5 足りなかったのは
「ただいま戻りました」
庵の扉に向かって声をかけると、中からがらりと戸が開かれた。
出迎えたのは雨谷だ。
「おー、おかえり!」
明るい声をあげているが、その表情には安堵が見えた。
面をつけた佐藤を背中に貼り付けているのは、お面様が庵を出て行こうとするのを阻止していたのだろう。
そういう姿を見せようとしないあたり、雨谷はけっこうな気遣い屋なのかもしれない。
「思ったより早かったな。どこ行ってたんだ?」
あくまで大して待っていない、という態度をとる雨谷をあえて弄る必要もないだろう、と朝陽は問われたことだけを拾い上げて頷く。
「ああ、これを買いに」
がさり、持ち上げた紙袋が音を立てた。
中身の見えないそれに雨谷が首をかしげる後ろで、お面様の鼻がひくついた。
かと思えば口がぱかりと開いて「うぅ、うぅ」とうなるような声を上げる。そのまま佐藤が手を伸ばしてきたのは、朝陽の読みが当たった証拠だろう。
「玄関先で見ずとも、これはあなたのために買って来たもの。どうぞ部屋のなかで広げてもらいたい」
差し出せば、お面様の唸り声がぴたりとやんだ。
まばたきをしない目でじいっと朝陽を見つめ、差し出された紙袋を見つめ。
「あぁう!」
不意にあがった声にこもっていたのは、確かな喜色。
佐藤の手が大事そうに紙袋を抱えて、部屋のなかへといそいそ戻っていく。
もはや庵の外に出ようとしていたことなど、すっかり忘れた様子。その背を見つめながら、雨谷が瞬く。
「まじで、朝陽ってお面様の扱いうますぎねえ?」
「そうだろうか? 実家では曾祖母や祖父母とも同居していたから、そのためかもしれない」
「そんなレベルの話か……?」
首をひねる雨谷の横を抜けて、朝陽は部屋にあがる。
「いまお茶を淹れよう。お面様、もう少しだけお待ちください。雨谷もいっしょに座っていてほしい」
「ああ。袋の中身、見ても良いか?」
雨谷がそう言いながら身を翻したとき、ばりっと何かの破れる音がした。
見れば、座卓についたお面様が紙袋を引き破っている。
「あーあー。待って、って言われてたのに……ってこれ、どら焼き?」
紙袋からこぼれ、床にころがったものを拾った雨谷が目を丸くした。
「ああ、個包装で助かった。他にもめぼしい菓子をあれこれ買ってきてあるから、並べていてほしい。お面様が欲しがるようなら、開けて渡してくれて構わないから」
コンロで湯を沸かしながら頼む。
ほどなくして淹れたての茶を手にテーブルへ着けば、買って来た菓子たちがお面様の正面にきれいに並べられていた。
朝陽が買って来たのは、どら焼きやまんじゅうといった庶民的な和菓子。それからクッキーやタルトといった洋菓子も数種類。できるだけシンプルな味付けのものをあれこれとそろえたつもりだ。
いくつかはすでにお面様が食べたのだろう。空の袋が佐藤の膝のうえにぽつぽつと落ちていた。
「さあ、どうぞ。お菓子と一緒に召し上がってください」
「ううあっ」
茶の入った湯呑を差し出せば、うれしそうに面の口がすする。そしてまた次の菓子をつかんで、せっせと口に放り込む。
「めちゃくちゃ食ってる……お面様、まさかの甘いもの好きだったのか」
呆然とつぶやいた雨谷が「なんでわかったんだ」と朝陽に視線を寄こした。
「雨谷がコンビニで買ったものは多岐に渡っていたが、そのなかに甘いものはなかった。和洋中にかかわらず、手あたり次第に入れているわりに、だ。そこで、お面様は甘いものを好まないのだろうかと、さっき写真を見せてもらったわけだ」
幸運なことに、雨谷のスマホには今年だけでなく昨年の写真も載っていた。調理を終えた食べ物をまとめて撮ったもの。
そのなかに、朝陽は見つけたのだ。おはぎやどら焼き、それから干し柿といった、伝統的な甘味を。
「写真には甘いものが映っていたが、雨谷は買わなかった。つまり、甘いものを好まないのはお面様ではなくて雨谷なのではないか?」
「ああ、うん。その通りだ。自分が食わないから、頭になかったんだわ……」
次々と菓子を口に入れるお面様を呆けたように見つめていた雨谷は「でも」と自身のスマホを操作して眉を寄せた。
「今年も、ちゃんとおはぎとか用意されてたぜ? ほら、写真にも写ってる」
雨谷が示したスマホの画面、並ぶ料理のなかには確かに、おはぎなどの甘いものも用意されている。それは朝陽も確認していた。
「ああ、しかし、背景をよく見てもらいたい」
「背景? って、ただのキッチンじゃん。公民館のキッチンにおばちゃんたちが大集合してるところを撮ったんだから」
「そう。用意はされていた。だが、人々が集まりお面様を囲むのは、どこだろうか? そこに、すべての料理が一度に運ばれないとしたら?」
「え……あ、そうか! 甘いものは、お接待が進んでから出てくる。それも、並んだ料理がだいたい無くなったころ!」
はっとした顔でお面に目を向けた雨谷が「そうか」とつぶやく。
「今年はお接待がはじまった瞬間、お面様が佐藤にくっついたから、甘いものはまだ持ってきてなかったんだ。動き始めたお面様に気をとられて、そんなこと誰も気にしてなかったから」
「推測だが、お面様はある程度自由に動いて満足していたのではないだろうか? 日々、雨谷が様々な食事を提供したことで食事についても満足していた。足りなかったのは、ほんの少し」
「甘いものが、欲しかったってか。盲点だわ……」
「推測だがな」
すべては結果を見てからでなければ、わからない。
ふたりがじっと見つめるなか、お面様はせっせと菓子に手を伸ばす。
食事をとるときにひとかじり、ふたかじりしては品を変えていたのが嘘のように、端から順に平らげていく。まったく老人らしからぬ、健啖ぶり。
そうして空袋が二十あまりも積み重なったころ。
ふと、菓子をつかむ手がとまった。
「はあぁぁ…………」
深いため息のような、感嘆の吐息のような、声がお面の口からもれる。
その余韻が部屋の空気に溶けるころ。
からんっ。
軽い音をたてて、面がテーブルに落ちた。
「は」
「外れたな」
目を見開いた雨谷が硬直する横で、朝陽はさっと面に手を伸ばす。
「また佐藤にくっつくといけない。どうしたら良いだろう?」
「あ、ああ! 待ってくれ。いま用意する!」
慌てて動き出した雨谷が向かったのは、部屋の隅。彼が背負ってきた大きなリュックを開けると、なかから出てきたのは、ひと抱えもある四角い風呂敷包み。
テーブルの上に置いた雨谷が手早く風呂敷をほどくと、中には古めかしい木箱と長い組紐が入っていた。いつ面が外れても良いように、背負ってあるいていたのだろう。
雨谷がかぱ、と木箱のふたを開ける。
「ここへ」
「ああ」
木箱のなかに敷かれた柔らかそうな布の上に、お面を置く。
待ち構えていたかのようにふたを閉めようとした雨谷が、ふと手を止めた。
「……お面様、笑ってるな」
お面様に目をやると、なるほど。お面様の目はゆるく細められ、うすく開いた唇は口角がほんのりと上がっている。険しく寄せられていたはずの眉間にあるのは、ただの加齢によるしわのよう。
はじめて見たときに「怒りの形相だ」と感じた名残は、見当たらない。
ぽかりとあいた眼窩さえ、どこか満足気な気配を漂わせているように思うのは、朝陽の願望だろうか。
「間違いなく笑っている」
「だよな」
安堵の笑みを浮かべて、雨谷はそっとふたを閉めた。
丁寧な手つきで木箱に組み紐をかけ、結ぶ。
どちらからともなく詰めていた息を吐いたとき。
「ふあああああ~! なんか、めっちゃ良い夢見たんだけど~」
静けさをうちやぶる明るい声があがる。
面の外れた青年、佐藤が座ったまま大きく伸びをしているところだった。
「佐藤! お前、なんともないか!?」
木箱をリュックにしまった雨谷が駆け寄ると、佐藤はきょとりと目をまるくする。
「なんともって、何があ? 俺ねえ、うまいもの腹いっぱい食べる夢見てたんだけど、起きても腹いっぱいなの、はじめてかも!」
のんびりした口調と無邪気にはしゃぐ笑顔。小柄な体とやや高めの声も相まって、まるで少年のよう。
見知らぬ場所にいると気づいたのか、不思議そうにあたりを見回す佐藤は、表情がころころ変わる。
「お面様が食べていたものは、どうやら佐藤の腹に収まっていたとみえる。睡眠時の様子までは知らないが、寝不足のようにも見えない」
「ってことは、ほんとになんともないってこと……?」
信じられない、とつぶやいた雨谷の顔に、じわじわと笑いがにじむ。
「良かったな、タロ」
「うん? うん! なんか、良い夢見られて良かったー。ところで、ここどこ?」
きょろきょろする佐藤と目があった。「知ってる?」と問いかけるような視線の無垢さに、朝陽は歳の離れた弟妹を思いだす。
「ここは神社の庵……管理人が住む場所だ」
「神社! 俺、勝手に入っちゃった! ごめんなさい、神主さま!」
慌てた様子で頭を下げる佐藤に、朝陽のほうこそ慌ててしまう。
「いや、俺はただの管理人なので。というか、ここは神社ではなく、庵だ。来るもの拒まず、誰でも迎え入れるところだから」
「そうなの?」
「ああ」
「良かった〜」
佐藤がふわふわと笑うと、部屋の空気も緊張してなどいられないらしい。
なんとなく三人でゆるゆると笑い合う、締まらない一件落着となった。
雨谷と佐藤について階段を降りているうち、空が夕焼け色に染まりだす。
空の色に「わあ〜!」とはしゃいだ声をあげて、佐藤は駆け降りていく。その後ろを雨谷と並んで歩いていると。
「めちゃくちゃ今更なんだけどさ……」
ぽつんと雨谷が口を開いた。
視線を向ければ、雨谷は前を向いたまま話しているので、朝陽もならって前を向く。
「なんで、朝陽はこんな助けてくれたわけ? 言ったらあれだけど、オレらほぼ初対面みたいなもんじゃん。なのに助けてくれるとか、優しすぎじゃん。やべえのと関わらないようにしようとか、思わなかったの?」
助けて、ってすがりついてるオレが言えたことじゃないけど。
雨谷の言葉は本当に今更で、朝陽はつい真顔になってしまう。
「なぜ……そうだな。手が空いていたから、だろう」
「は?」
横顔に雨谷の視線を感じながら、朝陽は両腕を伸ばし手のひらを広げてみた。
佐藤はもう階段を降りきっていて、指の間にちいさく見える彼は振り返って手を振っている。
「俺には腕が二本あるが、弟と妹を連れて歩いている時はそれぞれと手を繋ぐから、両手が塞がっている。そのときに雨谷が『助けて』と言っても、俺は『無理だ』と答えるだろう。悪いが、弟妹を優先するからな。だが、今回、俺はひとりだった。両手が空いていたから、手を貸した。雨谷でなくともそうしただろう。それだけのことで、優しさではない」
朝陽のなかには明確な優先順位がある。
幼い弟妹が最優先。それから身内や親しい友人がくるだろう。
けれど、ここに朝陽の家族はいない。同じ大学に進んだ友人もおらず、人間関係はゼロからはじまったばかり。
だから、誰であっても話を聞いただろうし、手を貸しただろう。懐っこく笑っている佐藤のことを助けたかったなんてわけでもないのだから、優しさではない。
本心からそう言ったのだけれど。
「ふはっ。それを優しいって言うんだよ」
雨谷はおかしくてたまらない、というように笑う。
「そうだろうか?」
「そーなの」
肯定がずいぶん早い。
腑に落ちない朝陽が首をひねる横で、雨谷は楽しそうに伸びをひとつ。
「朝陽、神社住まい合ってると思うぜ。来るもの拒まず落ち着いてるとこ、神社っぽいもん」
言うだけ言って雨谷はさっさと階段を駆け降りて行った。
佐藤と笑い合う顔は、今日見た中でいちばん朗らかだ。
だからさっきの『神社住まいが合ってる』という言葉も、本心からのものなのだろうけれど。
「そうだろうか……そうなると、良いが」
まだまだ新しい暮らしは始まったばかり。これからに期待だな、と朝陽も階段を駆け降りた。
〜お面様 完〜
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