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神社の管理人~ひょんなことから神社の敷地に住んだら大学生活が退屈する暇もなくなった~  作者: exa(疋田あたる)
暗きもの

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1 彼のはじまり

 梅の香りが鼻をくすぐる。

 気づいたときには彼はひとり、巨大な池のそばに立っていた。

 空は曇天。鉛色をした雲が重たげに垂れこめている。

 分厚い雲のせいで太陽の位置はわからないが、日暮れのころなのだろう。水際に生える葦の影が長く伸びている。どこまでも続くように見える水面がだんだんと暗さを帯びていく。

 寒風に剥き出しの手足を撫でられて、彼は知らず体を震わせた。


 そのとき、中年の男女が声をかけてきた。


「ぼく、ひとりなの? ずいぶん寒そうな恰好をしているけど……」


 恐る恐る、といった様子で話しかけてきたのは女のほう。

 寄り添うように立つ男が後を引き継ぐように続けた。

 

「この辺りの子かい? お祭りでもあるのなら、どこか明るい場所で待ったほうがいいよ」

「まつり……?」


 どうして祭りがあると思ったのだろう。

 彼がゆるゆると首をかしげると、男は「ちがうのかい」と眉を寄せた。


「だって君、三月の半ばとはいえ、まだまだ寒いのに袖なしの浴衣なんて着ているから。お祭りの出しものか何かの恰好なのかと思って」

「ゆかた」


 言われて、彼は自身の体に視線をやる。

 袖がなく、裾の擦り切れた着物だ。腹の部分を結ぶ紐はだいぶ傷んでいる。全体的に薄汚れた自身を見て「いつも通りだ」と少年は思うけれど。

 

 ──いつもどおりって、どんなだったっけ。


 思った端から、思考がほどける。

 思い浮かべたはずの『いつも通り』が思い浮かべられなくて、少年は瞬いた。

 定まらない思考の代わりに目の前の男女に目を向ける。


 男は首の詰まった服を着ている。

 袖も下穿きもやけに体に沿う細さ。首から腰のあたりまでだけが、やけにもこもこと膨らんで見える。まるでしめ縄のような、おかしな形だ。腰に巻かれた紐は結んでいる様子もないのに、どうして落ちないのだろう。

 女のほうは、男以上に見慣れない服を着ていた。

 腰から上は分厚い綿入れ。腰から下はいやにふわふわと広がっている。そのくせ両腕のあたりだけは男のものと同じように腕の形に沿うよう縫われているのだから、なんとも不思議な恰好だ。

 足元はふたりそろって膝丈の革の履物を身に着けている。


 自身の恰好がいつも通りなのかはわからなかったが、彼らの服装が見慣れないものだということだけは認識できた。


 ──なんでかな。わかんないな。


 記憶を辿ろうと彼がぼんやりしている間に、夫婦は顔を見合わせて何やら深刻そうにしている。


「寒さで朦朧としてるのかしら」

「そうかもしれない。ねえ君、僕のダウンベスト着なよ。あったかいよ」

「それなら私のダウンコートのほうが良いわ。袖もついているし」


 ふたりして着ているものを脱いで着せつけてくる。

 されるがままにしていれば、彼の体はやわらかくて温かなものに包まれた。


「あったかい……」


 ほう、とこぼれた声に安堵したように、男女がかすかに表情を緩める。


「良かった。君、お家の住所、言えるかな? 送っていくよ」

「おうち……?」


 ──家、家はどこだったろう。家、どんな家だったっけ。


 ぼうっと考える彼に、女性が重ねて問う。


「帰る場所よ。どっちから来たのかわかるかしら」

「かえる、ばしょ……」


 思い浮かべようとした。

 彼は自身の帰るべき場所を思い浮かべようとして、呆然とした。


 ──思い出せない。


 頭のなかが真っ白だった。

 振り返るべき記憶が見当たらないのだ。

 確かにあったはずの帰るべき場所の記憶が、見つからない。

 

「どうしましょう、お家がわからないのね」

「迷子ってことかい。大変だ、警察に連絡しなくちゃ。ええと、君。君の名前はなんだい?」


 にわかに慌てはじめた男女に言われて、彼は気が付いた。


「なまえ、なまえは……」


 ──思い出せない。


 思い出せなかった。

 存在したはずだ。彼が今日まで生きてくるなかで、確かに名前があったはずなのだ。誰かに呼ばれていたような覚えもある。


 ──けど、誰に? 誰が名前を呼んでいたんだろう。なんて呼ばれてたんだろう。


 思い出せなかった。

 思い出そうとするたび、触れようとした指先で霧が散るように記憶がぼやける。

 

 確かに誰かが呼んでいた覚えがあった。

 けれどその誰かの顔が思い出せない。男だったのか、女だったのか、若かったのか、年を取っていたのか。思い出そうとするごとに姿があやふやになっていく。


 確かに誰かに呼ばれていた名前があった。

 けれどその響きが思い出せない。二文字だったのか、三文字だったのか。慈しむように呼ばれていたのか、叱るように呼ばれていたのか。記憶をさぐるごとに音が遠ざかっていく。

 

 帰るべき場所を思い出すどころか、名前すらわからない。

 それどころか、この場所に立つ以前の記憶がなにひとつとして見つけられなかった。


「わからない……なにも、なんにもわからない」


 気づいた途端、彼の体は震えだす。

 二人分の服に包まれて温かいはずだ。それなのに、寒くて寒くてたまらない。

 胸の真ん中に穴が空いたかのように、寒さが体を通り抜けていくようだった。 


「もしかして、記憶がないのかい?」

「たいへん! 警察に連絡しなくちゃ。ううん、救急車かしら!? 怪我はしていないみたいだけど……」

「ええと、ええと。とにかく救急に電話するよ!」


 慌ただしく動き始めたふたりの横で、彼はその場にしゃがみこむ。

 自分を支える何もかもを失くして、失くしてしまっていることに気が付いたら、もうだめだった。

 立っていることさえできなかった。




 それが、タロのはじめの記憶。

 失くした名前の代わりに、見つけてくれた男性の名前からいくつかもらって自分で名前をつける前のこと。


 それからの日々は、驚きの連続だった。


 夫婦が呼んだ救急車に乗せられたときには、動く箱に目を剥いた。それが自動車という乗り物だと知っても、慣れるまでにはけっこうな時間がかかった。

 連れていかれた病院では、音を立てて光る様々な箱にいちいち驚いた。検査機器だと言われても理解できなくて。

 けれど、箸の使い方や布団の上げ下げは教えられなくてもできるタロに、医師は首をかしげた。


「過去の記憶を失っているけれど、一般常識やことばの意味は覚えているし体の動かし方なんかは覚えているから、逆向性健忘なのだろうけど……」


 医師の前に広げられたのは、タロが名称を思い出せなかった道具の写真。

 車、コンピューター、信号機に電話機に飛行機。そもそもそれらを写した写真自体が理解できなかった。ひどく精巧な絵だとしか思えなかったのだ。


「覚えている内容が、時代的に偏っている。君はまるで、戦前から来たみたいだねえ」


 そう言われても、タロは戦争を知らない。

 知らないのだから、後も先もない。


 物を知らないタロは名前をもらい、推測の年齢を登録され、保護者のいない子どもたちが集まる施設で育てられた。

 わからないことばかり、覚えることばかりで日々は忙しなく過ぎて、ようやく落ち着いたのは高校も終わる年になってからのこと。


「佐藤は学ぶことが好きみたいだな、だったらこんな奨学生制度があるんだが」


 タロは別に勉強が好きだったわけではない。

 持て余した時間をいっしょに過ごす相手が、家族がいないから、勉強をしていただけ。足りない記憶を埋めたくて、知識を詰め込んでいただけだったけれど。

 担任の言葉に飛びついたのは、不安からだった。


 ──どれだけ知識を詰め込んでも、俺の過去は空っぽのまんま。このまま働きに出たら、きっとこの空っぽに勝てなくなる日が来る……。


 タロの中にある空白は、時々ふくれあがってタロを脅かす。

 何かに熱中しているとき、誰かと笑い合っているときには空白が薄れる気がして、だから進学を決めた。


 この選択はタロの記憶にある長くない人生のなかで、一番の正解だったと思っている。


 清春と朝陽に出会ってからの日々は、本当に楽しかった。

 不可思議な出来事に巻き込まれたり、寮が壊れて住む場所を無くしたり。大変なことだらけだったけれど、そのたびにふたりが助けてくれて、互いの距離が近くなった気がした。


 ──朝陽とは一緒に住んで、ほんとに近くなったもんな。


  振り返る暇もないくらいに慌ただしく過ごす日々、寝ても起きてもやることとやりたいことに溢れた日々は、振り返れば『楽しかった』という気持ちであふれていて。思い出すたび、笑ってしまう。


 気づけば、タロのなかの空白はずいぶんと小さくなっていた。


 空っぽの過去はときおり思い出したようにしくしく傷んだけれど、それでもこれから楽しいことをたくさん見つけて、知って、増やしていけば、その空っぽの記憶すら埋まってしまうのだと。


 これからは清春と朝陽の三人で、楽しいことをたくさん詰め込んでいけるのだと、そんな未来を信じていたのに。


 終わりは唐突だった。


 幸せな気持ちで眠りについた日の夜更け。

 ふと、目を覚したのは誰かに呼ばれたような気がしたから。

 

 真っ暗な階段を降りて鳥居をくぐり、道路に両足をつけた途端。

 闇に足が沈んだ。

 絡めとるように伸びあがった黒い影。

 最後に見えたのは、助けを求めて伸ばした自分の手。


 すがる指先はどこにも届かず、どぷんと沈む。

 ひどい生臭さに襲われたのが次の瞬間だったのか、それともしばらく経ってからのことなのか、タロにはわからなかった。


 生臭さに包まれた空間はひどく暗くて、天井も壁も嫌なぬめりに覆われていることしか見てとれない。

 けれど、ひとつだけわかることがある。


 ──ああ、戻ってきてしまったんだ。


 記憶もないのに、そんな思いがタロの頭を占めていた。

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