2 ひどい臭い
朝陽と清春が呪芸屋に着いたのは、ちょうど十時になったとき。
店の入り口に看板を出している麟太郎がふたりに気がついて「あら」と微笑む。
「朝陽ちゃんじゃない。今日は別のお友達を連れてきた……」
言い終える前に、麟太郎はぎゅっと顔をしかめた。
「ひどい臭い……アナタ、お守りはどうしたの」
「臭い? 麟太郎さんのお守りは、昨夜助けてもらいました。そのせいで壊れてしまったんですが……あれが無ければ俺もタロも、危なかったと思います」
朝陽にはわからないが、麟太郎は臭いを感じているらしい。耐えきれないとばかりに太い指で鼻をつまんでいる。
「清春、臭うか?」
「いや? わかんねえけど……」
寝汗でもかいただろうか、それともここまで来る道中でかいた汗が臭うのかと清春に聞くが、不思議そうな顔で首をかしげられる。
そんな朝陽たちに麟太郎は背を向けた。
「入りなさい。このまま帰せないわ」
「そんなにか……」
町中を歩かせるのもためらわれるほど臭いのかと、朝陽はちょっぴり落ち込んだ。
清春が「いや、ほんと全然わかんねえって。あの人……りんちゃんだっけ? あの人の鼻が特殊だったりしねえ?」と慰めてくれる。いい奴だ。
元気出せよ、と背中を叩かれながら店に入ると、麟太郎は足早に奥のふすまの部屋へ。その背を追って朝陽と清春が部屋の敷居をまたいだ途端、麟太郎がふすまをぴしゃりと閉めた。
「麟太郎さん……?」
常になく険しい横顔に声をかけると、麟太郎は返事もせずつかつかと部屋のすみへ。
置かれている品物のなかから白い陶器を手に取ると、くるりと振り向いて中身を朝陽にぶつけてきた。
「うわっ」
「おわ!?」
とっさに手で顔をかばったけれど、ぶつかる衝撃はほとんどない。
不思議に思いながら開いた目で自身を見下ろせば、服にかかった白いものがぱさぱさと落ちていくのが見えた。
後ろに立っていた清春も「なんだ、今の?」と瞬きながら首をかしげている。
そんな朝陽たちをよそに、麟太郎は陶器の入れ物を手にしたまま、険しい顔で朝陽をにらんだ。
「今のはお塩よ。お清めの塩。いやだわ、まだ臭いが残ってる。あれ、まだあったかしら。榊の枝と御神木の灰と御祈祷してもらった御手水と……」
ぶつぶつとつぶやきながら、麟太郎があれこれと持ってくる。枝で朝陽を叩いてみたり灰をまぶしてみたり、スプレーボトルに入った水をかけたりと、忙しない。
畳みに正座しされるがままになった朝陽の脚がしびれてくるころ、ようやく麟太郎は「はあ~、ようやくましになった……」と深く息を吐きだした。かと思えば、脱力したかのようにその場にしゃがみこむ。
「アナタ、何と会ったの。とんでもなく恐ろしい臭いがしてたわよ……!」
「恐ろしい、臭い?」
聞き慣れない言葉に思わず繰り返した朝陽に、麟太郎が「そうよ」と畳に座り込んだまま頷いた。
「アタシは鼻が良いのよ。良いものも悪いものも嗅ぎ分けられる。だから呪芸屋なんてお店ができるの。その人に合うお守りを選ぶのも、匂いで選んでるのよ」
なるほど、と朝陽は納得した。
麟太郎がくれたお守りは、たしかにタロと朝陽を助けてくれた。
どうしてそれぞれに必要なものがわかったのかと思っていたが、麟太郎には特殊な能力があるらしい。
――第六感だとかそういうたぐいの、嗅覚ということだろうか。
「へえ~。超能力みたいな感じ? すげえね」
納得する朝陽と感心する清春をよそに、麟太郎はぎゅっと顔をしかめる。
「そんなアタシの鼻に、アナタの臭いはキツすぎたわ……とんでもなくヤバい気配がぷんぷんしてたのよ! アナタ一体、なにと会ったっていうの?」
言葉のざっくばらんさとは裏腹に、麟太郎の表情はひどく真剣だ。
しかし「なにと会った」と問われても、特別な能力など持たない朝陽には見当もつかない。そもそも麟太郎の言うヤバい気配とやらも察知できていない始末なのだ。
戸惑う朝陽をよそに、麟太郎は顔をきょろきょろさせた。
「ねえ、タロちゃんは? あなたさっき、あの子のお守りもあの子を助けたって言ったわよね。あの子は一緒じゃないの?」
「タロは……いないんです」
口にした瞬間、喪失感が朝陽を襲う。
大学でともに過ごす時間は多く、帰る家も同じとはいえ、常にタロがそばにいたわけではない。
けれど「タロはいない」と言葉にしたとき、どうしてか。タロはもういないんだ、という感情がひどく胸に染みて痛かった。
「今朝、朝陽が起きたときにはいなかったって。バイト先にも行ってねえし、大学にも来てない。ほんのひと晩、数時間だとかって思わないでくれよ。あいつ真面目で勉強好きな変なやつだから、黙って講義に出てこないなんてあり得ねえんだから」
黙り込んだ朝陽にかわって口を開いたのは清春だった。
いつになく焦った様子を見せているのは、清春もまた言い様のない喪失感を抱えているからだろうか。
「なあ、あんた。りんちゃん。あいつの居場所わかんねえ? あいつ、りんちゃんのことすげえすげえって褒めてたんだ。昨日だってなんかやばいことあったみたいだけど、あんたのお守りのおかげで二人とも無事だったんだぜ」
清春が麟太郎に言い募る。
「あんたのそのすげえ鼻? 嗅覚? なんかわかんねえけど、すげえ力でタロの居場所、教えてくれよ。なあ」
「……無理ね」
「なんで!」
むっとして声を荒らげる清春に、麟太郎は静かに首を横に振った。
「アタシにわかるのは目の前にあるもののにおいだけなのよ。いい匂いがするかひどい臭いがするか。それで良し悪しを判断することしかできない。払魔師でもなければ除霊師でもない。ただの呪芸屋でしかないんだわ」
「だったら、アンタの客でいないのかよ。なんかタロを探すのに力貸してくれるやつ!」
「……いないわ。アタシのお客はアナタたちと同じ、身を守るためのちょっとしたおまじないを欲しているだけの普通の人たちだもの。こんな、ひどい……残り香だけでこれほど異様な臭いさせてるものなんて、どう太刀打ちして良いか、わかるわけないわ……」
麟太郎の沈鬱な表情に嘘はなかった。
彼もタロのことを案じているのだろう。けれどそれ以上に、恐ろしい何かを感じ取っているのだと察せられる。
「清春……やめよう」
「けどよ、朝陽」
なおも物言いたそうな清春を朝陽は止める。
清春が余裕を失う気持ちは朝陽にもよくわかった。朝陽自身、頼りにしている相手に「どうしようもない」と言われてしまって途方に暮れている。
だからといって青ざめ、両腕をさすり怯えがにじませる麟太郎を責めることはできなかった。
「麟太郎さん、タロはあなたが嗅ぎ取っている臭いの主に連れ去られたと考えていいでしょうか」
「ええ、恐らく。これほどの臭いをさせてるやつがいたら、小物は散ってしまうもの」
「そうですか……ありがとうございます。今日は急に来てすみませんでした。また改めて、お守りの件も含めてお礼に来ます」
頭をさげた朝陽は、清春の背を押してふすまの部屋を出る。
そのまま店をあとにしようとした背中に「ねえ」と声がかかった。
「アナタ、どうするつもり」
「そうですね。まずはタロと関わりのある人や場所をしらみつぶしに探します。誰か、何か手がかりを知っているかもしれない」
「危険よ。そいつの残り香、ひどくねっとり粘着質だもの。タロちゃんを取り返そうとしてるってわかったら、アナタたちも危ない目に合うかもしれない」
「できる限り気を付けます」
心配する気持ちは受け取った、と頭を下げる。そして再び背を向けようとしたところで「待って」と呼び止められた。
顔を上げれば、真剣な目をした麟太郎と視線があう。
麟太郎はまぶたを閉じたかと思うと静かに深く息を吸い込み、吐いて、目をあけて朝陽を見つめた。
「……タロちゃんを、アナタたちを助けられるお守りは、やっぱりうちには無いわ」
「そうですか、残念です」
『におい』とやらで判断したのだろう。力になってくれようとするその気持ちが、うれしかった。
朝陽としてはタロを助けたい気持ちを持つ人がひとりでも多くいる、それだけで十分だったのだが。
「でも、これとこれは役に立つかもしれないから。持って行ってちょうだい」
麟太郎が差し出したのは、三つの小袋だ。
どちらも麟太郎らしいきらびやかな装飾が施されている。
「この三つからは、ほんの少しだけアナタたちに合う香りがするの。中身がいつどんな形で役立つかは、アタシにもわからない。だけど何もないよりはきっと、少しだけでも助けになるわ」
「麟太郎さん……ありがとうござます」
深々と頭が下がったのは、自然な動きだった。
感謝の気持ちが朝陽の体を突き動かしていたのだ。
そんな朝陽を見て、麟太郎は苦笑する。
「正直なところ、止めたいのよ。でもアナタはきっと、行っちゃうんでしょう。だったら、アタシのできる限りで応援するしかないじゃない」
「麟太郎さん……ありがとうございます」
「ありがとうござます。さっきはすんませんでした」
朝陽と並んで清春も頭を下げれば、麟太郎はひらひらと手を振る。
「やあだ、気にしないでちょうだい。その代わり、本当に気を付けてちょうだいよ。何かあったら、ううん。何もなくても、アタシのところに来なさい。できる限りのことはするから」
「頼りにさせてもらいます」
「へへっ、りんちゃんって聞いてたよりも男前だな!」
「まあ! 当たり前でしょ。アタシは強くてかわいい手芸屋のオネエさんなんだからっ」
いつも通りの笑顔をつくって見せてくれる麟太郎に、朝陽は改めて深く感謝した。




