2 侵食する色
翌朝、タロの水色は広がっていた。
昨日はほんの毛先だけにみられた水色が、頭の左半分をぽつぽつと青く染めているのだ。
鮮やかな色みだからこそ、黒髪のうえでいっそう目立つ。
講義室の入り口に立って室内をそうっとうかがっている状態でも、髪色が変わっていることが席に座っている朝陽たちからうかがえた。
近くでまじまじと見なければわからなかった昨日とは、明らかに違う。
タロ自身も気づいているのだろう。
入りにくそうに、講義室の入り口でそわそわと視線を送ってくる。朝陽と清春はそろってタロの元へ駆け寄った。
「タロ、なかなか来ないと思ったら」
「うっわ。頭すごいことなってんな。水玉模様じゃん」
タロは機械音痴らしく、携帯電話を持っていない。そんなタロと会うには、待ち合わせ場所で待つほかない。
講義の時間がせまるなか、姿を現さないタロに「具合でも悪いんかね」「もしも来なかったなら、講義が終わってから家を訪ねてみるか」と清春と話していたところだった。
近寄って見れば、タロは涙目ではあるが具合が悪いわけではなさそうだ。
「ううう、清春、朝陽ぃ……!」
「ああ、泣くな泣くな」
「タロ、とりあえずこの手ぬぐいでも被っておくと良い。ほら、これでわからない」
朝陽はポケットから取り出した手ぬぐいで、タロの髪を隠してやった。
「何それ。何で手ぬぐい持って歩いてんの」
「神社にお参りに来る方からのいただきもののひとつだ。ハンカチほどかさばらず、長さもあるから首にも巻けて案外と使い勝手が良い」
「ありがと、朝陽……」
ぐすんぐすんと鼻をすするタロを促して席に戻ると、すぐに教授がやってくる。
そのためタロの話を聞くことはできなかったが、周囲の学生たちの意識もうまい具合に逸れてくれた。
午前中の講義が終わると、三人で近場にあったベンチへと移動した。
研究棟と呼ばれる建物の間にあるベンチは、昼時であるのに人の姿がない。
学生食堂や購買部の周辺は数多くの学生でごったがえしていたというのに、静かなものだ。
雨の落ちる音さえ聞こえそうなほどの静けさ。
肌にまとわりつく蒸し暑さはあるけれど、この静寂は案外と嫌いではないな、と朝陽は思う。
雨が降っているということもあるのだろうが、ベンチの周辺にも誰もいなかった。
ベンチにはささやかながら雨避けが付いていて、朝陽たち三人が濡れずに座ることができるというのに、どうにも人気がないらしい。
並ぶ建物に挟まれた形になって、ベンチの存在に気づいていない学生も多いかもしれない。
「この辺に来るのは院生とか四年生あたりの、研究室に所属してる人だけなんだよ。あの人ら、基本的に夜行性だから、この時間は出歩かないらしいぜ」
サークルの先輩あたりに聞いたのだろう、清春の情報の恩恵にあずかって朝陽たちは腰を下ろした。
タロを真ん中にして、左右に朝陽と清春が並ぶ形だ。
「タロ、手ぬぐいを外しても良いか?」
「うん……」
許可を得てタロの頭に巻いた手ぬぐいをほどく。
はらりと外れた布の下から、のぞいた黒髪にはたしかに水色に染まった箇所が点々と見られた。ところによっては水色よりもさらに鮮やかな青色をしている場所もある。
清春がまだらに染まった髪の毛をつまんでまじまじと見る。
「まじで青いな。しかもぽつぽつ、散らばってる」
「ペンキを被ったとか、そういうわけではないのだろうな」
「何もしてないよぉ。昨日は、ふたりに選んでもらったやつでちゃんと髪洗って寝ただけ。そんで起きたらこんなことになってて……」
きちんとシャンプーを使ったのだ、と主張するタロの言葉通り、彼の頭からはかすかな花の香りが感じられた。決してペンキのような、刺激的なにおいはしない。
髪の変色した部分は昨日と同じように瑞々しい様子だけれど、手ぬぐいに色が移っている様子もみられなかった。
タロの髪をすくようにしている清春の指にも、色がつくことはない。
「毛先は水色じゃなくなってる……わけでもないか。青い箇所もあれば、青くないところもあるな。そんで頭の上のほうにも色が散らばってきたわけか。移動してるのか?」
清春が言う通り、タロの髪の水色は移動しているように見えた。
下から上に伸び上がるように、そして成長するように広がっている。
──何かに似ているような気もするが、何だろう。
さわやかな水色を散らした様から、思い起こされるものとは何か。
考えてみるけれど、今は思い当たるものがない。
「心当たりは」
「ないよ! わけわかんないよぉ!」
期待して聞いたわけではないけれど、タロの返事は早かった。
そのうえ、泣きそうな顔で彼は続ける。
「今朝、新聞配達しに新聞屋さんに行ったら、お店のおじさんに髪の毛のこと言われて。『髪色自由とは書いてあるけど、あんまり奇抜な色は苦情入っちゃうこともあるから気を付けてね』って」
「まあ、青色だもんなあ。茶髪に比べれば馴染みがないっていうか。気にする人もいるかもしんねえな」
「ううっ」
清春が新聞屋の肩を持てば、タロの目が悲し気にうるむ。
「とはいえ、タロが染めたわけではなく気づいたらそうなっていたというのだから、不可抗力だろう。そのせいでバイトを続けられないというのも、あんまりな話ではある」
「朝陽ぃ!」
我が意を得たり、と言わんばかりにタロがすがりついてきた。
「俺、俺、新聞配達やめさせられちゃったら大学通えないよぉ! 学費は免除だし、奨学金ももらってるけど、それだけじゃ食費とか教科書買ったりで足りなくなっちゃう……」
「タロ、奨学生だったのか」
「うん……俺、親とかそういうのいないから、色々補助もらえるんだって。でもこれから先は住むとことかそういうの、全部自分で用意しなきゃだから、少しでもお金貯めてかなきゃいけないのに……」
ぐすん、と鼻をすするタロは朗らかな姿とは裏腹に、けっこうな苦学生であったらしい。
今度から、余分におかずを作ったときはタロにおすそ分けしよう、と朝陽は胸の内でこっそり決める。
「俺の髪、このまま全部青くなっちゃうのかな。どうしよう……俺、朝陽たちといっしょに勉強してたいよぉ……」
「何とかしよう」
朝陽の口からそんな言葉が出たのは、無意識だった。
だって、このままにしておいてはあまりに哀れだ。
ぐしぐしと腕で涙をぬぐうタロに手ぬぐいを渡して、背中をさする。気分は弟妹をなぐさめているよう。
同学年の相手をしているとは思えない朝陽の行動に呆れたような顔をしながらも、清春は鞄から飴を取り出してタロの手に持たせている。
清春こそタロを甘やかしていると思うのは、朝陽の気のせいではないはずだ。
「何とかって言ったって……どうすんだよ」
「わからない。わからないが、土地に関係のある話のようだから。ドラッグストアの店員が情報を持っていたように、周辺に住む人にたずねれば何かわかるかもしれない」
何ができるのか、朝陽自身もわからない。
それでも何か行動をせねばならない。となると、昨日得た情報を手掛かりにするのが良いだろう。
「タロ、寮に同じ症状が出ている人はいないのか?」
なぐさめられ、飴をもらったタロはすこし気持ちが落ち着いてきたらしい。
もらった飴玉の包みをいそいそと開けるその横顔に、涙は見えない。
また泣き出してしまう前に、手始めに寮生の話を聞いてみようと思ったのだが。
「いないよ〜」
飴玉を口のなかでころころ。さっきまでとは打って変わってご機嫌になったタロが、のんびりと口にした回答に朝陽は目をまるくした。
「いない? 知らないではなくて?」
「うん。だって、よひら寮に入ってる学生、俺ともうひとりだけだもん」
返ってきたのは意外な言葉。
朝陽は住居を探す前に神社の管理人として住まないか、という話をもらったため、寮を見たことがなかった。
「清春は寮を見たことがあるか?」
「いや。寮は門限あるってパンフで見てたから、候補にもならなかったわ。入学前から色んな部、掛け持ちするって決めてたしさあ」
「もしや、よひら寮というのはかなり狭いのだろうか……?」
「さあなあ。でも、大学が用意してるくらいなんだから、部屋がふたつしかねえってこたねえだろ。めちゃくちゃボロいとか、古くて設備がやべえとかかもしれねえけど。見てねえからわかんねえって」
肩をすくめた清春に言われて、それもそうかと朝陽は頷く。
見も知らぬ寮についてあれこれ話していてもどうにもならない。
今すぐにできることとして、やはりタロに聞く以外にできる行動はなかった。
「タロは、そのひとりだけの寮生とは親しいのか?」
「んーん、会ったことない」
「会ったことがない?」
大学に入学してからおよそ二ヶ月。同じ建物に住んでいながら、その間に一度も遭遇しないなどということがあるだろうか。
「うん。なんかね~、ずっと昔から大学生してるとかで、長老って呼ばれてるんだって。寮に入るときに説明してくれた人が言ってた」
またよくわからない話が出てきた、と朝陽は思ったのだけれど。清春が「ああ!」と声をあげる。
「長老って寮に住んでんのか!」
「清春、知ってるのか?」
「知ってるもなにも、俺が過去問もらうって言ってる相手のひとりだよ。今日の夜、サークルで会えるはずだから話聞いてみるわ」
意外なところで接点が見つかった。
「長老のことは明日、また昼にでも話すわ。こっちはオレに任せてくれれば良いとして」
言葉を切った清春が、タロに目をやる。
「タロ、今日は寮に帰らないほうが良いかもしれねえ」
「そうだな、それ以上色が広がると、隠すのも難しくなるだろう。どこか、泊まる当てはあるだろうか?」
「あて……ない……」
しょんぼりと眉を落としたタロに、次は自分の出番だと朝陽は大きく頷いた。
「ならば、庵に泊まると良い。来るもの拒まずがあの神社と庵の信条だそうだから」