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8) 夢さんの道

1夢さんの夢


 四月から夢さんは阪大生となった。英語と論文の試験にパスして法学部の三年として学士入学したそうである。この思いがけないニュースを聞いて、やられたという感じだった。

「弁護士にでもなるつもりなの、それとも外交官?」

「将来は女性学をやりたいわ。」

「じゃあ、大学教授にでもなりたいわけ?」

「まだ分からないけど、好きなことをして生きていこうと思ったら、努力がいるわ」

 ほんの少しの時間があれば、カウンターに座り、皿洗いで荒れた手でコンサイス英和辞書をめくる。ページには無数の線が引かれたりメモが書き込まれている。ほとんど真っ黒な下端がよれよれになった辞書を置いて、

夢さんは音楽に合わせて体をゆすり始めた。夢さんはいつも動いている。テーブルの空いた席にちょっと座り、前の男性に聞く。

「あなた、独身?」

「いえ、結婚してます」

「まあいいわ。私は独身の男性にも結婚している男性にも、どちらにも、興味を持つの」 

 その男性を含めて周りの連中は楽しそうに笑う。

 夢さんは私に聞く。

「それで、あなたは今なんの不満もないのね」 

 突然の質問に私は、正直に答えてしまった。

「まあ、不満ならいっぱいだわ」

 家で小中学生に英語を教え、二人の子どもは普通に学校に通い、夫のお陰で生活の心配もなく、姑と同居してもいない。傍からは不満など抱く余地がないように見えるらしい。しかし主婦として家にいる事は退屈で、夫は好き勝手な事をして、自分だけが犠牲のように感じる。

 私の表情を読み取り、夢さんは言う。

「私は何の不満もないわ。つまり、したい事をしてるから、とても幸せ。我慢をしすぎるのは良くないわ」

 その頃の私には、主婦としての我慢をしないということは、家庭をこわすということだった。それは出来ない。家庭は私の求めているものだったが、それは不満と我慢の上に成り立ち、主婦としての役割と個人として満足する自分を両立させる方法を知らなかった。ずっと後になって分かったことは、自分を変えることで、周りを変えられるということだ。しかしこの頃は、どういう風に自分を変えれば良いのか分からなかった。自分を変えるという意識もなかった。

 『アメリカン』に通うのは、知らず知らずに、それを求めてのことだった。夢さんのようになりたい。

 学生の男の子が夢さんについて、こんな風に表現した。

「夢さんが来たら、みんなを元気にさせてくれる。夢さんは光輝いてる人なんだ」

 開店した頃は朝十時から店を開けていた夢さんは、しばらくすると午後二時からにずらし、とうとう、土曜をのぞいて五時半からにしてしまった。昼間はほとんど客がいないので無理ないのだが、開けているときにも、通訳の仕事や大学の試験とかでバイトの女の子をやとうことも多くなった。

 ある日、『アメリカン』へ向かう途中、夢さんに後ろから声をかけられた。

「ハロー、セツ」

 道の真ん中でも当たり前に英語であった。

 夢さんは白いレースのミニスカートに黒い襟ぐりの広く開いたTシャツだ。

「あなたはあいかわらず、いつも海岸にいるようね。こんなかっこうで阪大に通っているわけ?」

 夢さんは何を思い出したのか笑い出した。

「阪大であだなをつけられたの。ミス、ビーチってね」

 さすが、私も阪大生も感じることは同じであったようだ。この姿で構内をかっぽしているとすれば、彼女は有名にちがいない。短いポニーテール、形良く盛り上がった胸を強調したシャツ、ミニスカートで、地味でまじめな阪大生と教室にすわり、法律の講義を受けている姿が目に浮かぶのであった。


2夢さんの結婚


 夢さんは阪大に入った年、今年こそ結婚すると言っていた。

「助教授にすてきな人がいるわ、結婚してるけど」

 そんなことを言いながら、その年も暮れ、もう一年が過ぎ、私は夢さんに聞く。

「また今年も終わろうとしているけど、まだ結婚しないの?」

「一人、金持ちのアメリカ人を見つけたわ。でも私に結婚を申し込む人はぴったりこないし、いいと思う人は、向こうがだめだし」

「夢さんほどの人でも断られることなんてあるの?」

「そりゃあそうよ。人間て不思議なもので、テレパシーが働く。相手から好きだと思われると好きになるし、嫌いだと思うと、二人の間に目に見えない壁ができるのよ。みんなに百パーセント親切にする事は疲れるわ。私は七十パーセントの人はひきつけられるけど、どうしても嫌いだという人も出てくる。人間は、まわりに集まる人全部に自分を好きにさせる事は不可能よ。まあ、そんなときは気にしないことね」

 へー、夢さんでも自分に惹きつけられる人が七割か。私だったらどの位だろうと考えてしまう。

「別に結婚しなくても、適当にボーイフレンドがあったら、いいわよね」

 夢さんの生き方をもっと探ろうと誘い水をかける。

「そうね、結婚に幻想なんて抱いていないわ。でもセックスはなくても生きられるけど、愛がなくては生きられないことは確かね」

 ある日、夢さんが私のところにカップを持ってきて座わった。おや、これはめずらしい。何か話したいことがあるのかな? 実はあとになってみれば、この予感はあたっていた。夢さんはこの時、もう重大決定をしていた。でもそんなことは、おくびにも出さないで、あたりさわりのない話のように装っていた。

「もうすぐ引っ越すことにしたの。今は母親が洗濯してくれるし、食事だって用意してくれる。楽だけど、一度、自分一人で何もかも全部やってみたい。大変かもしれないけど、試してみたいのよ」

 まだ本当に言いたいことを言い終えてないように、夢さんはめずらしく、うじうじとそこにすわっていた。夢さんの顔はいつもぴかぴか光って、三十過ぎには見えなかった。けれど今こうして背を丸めて話している顔を近くで見ると、目の下に小皺があり、やっぱり年相応に見えた。

「引っ越すのに、荷物を減らしたいから洋服をバーゲンしようと思うんだけど」

「洋服じゃなくてボーイフレンドの一人を買いたいわ」

 自分でもドキッとするような冗談が口をついて出た。

 ミヨコと夢さんの家に服を買いに行くことになった。ミヨコは『アメリカン』の主と呼ばれている。『アメリカン』に通うために、親の家を出て、勤めに通い出し、アパートを借りたのである。毎晩、必ず『アメリカン』に寄り、ミルクを飲む。

「あした、夢さんの家に行くの、服を買いに」 

 なにげなく常連の医者に話した。もう五十を過ぎているおだやかな人物だった。

「僕も行くよ。あしたは休診日なんだ」

 どうも本気らしい。知らなかった。このおじさんも夢さんファンだったとは。夢さんのことは何でも知りたい一人なんだ。

「だって夢さんのお古なんか、いらないでしょう?」

「娘に買うよ」

 とうとう彼もついてくることになった。

 夢さんの家は、婦人洋品店だった。鉄筋三階建ての一階が店で、二階が両親の住まいで、三階を夢さんが使っている。トイレとキッチンもついていて独立しながらも、三階に行くのに必ずご両親の住んでいるところを通り抜けなければいけない設計になっている。

 私たち三人は日本語で話しながら行ったので、当然のように夢さんにも日本語で話しかけた。ところが夢さんから返ってきたのは、英語だったので私たちの会話も英語にきりかわってしまった。おまけにラジオからもFEN放送の英語ニュースが流れてきた。あいかわらず英語漬けの夢さんだった。

 シュークリームを持ってきて、夢さんはテーブルに置いた。

「阪大の卒業式はどうだった?」

 学士入学なので、二年で卒業なのである。

「着物を注文してたけど間に合わなくて、スーツで出たの。そしたらみんな華やかな着物姿で、私はとてもみじめだったわ」

「それは着物のせいじゃなくて、年齢の差よ」

 私は毒づいた。それに構わず夢さんは着物を取り出してきた。

「ほら、やっと出来てきたのよ、見て」

 薄緑色にブルーやオレンジで桜の花がちっていた。まるで二十歳の女の子が着るような華やかな着物だった。

「父が卒業と結婚のお祝いにくれたの」

「結婚?」

 私たちは同じ叫びをあげた。引っ越しとは聞いていたが、結婚とは匂わせもしなかった。 今までにこにこして私たちの話を聞いているだけだった医者も、驚きの叫びをあげた。落胆も隠し切れてはいなかった。

「どんな人?」

「宮本くんよ。証券会社に勤めてるの」

 夢さんはご主人となる人をくんと呼んだ。

「ああ、知ってる、知ってる」

と、ミヨコが高い声をあげた。

「無料英会話教室に最初の頃、よく来ていた人でしょ。みんなでどっか行く時、電車の中で通路をはさんだ座席に座った二人が見つめあっているのに気づいて、変だなあ、と思ってた」

 夢さんが無料英会話教室をしていたのは、『アメリカン』が開店した直後だから、もう五、六年も密かに愛を暖めていたことになる。宮本くんは二十七だというから夢さんより八才も年下である。

「いいなあ、八才も若い人をつかまえられるなんて」

 私は心底うらやましくなった。自分より若い男と結婚したいと思うのは、男だけでなく、実は女も同様だ。それが出来るのは夢さんに人を引きつける力があるからだろう。女だって実力さえあれば、いくらだって若い男が寄ってくる。

「宮本くんてハンサム?」

「まさか、こんな人」

 ミヨコは自分の顔を手でつぶして、おかめのような顔を作ってみせた。妬ましい気持ちが、それでふっとんだ。

「宮本くんて『アメリカン』に来ていたの? 会ったことあるかしら?」

「『アメリカン』に来ても、ほとんど誰ともしゃべらないで、本をよんでいるから気がつかなかったんじゃない? 変人よ」

「そりゃあそうよ、夢さんの婚約者なら」

「どうせ私はとても変よ」

 歌うように言いながら、夢さんは台所に立っていった。

 なんだか私はほっとしていた。夢さんは金持ちのアメリカ人にもひっかからず、所帯持ちの阪大助教授にもかかわらないで、普通のサラリーマンと静かな恋愛を育てていたんだ。もっとも相手が八才も年下というところだけ、いかにも夢さんらしい。

 私たちについて来た初老の医者は、会合があるので帰ると言い出した。夢さんの婚約者の話など聞きたくなかったのかもしれない。地下鉄の駅まで送っていった夢さんは陽気に帰ってきた。

「改札口でさよならのキスをしてきたわ。唇にしようと思ったら、断られたから、ほっぺで我慢したけど」

「まあ、改札口で? 人が見ていたでしょ」 

 温厚な医者の、とまどいながらも喜んでいる様子が目に見えるようだった。

 私たちはいよいよ夢さんの服を選びはじめた。壁面いっぱいにつくりつけになった洋服ダンスに服がきちんと整理されていた。私たちはそれをひっかきまわし、あれもこれもと身につけてみた。夢さんの洋服を着ると、まるで夢さんになれるような気がする。

「ちょっとセツ、これ買わない?」

 夢さんはもうひとつ奥の部屋のタンスを開けた。そこには夢さんが会社勤めをしていた頃のスーツがかかっていた。今まで見たものとまるで違う地味な服だった。私たちが知っているミニスカートとは違う別な世界に住んでいた時の夢さんがそこにあった。

「いやだ、こんな年寄りくさいの、いくら私だって着れないわよ」

 私は文句を言った。ひとしきりの騒ぎが終わって落ち着いた時、夢さんは切り出した。

「私、東京に引っ越すのよ。宮本君が転勤になってね」

 ミヨコと私は同じ質問をした。

「じゃあ『アメリカン』は、どうなるの?」

 楽しかった気分が一変してしまった。『アメリカン』は、どうなるんだろうと心配だった。 

「買い手を探しているんだけど。セツ、どう、買わない?」

 これだったんだ、この前、夢さんが珍しく私の側に来て、話したそうにしていた事は。でも私には家族もあるし夜は塾をしているから、『アメリカン』に毎日、通う事など、とても出来そうになかった。

 買い手が見つからず、夢さんは店をアルバイトの女の子たちに任せたまま、東京に行ってしまった。

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