4 解決の糸口
食べ物に伸ばされていた佐藤の手が止まったのは、それからおよそ一時間が経ったころ。
テーブルの上の食べ物はほとんどすべて食べつくされていた。大部分を腹に収めたのは、雨谷と朝陽だ。
面は老人の顔をしているだけあって、驚くほどの大食らいというわけではなかった。
ただあれこれと食べてみたいものがあるようで、すこしかじってみては別のものへ手を伸ばし、また味見してはその隣に口をつける、ということを繰り返していた。
ずいぶんと腹が膨れた朝陽が「これだけ食べておいて言うのもなんだが、あんなに買う必要はあったのか?」と問えば。
「お面様を満足させることが目的だから、買わなきゃダメなんだよ。オレたちはそのお手伝いしただけ」
腹をさすった雨谷が「そうだそうだ」と体を起こす。
「今日の昼飯の写真をじいさん連中に送っとかねえと。忘れるとこだった」
いそいそとスマホをいじる雨谷は、画像を送信しているらしい。そういえば食事の前に並べた食べ物と佐藤とを写真におさめていたな、と朝陽は思い出す。
「報告義務があるわけか」
「そう。ちゃんとお接待してるかー! ってうるせえの。あと、表情でお面様がどんだけ満足してくれてるかの判断もしてるっぽい。だから食後の写真も送らないと」
お茶をすするお面様の写真を撮り、さっそく送っている。
間もなく、軽快な音を立てて返信があった。
「おっ『ややご満足いただけたご様子。面がはずれる気配はないか、確認すべし』だってよ!」
「それでも『やや』か」
「いやいや、今日までの十日くらいの間、ずっと『変化なし、さらなる献身を』だったんだぜ? やっぱ朝陽に頼って正解だった!」
ずいぶん喜ぶ雨谷の様子を見るに、その言葉は誇張されたものでもないようだ。
ふと、朝陽は開いたままだった雨谷の画像フォルダがちらりと目に入る。
「見ても良いだろうか?」
「いーよ。別に面白いもんなにも入ってないけど」
「いや、そうではなく」
朝陽が気になったのは、ずらりと並んだ食べ物の写真。
そのどれもに面をつけた佐藤が映っていることから、お面様に憑かれてからの食事の内容だろう。
ずらずらと並ぶそれにざっと目を通す。
「食事の内容に決まりはないのか。豪華な弁当、総菜、コンビニの食事に、これはどこかの店屋物だろうか?」
器も中身も様々な食べ物が、どの写真にもたっぷりと写っている。
横からのぞき込んだ雨谷が「おー」と頷いた。
「どうにかこっちに移動して、アパートの近くにある店から順番に制覇してる感じだな。でもそろそろだいたいの物をお供えしちまったから、どうしようかと思ってんだよ。次あたり、朝陽の手料理を食べさせたら満足してくれたりしねえかなあ。コンビニ飯はもう食べたことあるから、変わったもんって言ったら朝陽が淹れたお茶くらいなもんだしよ」
およそ十日間、雨谷なりになんとかお面様に満足してもらおうと知恵を凝らしたのだろう。
朝陽の手料理でダメならどうするかなあ、食い物じゃだめなら女の子でも誘って遊ぶかあ? とぼやく雨谷のとなりで朝陽はなおも写真をじっと見る。
「……聞くが、地域でお面様をおもてなしする時の写真はないのだろうか」
「あ〜、あったっけなあ」
スマホを受け取った雨谷はすぐに「ああ、これこれ」と画面を朝陽に向けた。
「こっちのが今年ので、一枚前のが去年の写真な。ばあちゃんたちが作ったご馳走の写真。自分の番が来た時の参考にするから撮っといてって、母ちゃんに言われてさあ」
二枚の写真を見比べる。
去年のものと、今年のもの。
「例年はこの料理でお面様は満足していたのだな?」
「ああ、そうなんだよ。何が足りねえんだろうなあ」
田舎の行事あるあるで、おそらく作るメニューにある程度の決まりがあるのだろう。そしてこれも田舎あるあるで、文書にして申し送りがあるわけではないのだと想像ができる。
口伝えに今日まで続いてきたのだろうけれど、写真に残しておきたいという雨谷母の気持ちは朝陽にも理解できた。
そしてそのおかげで、こうして比較ができることに感謝する。
──やはり、この考えが正しそうだ……となると、お面様が求めているのは恐らく……。
ずらりと並んだ料理のなかに目当てのものを見つけて、朝陽は顔を上げた。
「雨谷、おそらくだが、解決できるかもしれない。そのために必要なものがあるから、すこし待っていてもらえるだろうか」
ちょうど良く、うとうとし始めたお面様と雨谷を庵に残し、朝陽は神社の階段を降りる。
昼をいくらか過ぎて、春の陽射しはずいぶんとやわらいでいた。長い階段を駆け下りた先、鳥居を抜けたところでちょうど吹きつけた風は、思わぬ冷たさ。
春先に戻ったかのような冷気に足を止めた朝陽は、ふと顔をあげた先に人影を見た。
鳥居の向こうに広がる通りにぽつんと、人が立っている。
道の端に作られた塀の影にいるために姿がはっきりと見ては取れない。
けれども、神社の前にいるのならばお参りの方だろう。そう思って、朝陽は会釈をする。
「こんにちは」
声をかけてから、気がついた。
──この時間帯にお参りに来る方は、老婦人ではなかったろうか?
朝陽の記憶が正しければ、この時間に来るのは女性だったはず。それも、子どものように小柄な。
けれど今、見えている人影はすらりと背が高い。同年代の平均以上に育った朝陽とそう変わらないその人は、しなやかな木のようにほっそりと立っている。
細いが、折れそうな細さではない。おそらく男性だろう。
塀の影に沈んで姿がはっきりしないながらも、それだけは見てとれた。
日影に立っていながら、ほの白く目に映るその人の唇がゆるりと開かれる。
「いくら好物とはいえ、続けて出されれば飽きがくる。そうは思わんか」
「は……」
唐突な問いかけ。けれど朝陽が驚いたのはその点ではなかった。
ざあっと香ったのだ。男の声が聞こえた瞬間、梅の香が。
馥郁たる香りに包まれる、甘やかな陶酔。
朝陽は咲き誇る梅の大木の幻想を見た。
山に囲まれたちいさな村の真ん中で、枝を広げる梅の幻。冬の終わりを告げる甘酸っぱい匂いに、小鳥が舞い凍った地面が解け、草の芽がほころんで……。
「あれ」
瞬きの間に、幻想はかき消えていた。
あれほどはっきりと香った梅の香も消え去り、人影も見当たらない。記憶にあるのはほの白い輪郭だけ。
「あら、庵住さん」
「樫楽さん……」
立ち尽くす朝陽は、声をかけられてハッとした。
振り向けば、そこにいたのはいつもお参りにくる老婦人、樫楽がにこにこと笑っている。
「このあたりのひとはね、神社の離れを庵と呼んでいて。そこに住まう世話人のことを庵住さんと呼ぶのよ」と教えてくれたのは、はじめてあいさつをした日のことだった。
──そうだ、樫楽さんならこのあたりに詳しいだろう。
掻き消えるように姿を見失った人影は気になったが、それよりも今は成すことがあると思いだす。
「こんにちは、樫楽さん。今からお参りですか?」
「ええ。なんだか冷えてきたからどうしましょう、と思っていたんだけれどね。庵住さんに会ったらふうっと暖かくなったの」
「そうでしたか。俺はてっきり、樫楽さんが温もりを運んできてくださったのかと思いましたよ」
「あら、なんだか照れるわ」
神様のご利益かしらねえ、ところころ笑う老婦人は、ご機嫌だ。
いまのところ樫楽さんが不機嫌だったところを見たことは無いのだけれど、機嫌が悪いよりは良いほうがありがたい。
なにせこれから、彼女に教えを請わねばならないのだから。
「ところで樫楽さん。いま庵に大学の友人が来ていまして。ちょっと教えていただきたいことがあるのですが」
樫楽が階段に向かう前に、と朝陽は切り出した。