3 お面様のこと
鳥居をくぐって百八段の石段をあがる。ほどよい筋肉の張りを感じながら弾む息をととのえ、神社に向かって二礼二拍手一礼。
下げた頭を戻したら踵を返し、登ってきたばかりの階段を二十段降りる。
そこには、階段の外に伸びる小道で待つ雨谷と佐藤がいた。
「待たせたな。先に行ってくれていてよかったのだが」
「うんにゃ、興味あったから見てただけだし。ていうか、毎日ここ登って神社に参るわけ? めっちゃ大変じゃん」
階段の下に目をやり、階段の上へ目をむけて雨谷が大げさに驚いてみせる。
「そうでもない。なにせ家賃がタダだから」
「あー、家賃タダはめっちゃおいしいな! けどオレ無理だわ。毎日階段上り下りして、神社の掃き掃除もするんだろ? 登って来た年寄りの相手もしなきゃなんだろうし」
「いや、階段は太ももを鍛えるのにちょうどいいから、むしろご褒美と言える。ご年配の方の相手といっても、軽い挨拶程度。とはいえ、基本的に部屋に鍵はかけない約束は少々、難があるとは感じている。遠方からお参りに来た人が休憩したり、泊まれるように作られた庵だというから」
四国で行われているお遍路の亜種とでもいうべきか。八十八箇所までは無いけれど、県内にいくつかあるマイナーな巡回路のひとつになっているらしい。
それゆえ、誰かが管理しなければならないということなのだが、以前の管理者は高齢と膝を痛めたため引退。誰か中継ぎでも良いからいないかと、縁戚の類縁を辿って巡り巡って朝陽の元へ話が来たのだ。
「えっ、鍵かけらんないの!? 貴重品とかどうすんだよ」
「金庫がある。ノートパソコンは入らないので、持ち歩いているけれど」
背中を向けてバックパックを見せれば、雨谷は「はあ~」と感心したような呆れたような声をあげる。
「まーじかー。オレのとこの地域もたいがい変わった信仰してると思ってたけど、ここもなかなかドギツイ地域ルールがあるのなあ」
ぼやく雨谷と無言の佐藤を連れて、小道を行く。ぽつぽつと枝を伸ばす木々を避けながら進むと、ほどなく平屋建ての小さな家屋にたどり着いた。
焼杉板の外壁にいぶし瓦を葺いた地味な外観どおりの、質素な家だ。ふすまで仕切れる八畳の部屋には風呂が付いていないため、ふもとの風呂屋でお湯をもらってえっちらおっちら階段を上る手間はある。
間違いなく筋肉に良いので、朝陽にとってはむしろご褒美だ。
トイレは洋式の水洗であるし、奥の間の片隅には冷蔵庫、三口コンロ、流し台があって、自炊ができるだけの設備は整っている。洗濯は風呂屋のそばにあるコインランドリーで事足りる。
不便な点はちらほらあるけれど、それでも家賃がかからない。
その一点が、すべての不満点を覆す。
「ただいま戻りました」
無人の住まいと知りながらも、玄関扉を開ける前にはひと声かける。
神社へのお参りと同様に、これもまた朝陽の日課だ。
とはいえ、どちらもはじめて十日しか経たないので、まだ日課と呼んで良いのかわからないのだけれど。
「おあがりください」
庵の管理人として雨谷と佐藤を招き入れる。来る者拒まず、去る者追わず。この場所を必要とする方はお通しするように、というのが庵のルールだ。
「おじゃましまーす」
手を使わずに靴を脱ぐ雨谷から買って来た物の袋を受け取って、先にテーブルに下ろしておいた三つの袋の横へ置く。「サンキュ」と口にした雨谷は、佐藤の靴を脱がせて室内へと誘導した。
背中の大きな荷物は、部屋の隅に置いてもらう。
テーブルの上には買って来た食べ物が所せましと並べられた。淹れたての熱い茶を苦労してすき間に押し込み、朝陽もテーブルを囲む。
さっそく佐藤が湯呑を手にとり、お面の翁がすする。顔は怒りの形相だが、どことなくほっこりして見えるのは、朝陽の気のせいだろうか。
「さて、食べながら話そうか」
「おお、朝陽も食ってくれよ。さっきも言ったけど、俺の金じゃないから気にしねえでさ!」
「じゃあ、遠慮なく」
「あ、一応、お面様が欲しそうなやつは譲ってやってくれな。悪いけどさ」
「ああ。お相伴にあずかるのだから、当然のこと」
言いながらも、さっそく手近な弁当に手を伸ばす。食べる前に佐藤、いやお面様の様子をうかがうことも忘れない。
お茶で暖まったお面様は、おにぎりが食べたいらしい。
厳重に巻かれたビニール包装に苦戦している様子だったので、レクチャーするつもりで別のおにぎりのビニールをはずすのを見せる。すると手にしていたおにぎりを渡してきたので、開封して手渡すとせっせとかじりつく。
お面様は食べるのが遅い。それが老人だからか、お面だからかわからないが、おかげで世話を焼きながら朝陽と雨谷も昼食を摂れる。
「朝陽、お面様の相手すんのうまいな。うちの地区の連中よりうまいんじゃね?」
「そうか? 歳の離れた弟妹がいるせいだろうか」
「あー、お兄チャンか。それっぽいわ」
何がおかしいのか、けらけら笑った雨谷がふと表情を改めた。手にしていたプラスチックスプーンを器に置いて、座り直す。
「お兄ちゃんの面倒見の良さに甘えちゃってたけど、そろそろちゃんと説明しねえとな。けど、何から話したもんかな……」
「そうだなあ。お面様とは何なのか、そこから教えてもらえると助かる」
「もっともだな」
頷いて、雨谷は話し出した。
オレの地元は隣の県のすっげぇ田舎でさ。聞いたことない? マジの蔦で編んだ橋がかかってる、ちょう地味な観光名所があるところ。
そこの地域信仰っていうのかなあ。それがお面様。
普段は神社の奥にあるちっちゃい建物、社っての? そういうのに仕舞われてがっちりしめ縄とかで閉じてあるんだけど。
年に一回、春に一日だけ、その社を開ける日があるんだ。
お面様の日って呼んでんだけど。
開けて何をするかって?
お面様を接待すんだよ。飯食わせたり踊りを見せたりして、一年間溜め込んだ鬱憤を晴らしてもらう。そんで、また一年間大人しくしててもらうってわけ。
この接待の前と後で、お面様の顔が変わって見えるとかって言って。そんで年寄りが「ああ、今年もお怒りを鎮めていただけた」って拝むんだよな。「また一年、村は安泰だ。ありがてえ、ありがてえ」って。
うちの地区が村だったのなんて、いったいいつの話だって思っててさ。お面の顔が代わるのなんて、そんなの光の加減だとばっかり思ってた。接待の真ん中に行くこともなかったし、わざわざ年寄りの顔したお面を覗くような趣味もなかったしさ。
お接待のときも、単純に人数足しで端っこにいて飯食ってただけ。なんか、大勢に囲まれるのをお面様が喜ぶとか言うから参加してただけでさ。俺、お面様はただの田舎の古い風習だと思ってたんだ。
地域のひとがみんなで集まって騒ぐための口実っていうの? そのために、ちょうど良く昔からあったただ古いだけのお面を、みんなでありがたがってるんだろうな、って。
だから、新歓で盛り上がった流れで田舎自慢みたいな? お面様の話しをしたわけよ。田舎の行事で帰らなきゃいけねえんだーって。そしたら佐藤が、行ってみたいって言いだして。
俺もちょうど入学式終わって実家でお祝いの飯食うって呼ばれてたから、良いぜ、って。すっげえ軽い気持ちで言っちゃって。
ほんと、近所で祭りしてるから来る? くらいの気持ちでさ……。
そこまで話した雨谷は、深く息をついた。
「でも、違ったんだな」
佐藤の顔にぴたりとはまったまま、佐藤の体を使って飯を食う面をじっと見つめて、雨谷が唇をかむ。
「お面様は楽しいお祭りなんかじゃない。気軽によその人を誘っちゃいけなかったんだ。そのせいで佐藤は……」
声を途切れさせ、雨谷はうつむいてしまった。
朝陽が怒涛の日々に翻弄されている間に、雨谷と佐藤は何やらあれこれと大変な目にあっていたようだ。
――まさかお面が動くなどと、予想できるとも思えないけれど。
責任を感じているのだろう雨谷にそれを言ったところで何になるだろう。
丸まった背中を見下ろして、朝陽はふと疑問を口にする。
「そういえば、このお面は地域の文化財のようなものなのだろう? くっついて取れないとはいえ、よく大学に戻ることを了承されたものだ」
「あー……お接待をはじめたら、お面様を止めちゃだめなんだよ。だから佐藤の体を使って外に出るなら、満足するまで待たなきゃだめとかで」
なるほど、お面様は恐いタイプの神様らしい。恐ろしいものを祀り上げて守ってもらうというのは、しばしばあり得る信仰だ。
「それで佐藤を止めずにいたら、大学に戻ったわけか。偶然、にしてはできすぎているように思う。佐藤の出身はこのあたりなのだろうか?」
「いーや、違うと思う。佐藤に張り付いたあと、食うだけ食ったらひたすら歩いてどっかに行こうとしてさ。大変だったんだよ。だから何とか止めようと思って、中学のときの地図帳を渡して『どこに行きたいの』って聞いてさ。そしたら、本州の四賀県。あそこに行きたいとか指さすもんだからさあ。オレもう、必死こいて頭さげて、変更してもらったわけよ!」
四賀県といえば、本州の真ん中あたりにある県だ。巨大な湖があるということは知っているが、朝陽は行ったことがない。
ここ、九州の央板県から行くとなると、新幹線でも何時間かかることやら。
しかしそれ以上に朝陽が驚いたのは、そこではない。
「お願いして、変更を?」
「おう。年寄り連中はお面様のご機嫌伺いが一番だ、今すぐ四賀県行ってこいとか言ってたけど。でも、無理じゃん。だって、入学式の直後だぜ? 履修登録とかサークル勧誘とかイベント盛りだくさん、一番楽しい時期なのに。全部ぶっちぎってしょっぱなから留年確定とか、ほんと無理じゃん」
そう話す雨谷はイベントごとが好きなのだろう。実に楽しそうな顔をしている。
お面のことが無ければ、今ごろサークルの二つや三つ、かけもちしていてもおかしくない。
「確かに、雨谷も佐藤も新入生なのだから、履修登録ができたのは何よりだな」
「まあ、佐藤の希望聞いても反応なかったから、全部オレと同じ講義になっちゃったんだけどな!」
明るく言う雨谷だが、形の良い眉は情けなく下がっている。佐藤の楽しみを奪ってしまったと、気にしているのだろう。ほんの数時間の付き合いの朝陽にもそれがわかってしまった。
「早いところお面を外して、佐藤に謝らなければな」
雨谷の背中を軽く叩けば「うん」と小さな返事があった。