平穏な日々に
オオグライの棲家から逃げ出した朝陽は、空を見上げて驚いた。
暗く湿った空間にいたのは、そう長い時間ではない。長く見積もっても三十分やそこらだろう、という体感だったのだが。
「嘘だろ、真っ暗じゃないか」
慌てて確認したら携帯電話は、五時間ほどが経っていると示していた。
知らぬ間に届いていた清春からの安否確認メールに返事をして、麟太郎へもタロを取り戻したことを知らせておく。
「なあ、朝陽ぃ。めっちゃ暗いけど今日はどこで寝るの?」
「そうだな……大きい駅のそばまで行って、漫喫を探すか」
時間的に、電車は帰路の途中までしか動かない。
ホテルをとっていない状態で夜を迎えてしまったので、行き当たりばったりで行動するしか無い。
身につけていた服やリュックが湿っただけで、泥に塗れていなかったのは、たいへん助かった。
その湿り気も、駅にたどり着くまでの間に乾いてしまう。
──琵琶湖近くのローカル線が遅くまで動いてくれて助かった。
駅にたどり着いて間も無く、新幹線の停まる駅まで行く電車が来た。
これが大学のある町や、朝陽の出身地の駅ならば、一時間に一本あれば良いほう。下手をすると、もう終電を迎えてしまっているところだ。
新幹線の停まる駅まで電車に揺られる。
降りるなり、コンビニへとタロを引っ張り込んだのは、あれこれ買うため。
着の身着のままでさらわれているため、衣服が一式揃うことのありがたさを実感する。
それから、さらわれた時から飲まず食わずだというタロのために食料を選ばせようとしたのだけれど。
「俺、べつにお腹空いてないよ」
「そうだとしてもせめて何か飲んでおけ」
「のど渇いてないんだけどなあ」
腹も減らず、のども渇いていないというタロがむしろ心配だった。
タロが行方不明になってから丸一日以上が経っているのだ。その間、飲み食いした記憶がないというのに飲み物のひとつも欲しくならないことなどあるだろうか。
──オオグライの住処は時の流れが違う、なんてことがあるだろうか。
ちら、とよぎった考えにそっとふたをして、朝陽は「良いから何か買え。食い切れなかったら明日の朝ごはんにすれば良い」と無理に選ばせた。
そして漫画喫茶に向かい、シャワーを浴びて個室になだれこむ。
リュックから梅の木を取り出して枝を広げてさせて、朝陽とタロは広いフラットシートに横になった。
途端に疲れがどっと襲ってくる。
「……疲れたな」
「俺、なんか修学旅行みたいで楽しいかも」
「だったら次は清春も誘って、三人で旅行に行くか」
「うん!」
はしゃいだ様子のタロだったが、明かりを落とすとすぐに寝息を立てはじめた。
興奮していただけで、疲れはしっかり溜まっていたらしい。
穏やかな寝顔をちらりと見て、朝陽も睡魔に身を任せた。
帰ってきた朝陽とタロを出迎えたのは、何も変わらない日常だった。
清春と麟太郎はタロのことを思い出し、大学の書類も元通り。
「記憶も記録も濁してあっただけなんでしょうね。奪われていなくて幸いだわ」
とは麟太郎の言である。
読めなくなっていた麟太郎の手紙を見せてもらうと、きちんと読めるようになっていた。
不思議なことだが、無事に済んだのだから問題ない。
タロの行方不明自体がなかったことになっていたので、大学の試験は予定通りに行われた。
とはいえ、元々知ることを好むタロと、空いた時間に試験勉強を進めていた朝陽はさほど慌てることもなく試験に臨めた。
盛大に焦り、連日寝不足だったのは清春である。
「過去問覚えりゃ良いやと思ったのに、なんであんなに範囲が広いんだよ!」
「広いとはいっても前期に習った内容だぞ」
「講義聞いて、過去問やっとけば解ける問題ばっかりだったねえ」
ほくほく顔のタロは、自己採点の結果が良かったらしい。
「試験結果出るの、来週だっけ。楽しみだなあ」などと笑っている。
余裕に満ちたタロのとなりで、清春が「そうだよ」と頷く。
「結果は来週までわかんねえんだから、この土日は何も考えねえ。オレは寝るぞ! 朝陽んとこで二日間、寝倒してやるっ」
澱んだ目で叫んだ清春が走り出した。
疲れと寝不足でだいぶおかしくなっているらしい。
「ええ〜、俺そんなに寝られるかなあ」
タロも付き合うつもりらしく、楽しそうに清春の後を追っていく。
「タロ! 先に帰るなら、コテイ様が日に当たりすぎていないか見ておいてくれ」
「はーい」
コテイは、オオグライと向き合ったあの日以来、姿を見せていなかった。
背負って帰った梅の木はすこし萎れていて、ずいぶんと力を使わせてしまったのだろう。
けれど麟太郎に見せたところ「うっすいけど花の香りがしてるから、大丈夫よ。寝て、力を溜めてるんじゃ無いかしら。きっと春には花を咲かせるわ」と言うので、日々世話をしている。
きっときれいな花を見せてくれると信じて、いまは待つだけだ。
ふたりを追いかけようとした朝陽は、ふと足を止めた。
試験勉強の最中、息抜きに調べた事を思い出したのだ。
オオグライの棲家が湖のそばにあるとして。そこから水脈が繋がっていそうな場所。
ダムの底に沈んだ村が無かっただろうかと、調べて時代を遡っていった結果。
村に人が住んでいたのは百年以上も前のことだったのだ。
そうであるならば、警察が探したところでタロの親類に行き当たらないのも当然だと頷ける、けれど。
──もしもあの情報が正しかったとして。タロはオオグライに囚われてどれほどの時を過ごしていたのか……。
考えてしまいそうになった朝陽は、思考を止めた。
「考えたところでどうしようもない。それより、夏休みは何をして過ごすか、考えないとな」
タロは追試など無いだろうから、アルバイトの予定だけ聞けば良い。
問題は清春だが、要領は良いからそこまで酷いことにはなっていないと信じたい。
神社で行われる地域の夏祭りで店を出して欲しいと頼まれてもいるし、実家の祭りにタロを招待もしたい。
平穏になったらなったで、やることがいっぱいある。
「まったく、退屈する暇もないな」
朝陽は笑って、先に行ったふたりを追いかけて走り出した。
〜 完 〜




