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1 大学にて、寺の子と間違われる

 梅の香りがした気がして、朝陽は顔をあげた。

 講義室の窓辺に目をやるけれど、空調の効いた部屋の窓は当然のようにしっかりと締め切られている。

 そもそも今は四月だ。咲くならば梅ではなく桜だろう。


 ――気のせいだろうか?


 朝陽が首をかしげるなか、講義を終えた教授が退室していく。最前列に座った朝陽の後方では、学生たちが席を立ちはじめたのだろう。静かだった室内がとたんにざわめきに飲み込まれた。


 大学生になってから今日で十日目。九十分間続く講義に、まだ慣れることはできずにいた。

 座りっぱなしの体がきしむ。それ以上に、集中力が切れた状態で座りつづけていたのが、つらかった。

 今日は一限目と二限目、続けての講義であったから、ずいぶんとくたびれた。

 午後は自由の身という一点だけで乗り切ったようなものだった。


 ――こんな調子でこれから四年間、やっていけるかね。


 蛍光灯がずらずら並ぶ天井をぼうっと見上げて振り返ってみれば、入学してから十日。

 まだ十日しか経っていないのか、と思うほどに濃密な日々だった。

 引っ越し、入学式からの新入生歓迎コンパ。講義の選択の仕方についてのガイダンスがあったかと思えば、自分で四年間の単位取得について考えて、慌ただしく今年一年分の講義の選択申し込みを済ませて。


 それに加えて、朝陽は新しい日課にも慣れなければいけなかった。

 思えば、講義のあいだじゅう猛烈に眠たいのも、その日課のために早起きしたせいとも言えるだろう。


 ――高校卒業してからの休みに、遅寝遅起きしていたのが良くないのだろうけどさ。まあ、なんとかなるか。


 自嘲した朝陽は、そろそろ立ち上がろうか、と体を起こした。そこへ。


「いたいた! なあ、あんたさ、確か寺の子だったよな?」


 声をかけてきたのは、髪を明るい茶色に染めた青年。

 賑やかしく華やかな恰好に不似合いな、大きなリュックを背負った彼はもうひとりと連れ立って、一列後ろの席から朝陽をのぞきこんでいた。

 他の学生たちは学食に行くなり、午後からの予定にそなえて帰るなりしたのだろう。室内に残っているのは朝陽を入れて三人だけだった。


「いや、ちがいます。あー、同学部の同学年のひとだろうか? 申し訳ない、まだ名前を覚えていないので」


 見たことはあるけれど話した記憶はなかった。素直に告げれば、相手は気を悪くした風もなくにぱっと笑う。


「オレ、雨谷清春ね。好きに呼んで。新歓のとき、あんた寺の子だって言ってた気がしたんだけど」

「ああ」


 新入生歓迎コンパのときに、同学部内で簡単な自己紹介をした。雨谷はそのことを言っているのだろう。朝陽のほうは彼の顔に覚えがないから、同じテーブルではなかったはず。

 人の顔を覚えるのが得意な人種なのだろう。羨ましいことだ。


「寺の子ではなくて、寺古。古い寺と書いて『てらこ』と読む。ただの名字だ」


 小学校で『寺』という感じを習ってから「お寺の子なの?」と聞かれたことが、何度かあった。 

 朝陽にとっては説明も慣れたものだ。


「え! そうだっけ。なんか寺に住んでるとか話してたと思ったんだけどなあ……」

「寺ではなく神社になら住んでいる」

「神社? 神社って住めんの?」


 目を丸くする雨谷に、朝陽は思わず笑いがもれる。


「はは。俺も同じことを思った」


 雨谷の反応は、引っ越し先として親が「神社に住まないか」と言って来たときに、朝陽が返したものとまったくいっしょだった。

 違ったのは、目を丸くしたあと。

 雨谷はますます身を乗り出してきたのだ。


「神社でもいいや。あのさ、こいつを助けてやってくれ!」

「こいつ?」


 言いながら、雨谷がぐっと引き寄せたのは同じくらいの背丈の、たぶん男子学生。

 薄手のパーカーのフードを目深にかぶっているせいで、顔が見えない。


「助けるとは、どういう」


 朝陽が問うのを皆まで聞かず、雨谷はとなりに立つ人物のフードを掴んで背中に落とした。

 露わになった相手の顔を見て、朝陽は目を見開く。

 雨谷が視線を逸らしているのは、その人物の顔を直視したくないからだろうか。


「……こいつの、面を外してほしいんだ」


 面。雨谷が言うように、パーカーの人物の顔には古めかしい面がはめられている。

 それは能で使われる翁、老人の面に似ていた。

 古いものなのだろう、木でできているらしい面は、乾燥することで老人の皮膚によく似た風情をかもしている。薄暗いところで見たなら、本物の老人かと見間違えるほどによくできた面だ。

 あまりに精巧なものだから、両目の箇所にぽっかり空いた穴の不気味さが際立っている。


 けれど、能面にしてはおかしい。


「こんなに怒った顔の翁面があっただろうか?」


 そう、面は明らかに怒りを表す顔をしていた。

 朝陽は格別、和文化に格別明るいわけでは無い。それでもこんなにあからさまに眉を寄せ、まなじりを吊り上げた能面を見たことがなかった。

 能に用いられる面といえば、淡い表情のものが大部分だと思っていたのだけれど。


「だってこれ能面じゃねえし」

「能面じゃないとは?」

「お面様なんだよ」

「お面様?」


 聞いたことのない呼称に朝陽は首をかしげた。

 お面に敬称をつける習慣がないので、不思議な響きに聞こえる。


「その、お面様はオレの実家の地域の伝統っていうか、風習っていうか、そういうやつで。こいつ、タロは呪われちゃったんだよ! オレがうかつに誘ったりしたから、オレのせいで……!」

「呪い……」


 またもや、馴染みのない言葉を聞かされた。

 物語のなかでならば見聞きすることもあるけれど、現実で会話にそう出てくる単語ではないような気がする。少なくとも、朝陽の平凡なこれまでの日々では口にすることが無かった。


 そのせいだろう、現実味は薄い。

 けれども目の前には困り切った様子の雨谷がいる。

 どうしたものか、と思いながらも朝陽は会話を打ち切ることができなかった。


「隣の彼……彼女か? ひと言も発さないのも、呪いのせいだろうか?」


 雨谷と連れ立った人物は、ここまで一言も声を上げていない。

 顔を覆われ、声も聞かないままでは、格好から同年代であるだろうことしか見てとれない。

 

 ──女子の可能性もじゅうぶんにある。


 お面からのぞく髪の毛は長くはないが、額がすっかりあらわになっている朝陽ほど短いわけでもない。ついでに背丈は朝陽より頭ひとつぶん低い。

 着ている服はシンプルなパーカーにダボついたジーンズで、ボーイッシュという可能性もある。ファッションにうとい朝陽には断定が難しい。

 せめて骨格か筋肉が見えていれば男女の別くらいはわかると思うが、上下どちらもゆったりとした服を着ているせいでそれも無理だった。


 つまり、何もわからないので、そう口にしたのだけれど。


「彼女? いやいや、女子じゃねえよ!」

 

 雨谷が目を丸くしてお面の人物の肩に腕を回す。


「佐藤タロって、聞き覚えねえ? こいつもおんなじ学部の新入生なんだよ。新歓コンパも同じ講義室にいたし、何なら朝陽と同じテーブルに座ってなかった?」

「あ〜……」


 言われて、記憶を振り返る。

 怒涛のように過ぎた十日間。新歓コンパに参加した記憶こそあったが、そこで誰と会い何を話したのか。


 ──先輩が、わからないことはいつでも聞くようにと言っていたことしか覚えていない……。


 その先輩の顔さえおぼろげで。


「……申し訳ない。どうにも個人に興味を持つという行為が苦手なもので。いや、骨格や筋肉なら覚えられるのだけれど、顔で判別するとなると、いかんせん難しく……」


 昔からそうだ。

 よほど特徴的な相手でもなければ、なかなか顔を覚えられない。筋肉のつき方でならば人を見分けられるのだけれど。

 朝陽はしおしおと肩を落として謝るほかなかった。


「ふはっ、まじか! ていうか、骨格ってなんだよ。確かに身体鍛えてるみたいだし、筋肉信者か? 朝陽、見た目以上に面白えな!」


 名乗りあってからはじめて笑ってくれた雨谷に、朝陽はちょっぴりほっとする。


「ああ、まあ筋肉を鍛えるのはそこそこ好きだ。それ以外は神社に住んでいるだけの一般人だが、それでも良ければ、話ぐらいは聞こう」

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