7) 二つの世界の間で
1誇り高いアメリカ人
『アメリカン』には、日本人ばかりでなく外国人も多く訪れた。客という立場でコーヒー代を払って来るのだが、一回か二回で途切れてしまう。日本人常連客は英語を習いたいという意識のせいで、受け身になってしまう。たどたどしい英語では、どうがんばっても対等な話ができない。これでは英語を母国語とする人たちは、おもしろくないだろう。
それにもかかわらずアメリカ人のダニーは、『アメリカン』の常連で、日本人仲間が自宅で開くパーティーにも良く出席した。
栗色の縮れ毛頭をした三十代の男性で、いつも悲しそうな顔をしていた。冗談を言っても、口の端を歪めるだけで笑わなかった。
「日本で生き延びるこつはただひとつ。日本女性と結婚することさ。僕みたいに、独身で八年も生き延びてる奴は、少ないよ」
彼はアメリカで、留学生だった日本女性と結婚したそうだ。
「他の女性にちらっと目が行ったとしても、僕は首をねじ曲げ、彼女だけを愛した」
若い日の二人を純白な幸せがあったことを思い出すかのよう話した。
ダニーは歯の技工士として仕事場を構え、助手も使っていたが、細かい仕事で目を痛めた。その後、大手の運送会社に勤め、マネージャーに昇進した。一方、奥さんはアメリカ社会に適応できず、日本に帰りたがった。ダニーは彼女の求めに応じた。ところが彼女は日本ではアメリカナイズされた言動が企業に受け入れられず、またアメリカに帰りたいと言い出した。
「君だけ帰って六ヶ月間、様子を見てごらん。その間、仕送りして上げるから。もし向こうで調子が良かったら、僕も後から行くよ」
人が良すぎるまでのダニーの優しさが心に染みて、ダニーを見つめた。その顔が更に悲しげに、眉を寄せた。
「三ヶ月後、彼女から突然、離縁状が届いたんだ」
「まさか! どうして? こんなに優しい人に対してひどい仕打ちね」
「彼女はやり直すためにオーストラリアに渡り、恋人もできたんだ」
しかしうまく行かず、アルコール中毒になってしまったらしい。
「僕にコレクトコールで電話してきた。その代金が月三百ドルにもなったことがある。精神的におかしくなって、僕にオーストラリアに来てくれと言ってきた。それで前の事ばっかり、ぐちぐち言うから、嫌になって、それ以外のこと、たとえば天気のことなんかを話そうよと言ったんだ。彼女は僕を父親だと思っているが、僕は父親でなく夫だ。それ以来、彼女との縁は切った」
帰国した彼女は電話をかけてきたが、ダニーの決心は変わらなかった。
「父も母も死んだし、僕は全く一人だ」
「寂しいでしょう?」
「寂しいって? とんでもない。自由を楽しんでるよ」
言葉だけかもしれないが、吹っ切れた調子だった。私がこれ以上心配しても何の役にも立たない。
「日本に来る外人は、たいてい、一、二年で幻滅して出ていくよ。残っているのは、僕みたいに馬鹿な奴ばかりさ」
日本の悪口ばかり言いながら、なぜ長くいるのか、聞いてみた。
「教えることが好きなんだ。アメリカに帰ったら、教える仕事はない」
英語が国際語になっていることで、英語を母国語とする人たちにとって日本は天国なのだ。自国で仕事がなくて、日本に滞在している英会話教師は多くいる。ダニーも昼は専門学校で教え、夜は企業でサラリーマンを相手に教えている。時間が許せば、個人レッスンもする。生活をできるかぎり切りつめているのは、アメリカに帰ったときのために貯金しているらしい。
けれどダニーが日本に居残っているのは、生活のためだけでないようにも思われる。ダニーはアメリカ人を説得するには、論理で切り崩さなければだめだよと熱をこめて教えてくれた。たとえば米を自由化しろと、アメリカが圧力をかけてきたときがあった。
「米は日本にとって神聖なものだ。味噌も醤油もすべての食べ物が、ご飯と一緒でなかったらおいしくない。日本の景観も、水田がなかったら壊れてしまう。日本の政治家はアメリカ人にそれを納得させる方法を知らない」
まるでダニーは、自分が日本人であるかのように憤慨していた。
経済大国日本への風当たりがきつい頃で、日本人は金のことしか考えないなどと人種差別に近い発言をするダニーだったが、その顔を見れば、やさしい目をして笑っている。
「こんな風に、ここでは日本の悪口ばかり言っているが、アメリカでは日本の弁護をしているんだよ」
ダニーは私たちが当たり前に感じ、気が付かない日本を外からの目で良く見ていた。
「日本では古くて汚い車に乗っているのは犯罪だ」
嘲笑とも感じられる過激な言い方だったが、ご近所さん達が車をこまめに洗っている光景やオンボロ車は見かけない日本の道路を想い浮かべて、笑ってしまった。
「日本は西洋の物を輸入し、驚くべき職人技術で、何でも追い越してしまう。例えばウィスキーだ。ワインもチーズもきっと、そうなる」
知らず知らずのうちに舶来品を崇拝している私たち日本人の価値を見直させるダニーの予言だった。
夏と冬にはアメリカに帰り、親戚めぐりをするダニーは、アメリカ人としての自分を取り戻す必要があるようだ。日本文化に同化されそうになる自分が怖いに違いない。
ダニーを知って、私は文化が人間に及ぼす恐ろしさを知った。日本人と結婚したことによって、長く日本にいることによって、日本文化がダニーの人格の内側に入り込んでしまったのだ。しかしアメリカ人としての価値観とプライドを維持していくために、ダニーは葛藤する。自虐的になったり、日本の悪口を言ったりする。
ダニーはアメリカに帰り、大学の文学部に入り直した。禅に影響を受けたビートの詩人ギンズバーグを神様のように尊敬し、詩を書きためていた彼は、修士の学位を取って日本の大学で教えたいと言った。文化の違いを乗り越えた本質を学生たちに教えることが本当にしたいことだと、悟ったようだった。
2純愛の果て
純粋過ぎて、この世の中では生きていけないんじゃないかと思われるようなカップルがいた。清らかな童女のような彼女と、まっしぐらな理想家の彼が結婚した。運命が引き合わせる男女の中でも、これ以上の組み合わせはないと思われた。
彼は『アメリカン』で数少ない中国語を話す仲間と一つテーブルを囲んでいて、中国で日本語を教える職を得た。もちろん彼女も中国についていった。ところが彼女一人だけ先に帰国してしまい、その後、彼との離婚が伝えられた。
それから年月が過ぎて、彼女から突然、電話があった。アメリカ人と再婚することになった報告だった。
「すごいわね、アメリカ男はモテるのに、良くつかまえたわね」
「彼、もう五十過ぎているの」
若い日本女性とひどく年の離れたアメリカ男のカップルを見ると、他人事なのに屈辱に似た気持ちが私の胸を走る。
「あなた、英語を話したくて、その人と結婚するの?」
「それはあるかもしれないけど、私、悩んだの。二十歳も年上の彼の方が、きっと早く死ぬじゃない。その後、三十年以上も一人で生きることになるけど、いいかって。今までも一人で生きてきたんだから、大丈夫だって思ったの」
前の彼との別れ以来、それほどの寂しさに耐えてたのだと私の胸は詰まった。
「その人の名前は?」
「トム」
「えっ? 『アメリカン』のあのトム?」
トムは、カリフォルニアでタクシーの運転手をしていたが、もっと良い職を求めて日本に渡ってきた小太りの中年男だった。アメリカでは有色人種が優遇されて、白人が差別されていると怒っていたことがあった。日本ではアメリカ人は逆差別で、女の子にも持てるし英会話教師として生き伸びることができる。
「私、『アメリカン』で、前の彼にも出会ったし、今度もそうだし、不思議なくらい『アメリカン』に縁を結ばれてるの」
彼女は自分から、元カレのことを言いだした。
「この頃、トムと英語で話すことが多くなって、やっと前の彼の気持ちが分かったの。彼は英語の通訳をやってたでしょ。でも英語と日本語って、発想から言葉の並べ方まで、何から何まで反対でしょ。彼は二つの言葉の間で葛藤して、それで、英語と日本語の中間の中国語に走ったんだと思うの」
彼女に去られた彼は、『アメリカン』が閉じた後のことであるが、中国から帰って、ある英会話サロンで私と再び顔を合わせた。もちろん彼女のことなど口に出せなくて何を話題にしていいか分からない私に、彼はその時の仕事であるNHKの集金の苦労などを話した。そこで閉店まで粘った夜遅くに、他の仲間と連れだって駅の改札口に向かう地下道を歩いている時だった。
「今に見てろよ」
人通りの少ないコンクリートの空間で、彼は遠くを見ながら叫んだ。