4 失われたもの
目覚めは唐突だった。
眠りから意識が急浮上したが、朝陽の寝覚めは悪くなかった。
体を起こしながら、今の今まで見ていた夢を振り返る。
思い出すのは最後に見た男の笑み。
「きっと、消えずにまだ頼らせてくれるのだろう」
そう思わせてくれる優しい笑顔だった。
「やはり麟太郎さんのお守りは効くな」
言って、手を伸ばしたのは枕元に置いた三つのお守り。迷うことなくそのうちのひとつを手に取ったのは、そのひとつに綻びが生じていたから。
きちんと縫われていたはずのお守り袋の口があき、こぼれていたのは白い花びら。
袋を傾ければ、萼をつけた花がそのままの形でほろほろと手のひらに落ちる。
ほのかに香るさわやかな甘さが朝陽の鼻をくすぐった。
「白梅か。あの匂いでどうして思い出せなかったのか」
お守り袋のなかに入っていたのは、白梅。どのように処理したのか、みずみずしさをわずかに減じただけで花の色形は保たれている。香りもまた、失われてはいなかった。
その香りと姿が、タロの生まれ故郷を見守っていたであろう男に重なる。
白梅の化身、といったところか。
「ああ、しまったな。あの人の名前を聞くのを忘れた」
額に手を当て、うっかりしていたと思うけれど、後悔はうすい。
少なくともひとつはタロへの手がかりが出来たと、朝陽の心に余裕が生まれていた。
「はやいところ、清春に知らせたいところだが……」
はやる気持ちを抑えて携帯電話の画面を見れば、時刻はまだ朝の四時半。
ようやく空が明るくなるころだ。
人に連絡を入れるには、あまりに早い。
「まずは掃除を済ませてから、だな」
いそいそと起きだした朝陽は、身支度を整えて外に出る。ほうきを手に階段へ向かえば、ちょうど下から登ってくる人がいた。
お参りを日課にしている老婦人だ。
「おはよう、朝陽ちゃん」
「おはようございます。今朝もはやいですね」
「朝陽ちゃんもね。いつもがんばってて偉いわ〜。良かったらこれ、おやつにでも食べてちょうだいね」
にこにこと笑いながら差し出されたのは、きれいに包装されたふたつの袋。
老婦人は趣味で菓子を焼くそうで、こうしてときおり差し入れてくれるのだ。
「ありがとうございます。タロとふたりでいただきます」
遠慮するよりも感謝をして受け取ったほうが喜ばれる。
そう学んだ朝陽は素直に手を出して受け取ろうとしたのだけれど。
「タロさん? 朝陽ちゃんのお友だちかしら」
きょとんとした老婦人は、自分の手元を見下ろして「あら」と目を丸くした。
「わたしったら、ふたつも持ってきたのね。いやだわ、間違えちゃったみたい。そうよね、ひとりでふたつもいらないわよね……朝陽ちゃんが良いのなら、そのお友だちと食べてもらえるかしら」
困ったように笑いながら老婦人が言う。
自身のうかつな失敗に気落ちしたように、朝陽に気をつかわせて申し訳ないというように。
違和感が朝陽の胸をひりつかせた。
毎日やってくる老婦人は、庵に身を寄せるタロとも何度か会ったことがある。
人懐っこいタロのことを「タロちゃん」と呼んでかわいがり、タロもまた「ばあちゃん」と親しげに懐く姿は本当の祖母と孫のようで、微笑ましく見えたものだが。
「……ええ、タロと。佐藤タロと俺とで、いただきます。あいつ、甘いものが好きで。とくにあなたの手作りはやさしい味がすると、喜んで食べていましたから」
「あら、うれしいわ」
頬に手を当てて老婦人が喜ぶ。
「だったら、タロさんによろしく伝えてもらえるかしら。その方、庵に遊びに来られることはある? お好きなお菓子を作ります、なんて言ったら、図々しいかしら」
照れたようにそわそわと言う老婦人はたいへん好ましい。
それなのに、朝陽の胸は苦しいほどの寒々しさに襲われていた。
──庵に招いたあなたと並んで、笑い合いながら食べていたんです。「好きなお菓子はあるかしら?」と聞くあなたに、タロは「ばあちゃんの作るお菓子、ぜんぶ!」と答えて、ふたりでうれしそうに笑って……。
はっきりと覚えている記憶をまるで存在しないように振る舞う老婦人に、朝陽は凍りつきそうな気持ちで精一杯の笑顔を返す。
「きっと喜びます。いいえ、絶対に喜びますよ」
老婦人と別れた朝陽は、すぐさま庵に駆け込んだ。
早朝であるとか、掃除がまだであるとか言っている場合ではない。
携帯電話を引っ掴んで清春の電話番号にかける。
「清春。出ろ、出ろ、出ろ……」
『んあぁ……朝陽、どしたぁ。やけに早ぇな?』
幾度かのコールのあと、繋がった通話の先で清春の寝ぼけた声がする。
「清春! お前、タロのことを覚えているか!」
『はぇ? タロぉ……? んんん……』
「佐藤タロだ。清春の地元のお面様に張り付かれた、あの」
『ああ〜、いた、かも? んんん? あれ、顔が思い出せねえ……それ、ほんとに名前あってる? 別の人じゃなかった?』
ぞわっと腹の底が冷えた。
「タロだ。間違いなく、佐藤タロ。同じ学科で同じ学年で、清春とまったく同じ講義を選択してて、俺たち三人でよく学食に行ったろう。そうだ、少し前には髪が青くなって慌てたんだ。覚えてるだろう?」
『ええ、髪が青ぉ? 赤メッシュとか紫のインナーカラー入れてるやつならわかるけど、青はいたかなあ』
「思い出してくれ。頼む、頼むから」
『そんなにか。うう~、タロ、タロな……いた、ような気がする……ああ、確かに、朝陽とオレと三人でいつもつるんでて……けど、なんでだ。ああ、顔が思い出せねえ。記憶がぼやけてる……なあ、そいつどんなやつだった?』
頼み込む朝陽に、清春は懸命に思い出そうとしてくれているのだろう。
うなるようにして『三人で過ごしていた』記憶まではたどり着いてくれた。けれど、それ以上は追えないらしい。
「タロは……良い奴だよ。人懐っこくて、勉強が好きで。親族がいないからと苦労しているようだったけど、そんなこと匂わせもしなくて。新聞配達のバイトをしながら成績優秀者をとるんだと頑張って」
語るうち、朝陽のなかでタロの姿形がくっきりと思い出されていく。
朝陽も知らぬ間にタロの記憶がおぼろげになりかけていたのだと気が付いて、ぞっとした。
恐ろしさを塗り変えるように、必死で記憶を拾いあげる。
「タロは小柄な割によく食べるんだ。甘いものが好きで、機械に弱くて。それから、そう、住んでいた大学の寮が壊れてしまったから、今は俺と同じ神社の庵に住んでる。それで、笑った顔が子どものようで、それから、それから……」
──あとは何があったろうか。
振り返ってみれば、まだほんの四か月足らずの付き合いだけれど、過ごした時間は家族と変わらないほど長い。
いや、実家に住んでいたときは大部分の時間を学校で過ごしていたから、大学でも住まいでも共にあったタロとは、家族以上に一緒にいたかもしれない。
『……良い奴なんだなあ。なんでオレ思い出せねえんだろ』
「清春……」
つぶやくような清春の声には、にじむような思いが込められていた。
朝陽が必死になっているのを感じ取って、清春も思い出そうとつとめてくれているのだろう。
それでも思い出せないのだとわかって、朝陽は唇をかみしめた。
「清春、そのタロがな。いなくなってしまったんだ。このままだと二度と会えなくなってしまうかもしれないから、俺は探しに行く」
『今からか?』
「ああ、今から。支度を済ませたら、すぐに」
急がなければ、と朝陽は心を決めた。
どういう原理かはわからないが、タロの存在が薄れているのだ。
付き合いの浅い人からはすでに消え去り、けっこうな時間を共に過ごしていた清春の記憶からも失われかけている。
朝陽自身、いつ忘れてしまうのかわからない。
ならば覚えている間に動き始めるしか無い。
『なあ、オレにも手伝えることあるか?』
覚悟を決めたところへ、投げかけられたのは意外な言葉。
「タロのこと、覚えていないんじゃ……」
『ああ。覚えてねえ。悪いけど、思い出せねえ。けど、朝陽が良いやつだって言うならそうなんだろ』
「……ありがとう」
感謝が、口をついて出ていた。
覚えていないにも関わらず、タロのことを疑いもせずにいてくれる。朝陽を信じてくれる清春の存在がうれしかった。
『なんだよ、急に。何で思い出せないのかわかんねえけど、つるんでたならオレもそいつのこと絶対好きだからさ。朝陽、頼むよ。見つけてきてくれ。会えば、きっと思い出すから。思い出せなくても、きっとまた楽しくやれるからさ』
「ああ、もちろん!」
答える朝陽に迷いはなかった。
『試験範囲は任せとけ。オレが出てねえ講義でも、知り合いあたって全部調べとく。過去問も全部集めといてやるよ』
「助かる」
『探しに出たら、どれくらい戻らないんだ? しばらく庵を空けるなら、管理人代理もやるぜ』
「ありがたい。地域の人に連絡しておく」
『おう、こっちは任せろ。そっちは頼んだ』
ふたりでそれぞれの役割に向き合う。
そのやり取りが、タロが青色に侵食されたときのそれに似ていて、朝陽はなんとなくうれしくなった。
『来週までには戻れよ。試験ではさすがに、代わってやれねえからな』
「ああ、わかってる」
『気をつけて行けよ』
「ああ。わかった」
危険な場所は向かうなどとは、知らないはずだ。清春にはタロに関する記憶がないのだから、わかるはずがない。
それなのに身を案じてくれる清春に背中を押されて、朝陽は身支度を整えて庵を出た。




