3 つかの間の小休止
意識がふわりと浮かび上がり、朝陽はまぶたを持ち上げた。
明朝の群青を透かしたような薄闇が、室内をしずかに包み込んでいる。
となりに目をやれば、よだれを垂らして眠るタロの顔があった。
──ああ、そうか。昨日はタロを庵に泊めたのだった。
なぜ、と思うより先に昨日のあれこれが思い出される。
「長老から情報と試験の過去問をもらってくる」とサークルに向かう清春を見送ってから、「これ以上頭が青くなったらどうしよう」と半べそのタロを連れて帰った。
この庵は元々、遍路をする人々が心置きなく祈り、あるいは遍路の疲れをひととき休めるためにある。
そのため予備の布団がいくつか用意されているのだ。
さらに庵に住む折に、友人を泊めるのは問題ないという話を聞いていた。「ただし大騒ぎや大宴会をする際は、事前に周知すること」とも言われている。
近隣住民が手土産を持って混ざりにくるらしい。
大騒ぎするな、ではなく自分たちも混ぜろ、というあたりなかなか面白そうなので、生活に余裕が出たらそのうち催したいものだ。
──その時はタロと清春も呼ぼう。
そんなことを考えながら、音を立てないようにそっと身体を起こす。
タロは本日、新聞配達のアルバイトは休みの日だと聞いた。
日頃、早起きをしているぶん休みの日くらいはゆっくりと寝ていてもらいたい。
朝陽は目覚まし時計を止めると、物音を立てないよう気をつけながら身支度を終える。
「雨、止んだのか」
引き戸をゆっくり静かにあけて外へ出て見れば、振り続いた雨がやんでいた。
とはいえ、梅雨の小休止なのだろう。鉛色の雲が空を覆い、さわやかな青色はうかがえない。
「また降りだす前に終わらせてしまうか」
いつもよりもずいぶん早いが、日課の掃き掃除をしてしまうことにした。
毎日せねばならないわけではないけれど、はじめてみれば朝の冷たい空気のなかで過ごすひと時は存外、気持ちが良いと感じる。性に合っていたのだろう。雨さえ降らなければなんの苦も無かった。
ほうきとちりとりを手に、まずは神さまへ朝のあいさつ。神社の境内からはじめて、階段へと移動していく。
雨は夜明け前まで降っていたのだろう。石段はまだ黒く塗れていた。落ち葉は貼り付いて集めづらく、作業はなかなか進まない。
それでも一段一段、掃き清めていけばやがて最後の段へとたどり着く。
「ああ、ずいぶん空が明るくなってきた」
白々とした明るさに顔をあげれば、曇天を溶かすように朝日が空を照らしていた。
ため息の出るような美しい光景に見とれて、ぼうっとしていると。
ふわり、爽やかな甘さが鼻をくすぐる。
覚えのある香りだった。
空に向けていた顔をもどせば、鳥居のすこし向こう側に立つ人影を見つける。
白く、ほっそりとしているその姿は、お面様の騒動の最中にも一度見かけた人だ。
遠くの路地に立つ姿しか見ていなかったので、白っぽいという印象しか残っていなかったけれど。
ほんの数メートル先のその人をまじまじと見てみれば、ずいぶんと眉目の整った美しい人なのだとわかる。人なのか、お面様と同じように不可思議な存在なのかわからないけれど。
なよやかな美しさではない、どこか武骨さを残した美しさを感じた。
──花というよりは樹木のような、潔い格好良さがあるな。恐ろしいもののようには思えない。
侵しがたい気配は感じる。けれどそれは嫌悪感による近寄りがたさではない。例えて言うならば、神社の境内に似ているかもしれない。
「おはようございます」
あいさつの言葉が口をついたのは、どうしてだったのか。神社の神さまに朝の挨拶をした名残のようなものかもしれない。
「……ああ」
返ってきたのは思いのほか低い声。
吹き過ぎる風のような声に鼓膜を揺らされ、朝陽は驚いた。
返事があるとは思っていなかったのだ。
思わず動きを止めた朝陽を怪訝そうに見やり、その人は視線を上げた。
見ている先にあるのは神社、ではなく庵。温度を感じさせない目を向けているけれど、たぶんそうではないのだろう。
でなければ、お面様のときにも姿を現しはしなかっただろうから。
そう思い至れば、驚きは霧散していた。
「タロでしたら、元気ですよ。すこし不可思議なことが起きてはいますが、怪我などはなく」
「……あれはつかれやすい」
「つかれやすい?」
疲れやすい、だろうか。それとも違う漢字を当てるのだろうか。
──いや、それよりも。やはりタロの名前に反応したな。清春のほうに関わりがあるのかもと思ったが、タロと縁のある人なのだろう。
もしかしたら、今回の事態について何か知っていることもあるのではないだろうか。
朝陽はひらめき、たずねようとしたのだけれど。
ふっと、目の前の人の姿がかすむ。
「え?」
目がおかしくなったのかと瞬くけれど、そうする間にも白いその人の形はあやふやになっていく。
周囲の住宅や道路の見え方に変わりはない。ただ、そこに立つはずのほっそりとした男の姿だけがかすんでいく。
男の後ろの景色が透けて見え、もはや人の形すらあやふやになったとき。
「花に気をつけろ」
かすかな声が空気を震わせる。
「花?」
朝陽が聞き返した時には、白い人の姿は霧のように解けて消えていた。
かすかな甘い残り香だけが、ふわりと鼻先をくすぐった。
朝日が差すころ、空は雨粒を支えきれなくなったのだろう。ぽつぽつと雫が降りだした。
朝陽とタロはビニール傘をさして大学へと歩く。
今日の講義は二コマ目から。
朝の掃き掃除も早々に終わり、急がなくて良いぶんゆっくりと過ごせた。
キッシュを焼く間、タロにはサラダ用のレタスをちぎってもらった。コーヒーは苦くて飲めない、と聞いていたから昨日のうちに買っておいたオレンジジュースも添えた朝食は、自画自賛ながらなかなか充実したものだと言えるはずなのだけれど。
「タロ、足元ばかり見ていると転びかねない」
「ん……」
隣を歩くタロは、うつむいて元気がない。答える声もしょぼしょぼとしていて、かろうじて聞き取れるレベル。
けれどタロがしょげているのは、朝陽の提供した朝食とは何の関係もなかった。
──完食してくれていたし、関係無い、はずだが。
雫がすべる透明な傘の下、帽子を目深にかぶったタロの表情はうかがえない。
無理に会話をする必要もないだろう、と朝陽も口を閉じて歩いたため、大学に着くまで会話はなかった。
「ターロ、朝陽! おはよっ」
裏門を通り学内に入るなり、清春が体当たりするように現れた。
朝陽とタロが大学図書館前を通って講義室に向かうことを知っていたからだろう。傘も開かずに飛び出してきた清春を受け止めて、朝陽は「おはよう」と返す。
「タロ? どした。元気ねえな。寝不足か?」
清春は、タロからの返事がないことに首を傾げて傘の下をのぞきこむ。
「今日は帽子で隠してんのか。ってことはまだ治ってねえんだな」
「清春」
明らかに自分に話しかけられている距離でも、タロはだんまり。
──これは本格的に落ち込んでいるようだ。無理もないが……。
タロの深刻具合を再認識して、朝陽は清原を指先で手招く。
「なに、どした。まさかまた広がったのか?」と言う清春に、タロにも聞こえる程度の小声でささやく。
「広がってはいないようなんだが。色がな、変わってしまって」
「え?」
「朝起きたらタロの髪の毛の色が、部分的になんだが。違う色になってしまっていてな」
「えええ?」
「うぅ……」
声を上げた清春の視線を受けて、立ち止まったタロが帽子に手をかけた。
帽子をそっと外したその下からは、いつものざんばらな黒い髪。そして転々と水色に染まる箇所がある。しかしそれだけではない。
水色に染まった箇所が下の方から、赤紫に変色していた。
目にした清春はぽかんと口を開ける。
「なんつーか……ずいぶんきれいなグラデーションかかってんなあ」
呆けたように言う清春の声には、いっそ感嘆すら混じっているようだった。
その気持ちは朝陽にもわかる。
今朝、不可思議な白い人影が去った後、庵に戻って驚いたから。
明けきらぬうちは色の変化などわからなかったけれど、明るくなってから見たタロの髪はじわりと色を変えていた。
水色と赤紫。
正反対の色のように思えるけれど、ふたつの色はにじむように混ざり合って、きれいに同居している。
まるで花の色が移り変わるように。
──花……花に気をつけろと、あの人が言っていたな。しかし一体、どういうことなのか。
物思いにふけっていた朝陽は、タロのぐずるような声ではっとする。
「ううう、なんでぇ? 俺の髪、なんでこんなことなっちゃったの? こんなんじゃ新聞配達いけないよぉ……!」
「確かに、これじゃ目立ちすぎるよなあ。きれいだけど」
「そのことも含めて、後で時間をとれるだろうか。例の先輩の話も聞きたい」
時間はあるだろうか、とたずねれば清春はにひっと笑って親指を立てた。
「夕方からは昨日と別のサークルがあるけど、それ以外の時間全部タロのためにあけてるぜ!」
「清春ぅ、ありがと……!」
おどけた清原のしぐさで、タロが泣き笑うように顔をくしゃくしゃにする。
この笑顔が消えてしまう前に、どうにか解決しなければ、と朝陽はタロの背中をそっと叩いた。