくれるかな。のんきに、そんなことを考えていたような気がする。揃って本が大好きな両親は、わたしが何かを書くことをとても喜んでくれていたから。
提出後しばらくして、みんなの作品は先生が印刷して配布した。プリントに載った他の人の詩を読むのも楽しくて、わたしはとても充実した気持ちでいた。
だけど。
「お父さん、お父さん~、だいじなだいじな~」
プリントが配られて、5分ぐらい経った頃だろうか。教室の後ろの方から響いたのは男子の声。面白がるようなそれを聴いた瞬間、わたしは振り向くことも出来ずに凍り付いた。
だって、それは、わたしが書いた詩だったから。
変な節をつけて朗読されたそれは、明らかにわたしを、わたしの作品をバカにする声をしていた。
読み上げる彼がどんな顔をしているか、見なくてもわかる。あざ笑う、と言う言葉のお手本みたいな調子で、わたしがわたしの中からすくい上げた言葉は、ぐちゃぐちゃに踏みにじられていた。
げらげらと、笑う音が聞こえる。先生が「静かにしなさい」なんて言う声が、遠い。
わたしはぶるぶると震える指で、配られたプリントを握り締めないようにするので精いっぱいだった。
そのあとの授業をどうやって過ごしたのか、覚えていない。
ただ、気づいたらわたしは放課後の教室で、一人机に突っ伏していた。
ぐるぐると、わたしの詩が、わたしの言葉が、おもちゃにされてる声だけが、頭の中をガンガン反響している。泣くことすらできず、わたしはじっと机の木目を見つめていた。
「結城さん」
それを止めたのは、綺麗な女の子の声。
のろのろと顔を上げれば、そこには声と同じく美しい顔をした女の子が立っていた。
「……有本、さん?」
口から出た声は、みっともなく掠れていた。ごほ、と空咳をしたわたしに、彼女は何故か少しだけ顔を歪ませる。
有本恒河。この前の席替えで隣の席になった彼女は、入学した時から何かと目立つ存在だった。
美人だし、スタイルもいいし、勉強も運動もできる。だけど特定の人と仲良くしていないから、ちょっと何考えてるかよくわかんない。それが、彼女の印象だった。
そんな有本恒河が、わたしに何の用だろうか。
まともに話したこともない彼女は、少しだけためらうような様子を見せた後、いきなりわたしの机に両手を置いた。
「気にしなくていいよ」
投げられた言葉は、ずいぶん唐突だった。
彼女の発言の意味がわからないわたしは、多分変な顔をしていたのだろう。有本さんは「急にごめん」と言った後、大きな目でわたしを見る。
「あいつ、結城さんのことが好きだから。結城さんの気を引こうとして、あんなばかなことをしたんだよ」
「は……」
そこまで言われて、彼女の言う「あんなばかなこと」が国語の授業中のことだとわかった。
瞬間、ほっぺたがカッと熱くなったのを自覚する。
それは怒りで、悲しみで、何より羞恥だった。
ばれていた。たかが国語の授業で書いた詩をバカにされた、それだけでこんなにも落ち込んでいることが、ばれていた。そしてこんな風に、特別仲が良いわけでもない彼女にフォローまでされた。
自分がみじめで、悔しくて、どうしようもなかった。目の前のキラキラした彼女まで、憎らしくてたまらないほどに。
ふつふつと、怒りに似た何かが胸の中から湧き上がる。わたしの言葉を待っている様子の彼女がどうしようもなくうっとうしくて、「だからなに」と、唇から漏れた声は我ながら冷たいものだった。
「だから許してやれって? 好きだからやったことだから、あいつは悪くないって?」
「や、違うよ」
吐き捨てるようなわたしの言葉に、彼女は少し焦ったようだった。
そして言葉を探すように視線をさまよわせた後、「違う」ともう一度つぶやく。
「ごめん、くだらないこと言ったね。だからあいつを許してやれっていうつもりじゃないよ」
「じゃあ、なに」
「作品が悪くてあんなことされたんじゃ、ないって……あいつにばかにされるような詩じゃないって、言いたかったんだ」
有本恒河は、とても慎重に言葉を選んでいるように見えた。
それは、クラスで過ごしているときには見られなかった彼女の姿。どちらかと言うといつも奔放でひょうひょうと過ごしているように見えた彼女のそんな様子は、わたしに満ちた毒気を抜いてしまうほどに「いたいけ」だった。
そして意を決したようにわたしに目を向けた彼女は、もう一度机に両手をつくと「私は」と妙に強い声で言う。
「きれいだと思う、結城さんの詩。書いているときの結城さんも」
「え」
「だから、やめないでほしい。これからも、詩、書いてほしい」
結城さんの去年の詩も、好きだったんだ、と。
まるで愛の告白をするように、いや、告白なんてしたこともされたこともないから想像に過ぎないのだけど、とにかく、なんだかとても特別なことを口にする時のように、有本恒河はそう言った。
なんだか、すごいことを言われた気がした。
その言葉の重みに、わたしを見る彼女のきらめく瞳に、どうしていいかわからなくなったわたしは「……有本さんって、変な人だね」と今思うとケンカを売ってるとしか思えないような言葉を返したのだった。
そこでわたしが彼女の言葉で立ち直って、詩を書くことを人生の目的にでもしたならば、それは美しい物語だったかもしれない。
だけど現実はそう簡単ではなくて、暗い気持ちのまま翌日わたしは先生に詩の差し替えをお願いした。無難な、わたしの中にある言葉じゃない、バカにされたって傷つかないような、そんな単語を並べたものを提出した。当たり前だけど、その年の「にれ」には載らなかった。
それ以来、わたしは何かを書くのをやめた。正確に言うと、書けなくなった。
あの時わたしの詩をバカにした男子の顔も名前も、もう覚えていない。だけど、嘲笑混じりに読み上げるその声だけは今も耳から離れない。人が一番最初に忘れるのは声だ、なんて言葉があるのに、三年以上経った今でも鮮明に思い出せる。
あれから妙にわたしに絡むようになった恒河は折に触れて書け書けと言うけれど、そのたびにあの声が頭蓋骨に反響する。
だからわたしはきっと、もう一生何かを書くことはないだろう。むき出しの自分を、他人の目にさらすようなことは、二度と。
中学時代の恒河がかけてくれた言葉を思い出しながら、わたしはスケッチブックに向かう恒河を横目で見つめる。
美大に行く、とか恒河が言い出したのは昨日のことだけど、その姿は堂に入っているように見えた。
知らなかったけど、これまでもずっと絵を描いたりしていたのだろうか。
そう考えるとなんだか口の中に苦いものが広がる気がして、わたしは口にしたジュースのストローをぎゅうと噛んだ。
「美大ってさ」
「うん」
「そんな、行くって言ってすぐに行けるもんなの?」
わたしの質問に、恒河は「知らんけど、やるだけだよ」とあっさりと答える。
恒河は、割といつもこうだ。どんなことでも「やらなきゃいけないなら、やるだけだよ」と言って本当にこなしてしまう。今回の「美大受験」だって、他の人が言い出したら「いや、高三の秋からは無理でしょ。浪人前提?」ってなるけど、恒河ならやってしまうかもと思うやつ。
でも、なんで突然美大なんだろう。
これまで、恒河は進路について「近所で行ける大学に行く」としか言わなかった。まだなりたいものがないから、つぶしがききそうなとこに行くーと、真面目な人がきいたら怒りそうな理由を並べて笑ってた。
恒河は高校を選ぶ時だって、「一番近いとこにする」と言ってわたしと同じところを選んだぐらい適当だった。市内で一番偏差値の高い高校だって余裕で受かっただろうに、「私服はめんどい」と言って先生の説得も聞かなかった。
それが、いきなり美大だ。なにがあったのか、気にならない方がおかしい。
「何で急に美大なの」
だから、素直に聞いてみる。
率直なわたしの質問に、恒河は迷う様子もなく「描きたいものがあるから」と答えた。
「描きたいものが、今の私の腕じゃ描けないから。だからプロに習いに行く」
「えぇ……」
淡々と、何でもないことのようにそう口にした恒河に、わたしは思わずため息のような声を漏らしてしまう。
美大って、そんな理由で行くところなんだろうか。
勝手なイメージだけど、美大ってもっと自分の世界を表現したい的な芸術家肌の人か、もしくはプロの画家になりたいとかそういう明確な目標があるような人が志望するところじゃないのか。
なのに、描きたいものがある、って。
それが何か知らないけれど、目的に対して手段がずいぶん遠回りな気がして、わたしは「なにそれ」と小さくこぼした。
「そんなの、趣味で絵画教室とか行けばいいんじゃないの……?」
「甘いね、詩歩。趣味の習い事で出来るようになるなら、とっくに描けるようになってる」
ごく常識的なわたしの指摘に、恒河は何故か得意げな顔で肩をすくめてみせる。なんだ、その出来損ないの芸人みたいなしぐさ。それでも顔の美しさでなんだか様になって見えるのだから、綺麗な顔は得だ。
恒河は鉛筆を前に突き出して片眼を閉じる、というなんだかよくわからないポーズをとると、楽しそうに「私の進路もようやく決まった」と弾んだ声で言う。
「詩歩は文学部でしょ。指定校とれたもんね」
「いや、経済学部だし」
「は!?」
そして笑顔のまま言われた言葉を、わたしは即座に否定した。
文学部、どこから出てきた。ついこの間指定校推薦の合格通知が来たのは本当だけど、わたしは文学部に行くなんて一度も言っていない。
恒河がむっとしたような顔でわたしをのぞき込んで来ようとするので、わたしはそれを無視して反対側へ視線を投げた。
「あのさぁ、才能があるのに生かさないのは罪だって、なんか昔の偉い人も言ってたらしいよ?」
「ないよ、才能なんて」
罪人め、なんて真面目くさった表情でバカなことをいう恒河に、わたしは短く言い捨てた。
「わ・た・し・が! 詩歩の書くものが好きだって言ってるのに」
「はいはい」
しつこく言い募る恒河に、思わず短い息を吐く。
わたしがそれ以上話を続ける気がないことに気づいたのだろう、恒河はまだ不満そうな顔をしていたけどそれ以上何も言わなかった。
恒河。わたしは、恒河が何故「わたしが書く」ことにこだわるのか、いまだによくわかってない。
だけどそれを聞く気になれなくて、わたしは恒河から目をそらして空を見上げた。
「東京の美大って、どこいくの」
「とりあえず、一番よさそうなところに行く」
「……難しいんじゃないの? いや、筆記は大丈夫だろうけど」
美大には詳しくないけど、日本では東京にあるものが大体一番良い。勝手なイメージだけど、東京の美大よりも地方の方がまだ入りやすそうだ。
そんなことを考えて渋い顔をしたわたしに、恒河は「絵画教室に行くから問題ない!」と笑った。
まったく気負いがないその顔に、わたしはなんだか気が抜けてしまって、ため息を吐きながら背中をベンチに預ける。
東京、東京か。雲一つない高い空を見上げながら、考える。
わたしたちの住む札幌からは、新千歳空港まで車で一時間半ぐらい。そこから飛行機で、また一時間半。羽田についたら都心まではモノレール。合計して、東京までは大体四時間ぐらいと言っていい。
恒河の家がわたしの家から自転車で十五分なことを考えると、ずいぶん遠い。わたしは札幌に残るから、恒河が受かったら会うのはきっと年に二度ぐらいになるんだろう。
それは、とても少なく感じられた。別に会いたくもない親戚のおじさんと、お正月にお盆、それ以外にも一回ぐらいで年に三回ぐらいは会うから、それ以下になるってことだ。
恒河は、決めたことは実行する。今年受からなかったとしても、浪人してでも美大には行くだろう。だから、それが来年になるか再来年になるかはわからないが、恒河が東京に行くのは決定事項だ。
恒河が、すぐに会えない距離に行く。
それはなんだか、星になるようだと思った。わたしの手が届かない、美しいもの。その名前の由来が示す通りに、恒河はわたしにとっての星になる。
そんなことを考えたら、少し恥ずかしくなった。こういうのを感傷的になってるっていうんだな、と思いながら隣を見れば、恒河の手元のスケッチブックはずいぶんと書きこみが進んでいた。
有本恒河という少女は、その細い体にきらめく星のようなものを詰め込んでいるとわたしは思う。
そして恒河の絵も、そんなきらめくものがあった。絵の良し悪しなんてわからないわたしでも、素直に綺麗だなと思うような、そんなきらめきが。
恒河はわたしに「才能がある」なんて言うけれど、本当の才能って、きっとこういうことだ。引力のように人を引き付けて離さない力。バカにして笑いものにしてやろうなんて、どうしたって思い浮かばない、圧倒的な「いいもの」を作れる力が、才能だ。
恒河は手元から目を離さないまま、不意に「ねぇ」と平たい声をあげる。
「指定校で、詩も書かないなら暇でしょ。受験対策付き合ってよ」
「……恒河に教えられることなんて、ないけど?」
「それはそうだけど、あるでしょ、なんか」
ずいぶんな言い草だった。なんかってなに、と呆れたわたしに、恒河はもう一度「なんか」と返してくる。
成績は言うまでもなく恒河が圧倒的で、絵だってわたしにはわからない。恒河を手伝えることなんて、一つも思い浮かばない。
そもそもさ、とわたしは手に持っていたジュースのパックをつぶしながら、熱心に描き続ける恒河を見た。
「恒河、人ごみ嫌いなのに東京大丈夫なの? 満員電車とか、やばそう」
「それだ!」
恒河が言い出した面倒から逃れるための、話題転換。そのつもりだった雑談に、なぜか恒河は弾かれたように顔を上げた。
きらきらと、目の中の星を輝かせながら顔を近づけてくる恒河に、わたしは思わずのけぞる。
この距離でも毛穴すら見えない恒河はともかく、わたしは普通に至近距離は無理だ。肩に手をかけて押しのけようとするわたしを気にせず、恒河はその大きい目を見開いて「さすが詩歩!」と嬉しそうな声をあげた。
「満員電車に乗る練習をしよう!」
そしてそんなことを言い出した恒河に、わたしが「……なんて?」と返したのは無理もないことだと思う。
***
満員電車に乗る練習。
そんなこれまでの恒河の行動の中でも意味の分からないランキング上位のそれは、三週間後に決行された。その間なんとかその謎イベントを回避しようとしていたわたしだったが、努力は無駄に終わった。
月曜日の朝、いつもより早起きして待ち合わせ場所である最寄りの地下鉄駅に着いた時、わたしはすでに疲れ切っていた。体じゃなくて、心が。
「最悪……もう帰りたい」
「根性が足りない。気合い入れていこう!」
妙に張り切っている恒河は、珍しくわたしより早く駅についていた。こんな時ばかり時間厳守する恒河を、わたしはじっとりと睨む。
札幌で満員の電車に乗ろうと思ったら、やっぱりさっぽろ駅まで行くやつでしょ、と恒河は言った。そして妙な熱心さを発揮して一番混む区間はここ、とか言いながら「早起きして麻生まで行って麻生からさっぽろ駅まで行こう。そんでそのままこっち戻ってきて、学校行く」というとんでもないプランをぶちあげてくれた。
麻生駅は、わたしたちの家からの最寄り駅――つまり学校の最寄り駅から、さっぽろ駅をはさんで反対側。朝っぱらからわざわざ反対側の終点まで行ってまた戻ってくるなんて、想像するだけで嫌になるような行為だ。お金も時間ももったいなさすぎる。
「これ、迷惑乗車じゃない? 目的地でもないところに行くとか……」
「改札出るからいいでしょ」
「そういう問題?」
今からでも中止にならないかとぶちぶち文句を言うわたしに、しかし恒河は全然ひるんでくれなかった。いや、恒河がやりたいことをわたしのために撤回することなどこれまでもなかったし、これからもきっとないのだけれど。
細い指に腕を掴まれて、人波に向かってずるずると引っ張られる。その胸まであるきれいな長い髪をなびかせる恒河は誰もが認める美少女なのに、行動は蛮人のそれだ。
せめて休みの日ならまだましなのにと言えば、「混んでるのは平日だから、休みの日じゃ意味ないでしょ」と当然のことを諭すように返されてイラっとする。どの口で常識を語るのか。
「ほら、行くよ!」
「うぅ……」
結局わたしは恒河を拒否できず、しぶしぶ早朝の地下鉄に乗った。
麻生まで行く地下鉄は、座れないぐらいには混んでいる。もうこれでいいじゃん、と思ったけど、どうせ無意味なので口にはしない。恒河ほど「言い出したら聞かない」やつを、わたしは他に知らないから。
記憶にある限り初めて来た麻生の駅で、改札を通ってまたすぐに戻る。SAPICAの残高が無駄に減っていくのを見て、わたしは「あー」と声をあげた。地下鉄料金はお小遣いだけで生きている高校生には安くない。
恒河が「今度なんかおごる」と言ったから、わたしは短く「スープカレー」と返す。恒河は普通のカレーの方が好きだから、「そっちかー」と微妙な顔をした。
そしてやってきた地下鉄に、たくさんの人と一緒に乗り込む。始発駅だから座れないこともなさそうだけど、それじゃ意味がないので、わたしたちはしばらく開かない方のドアの前に二人で立った。
さっぽろ駅に近づくたびに、乗ってくる人が増える。特に麻生から二つ目の駅でどっと人が乗ってきて、わたしの前に立った恒河は壁ドンの要領でわたしの顔の横に手を付いた。
「混んでるね、ぎゅうぎゅうだ」
恒河はわたしに顔を近づけて、そんな当たり前のことを口にする。
札幌の地下鉄は、いつも窓が開いている。ゴーゴーと大きな音がしているので、話すには近づくしかない。だから出来るだけ肌荒れ気味のあごあたりを見られないように角度を調整しながら、わたしは「混んでるけどさ」と恒河にだけ聞こえるような大きさで言った。
「でも東京の満員電車、もっとすごいらしいよ」
「え? これ以上?」
それはヤバいな、と恒河は笑ったけど、本当に札幌の満員電車なんてたかがしれてる。今だって確かに混んでるけど身動き取れないほどじゃないし、駅員さんに詰め込まれなきゃ乗れないほど混雑しているわけじゃない。
いつかYouTubeかなんかで見た東京の満員電車は、人が人じゃないみたいだった。恒河が東京で人に押しつぶされているのを想像したら、なんだか喉の奥から苦いものがせりあがってくるような気がする。
ドアを背にして立っているわたしと向かい合って、恒河は立っている。それが他の人からわたしを守っているように思えて、わたしは恒河の腕を引いた。
「……恒河、こっちおいでよ」
「詩歩がつぶれるよ」
「彼氏か。いいよ、あぶないから」
こんなことに付き合わせているくせに、恒河は妙なことを気にする。
わたしはそんな彼女を押し切って、隣に並ぶように引っ張った。
背に扉をつけて、鞄を前に抱える。そうしているだけで、少し安心する。どんな所でも、自衛は必要だから。
さっぽろまでは人と体のどこかが触れてしまうぐらい混んでいたが、大通、すすきのと通り過ぎていくうちに人は減っていく。ようやく学校最寄りの駅に戻った頃には、ちらほらと席に空きも見えて、わたしは詰めていた息をゆっくり吐いた。
同じ学校の生徒たちに混じって改札を通り、大きく伸びをする。固くなっていた体が少しほぐれて、「あぁ~」と間の抜けた声が出た。
少し冷たい空気がおいしい。地下鉄もまだ暖房は入ってないはずだけど、妙に空気がぬるくてこもっている感じが不快だった。
隣では、恒河も嬉しそうに両手を伸ばしている。そして「いやー、すごかったね!」とちょっと大きめの声で笑った。恒河レベルの美人が大げさな動作をすると目立つから大人しくしていてほしいのだけど、そんなことを気にする彼女ではない。
「これで満員電車対策はばっちり!」
「いや、だからこんなもんじゃないって」
学校に向かって歩きながら、わたしは何故だか自信をつけたらしい恒河に向かって渋い顔をしてみせた。
東京の電車をなめたら、痛い目を見る。わたしだって詳しくはないけど、人がたくさん集まるところの方が、より怖いことが多いのは知っている。
だからわたしは足を止めないままに、「ちゃんとしてよ」とつぶやいた。
「恒河、気をつけなきゃだめだよ。背中とか無防備に向けちゃダメ。壁につけて、鞄とかで周りの人と距離取って」
少し声をひそめて言ったわたしに、恒河は「は」と吐息のような声を漏らした。
あんまり恒河らしくないその声に思わず横を向けば、こちらを見る不思議そうな目とかちあう。
恒河は、なんだか変なものを見る目でわたしを見ていた。わたしの言っている意味がわからない、そう訴えるようなまなざしに強烈な居心地の悪さを感じて、わたしは恒河から目をそらす。
でも、恒河はここで会話を打ち切ることを許してくれない。刺すような視線に耐えられなくて、わたしはのろのろと口を開いた。
「……受験の日、狙って、痴漢とか出るらしいから」
ぼそぼそと、聞こえるか聞こえないかの声で言ったわたしに、恒河は「ああ」と納得したようにつぶやいた。
わたしだって都会の事情を詳しく知ってるわけじゃないけど、そういう話は聞いている。
東京ほど人が多くない札幌でだって、痴漢や変質者は出る。なら、東京なんてなおさらだろう。すごく気持ち悪くて嫌な話だけど、女として生まれてしまったら、そういうのに遭わないでいることは本当に難しい。
「そんなのに狙われて、実力発揮できなかったり、責められたりするのやだから。出来るだけ自衛してね」
説教したいわけじゃなくて、わたしはただ恒河が心配なだけだった。
だから、無防備な姿を晒さないでほしい。ただでさえ恒河は人目を引くんだから、嫌な目に遭ってほしくない。
けれど、恒河は急に足を止めた。そしてわたしの腕を引っ張ると、同じ学校の生徒たちの波から外れた脇道へと逸れる。
恒河は、妙な表情をしていた。怒っているような、悲しんでいるような、それとも違うような、変な顔。
恒河の唇が、二、三度開いては閉じてを繰り返す。言葉を選んでいるのだと気づいて待っていると、恒河は「詩歩の気づかいは、受け取るけど」と小さくこぼして、そして。
「どうして『責められる』の?」
そう言った。なにか、おそろしいものを見たかのような顔をして。
恒河の黒目がちな目に見つめられて、わたしは思わず呼吸を止める。恒河に言われるまで、自分がそんなことを口にしたと思っていなかった。
ただ、忠告をしたかっただけだった。気を付けてほしかった、だけ。
自分の失言に気づいて唇を閉ざしたわたしの肩を、恒河の両手が掴む。彼女には珍しい、なんだか少し乱暴なしぐさだった。
「悪いのは痴漢だよね。被害に遭った方が責められるって思うのは、なんで?」
「なんで、って……」
恒河は、わたしが逃げることを許さない。恒河はわたしより身長は8センチも高いし握力だって強いから物理的に逃げられないし、まっすぐに見つめられたら精神的にも逃げられない。
うろうろと視線をさまよわせていたけれど、「詩歩」といつもより低い声で名前を呼ばれて、ついにわたしは観念した。
「自衛、ちゃんとしてないから狙われる、から……冤罪かもしれないから、騒ぐのも、よくない、し」
「答えになってない。言ってること、めちゃくちゃだよ」
恒河の整った顔が、ますます歪んだ。
彼女に言われるまでもなく、自分がおかしなことを言っているのはわかっている。
自分のものじゃない、自分でも納得していない言葉を、むりやり自分の口から吐き出している。だから、恒河にもこんな顔をさせてしまう。
恒河の手に、力がこもる。その白い肌がもはや蒼白になっているのを見て、わたしはぎゅっと自分の唇を噛んだ。
「ねぇ、痴漢に遭ったとして、いや、痴漢じゃなくていい。夜道を歩いてて刺されたとして、刺された本人が『今度から夜道を歩かないようにしよう』って思うのはいいよ。だけど、第三者が『夜道を歩いてるから刺されたんだ』って責めるのは、おかしいでしょ。そんなの、責める方が悪いんだよ」
「……」
「誰が、詩歩にそんなこと言ったの」
早口でまくし立てる恒河の声は、少し震えている。それを向けられたわたしは、恒河が怒るなんて珍しいな、なんて現実逃避みたいに考えていた。
誰が、と聞かれて、わたしは無言のまま首を横に振る。だけど恒河は全然納得しなくて、「詩歩」とわたしの名前を呼んだ。
「今のは、詩歩の言葉じゃないよ。誰が、詩歩に、そんなこと、言ったの」
一句ずつ区切って、まるで子供に言い聞かせるように。
そしてわたしもまた、親に叱られた子どものように視線を自分の足元へ落とす。
麻生まで行かなきゃいけないから、今日はいつものローファーじゃなくてスニーカーを履いていた。妙に土埃に汚れたそれが、あの日履いていたものだということを思い出したわたしは、「あー……」と妙に間延びした声を漏らしてしまった。
恒河が本気で何かを追求しようとして、わたしが逃げられるわけがない。諦めたわたしは、小さく「おにいちゃん」とつぶやいた。
やっと答えたわたしに、恒河の顔がまた妙な歪み方をした。恒河の考えていることが手に取るようにわかって、わたしはなんだかいたたまれない気持ちになる。身の置き場がない、というのは、きっとこういう気持ちを言うのだと、どこか他人事みたいに考えていた。
「あぁ……詩歩の兄さんかぁ……」
「……」
恒河の声には、諦めのような、呆れのような、苛立ちのような、そんな複雑なものが滲んでいた。
わたしがたまに愚痴を言ってしまうから、恒河はわたしの兄がどんな人か知っている。だからこそだろう、次に発した「あー」といううなりからは、納得みたいなものも感じ取れた。
「ねぇ、詩歩。なんて言われたの? 自衛しないから悪いって、そんなこと言われたの?」
無言でいるわたしに、恒河が顔を真下に向けながら言った。どんな表情をしてそう言ってるのか、わからない。わたしは、何も答えられずにいた。
恒河の言葉に、思い出したのは中学三年になったばかりのあの日のこと。
――あの日、わたしはようやく咲いた桜にちょっと浮かれながら、大通に向かっていた。
目的は、その日発売する本。近くの小さな本屋では売っていなかった、好きな作家の新刊だった。
まちなかの大きな本屋を、わたしはぶらぶらと歩く。真っ先にお目当ての本がありそうなところに向かうのもいいけど、こうしてまんべんなく見て回って好みの本を探すのも本屋のだいごみだろう。
気になった本の前で足を止めて、手に取る。そんないつもとなにも変わらない時間におかしなものを感じたのは、冒頭を読み始めてすぐのことだった。
後ろに立っている人が、妙に近い気がする。わたしの前に平積みされてる本が取りたいのかと思って一歩横にずれたけど、それでもぴったりとくっついてくる。
ちょっと嫌だな、と思って持っていた本を戻した瞬間、その人の手の甲が、わたしのスカートの上を、掠めた。
ぶわりと、鳥肌が立つ。一瞬にして体温が下がった気がした。手と足の先が冷たくなって、そのくせ心臓だけはうるさく鳴り響いて、わたしから冷静さを奪っていく。
とにかく、ここから離れなきゃ。
そう考えて、わたしは何でもないふりをしてそこを立ち去った。こちらが気付いていることに気付かれたら、何をされるかわからない。だから、足早に逃げたりすることはせず、平然を装った。
だけど頭の中では、「こわい」と「きもちわるい」がぐるぐる回って、吐き気をこらえるのでせいいっぱい。
本屋を出た時、ほっとした。だけど、これでもう大丈夫だとなんとなく振り向いたその時、わたしの全身は凍り付いてしまった。
さっきわたしの後ろに立っていた男の人が、ついてきていた。
三十代後半から四十代ぐらいの、普通のおじさんだった。だけど、目だけが妙にギラついているように見えて、わたしの喉はひゅうと変な音を鳴らす。
呼吸をするのも、怖い。わたしは急いで前を向いて、足早に駅に向かう。
はやく、はやく、改札をくぐらなきゃ。
でも、そこでふと思ってしまった。――地下鉄まで着いてきたら、どうしよう、と。
走っているわけでもないのに、息が上がっていた。パニックになりながら視線を泳がせると、道の脇に自販機があるのがわかった。
怖くて振り向けないけど、多分ついてきている。だけど、立ち止まれば通り過ぎてくれるんじゃないか。
そう思いついたわたしは、一呼吸してさりげなく自販機の前に立った。
見慣れたたくさんのジュースが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。できるだけゆっくりカバンから財布を取り出していると、すっと黒い影がわたしを通り過ぎていった。
それは間違いなく、あの男の人だった。
詰めていた息を、吐く。震える身体を落ち着けるために、わたしは甘いココアのボタンを押した。がたん、と缶が落ちる音はいつも通りのもので、わたしはようやく日常に戻った、そんな気がした。
なのに。
「……ぁ」
思わず、声が漏れてしまった。
だって、道の先。曲がり角のところ。
通り過ぎていったはずの男の人が、立っているのが見えたから。ちらちらと、こちらを見ながら。
遠く離れているのに、その男が私を見る目が見えた気がした。
がらんどうの、光のない、だけど妙な炎が燃える、嫌な目。
もう、我慢できなかった。わたしは反対方向に走って、結局一駅分逃げた。改札口をくぐって来たばかりの地下鉄に飛び乗って、家までも走った。買ったばかりだったスニーカーはぬかるみを跳ね上げて泥で汚れたけど、それもどうでもよかった。
「詩歩? おかえりなさい、早かったね」
「おかあ、さん」
やっと家にたどり着いた時には、わたしは我慢の限界を迎えていた。
リビングでお母さんの顔を見た瞬間、わたしはわぁわぁ泣いてしまったのだ。
お母さんはびっくりしながらもわたしを抱きしめてくれて、わたしは今あったことを必死で説明した。
怖かった、怖かった、死んじゃうかと思うぐらい、怖かった。
そう言って泣いたわたしを、お母さんは抱きしめてくれた。怖かったね、嫌だったね、無事に帰ってきてくれてよかった、と。
だけど、兄は違った。
さっき起きてきたばかりみたいな格好をしていた兄は、お母さんに抱きついて泣くわたしをちらっと見て「うるせー」と笑った。
「自意識過剰だろ、そんなん。バカじゃねぇの」
「文緒!」
「あーやだやだ、妹が痴漢冤罪ふっかけるようなバカ女になっちゃった~」
お母さんはすぐに兄を怒鳴ったけど、兄はソファから立ち上がるとへらへらしながらわたしの横を通り過ぎる。
そして吐き捨てた言葉にふさわしい表情で、「おおげさ」と鼻で笑った。
「泣くぐらいなら自衛してろよ。ぼーっとしてるからそんな目に遭うんだろ」
そう言って、兄は自分の部屋へと戻っていく。お母さんは「文緒! 謝りなさい!」と叫んでいたけど、返事はもうなかった。
三つ年の離れた兄とは、別に仲が悪いわけじゃなかった。
兄が高校に入ってからあんまり喋らなくなったけど、わたしは兄を普通のお兄ちゃんだと思っていたし、けんかするようなこともなかった。
だから、そんな兄から投げつけられた言葉が、最初は理解できなかった。
わたしは何を言われたんだろうと、数日掛けて咀嚼していくうちに、兄の言葉はわたしの中に染みついてしまった。
恒河に「責められる」なんて言ってしまったのは、無防備な恒河が悪いなんて意味じゃない。
ただ、わたしみたいに。誰かから、恒河がそんな言葉を投げられるのは、嫌だと思ってしまったから。
あの日のことは、恒河にも言っていない。話すことで、自分がみじめになるような気がしたから。
だから恒河の「兄になんと言われたのか」という質問に対して、わたしは答えることが出来なかった。
けれど恒河にとって、沈黙は肯定だったのだろう。長い息を吐きながら顔を上げて、じっと、その大きな目でわたしを見る。
「詩歩は、悪くないよ。何も悪くない。だからお兄さんの言葉だとしても、そあなこと、詩歩の口から言っちゃだめだ」
「だって」
「だってもでももない。詩歩は、通り魔にあった人に『外を歩くから悪い、自衛が足りない』なんて言わないでしょ?」
珍しく子どもに言い聞かすような調子で言う恒河に、わたしはやっぱり言葉を返せなかった。
恒河の言うことは、正しい。
わたしは、痴漢に遭って泣いている子に自衛が足りないから悪い、なんて言わない。財布を盗まれた人に、警戒してないから悪い、なんて言わない。傷ついている人を、大変な目に遭った人を、追い込むような言葉は、絶対に。
だけど、たとえ駅から降りた時まで時間が巻き戻ったとしても、わたしは同じことを言ってしまう気がしていた。
「自衛しろとか冤罪だとか、言われたんでしょ? そんなのは、詩歩を傷つけるための言葉だ。なにも正しくない。だから、詩歩。辛い目に遭った時に、責められるなんて、思わなくていい」
「……」
「詩歩は、悪くない。悪くないんだよ」
恒河は、何度も何度も繰り返してくれる。その声は、わたしを思いやるあたたかさで満ちていた。
彼女は、いつもこうだ。わたしが誰かの言葉に傷つくと、恒河は恒河の言葉でわたしを慰めようとしてくれる。
そういうところも、恒河のまぶしいところの一つだと、思う。飾り気のないまっすぐな言葉は、それが恒河の本心だって伝わってくるから。
だからわたしは、笑顔を作る。「ありがとう」と笑いながら告げたら、恒河は何故か弾かれたようにわたしの肩に置いていた手を離した。
恒河は、すごく苦いものを無理やり口に押し込まれたような顔をすした。その表情の意味がわからなくて首を傾げたわたしに、恒河は「あー……」と空気が抜けたような声を漏らす。
「……人って、傷つけることばかりが簡単だね」
「え?」
その声は、恒河らしくない、とてもとても小さなもの。
思わず聞き返したわたしに、恒河はへらりと笑ってみせる。
それは、明らかな作り笑顔だった。そして、たぶん、わたしもさっき同じ顔をしていた。
あ、と。手で、口元を抑える。
恒河にこんな顔をさせたのは、わたしだ。
わたしが恒河の作り笑いに気づいたように、恒河もわたしの笑顔が本物じゃない事に、気づいたんだ。 そして、恒河がわたしのために選んでくれたあたたかな言葉が、わたしの中にある根雪を溶かしていないことにも。
こうが、と呼んだ声は少し掠れていた。そんなわたしに、恒河は一歩後ずさって、そして、やっぱり笑った。
「詩歩の兄さんの言葉も、中学のあいつの言葉も、詩歩を傷つけた。今もずっと、詩歩の心は血を流してる」
「それは」
「だけど、私の言葉は、詩歩のばんそうこうにならないんだね」
恒河の唇から放たれたその言葉は、あまりにも鋭利だった。
思わず、息が止まる。強く胸を押されたような衝撃に、上手く声が出てこなかった。
ちがう、と、言いたかった。恒河の言葉はちゃんと届いてるって、言うべきだった。
だけど、出てこない。だって恒河の言葉は、きっと本当のことだったから。
中学の時にわたしの詩をバカにした男子の顔も名前も覚えていないのに、その言葉だけはわたしの中にずっと残ってる。
兄のひどい言葉は、決して正しくないってわかっているのに、それでも大事な友達に掛ける言葉にすらにじみ出た。
恒河がどれだけ励ましてくれても、わたしはもう詩を書けない。恒河が間違ってないって言ってくれても、わたしは隙を見せた自分が悪いとまだ心のどこかで思ってる。
それはわたしの中で、恒河の言葉よりも、彼らの言葉の方が重いってこと、なんだろうか。
思考が、うまくまとまらない。何も言えないわたしを見て、恒河はやっぱり笑った。泣き笑いみたいな、変な顔だった。
「力不足で、ごめんね」
そしてそれだけをつぶやいて、恒河はわたしを残して歩いて行く。
遠ざかっていく背中に、わたしは「待って」の一言すら掛けることができなかった。
***
神様が、空から雪の入ったバケツを片っ端からぶちまけているみたいだ。
とんでもなく大量に降ってくる雪を見ながら、わたしはそんなことを考える。1月までは今年は雪が少ないねなんて言っていたけど、結局こうして帳尻あわせが行われるから自然って不思議だ。
わたしは暖房のきいたリビングで、ぼんやりと外を眺めていた。
恒河とは気まずいまま、年が明けて受験シーズンを迎えた。
あれから、恒河とは朝も帰りも一緒に行かなくなった。そもそも恒河は12月に入ってほとんど学校には来なくなっていた。絵の方に専念してたんだと思う。他にも学年で何人か学校を休みがちになった子はいて、そういう子は大抵学校の勉強じゃ追いつけない難関校を目指しているという話だった。
年明けの初詣も、行かなかった。恒河と仲良くなってからは毎年二人で行っていたのに、記録は途切れてしまった。来年からは恒河はきっと東京だから、もう再開することもきっとない。元旦に家にいたわたしを、気になるだろうに放っておいてくれたお父さんとお母さんには感謝している。
2月に入ってからは自由登校で、今日も私は家で何をするでもなくスマホを眺めている。DMの未読を消すために開いたメッセージアプリでは、恒河の名前はずいぶん下の方に行ってしまっていた。
それを見ているとなんだか胃のあたりが重くなる気がして、テレビを付ける。普段見ることのない昼間のニュースは、全道的に大雪であることを伝えていた。
「……雪……」
ぼんやりとつぶやいてから、わたしはふと壁に掛かっているカレンダーに視線をやった。
そして目にとまったのは、明日の日付。それに、わたしは覚えがあった。
恒河の、受験日。
あの『満員電車の練習』の前に、恒河とは受験についても話している。迷ったら困るし時間に余裕を持って動きたいから、前日には東京に行くと、確かにそう言っていた。
受験の、前日。それは、今日のこと。勢いよく外を見て、わたしはサッと血の気が引くのを感じていた。
大雪が降れば、飛行機は飛ばない。冬の北海道にはつきもののそれを思い出して、わたしは慌ててスマホを両手で持つ。
恒河を傷つけたから顔向け出来ないとか、しばらく口きいてなくて気まずいとか、そういうことは全部吹き飛んだ。
飛行機大丈夫、と、恒河に送ったのは短いメッセージ。あんまりスマホをまめに見ない彼女には珍しくすぐに既読がついて、そしてスマホが震える。
『欠航続いてる。空き待ってるけど、無理かもしれない』
メッセージは、いつもの恒河だった。しばらく話してないことも気まずいことも、そんなことはなかったかのように淡々としている。
だから、その内容だけが。今、恒河が行きたいところにいけずに留まっているというそれだけが、わたしの血を凍らせた。
急いで自分の部屋に戻って、靴下をはいてコートを着る。財布の入ったカバンを掴んで、わたしは玄関へと走った。
玄関には、ちょうど大学から帰ってきたらしい兄が肩に積もった雪を落としている。わたしはそんな兄には目もくれず、持っている中で一番長いブーツを引っ張り出した。
「は? おまえ、どっか行くのか? すごい雪だぞ」
外に飛び出そうとするわたしに、兄は少し焦ったように言う。だけどわたしはそれにも答えず、コートのフードをかぶって玄関の扉を開けた。
吹き込む雪は、家の中から見るよりすごい。だけど歩けないほどじゃない、だからわたしは積もった雪に足を埋めながら近くのバス停を目指した。
こういう時、JRはすぐに止まる。最後まで動いているのは、バスだ。そんな道産子の経験則は今回もちゃんと正しくて、バス停でしばらく待っていると路線バスより一回り大きいバスがちゃんと止まってくれた。少しの時間で積もってしまった雪を払い落としながら空港連絡バスに乗り込んで、わたしはポケットからスマホを取り出す。
恒河は、空港の荷物検査ゲート前で空席待ちをしているらしい。最後のメッセージは『空港の温泉でも入って帰るかな』だった。丸々二ヶ月ぐらい話してなかった親友に送るメッセージか、と思うけど、恒河があの日のことを持ち出さなかったことに、わたしはほっとしていた。
だってわたしはまだ、あの日の恒河の言葉に対する答えを、出せていないから。
わたしをなんとも思っていない、わたしを踏みつけるだけの人たちの言葉ばかりにとらわれて、わたしを一番そばで見ていてくれる恒河の言葉を歩く力にできなかったのは、どうしようもなくわたしの本当だった。恒河にあんな顔をさせてしまうほどの、わたしの弱さ。
だけど今、空港で一人飛行機を待つ恒河の隣に行きたいと思ったのも、本当だった。
弱いわたしは、恒河に拒絶されたらきっとひるんでしまったと思う。空港まで来て、引き返してしまったかもしれない。だからわたしは、恒河の態度に感謝する。
空港までの、一時間半。映画一本分にも満たないたったそれだけが、すごく長く感じられた。停留所で止まるたびに「いいから早く行って」となんとも自己中なことを叫びたい衝動に駆られて、わたしは膝の上に置いた手をじっと握りしめる。
やっと空港に着いた時、わたしは転げるようにバスから飛び出していた。
ほとんどの便が欠航しているからだろう。新千歳空港は、いつもより空気がぴりついている感じがした。
こんな中で恒河が一人でいると思ったら瞼の奥が熱くなって、わたしは足早に空港の中を歩く。
JALのカウンターに近い、手荷物検査場。並んだベンチの一つにポニーテールの後ろ頭を見つけた時、わたしはほとんど走るような速度でそれに向かっていた。
「恒河!!」
「……詩歩?」
名前を、呼ぶ。振り向いた恒河は、目を丸くしている。その無防備な驚き顔がなんだかおかしくて、わたしは笑ってしまった。
恒河の隣に座り込むと、恒河はまじまじとわたしの顔を見た。幽霊でも見るみたいな顔してるな、と思ったらほっぺたをつままれる。
「なんで、ここに。え? JR止まってるよね?」
「バス、動いてたから……もう止まったかもだけど……」
「え、嘘でしょ。どうやって帰るの」
恒河は驚いた顔のまま、それでもわたしのことを心配する言葉を口にした。
自分が飛べそうにないのに、わたしの帰り道を心配するのが、恒河だ。だからわたしは、恒河の服の二の腕のあたりを掴んで首を横に振る。
「わたしのことは、いいから。……いいから」
「でも、詩歩」
「きっと、飛ぶから」
短く言ったわたしに、恒河がきゅっと唇を結ぶのが、わかった。
恒河がわたしを心配するなら、恒河を心配するのはわたしの役目だ。だからわたしは、ここに来た。恒河がそうしてくれたように、大丈夫だって伝えるために。
わたしに、飛行機を飛ばす力はない。わざわざ来たって、出来ることはない。
だけど、こうして熱が伝わる距離に自分を思ってくれる人がいること。それがどれだけ力になるか、わたしは知っている。
空港は、あわただしかった。他にも飛べなかった人たちが、電話したりカウンターで焦っていたり、いつもとは違う騒がしさに満ちている。みんな、困って、焦って、でもそれをぶつける先がなくて、途方に暮れていた。
恒河は、黙って座っている。流れるようなアナウンスをBGMに、わたしは「ねぇ」と口を開いた。
「……受験対策、大丈夫なの」
「学科は問題ないよ。共通テスト9割近く取った」
「天才じゃん。東大行けば」
「東大は絵の描き方、教えてくれないからなぁ」
恒河はいつもの調子でそんなことを言って、少し笑った。わたしも顔を緩めて、「そっか」と返した。
東京に行ってまで恒河が描きたいと思っているものがなんなのか、わたしは結局聞けずにいる。
だってそれは、恒河を遠くへ連れて行ってしまうものだから。どんな素晴らしいものだったとしても、「そんなもののために」と思ってしまいそうで、だから、聞かなかった。
きっと恒河と同じように、星みたいに輝く、素敵なものなんだろう。
きらめく恒河が同じように光るものを追いかけていく。それはなんて、美しい物語だろう。
そんなことを考えて笑ったわたしに、恒河は何故かハッとしたような顔をした。
そしてらしくもなくうつむいたかと思うと、突然自分のこぶしを額に押し当てた。
「……詩歩」
「ん?」
「ごめん」
ぽつりと、恒河が告げたのは、謝罪。
思わぬ言葉に目を見開いたわたしに、恒河は重ねて「ごめん」と言った。
「八つ当たりみたいなこと、言ったね。あんなこと言ったら、詩歩が気にするの、わかってたのに」
「謝らないでよ」
恒河が言っているのが満員電車の練習をしたあの日のことだと気付いて、わたしは食い気味にそれを否定した。
うつむいたままの恒河の顔を、のぞき込む。あの日と逆になってしまった構図に、わたしは恒河の目を見ながら再び首を横に振った。
「恒河、悪くないよ。……わたしのせいだよ」
今度はごまかしではない、心底からの言葉だった。
あの日の恒河に、悪いところなんてなかった。誠実に、一生懸命に、わたしに寄り添おうとしてくれていた。
それを受け取れなかったのは、わたしの問題。恒河が、悪いんじゃない。
「あのね、恒河の言う通りだよ。人って、傷つけるのばっかり本当に、簡単でさ。自分の人生に関係ない、どうでもいい、なんなら顔が見えないような人の言葉でも、刺さったら、抜けないもん」
「……そうだね」
「そのくせ、治すのは難しいよ。大事な人がかけてくれた言葉でも、簡単に、治ってくれない」
言い切って、わたしは深く息を吸った。
家でも、学校でも、なんならインターネット上だって。
この世界には、人を傷つけるための言葉が、あらゆるところに転がっている。
そしてそういう言葉は、人の悲しみを慰めるための言葉よりもずっと生み出すのが簡単で、誰にでも使いこなせてしまう。
人の心を切り裂くことは本当に簡単で、そのくせその逆は、嫌になるほど難しい。
だけど。
「ごめんね、恒河。ぜんぶ、嬉しかったよ。……ずっと、詩を書けって言ってくれたことも」
ようやく言えたその言葉に、恒河は目を見開いた。
傷ついた人を救い上げるために、言葉を注ぎつづける。そんな難しいことを、恒河はずっと、わたしにしてくれていた。
何度も何度も、わたしの書くものが好きだと、書いているわたしが好きだと、繰り返し。そのあたたかさをちゃんと受け取れないわたしを、決して見放さなかった。
ごめんね、恒河。だけど、恒河の言葉、ほんとは全部、受け取ってたよ。宝物みたいに、心の底に溜めておいて、時々取り出して眺めていたよ。
それでも歩き出せなかったのは、自分を大事にできなかったのは、ただわたしが逃げていただけだ。恒河が力不足なんて、そんなことは一度もなかった。
短い言葉に込めた思いを、恒河は受け取ってくれただろうか。大きい黒目がゆらゆら揺れて、恒河は額においていた手で目元を覆う。
「……あのね、詩歩」
そしてしばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。
うん、と頷いたわたしに、恒河の口元は少し歪んで見えた。
「中学の頃の、あいつ……詩歩に、謝ってたよ」
「え?」
恒河の言葉は、まったく予想もしなかったことだった。
中学の頃のあいつといえば、わたしの詩をバカにしたあの男子しかいない。急に「謝ってた」なんて言われても、意味がわからない。
だけど恒河は混乱するわたしに気付いていないのか、 「あのね」と話を続けた。
「中学の卒業式の日に、あいつ、私に話しかけてきたんだ。ずっと詩歩が好きだったけど、軽い気持ちでからかって詩歩を傷つけたのもわかってたって。だから、私からごめんって伝えてほしいって」
「……そう、なんだ」
「……それで、詩歩が許してくれたら、連絡欲しいって」
そう言いながら、恒河はポケットからスマホを取り出した。恒河がずっと使ってる、手帳型のケース。カードなんかをしまう用のスリットから、恒河はよれた紙片を取り出した。
多分、元は付箋だろう。薄い黄色の紙には、SNSのアカウントらしき文字列が汚い字で書かれている。それがあいつのものだと、わたしは理解した。
つまりあいつは、ずっと反省したものの直接言うことはできずに、恒河に託したのか。
恒河みたいなとびきり目立つ女の子に頼む方が勇気いるだろうに、とあさってな事を考えたわたしだったけれど、前を見る恒河の横顔があまりにも真剣なことに気付いて唇を結んだ。
「ごめん、ずっと黙ってた。ごめん」
そう言った恒河の声は少し震えていて、まるで罪を告白するみたいだった。
いや、恒河にとっては、まさしく罪の告白なのかもしれない。わたしを見ようとしないその姿は、張り詰めた糸を連想させる。
空港のざわめきが、遠く聞こえた。しんと、わたしたちの回りだけ静まりかえっている気がする。
しばらく黙っていた恒河だったけど、不意に重く息を吐くと、観念したように口を開いた。
「嫌だったんだ」
「嫌?」
「……私が何を言っても詩を書いてくれなかった詩歩が、あいつの言葉で、また書き始めたら、いやだって」
思っちゃったんだ、と。あいつからの謝罪をわたしに伝えなかった理由を、恒河は苦しそうに吐き出した。
それが、恒河の抱え込んだ全てだったんだろう。「あー」と背もたれにもたれかかった恒河は、らしくもないぼんやりとした表情をしている。
「ひどいよね、ごめん。詩歩の詩が好きなのも、詩を書いてる詩歩が好きなのも本当なのに、こんな、足引っ張るみたいなことして」
「恒河」
「ほんと、最悪。自分の気持ちばっかり優先して、だからばちが当たったんだ」
「恒河!」
らしくなく自嘲するような調子でそんなことを口にする恒河に、わたしはその肩をつかんで無理やり向き合う。
ばちが当たるなんて、そんなことがあるはずない。ぎゅっと手に力を入れれば、恒河は少し驚いた顔をした。
「気にしなくていいから」
「でも」
「本当に、気にしなくていい」
重ねたわたしの言葉に、だけど恒河の目はわたしへの罪悪感を抱えたまま。いつだってきらめいていた、瞳の中の銀河。それがそんな苦いものに覆われているのが我慢ならなくて、わたしは「謝る必要もないよ」と早口で告げる。
「それ聞いても、許す気ない。そんな紙、どっかに捨てて。恒河が後生大事に持ってる方が気分悪い」
「え」
「謝られても、書く気にならなかったよ。あんな、名前も忘れたような奴の言葉で、今更どうにもならないよ」
本気でびっくりしている恒河の顔が無性に憎たらしくて、わたしはわざと肩をつかんだ指先に力を入れる。「う」とちょっと顔を歪ませた恒河に笑って、わたしはふーっと息を吐いた。
わたしがずっと書けずにいたのは、わたしのせいだ。
きっかけは中学の出来事でも、そこから立ち止まったのは自分の選択で、自分のせい。そしてそれは、わたしを傷つけてきたあのバカ笑いの持ち主の言葉なんかで、救われるようなもんじゃない。
わたしを大事にして、ずっと隣で励まし続けてくれた恒河の言葉で歩き出せないのに、どうしてあいつの言葉がそんな力を持つというのか。
ちょっと考えればわかるような、簡単なこと。だけどそんな簡単なこともわからないほど、恒河に苦しい思いをさせた。
そう思ったら、喉の奥が熱くなる。こみ上げてくる何かを必死でこらえて、それでも恒河をまっすぐに見つめた。
「抱えさせて、ごめん。……ずっと立ち止まってて、ごめん」
「詩歩」
告げた精一杯の謝罪に、恒河が戸惑っているのがわかる。
わたしは周囲を見渡して、時計を見た。時間は、5時。飛行機が飛ぶなら、今が最後のタイミングだろう。
だからわたしは、恒河を見る。
これまで恒河は、わたしのために言葉をかけ続けてくれた。わたしのために選んでくれた言葉を、めげずに、ずっと。
今度はわたしの番。わたしが、言葉にする番だ。
「恒河に、ばちなんか、あたらない。絶対に、飛行機、飛ぶ」
一句ずつ、区切るように。はっきりと、恒河に届くように。
恒河は、あっけにとられた顔をした。「しほ」とその唇が音もなくわたしの名前を呼んだその時、アナウンスが上から降ってくる。
『空席をお待ちの、有本恒河様。有本恒河様。いらっしゃいましたら、お近くの係員かカウンターまで……』
「恒河!」
思わず、大きな声を上げた。恒河は呆けたような顔で上を見て、「え?」と間抜けな声を漏らす。
そんな恒河がもどかしくて、わたしは腕を引っ張って無理やり立たせた。その華奢な背中を押して「早く! カウンター!」と怒鳴れば、恒河は子どもみたいに素直にそちらへ向かっていった。
神様。
いつもはそんなもの信じてないくせに、急に敬虔な信者ぶってわたしは祈る。
昔読んだ本に、どんな人でも一生に一度は奇跡みたいな瞬間が訪れる、って書いてあった。
なら、わたしの一生に一度は、ここでいい。他にはどんな奇跡もいらないから、どうか。
どうか、恒河を。わたしの大事な親友を。行きたいところに、飛ばせてあげてください。
わたしのその祈りが、届いたのだろうか。カウンターから戻ってきた恒河は、まだ少しぼうっとした顔で「18時過ぎの便、飛ぶって。席、取れた」と言った。
感極まって、叫びたくなる。だけど泣き出しそうになるぐらい必死だったことを知られるのは恥ずかしくて、わたしはただ「よかったね」と言って少しうつむいた。
恒河は慌ててイスにおいていた大きいリュックを背負って、手荷物検査場へと向かっていく。
「行ってくる。詩歩、気をつけて帰ってね」
「うん、行ってらっしゃい」
こんな時でもわたしを気にする恒河に、わたしは苦笑しながら手を振った。もっと自分のことだけ考えてればいいよって言ってやろうかと思ったけど、わたしもたいがい恒河のことばかり考えてるなと思って、やめた。
検査場の向こうへその後ろ姿が飲み込まれる瞬間、わたしは「頑張れ!」と大きな声を出していた。周囲が驚いたような顔をしたけど、少しだけしか恥ずかしくなかった。
恒河は足を止めて、そして満面の笑顔でこっちに向かってピースをした。なんでそこでピースなんだ、恒河はリアクションのセンスがない。
だけどそれが恒河らしくて、なんだか安心した。
その姿が見えなくなるまで見送って、わたしはイスに座り込む。
飛ぶ。ちゃんと、飛行機は飛ぶ。だから恒河、無事に、何事もなく、実力を出し切って、笑顔で帰ってきて。
そんな風に祈っているうちに、時間は過ぎていく。時計が19時を回った頃、電光掲示板に表示される恒河の乗った便が「離陸」の表示に変わったのを見て、わたしは一気に脱力する。
これで、恒河は大丈夫。きっと、受かる。
そんなことを考えて、少し濡れた目尻を拭った。ずっと重たかった体が少し軽くなった気がして、わたしはえいやと立ち上がる。
一階に向かって、外を見る。雪は少し弱まっているように見えた。バスもなんとか動いているようで、切符を買ってちょうど停まっていたバスに乗り込んだ。
ゆっくりと、バスは空港から離れていく。バスの中で見たスマホの画面には、お母さんからのメッセージと着信がたまっていた。
こんな大雪の日にどこに行ったの、という怒りが感じられる文面に、わたしはごまかすのを諦めて「ごめんなさい、空港にいます。これからバスで帰ります」と返した。途端にブーブーとスマホが着信を知らせるけど、バスの中だからと心の中で謝りながら電源ボタンを押す。
窓から外を眺めると、一面真っ白に染まっている。冷たいガラスに頬をくっつけて、曇っていくガラス越しにわたしはそれをじっと見ていた。
東京は、きっとこんなに雪は積もらない。自転車にも一年中乗れるだろうし、凍った道を歩くのに神経を使う必要もない。
恒河もそのうち、雪道の歩き方なんて忘れてしまうだろう。それがいいことなのか悪いことなのか、わたしにはわからない。
大雪を見つめていたら、ふと、わたしはなんで詩を書こうと思ったのかを思い出した。
きっかけは、多分平凡なもの。
作家にとって「運命の一冊」があるように、音楽家にとって「運命の一曲」があるように、わたしにも「運命の一編」があった。
それは、小学校の道徳の授業で読んだ、「こだまでしょうか」。きっとみんな一度は見たことがある、金子みすゞの詩だ。
授業中、先生に当てられたわたしは、それを朗読した。簡単な言葉で綴られた、短い詩。小学校低学年だって問題なく読める。
だけどその最後の一文を、わたしは声に出すことができなかった。
当時のわたしは何故自分が言葉をつまらせたのかわからなかったが、今ならわかる。
「いいえ、誰でも」。その言葉の優しさが、あまりにも胸に迫ったからだ。
「いいえ」は、「ううん」よりもなんだかかしこまった、否定の言葉。いつもの会話で口にしたことのない、少し触れるのが怖いような、そんな言葉。
だけど、なんだか少し冷たい気すらするその「いいえ」が、この詩の中ではどこまでも優しかった。
「いいえ、誰でも」。誰でも、だ。この誰でもの中にはみんながいて、わたしがいて、世界の全部がある。こんなにも短い言葉に、心が震えるほどのあたたかさがあった。
それはなんて、素晴らしいことだろう。自分の名前に「詩」が入っていることすら誇らしく思えるような、あれはわたしにとって運命の出会い。
あの詩に出会ったから、わたしは詩が書きたいと思ったんだ。世界にあるあたたかさを、大事に選んだ言葉で伝えたいと、そう願ったんだ。
「……いいえ、誰でも」
あの日声に出来なかったそれを、そっと音にする。自分にしか届かないそれは、窓ガラスを少し曇らせた。
こんな大事なことすら、忘れていた。忘れようとしていた。自分の中から全部追い出して、目を背けようとしていた。
ああ、今すぐ恒河に聞いてほしい。わたしがどれだけ言葉を愛して、想いを伝えるたびにそれを選び抜いていたのかを、他の誰でもない恒河に聞いてほしい。そう思ってしまって、わたしは顔を両手で覆った。
いつの間にか、ずいぶん時間が経っていた。運最寄りのバス停への到着を告げるアナウンスに、わたしは立ち上がって息を吐く。吹き込む風の冷たさに首を縮めながら降りると、バス停の標識の横に背の高い影が見えた。
一瞬ぎくっとしてしまったが、よく見るとそれは兄だった。不機嫌そうな顔でわたしを見た兄は、「おまえ、ばっかじゃねぇの。こんな日に空港までって何しに行ってんだよ」と言った。その言葉で、兄は多分お母さんから言われてわたしを迎えに来たのだと察する。
冬だから、外はもう暗い。こんな中で待たせたのは素直に申し訳なかったので、わたしは「ごめん」と目をそらしながら言った。
兄は、「帰るぞ」とわたしに背を向けて歩き始める。
雪足は弱まったとはいえ、除雪は入ってないから歩道も雪がたくさん積もっている。わたしは兄の足跡の上を通りながら、ふとその歩幅が足の長さの割に狭いことに気付いた。
だから、どうというわけじゃない。わたしはそれにお礼を言ったりしないし、兄もわたしを気遣うことを言ったりしない。これからもわたしは兄と少し距離を置いて接するだろうし、兄もわたしに絡んできたりはしないだろう。
だけどその歩幅の狭さは、小さい頃に転んでしまったわたしをおぶって家に連れて帰ってくれた、その背中の温度を思い出させた。
家に帰ったら、お母さんにめちゃくちゃ怒られた。だけど恒河が心配だったってつぶやいたら、「仲直りしたの」とほっとしたように笑ってくれた。わたしの後に帰ってきたお父さんはお母さんから話を聞いて、「恒河ちゃん、受かるといいな」と言った。
その夜、わたしは東京のホテルで眠るだろう恒河のことを考えた。
明日は、恒河の大事な日。だから今日の眠りがどうか優しいものでありますようにと、祈りながら目を閉じた。
***
「やー、落ちた落ちた!」
翌週、受験を終えて戻ってきた恒河は、昼に学校にやってくるなりからからと笑ってそんなことを言った。
自由登校だから、教室はスカスカだ。わたしも来るつもりはなかったけど、恒河が午後から行く、というから登校している。
明るく笑う恒河に、わたしはぎょっとしてしまう。あんなに大騒ぎして、ピースまでして飛び立ったくせに、結果も待たずに「落ちた」とはどういうことだ。
「結果、まだ出てないでしょ」
「実技大ゴケしたからね! さーて、滑り止め用の勉強しなきゃなぁ」
励ますつもりで言ったわたしに、恒河は妙にすがすがしい顔をしてひらひらと手を振る。その態度に、わたしはもやもやしたものを感じて黙り込んだ。
恒河のいう「滑り止め」は、札幌にある普通の大学だ。美大じゃない。美大を受ける条件に親からそっちも受けるように言われていたことを、わたしは聞いている。普通に考えたら美大と一般大学の併願なんて無茶だけど、恒河は「まあそのくらいはね」となんでもないことみたいに言っていた。
手応えがなさすぎたから強がってるのかとも思ったけど、どうもそういう感じじゃない。本当に吹っ切ったような、そんなふうに見える。
描きたいものがあるって、言ったのに。
札幌から――わたしから離れてでも、その「描きたいもの」を描けるようになりたかったんじゃないのか。そのために、頑張っていたんじゃないのか。
口にしたら責め立てるような感じになってしまいそうで、わたしはぐっと言葉を飲み込む。
そんなわたしに気付いていないのか、恒河は「おなかすいた」と言ってカバンから取り出したおにぎりなんか頬張っていた。
「有本」
「先生」
教室に美術の先生が顔を出したのは、恒河がそのおにぎりを食べ終わる頃だった。ちょっと来い、と手招きする先生に素直に応じて、恒河は教室の入り口まで歩いて行く。
二人は教室の外で話し始めたようだ。「有本、おまえなぁ」と呆れたように言う声が聞こえる。
「デッサン、課題と全然違うもの描いたってどういうことだ。先方から言われてぞっとしたぞ、先生は」
「あはは、すんません」
聞くつもりはなかったけど、教室にいる人数が少なくていつもより静かなせいか会話はまる聞こえだった。
その内容に、わたしは弾かれたように顔を上げる。
――課題と、ぜんぜん違うものを描いた?
美大の受験内容には詳しくないけど、恒河が受験するから少しだけ調べている。
デッサンの実技は、課題が決まっていて、自由に何かを描いていいわけじゃないみたいだ。試験だから、同じモチーフでないと比較しづらいんだろう。
なのに、違うものを描いた? そんなの、受かる受からない以前の問題じゃないのか。
頭の中でパニックを起こすわたしに、けれど「ご心配おかけして~」という恒河の声はあっけらかんとしている。
「どうしてもあの時、あれを描きたかったんです。描いたら満足しました!」
「おまえな……」
「滑り止め頑張るんで! じゃ!」
そう会話を打ち切って、恒河は教室に戻ってくる。叱られちゃった、と笑う恒河が何を考えているのかわからなくて、わたしは何も言えなかった。
でも、どうしてもそのまま放っておくことは、できなかった。
放課後、「かえろー」とのんきに言う恒河を教室に残して、わたしは職員室に向かう。
入ってすぐのところに目当ての先生の背中を見つけて、わたしは「失礼します」と室内に足を踏み入れた。
「先生」
「結城?」
わたしが話したいのは、当然恒河と話していた美術の先生だ。ちょっと面食らったような顔でわたしを見る先生に、わたしは何の前置きもなく切り出した。
「こう……有本さん、実技試験どうしたんですか」
問い詰めるようなわたしの言葉に、先生はますます驚いた顔をする。
わたしは恒河の親でも兄弟でもないから、こんな風に聞く権利はきっとない。だけどわたしがあまりにも切羽詰まっていたからだろうか、先生は少し考えるように首をひねった後、二人は仲良かったな、と頷いた。
「有本が受けた大学で試験の監督してる先生、俺の知り合いでな。わざわざ連絡くれたんだよ」
「……そんなまずいこと、したんですか」
「課題通りのもの、描かなかったらしいんだ。光るものはある子だから理由を確認したいって言われたんだが、本人があの調子じゃなぁ」
先生の言葉は、さっき聞こえたのと同じもの。
――恒河、本当に課題と違うもの、描いたんだ。
それじゃあ、たとえ学科がどれだけ良くできても、受かるわけがない。そんな破天荒なことしても合格するのは、物語の中だけだ。
なんで恒河がそんなことをしたのかわからなくて、わたしは長い息を吐いた。恒河は意味もなく変なことをする子じゃないけど、彼女の理屈が理解できないことはある。
「……何を描いたんですか?」
諦め半分で、わたしはそう聞いてみる。そこまで詳しく知っているかな、と思ったが、どうやら先生はそれも知っているようで、「ああ」と小さく声を上げた。
「課題は静物のデッサンだったけど、有本が描いたのは人物画だったらしい」
「……人物画?」
「机に突っ伏して何か書いてる、制服着た女子の絵だったって聞いたぞ」
誰を描いたんだろうな、と首を傾げながら告げられた言葉に、わたしは息を止めた。
机に突っ伏す、制服の女子。
それだけの情報でわかるわけがないと、先生も考えたのだろう。だけど、他の誰がわからなくても、わたしにはわかった。
机に突っ伏して、紙に顔を近づけてものを書くのは、集中するときのわたしの癖。恒河が何度も好きだと言ってくれた、詩を書く時の、わたし。
そんなわたしを見ることが出来たのは、あの頃隣の席だった、恒河だけ。
気付けば、失礼しますも言わずにわたしは走り出していた。
「恒河!!」
転げるようにして教室に飛び込むと、残っていたのは恒河一人きり。突然の大声にびっくりした顔をする恒河に、わたしは叫びたいのをこらえながら近づいた。
大丈夫? と背中をさすってくれる恒河の肩を、掴む。のぞき込んだ恒河の目は、澄み切った冬空のようだった。
「恒河、なんで……なんで、試験で、わたしなんか」
「……えっ、ばれた?」
息を切らせるわたしに、恒河は何を言いたいのかを正確に理解したようだった。
いたずらがばれた小学生のような顔をした恒河は、わざとらしく視線を泳がせる。けどわたしが引き下がらないのを察したのだろう、しぶしぶ、と言った調子で「だってさぁ」とつぶやいた。
「詩歩はもう書かないっていうから。じゃあ、詩を書いてた頃の詩歩は、私の記憶にしかないじゃん」
「え……」
「記憶にしかないものは、描かないともう見れないじゃん。でも、描いても描いてもあの時の詩歩が描けないから、じゃあ、美大にでも行くしかないかなって思ってたんだよ。……だけど試験の時、席についたら、詩歩のこと、描きたくなっちゃって」
今まではだめだったけど、試験の時は結構記憶の中とおんなじぐらいよく描けた、と得意そうに笑った恒河に、わたしは愕然とする。
恒河の口から語られた、とんでもない受験理由と試験の顛末。
いや、もともと描きたいものがあるから美大に行く、というのは聞いていた。まっすぐに前を向いて、プロに絵を習いに行くと、恒河は確かにそう言った。
だけど、その「描きたいもの」が、詩を書くわたしだなんて、そんなことは聞いていない。
「そんな、理由で」
「そんな理由だよ」
頭が、真っ白になる。どこか咎めるような色が乗ってしまったわたしの言葉に、だけど恒河は目を細めてわたしを見ていた。
「お母さん」
そして突然、その唇がゆっくりと動く。
お母さん、と口にしたその音が、彼女の母を呼んでいるのではないことはすぐにわかった。
なにかを朗読する時の、独特のリズム。目を丸くしたわたしにかまわず、恒河は続ける。
「お母さんが初めてわたしを抱いてくれた日を、わたしは覚えていないけど、最後に抱きしめてくれる日は、絶対に忘れないからね」
歌うように、流れるように。
恒河が読み上げたその言葉に、わたしは覚えがある。
わたしが選んだ、言葉。かつて「にれ」に載った、わたしの詩の一部だ。
「お父さん、だいじなだいじなお父さん、会社に行く前に、家に帰る前に、一日が終わって眠りに落ちる前に、思い出して欲しい言葉を贈ります」
続けて、恒河はもう一文そらんじる。もちろん、それも覚えている。中学二年の頃に書いた、お父さんについての詩だ。
詩を読み上げる、という行為自体は、中学の頃のあいつと同じ。
だけど恒河の朗読は、あれとはぜんぜん違っていた。恒河は、一つ一つの言葉を、宝物みたいに大事に音にしてくれていた。
「ほんとにほんとに、好きなんだ。暗記しちゃうぐらい」
少し恥ずかしそうに笑った恒河に、わたしは声を出せなかった。
辛い記憶と紐付いてしまったから、忘れようとしたわたしの作品。でも恒河の声で聞いた詩は、あの頃のわたしが精一杯言葉を磨いたのが伝わってくる。大事に大事に、あの時のわたしの全部で、選んだ言葉。
鼻の奥が、つんと痛む。それを誤魔化すように首を振って、わたしは窓に寄りかかる恒河の隣に立った。
西日に照らされた恒河は、びっくりするぐらい綺麗に見える。金色に染まった長いまつげを揺らしながら、恒河は「私さ」と遠くを見る目で言った。
「割となんでもできちゃう人でしょ? 勉強とか運動とか」
「……そうだね?」
内容は、唐突だった。
急にわかりきったことを言ってなんなんだ、と思ったけど、恒河は真面目な顔をしている。
「だからさ、逆に何していいのかわかんなくて。地に足つかないっていうのかな? とにかくなんか、ふわふわしてたんだけど。だけどさ、中一の時、授業で書いた詩が配られて」
「……」
「詩歩の詩読んで、びっくりした。こんな素敵なことを書く子がいるんだって思った。だから二年で同じクラスになった時、結構嬉しくて、詩歩のこと、見てた」
それは、恒河から初めて聞く、昔の話。ずっとわたしの詩が好きだとは言ってくれていたけど、一年の頃からわたしを気にしてくれていたとは知らなかった。
恒河は笑う。笑って、少し恥ずかしそうに首のあたりを指先で擦る。
「詩を書いてる時の詩歩はさ」
「……うん」
「他に何も目に入らないってぐらい集中してて、まっすぐ原稿用紙に向かってた。それ見て、私、この子はきっと一生詩と歩いていくんだって、思ったんだよ」
そう言い切った恒河は、照れを誤魔化すようにちょっと声のトーンを上げて「名は体を表すってやつ」と笑った。
でも、わたしはそれをいじったりせず、ただ聞いていた。
恒河がわたしをどう思ってくれていたのか、どれだけ大事にしてくれていたのか。恒河が言葉にしてくれた全てを、一つもこぼしたくなかったから。
わたしが聞き入っているのに気付いたのだろう、恒河は一瞬視線をさまよわせた。だけど観念したようにちゃんとわたしをその目に映すと、ふっと、まぶしいものを見る時みたいに目を細める。
「私にとっては、あの時の詩歩が人生で一番きれいなものだったよ。ずっと見ていたいぐらい。もう見られないなら、一生かけてでも描くしかないって思うぐらい」
そして恒河がわたしにくれた言葉は、星のようにきらめくもの。
――恒河を初めて見た時、物語の主人公のような子だと、思った。
誰もが羨むような輝くものをたくさん持った、特別な、女の子。
そんな恒河からこんなに素敵な言葉を貰うなんて、なんだかできすぎだと思った。それこそ物語みたいだと。
だけど、恒河はここにいる。腕が触れあうほど近い場所にいて、わたしを見て笑っている。
今度こそ、涙がこぼれそうだった。わたしが少しうつむいた意味に気付いたのか、恒河はゆっくりとのびをする。
そして、「でも、試験で描き上げた絵見たら、気付いちゃった」と言って笑った。
「……何に?」
「どれだけあの頃の詩歩が上手に描けても、それって、意味ないかもって」
恒河の言っている意味がわからなくて、わたしは顔を上げる。
わたしが、詩を書いている姿。それを自分で描いてでもまた見たいと、そう言ってくれたのに。
多分、わたしは少しだけ不安そうな顔になっていた。そんなわたしに恒河はにやーと猫みたいな笑顔で、あのさぁ、と天井に向かって手を伸ばしてみせた。
「地球の裏側まで、どのくらいで行けるか知ってる?」
「……ブラジルまで?」
「うん。答えは、飛行機で大体まる一日ちょい」
唐突な、シンキングタイムゼロのクイズ。何が言いたいのかわからなくて恒河を少し睨んだわたしに、だけど恒河はちっとも動じない。
「東京なんてもっと近い。移動時間込みでもせいぜい三時間ぐらいで着いちゃう。費用だって、安い飛行機だったら往復で二万ぐらいだよ」
「そう、だね」
東京という単語が出てきて、わたしは思わず唇を尖らせる。
だから、なんだっていうんだろう。この話が、「わたしを描いても意味がない」にどう繋がるのかわからない。
恒河は楽しそうだ。彼女はわたしが嫌な顔をしたり呆れた顔をしたりするたびに、こうやって得意そうに笑うのだ。
恒河は、両手を天井に向かって広げて見せる。舞台女優みたいな大げさなしぐさは、恒河にはよく似合っていた。
「私たちは、どこにでも行ける。東京だって、地球の裏側だって、きっともうすぐ、宇宙にだって行ける。……でもね、どこでもすぐに行けちゃうこの時代に」
恒河の口から出る言葉もまた、舞台の上で聞くそれのよう。
急に何を言い出すんだ、と面食らったわたしに、恒河は不意に表情を引き締めてわたしの方を見る。
「私は詩歩に、夜中すぐ会いに行ける距離がいい」
遠くにいるんじゃ、いくら上手く描けても、意味なかった。詩を書く詩歩のことを形に残せなくても、私は詩歩の近くがいい。
恒河は、静かにそう言った。笑っているような、泣き出す直前のような、不思議な顔で。
きっと、わたしも同じような顔をしていた。胸の奥からわきあがってくるものが何なのかわからなくて、笑うことも泣くこともできないでいる。
とんでもない理由で進路を決めて、さらにとんでもない理由でそれを放棄した有本恒河という女は、だけどどこまでも真っ直ぐにわたしを見つめている。
ねえ、恒河。
わたし、ちゃんと恒河を見送るつもりだったよ。
恒河が「星は見えなくてもそこにある」なんてカッコつけたこと言うから、わたしだって「側にいなくたって、心は寄り添ってる」とか、そのぐらいのことを言って背中を押してやるつもりだった。
なのに、そんなことを言うなら。
受験までしてたどり着いたのが、思い出の中のわたしに――恒河が美しいと思ってくれた過去のわたしに再び会うんじゃなくて、今ここにいるわたしと一緒にいたいなんていう、そんな望みなら。
わたしだって、願うよ。いつだって恒河の瞳の星が、この目で見える距離にいてって。
「……なんか、似たようなキャッチコピー、どっかで見たよ」
「マジか」
涙の膜が張った目を誤魔化すようにそう言ったわたしに、恒河はオリジナルだよ、と笑う。数ヶ月前とおなじようなやりとりを繰り返せるのが、ただ嬉しかった。
「またやりたいこと、探さなきゃなー」
そんなことを言いながら、恒河はうーんと体を伸ばす。
恒河なら、きっと何にでもなれるだろう。わたしの隣にいたいと、それ以外が今は見つからないなら、わたしの隣で探せばいい。
そして恒河が本当にしたいことを見つけた、その時は。
「あのね、恒河」
わたしは、ゆっくりと口を開く。
そして、隣に立つ恒河をじっと見つめた。
「わたし、詩を書く人になる」
なりたい、でも、なれたらいいな、でもないそれは、宣誓。わたしは、恒河に誓いを立てる。
恒河から受け取った恒河沙の言葉は、わたしの中に積もって、今芽吹いた。言葉がどれだけ人に寄り添うものか、恒河が思い出させてくれた。
たとえ誰にもバカにされないような圧倒的な才能がなくても、星のようにきらめいていなくても。
それでもわたしの中には、恒河の愛してくれた「わたしの言葉」が、ある。
恒河の目が、こぼれ落ちそうなぐらい見開かれた。こんなにびっくりした顔初めて見たかもしれないな、と思ったらなんだか嬉しくなって、わたしも恒河のまねをして天井に手を伸ばしてみる。
そうしていると、何かに手が届きそうな気がした。手を握りしめながらゆっくり下ろして、わたしは恒河にとびきりの笑顔を向ける。
「札幌の隅っこでも、地球の裏側でも、宇宙でも、詩はどこでも書けるから」
恒河。わたしの隣に戻ってきてくれた君の隣に、今度はわたしが着いていくために。
この言葉が、これからも一緒にいたいという意味だって、恒河にはちゃんと伝わっただろうか。
恒河はぽかんとした顔をして、そして次の瞬間顔をくしゃくしゃにして笑った。
「……いいね、なってよ」
「任せて」
「読者一号は私だからね」
そう言った恒河の目元は、赤い。それが西日のせいじゃないことを理解しているわたしは、だけど気付かないふりをして「いいよ」と笑顔のまま応えた。
詩を、書こう。わたしの中にある大事なものを、一つずつ選んだ言葉で届けよう。それがどんなに素晴らしいことか、わたしたちはもう知っている。
最初は、恒河のことを書くんだ。中学の頃、お母さんのことを、お父さんのことを書いたあの日のように、机に突っ伏して、ひたすら自分と向き合って、かたちにしよう。
タイトルはどうしよう。恒河の無数の星が散る目が、読む人に伝わるようなものがいい。恒河沙の星が輝く夜に生まれた女の子が、わたしの隣でどんなにきらめいているか、すべての人に伝わるような、そんなタイトルにしよう。
ふふ、と思わず口元が緩む。「なにさ」と少し唇を尖らせた恒河に「まだひみつ」と返しながら、わたしはそっと恒河の肩へ自分のそれを触れさせた。