4 オオグライ
朝陽が琵琶湖を目指しているその頃。タロはひとり、暗がりにいた。
庵から連れ去られ、どれくらいの時間が経ったのか。
冷たい泥に手足をとられて身動きが取れず、光が射さないせいで周囲の様子はうかがえない。
タロにはここがどこであるかはわからなかったけれど、どうしてここにいるかはわかっていた。
巨大なぬめる異形にさらわれたのだ。
丸い頭と茶色と黒のまだらにぬめりを帯びた体には、申し訳程度に指先がわかれた四肢。べたりとした尾は長く、異様に小さな瞳を持っている異形。
こんな化け物を見るのは、はじめてのはずなのに。
どうしてか、タロは「ああ、またここに来てしまった」と思ったのだ。
あたりに漂うひどい生臭さにはなじみがあるような気がして、けれど喜びなんて湧いてこない。
手足を絡めとる泥ごしに絶望が染み込んでくるようで、タロは沈み切ってしまいそうな体を浮かせておくことで精いっぱい。
本当は逃げ出したいけれど、タロが身じろぐたびそばにいる化け物が太い尾を泥に打ち付けて鳴らすのだ。まるで不機嫌を表すようなそのしぐさに、これ以上動けばひとのみにされるのでは、とタロは動けずにいる。
そう、異形はタロを食おうとはしていなかった。
神社の階段を降りきった先で泥に沈んだときも、巨大な口に包まれて暗いこの場所へ運ばれたときも、それからどれほどか時間の経ったいまも。
すぐそばの泥にタロの身を埋めて逃がさないようにはするけれど、ただそれだけ。
──エサってわけじゃない、みたいだけど。
口の中から吐き出されたとき、混乱のままにそう思ったタロだったけれど、すぐにその考えを保留にした。
タロを泥に埋めた化け物が、巨大な口を開けてぽこ、と泡をひとつ吐き出す。
唾液だろうか。ねとりとしたもので覆われた歪な球体は、生臭い暗がりのなかにぼんやりと光る。
光に照らし出されたのは存外狭く、何もない空間。
そんな空間に浮かぶ光はささやかなはずなのに、ひどくまぶしくて。思わず目で追ったタロは、その光る泡に映る景色に気が付いた。
「あれ、俺……?」
つぶやいたタロの視線の先。ぬめるように淡く光る泡のなか、ずいぶんうっすらとではあるけれど、いまよりうんと幼いタロの姿が映っている。確かにタロなのに、洋服に慣れた大人のタロには、身につけた裾の短い着物に違和感しかない。
ひどく怯えた様子であたりを見回す幼いタロ。必死で逃げようとしているのだろう、泥をかきわけどこかへ進もうとする体を咥えて持ち上げたのは、いま目の前にいる巨大な化け物だ。
音はない。
あげたであろう悲鳴も助けを呼ぶ声も空気を揺らしはしなかったけれど、歪な景色のなかのタロは化け物を見上げて唇を震わせる。
「お、お、ぐ……らい? オオグライ、か……?」
化け物の名だろうか。
唇の動きから読み取れたのは、その言葉くらいなもの。
記憶にない幼いころのタロが泥のなかで必死にもがく映像は、やがて蝋燭の火が消えるように静かに消えた。光を失った泡を化け物、オオグライがぱくりと呑み込んだ。
そしてまた開いた大口から泡をぽこり。
吐き出した泡がほんのりと暗がりを照らし、幼いタロの姿を朧気ながらも映す。
その光景をじっと見ていたタロに、オオグライの吐き出した泡のひとつがぬるりとぶつかった。
「あ、はは……思い出した」
ふと笑い声をあげたタロだけれど、その声はひどく乾いている。
「俺の記憶、ここにあるんだ。俺が忘れちゃったんじゃない。オオグライに食われたから、俺のなかに無いんだ……」
虚ろな目で見上げた先に、先ほどぶつかった泡が浮かんでいた。
そこに映るのは、必死に抵抗する幼いタロをオオグライが吸い込む瞬間。
空洞のように開いた口のなか、タロは泣き叫び暴れるけれど、ぬちぬちと食む巨大な異形から逃れることはできない。
ひと噛みごとにオオグライの口から泡が生まれ、生まれた泡の表面に映るのは断片的なタロの記憶。
ぬち、ぬち。ぬち、ぬち。
噛むたび泡が生まれ、タロの記憶は抜き取られ。そのたび幼いタロの抵抗が弱くなる。
そして最後の泡がぽつん、と暗がりに浮かんだころ、吐き出されたタロはもはや抜け殻のようで──。
ふ、と光を失くした泡をオオグライが食う。
食われた記憶に触れたタロは、どうして自分がまたここに連れてこられたのか気が付いた。
「記憶が、薄れたから。何度も眺めて記憶が薄れて消えそうだから、俺を連れてきたのか」
泡に映る光景はずいぶんと朧気であった。
タロが記憶を無くしていた間、オオグライはその記憶を取り出しては眺めていたのだろう。
薄れて消えてしまいそうになるほどに、何度も、何度も。
その気持ちが、タロにはわからなくもなかった。
オオグライの住処なのだろう暗がりには、孤独が詰まっているよう。
聞こえるこは身じろぎに泥がたてる、ぐちゅ、という湿った音だけ。
温もりは遠く、明かりもない。
時間の流れにすら見放されたようなこの空間でひとり、過ごす時間はあまりにも長い。
だから、他人の記憶でも良いから得たいと求めたのかもしれない。
その気持ちはわからなくもないけれど、タロにとっては良い迷惑でしかなかった。
──どうにかして逃げ出さなきゃ。俺は帰るんだ、朝陽と清春がいるあの町に。
そのためにも、オオグライがどこかへ行かないだろうか。
タロは泥に囚われたままじっと機を伺う。
オオグライはタロの知らないタロの記憶を取り出しては、ぱくり。ぱくり。
取り出された記憶はもはやタロの中に無いから懐かしさも何も感じられないけれど、それでもタロは薄れて消えかかったその映像をじっと見つめた。
記憶にない自らの過去を目に焼き付ける。
食われて永遠に消えてしまうのだとしても、せめて覚えていたかった。
そうしてタロの知らないタロの記憶がどんどん食われていく、そのとき。
不意に、オオグライが動きを止めた。
巨大な頭をのっそりともたげたかと思うと、体をゆする。
「うわっ」
静寂を大きく揺らし、オオグライは泥に潜りこんだ。
どぷっという音と湿った生臭さを残して、巨大が消える。
暗がりのなか、タロは息を殺して数を数えた。
焦る気持ちを宥めながら、ゆっくりと十秒。
暗がりに慣れてきた目でぬらつく泥をじっと見つめるけれど、動くものはない。
「……もしかして、逃げ時?」
オオグライが古い記憶を食べ切ったら、次はきっと新しい記憶を求めてタロに食らいつくだろう。
抵抗しなければ記憶を奪ったあと、またどこかの陸地に放り出されるのかもしれない。何年後かの楽しみのために、また記憶を溜め込ませるため。
このままじっとしていれば、命までは奪われないのだろう。
けれど。
「逃げなきゃ、記憶食われちゃうんだもんな……」
命と記憶と。
天秤にかけて、タロは迷う。
逃げるあてがあるわけではなかった。
ここがどこだかすらわからない。上に行けばいいのか下に行けばいいのか、あるいは横に進むべきなのか。
何一つわからない状況でどうやって抗えば良いのかすらわからない。
それでも、黙って記憶を奪われるのを待つには、惜しかった。
「三人並んで講義受けるの、楽しかったもんなあ」
タロが思い出すのは、何でも無い日常の記憶。
講義の最中、居眠りしそうになる清春をつついて起こしたこと。学食で気に入りのおかずを見つけたこと。帰りに寄り道をして、買い食いをしたこと。
どれも特別なことはなくて、だからこそ大切な時間だった。
助けが来るとは思えない。
タロが消えた瞬間を見ていた人など、いないだろうから。
例え不在を不審に思ったとしても、探しに向かう手掛かりなどないのだから、動きようが無いだろう。
タロ自身、抗う術など持たず、途方に暮れている。
それでも、抗いたかった。
ここから抜け出したかった。
その思いが強くなったとき、タロは泥に絡め取られた腕が動くことに気がついた。
──重たい。でも動ける。
ゆっくりと、しかし着実にタロが腕を泥から抜き取る。次は脚だと力を込めたとき。
どぼっと泥が波打って、オオグライが顔を出した。
──もう戻ってきたのか!
巨大な異形の動きによって、押し寄せた泥がタロに襲いかかる。抜け出したはずの泥が元通り、いや元よりひどくなって、そこいらじゅう泥まみれにしていた。
もちろんタロの手足も、押し寄せた泥の下に再び呑まれてしまう。
──やっぱり逃げらんないのかな。
ぐわんぐわんと泥といっしょに大きく揺れていたタロは、諦めに身を委ねかけて、はたと気がつく。
オオグライが口を開けた瞬間、その巨大な口のなかに何かが見えたのだ。
それは場違いに華やかな色をしたちいさな布人形。
タロは初めて見る物だったけれど、その色使いには覚えがあった。
「あれ、りんちゃんの作ったやつ!」
麟太郎の作った人形が見えたのは一瞬のこと。
オオグライがばくんとひと飲みにして、無くなった。
けれど麟太郎の作った品物があった。ここまでたどり着いた。
ならばタロが辿って戻る道もあるに違いない。
──やっぱりどうにかして争わなきゃ! どうしたら良いのかわからないけど……それでも。
タロが泥の下で拳に力を込めたとき、人形を飲み込んだオオグライが顔をあげた。
小さな目が何かを感じたように動く。
太く長い尾が持ち上げられ、びたーんっと空間の上部を叩きつけた。
どぼ、と崩れ落ちた泥の塊といっしょに降ってきたのは、人影。
澱んだ暗がりに薫風が吹く。
白い花びらに守られるようにしながら泥に着地したその人は、立ち上がりざまにタロに視線を向けた。
「タロ! 助けに来たぞ!」
「あ、さひ……?」
タロは信じられない思いで瞬く。
来るはずのない助けが、無くしたくない記憶のなかの友が、そこに立っていた。




