1 いつもの朝
寝て、起きたときにタロがいないのは珍しいことでもなんでもなかった。
新聞配達をして生活費を稼いでいるタロは、アルバイトがある日には朝陽よりもよっぽど早く動き出す。
──今日はアルバイトの日だったか。
隣の布団は空っぽだった。
寝過ごして、慌てて飛び出して行ったのか敷きっぱなしになっている。
──無理もない、昨日は大変だったからな。
朝陽自身、タロがいつ起きて出て行ったのかまったく気づかず眠っていたのだ。
目覚まし時計が鳴ったかどうかすら、記憶になかった。
「遅刻していなければ良いが」
つぶやきながら、自分の布団とタロの布団をあげて隅に寄せる。
そして朝陽は日課の掃除に向かった。
早朝、日の出る前だというのに空気のさわやかさより湿度の高さが気に障る。じわりと暑さが増していることを実感しながら、にじむ汗をぬぐう。
涼しいうちに、とお参りに来る近隣の人に挨拶をして、植木鉢に水をやる。
「ああ、だいぶ枝が伸びてきたな。葉がよく茂っているが、なんの葉だろうか」
もらいものの盆栽は暑さに負けず、元気に育ってくれていた。
よく見ようと、朝陽はしゃがんで薄い葉を手の平にのせる。
楕円形で、先端がすっと伸びた葉。すこしかさついた表面は葉脈に沿ってふっくらとした凹凸が見てとれる。葉の縁は丸いのかと思いきや、よく見れば細かくぎざぎざとしていた。
薄いからだろう、手のひらの影が葉の表面からうっすらと見える。
どこにでもありそうな葉。強いて言うなら、葉と枝をつなぐ箇所が赤みを帯びているのが特徴だろうか。
「そういえば、タロがこの葉を見たことある気がすると言っていたな。時間があれば、いっしょに調べてみるか」
今日は一コマ目から講義が入っている。せっかく大学に行くのだから、大学内の図書館に寄って調べてみてもいいだろう。
──きっと日中はひどく暑いのだろうし。日暮れに帰るくらいがちょうどいい。まさか昨日の今日で、夕暮れ時におかしなものに遭遇することも無いだろうし。
そう思いながら、朝陽は立ち上がる。
いつも通りの朝。
おかしいと思い始めたのは、朝食を食べ終わったころ。
そろそろ出発しなければ講義に間に合わない、という時間だったが、タロがまだ帰ってこないのだ。
「新聞配達仲間と朝ごはんを食べてるのか? それにしても、そろそろ帰って来ないと遅刻するんだが」
タロはアルバイト先で年上の仕事仲間にかわいがられているらしい。
しばしば仕事終わりに朝食をご馳走になったり、「お昼にどうぞだって!」とおにぎりを抱えて大学にやってくることがあった。
だから、ふたりぶん用意した朝食が余ることは構わない。冷蔵庫に入れておいて、夜にでも食べれば済むことだ。
けれど講義に必要な荷物が、部屋のすみに置いたまま。
取りに戻る時間がなくなったのだろうか、と朝陽は手にとった。
「こういうとき、タロが連絡手段を持っていないのは痛いな」
携帯電話があれば「荷物、持っていくから講義室で合流」と伝えられるのだが。タロはお金もかかるし機械難しいからと所持していなかった。
「……入れ違いにならなければ良いが。清春に伝えておくか」
清春は朝陽よりも大学の近くに住んでいる。
先にタロと合流して『朝陽が荷物持ってくるってよ』と伝言をしてもらえば、タロも安心だろう。
清春に手早くメッセージを送れば、即座に『おけ』と返事がある。
それを確認してから、朝陽はタロの荷物を持って急いで庵を出た。
講義室に着いたときには、すでに大半の席が学生で埋まっていた。
「おーい、朝陽。朝陽ぃ~」
探すまでもなく清春が声をあげ、手を振ってくる。
ど真ん中の最前列。意外と避けられがちで席のとりやすいそこに、三人分の座席を確保してくれていたらしい。
「おはよう、助かる」
「良いってことよ」
「タロは?」
にかっと笑った清春の隣、二席に置かれているのは清春の鞄とペンケース。
タロの姿はない。
「んにゃ、まだよ。朝陽も会ってないの?」
「ああ。今朝はバイトに行ったみたいで、起きたときからいなかったんだ。直接大学に来てるのかと思って荷物を持って来たんだが、駐輪場でも会わなかったし、まだ講義室に来ていないのか」
「ん~、なんかあったのかね」
ふたりで首をひねっているうちに、講義がはじまった。
とはいえ、もうすぐ試験期間だからと内容は新しいものではなく、試験問題に含まれる箇所の解説。
それから入学後初の試験ということで、必修講義の単位を落とすと大変なことになるぞ、という脅しを含んだ忠告だった。
必要な話を終えた教授は「時間は有限」とさっさと講義を終わらせて、帰って行った。
実際に講義が終わる予定の時間よりずいぶんはやいが、それもまた気遣いなのだろう。
「あの教授、顔は怖いけど悪い人じゃないんだよな」
「ああ。脅すのも、実際に単位を落とすと学生が大変だからだろうしな」
厳しい顔をした教授のことを口にしながら、朝陽と清春は学務課に向かっていた。
教授が早々に解放してくれたおかげで、次の講義までまだまだ時間がある。
だから、いまだに姿を見せないタロに何かあったのではないかと、学務で聞くことにしたのだ。
「……ええ、そうですか。わかりました。ありがとうございます。失礼致します」
かちゃん、と受話器を下ろした学務の女性職員は、朝陽と清春に顔を向けて眉を下げた。
「佐藤さんは本日、アルバイトの日ではないそうです」
「「え」」
身内がいないという特殊な状況のため、タロはアルバイトの連絡先として大学を登録している。
そう聞いていたため、学務から連絡をとってタロの安否を聞いてもらったのだが、その結果は「出勤日ではないので来ていない」とのこと。
「じゃああいつ、どこ行ったんだ? 朝陽が最後に見たのは昨日の夜か?」
「ああ、夜の九時半か。昨日はふたりとも疲れていたから、早々に寝たんだ。それから今朝、四時半ごろに起きたときにはもう姿がなかったんだが」
「げえ、タロ何時に起きてんだよ」
「配達がある日は三時ごろだな。俺もたいがい寝ぼけているから、はっきりとは覚えていないが」
間違いなく、昨夜はタロも布団に入っていた。なんなら布団に入るなり寝息を立て始めていたから、朝陽より早く眠りについていたはずだ。
「うーん、そっから用もないのに朝四時半前に起きるかあ? 起きたにしても、大学にも来ないでどこ行くってんだ……」
清春がうなりながら頭をひねるが、朝陽にも心当たりはない。
うんうん唸る二人を前に、学務の女性は困ったように提案する。
「学生さんが夜遊びをすることはままありますので、このあとふらりと帰ってくる可能性もありますし……」
──大学としては、大事にしたくないよな。
寮が倒壊した件から、まだそんなに時間が経っていない。
そんななか、寮が無くなったことで被害を受けた学生が姿を消したとなると、外聞が良くないのだろう。
「タロに限ってそりゃねえとは思うけど……俺じゃあるまいし」
「とはいえ、いきなり警察沙汰にするのも、タロが戻ってきた時に困るか」
朝陽は清春と視線を合わせた。
学務の対応は消極的で気に食わないが、動きようがないのも事実。
「……ひとまず、知り合いに聞き回るか」
「そうしてくれ。もし、タロの件でなにかわかりましたら俺の携帯電話に連絡をください。一応、あいつがいま住んでる場所の管理人ですので」
「え、あ、はい。承りました」
職員に電話番号を書いた紙を渡して、その場をあとにした。
この時点でふたりとも、今日の以降の講義は無いものと決めていた。
「実はな、昨日の夕方……というか夜か? タロとふたりで訳の分からないものに崖に落とされかけた」
「はあ!? ……それって、タロがいなくなったのと関係ありそう?」
清春はさっそく友人たちに『佐藤タロ見てねえ?』とメッセージを送っている。
朝陽の事後報告に一瞬だけ目を剥き、すぐに他の人へも連絡をつけていく。
「関係……ないと思うんだが。今から崖に行ってみようと思う。いなければいないで、無関係だとわかるわけだから」
「はあ〜。お前も気をつけろよ? お守りは持ってんの?」
「昨日こわれた。タロのも、俺のも」
「はああ!?」
今度こそ清春は携帯電話の画面から顔をあげて、朝陽をにらむ。
「何それ、まじ意味わからん。不良品か?」
「壊れたといっても、お守りとして効力を発揮した結果だからな? あのお守りは優良品だ」
「じゃあダメだ。朝陽に崖行かせらんねえ。ってもオレじゃ場所わかんねえからな……あそこ行くぞ」
「あそこ?」
清春が朝陽の手首をつかんでぐいぐいと引っ張る。
どこへ行こうというのか。見当がつかずに首かしげるも、清春は足を止めない。
けれど怒っているわけではないらしいので、朝陽も抵抗せずあとをついていく。
「そうだ、朝陽。お前、今日の残りの講義ってぜんぶオレらとかぶってるよな?」
「ああ。そうだが」
「ん、したら残りのやつは代弁しといてもらう。んで、試験範囲とかの内容は出席してるやつから教えてもらうから、横流しする」
サークル仲間か、単純に学友か。朝陽の手を掴んだまま、反対の手でスマホを操作する清春は、その旨の連絡をほうぼうに入れているらしい。知り合いの多い清春なら、難なく情報を得られるだろう。
「ああ、助かる」
「ってなわけで、次はオレたちの準備だ」
操作を終えたスマホをポケットに放り込んで、振り向いた清春が眉をぎゅっと寄せる。
「行くぞ、あのお守り売ってた店」




