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6) 達人たちの悲哀

1英語のタモリ


 閉店が近い九時頃だった。客も少なくなり、もう帰ろうかと思っていたが、何かおもしろい事が起こらないかという気分で、残っていた数人と話題をつないでいた。

 そこへ欧米人といっしょに中年の背の低い男性が入ってきた。たちまち、興味がこの二人に集中した。

 欧米人の方は、連れに気をつかっている様子で、あまり口を開かなかった。

 藪沢と名のるもう一人はおしゃべりで、おまけに英語がとてつもなく、うまかった。皆がその英語に感心すると、興にのったのか、イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語と、器用に真似てみせた。アメリカ英語は、南部の黒人英語、東部のワースプ英語と、方言まで使い分けた。おまけに「これがフランス人の英語」と、フレンチ訛りの英語まで、やってのけた。まるでタレントのタモリが四か国語でマージャンをするような英語の物真似の達人に、私たちは圧倒された。

 余談になるが、藪沢さんがいくら英語の物まねがうまくても、中年の彼の発音は日本人のものだった。この頃の若い人には、日本人英語じゃない発音が増えてきた。ある時、若い男の子が「僕はイギリス英語ができるんです」と言った。その時まで、彼は私と日本人の英語で話していた。イギリスでしばらく暮らしたというその青年がイギリス英語を話してみせた時、私は笑い出した。本当にイギリス人みたいで、日本人の口から出ると、奇妙だった。彼もそれを知っていて、日本人同士で英語を話すときには、日本人英語にするのだった。彼は、イギリス人にはなりたくないのだろう。

 藪沢さんは、英語だけでなく、話術がうまかった。しわがれてはいるが、笑みを含ませた声でしゃべると、物事すべてが魅力的になる。

「僕の事務所は」と藪沢さんは言った。

「白い壁に真っ白な絨毯が敷いてあって、ソファが二つ置いてある。仕事で遅くなった時には、そこで眠れる。キッチンもついてるから、コーヒーも入れられる。秘書もコーヒーを入れてくれるが、まずくて飲めないよ。コーヒーも料理も、僕の腕は天下一品だ。僕のドレッシングを食べさせてあげたいな。ガーリックを効かせて、オニオンも入れる。そんじょそこらのレストランの物とは、較べものにならないよ」

 事務所を持っているなんて、職業はなんだろうと思った。

 その事務所で年の暮れにポットラックパーティーがあるからと、電話がかかってきた。「ポットラックパーティーって何ですか」と聞くと、持ち寄りパーティーのことだと教えてくれた。

「だけど、僕は途中で、失礼しなくちゃならない。恋人に会いに行くんだ。秘書に鍵を預けておくから、君たちはそのまま楽しんでいていいよ」

 藪沢さんは、その恋人が大学で英語を教えている有能な女性で、十歳も年下である事、どんなにお互いに夢中であるかなどを並べ立てた。わざわざ電話をもらって、こちらも女性として多少なりとも胸がときめいたのが、興ざめした。何のためにこんな話を聞かせられるのかと思ったが、なかなか刺激的だった。

「彼女とはお互いの才能を認めあい、尊敬しあっているんだ」

「ベッドの中でも、英語で話すんですか」

「その時によるよ。でも夢中になってる時は日本語になる」

 私は期待に胸をふくらませてパーティーの日の来るのを待った。そこは白い絨毯だそうだから、天井には、きっとシャンデリアがあるだろう。テーブルには花が飾ってあって、持ち寄りとはいえ、藪沢さんお得意の料理も並べてあるに違いない。ゲストは外人と日本人と半々で、華やかな雰囲気の中で、ダンスも踊れるだろう。私は外人と踊っている自分を想像し、あれこれと着て行く服を考えた。

 神戸の三宮から五分という便利な場所にある事務所は、古いビルの二階で、表から階段で上がるようになっていた。多少すり切れているとはいえ、ソファもあったし、絨毯も白かベージュか定かではないが敷いてあった。五、六人の客は、ほとんど年配の日本人男性で、来る予定だった外人は全員、都合が悪くなっていた。持ち寄りの品は甘い物ばかりで、ビールに合わなかった。秘書がつくったサンドイッチだけが、どうにか食べられそうなものだった。

 期待はずれだったが、それでも、ゲームなどもし、人数も増え、藪沢さんの話術のお陰もあって盛り上がってきた。藪沢さんがいると、その場が楽しくなるのは、魔法のようだ。

 このパーティーで藪沢さんの正体が分かった。通訳や翻訳、英会話教師といった英語で食べている人間の一人だった。日曜日に外人を呼んで講演させ、それについて話し合うといった会員制のサロンも主催していた。

 前は商社員だったそうだ。

「会社勤めと現在の仕事と、どちらが楽しいですか」

「そりゃあ、今のほうさ。毎日がエキサイティングで、人生がずっと楽しい」

 その楽しい人生も並外れた努力をしているから、ついてくることが、話の端々にうかがわれる。

「僕は、この辞書の中の単語で知らないのはない」

と、藪沢さんは分厚い辞書を手に豪語した。

「オーストラリア人が僕に貿易英語を習いに来てるんだ。会話の練習になるからと思って、レッスン料は取らないけど」

 パーティーの出席者は、英語学習のスーパースターの自慢話に聞き惚れていた。

 やがて、用意してあった真紅のバラの花束を抱えて、藪沢さんは彼女のアパートに行くために立ち上がった。みんなが冷やかす中を、踊るような足取りで出ていった。

 翌日の昼頃、電話が鳴った。笑いを含んだしわがれ声は藪沢さんだった。一応の挨拶の後、「胃が痛い」と、訴えるので、思わず「どうしたんですか」と、聞いた。

「昨日は、一睡もしていない」

 それが言いたかったのか。まんまと策略にかかってしまった。

「さぞ、楽しかったことでしょう」

 おつきあいして答えると、

「朝早く、手をつなぎあって、コーヒーを飲みに出たんだ」

と、さも、うれしそうに言う。

 四十過ぎの男が不倫の恋を無邪気に喜んでいるので、こちらも映画の一シーンを見るように、社会的常識を脱ぎ捨てて、微笑ましく思った。

 その後、藪沢さんのサロンに出かけると、顔が腫れあがり、片方の目の周りに青く痣ができ、右手に包帯をしている。例の彼女とパーティーに行ったところが、その昔の恋人に出くわし、表でやり合ったらしい。彼女と手をつないで仲むつまじくパーティーに出席するところから始まって、喧嘩の様子など、まるで目の前に見ているように再現して、楽しませてくれた。

 その話し上手の藪沢さんが「僕のトーキング・ビジネスも傾きかけてきた。何でだか分からない」と、ぽろっとこぼした。年を取って若い人を惹きつけられなくなったのか、それとも外人じゃないといけない時代になったのかもしれない。「僕はこれから論文を書いて博士号を取る」などとも言っていた藪沢さんから、その後のある日、貿易会社を設立し、記念パーティーをする案内状が舞い込んだ。

 風の便りに聞く会社は、うまくいっているようだ。「世の中には何をやってもうまくいかない人間と、何をやってもうまくいく人間がいる。藪沢さんは後者のタイプだ」と、その会社に出入りしている『アメリカン』仲間が感想を述べた。 

 それから数年後、私は日本語のプライベートレッスンをしに神戸に行ったついでに、懐かしくて藪沢さんの事務所に寄った。藪沢さんは奥の机にかまえ、奥さんと事務員もいて、活気が漂っていた。突然の訪問にもかかわらず出してくれたコーヒーの温かかさが、体に浸みた。この事務所が英語サロンだった頃、金も払わずに参加したりしたが、藪沢さんはいつもできる限りの歓待をしてくれたことを思い出した。 どう感違いしたのか「ちょっと銀行に行ってきます」と、藪沢さんの奥さんが、席をはずした。例の恋人と別れた後、オーストラリア人の彼女ができたと聞いたが、奥さんの手のひらの上で遊んでいただけかもしれない。


2ユニークな意見


 土曜日の『アメリカン』は、座る椅子が無いくらいにぎわっている。皆でたわいの無いことを話しながら、話題の切れた時ふと顔をあげると、中年の男が入って来るのが見えた。

 ちょっと奇妙な印象の顔だった。知的には違いないが、歪んで気持ち悪い物をその細い目に感じた。背広を着て、黒いアタッシュケースを下げている。そうかといって、サラリーマンのようではない雰囲気があった。

 男は私の正面の席に座った。話し始めたその男は、抜群に英語がうまかった。

 男は英検一級、国連英検特一級、通訳案内業ライセンスの全てを持っていると豪語した。そのどれもが超難関で、私を初めとした凡人は、何度も試験に挑戦しては落ちる事を繰り返している資格である。

 たちまち彼がしゃべり役で、皆、聞き役になってしまった。ビルの一室に事務所を構えて、翻訳や通訳が主な仕事らしい。私は正直言って、羨ましかった。英語を直接使う通訳や翻訳は、英語をやりはじめた者なら、実力だめしという事もあり、一度はついてみたいと思う職業だろう。

「この世界では、はったりが必要だ。知らなくても知っているような顔をして、引き受ける。後で、専門用語を調べれば、何とかなるものさ。翻訳っていうのは、かなり時間がかかる割にペイが低い。だから、枚数をこなさなくちゃあ、ならないんだ」

「文芸作品もやるんですか」

「いや、やらない。何でもやるけど、文学は駄目だ。僕にはそんな才能がない。それに、需要が少ないから、それでは食べていけない」 

 男は、前は外資系の会社で外人ボスの秘書兼通訳として勤めていたと、話し出した。

「待遇もいいし、秘書として睨みもきいた。けれど、ボスが勢力争いに敗れて帰国してしまったんだ。僕は会社に残れない事はなかった。でも通訳っていうのは、その人と一心同体なんだ。だから、急に立場を変えて、今まで敵だった人の通訳になる事は出来ない。それで、すっぱり、止めてしまった」

 自分の考えを話すのではなく、他人の考えの代弁者である通訳という職業の悲哀が男から伝わった。

「通訳っていうのは、翻訳に比べてペイもいいし、余得がある。ホテルでの食事や、パーティなんかも仕事のうちなんだ」

 通訳氏はうれしそうに言ったが、私は無料の食事を喜んでいる男が、みじめに思えた。 通訳氏は盛んに話し続ける。同じテーブルの学生や私は、常に聞き役で、何か言おうと思ってもさえぎられてしまう。

「だいたい、日本人は個性が無い。いつも集団でいて、一人では何もできない」

 本当にそうだ、国際社会の中で、日本人はこのままではいけないと、周りの連中は感心しきって、うなずいている。

「日本人は働き過ぎる。貿易摩擦は減らさなければならない」とか「あの外人に対する指紋押捺制度はひどい。人権無視だ」とか、もっともなご意見ばかりである。

 私も意見を言いたい。

「でも…」

 違う意見を述べようとすると、こちらに口を挟むすきを与えない。

「本当にそうですね」

 相手に意見を合わせてみると、今度は、いや、そうじゃないと反対の意見を言ってくる。 私は馬鹿らしくなって、隣に座っている年配の男性と話し出した。その人はタイの女性と結婚して、子供もいるらしい。日本での生活が合わず帰国した母子に仕送りを続けている。

「定年後はタイで英語を教えて生活したいんですが、なかなかうまくならないですね」

 そのとつとつとした英語を耳にした通訳氏が口をはさんだ。

「君は考えて英語をしゃべってない。いつまでたっても、うまくなるはずがない。『アメリカン』に来ても、無駄だよ」

 そのあからさまな言い方にテーブル全体がしゅんとしてしまった。その年配の男性もあまりひどい言われ方をしたせいか急に咳をし、むせて止まらなくなった。

「これだから、年寄りは嫌いなんだ」

 その年配の男性は黙って席を立った。他の連中も一人二人と他のテーブルに移動した。通訳氏がなおも続けて喋るのを、私は暫く黙って聞いていたが、ある事に気がついた。彼の意見は、最近の新聞の社説や投書欄などに書いてある事ばかりだ。私は通訳氏に、そう言ってやった。

「おっしゃる事はごもっともですが、ユニークさに欠けるように思います。新聞に書いてある常識的な事ばかりじゃないですか」  

 通訳氏は意外と素直に、それを認めた。

「僕にだって自分の意見はある。ただそれに賛成してくれる人は少ないから、新聞の意見を言っておけば安全なんだ」

「そのご自身のユニークな意見というのを聞かせていただけませんか」

 通訳氏は一瞬ためらったが、ぐっと身を乗り出し、囁いた。

「たとえば、あのグリコ事件、僕はあれに賛成なんだ」

 私はぎょっとして、聞き返した。

「賛成って、犯人にですか?」

 通訳氏はうなずいた。

 グリコ事件は、当時、世間をにぎわしていたニュースで、元の学生運動家と見られるグループがチョコレートに毒を入れたと製菓会社や警察に挑戦状を突きつけ、その社長を拉致して、翻弄した事件である。

「製菓会社は長い間、子供に毒を食べさせてきた。甘いものは身体に良くない。だから、罪を犯していたのは会社の方で、当然の報いを受けたんだ」

 私は、通訳氏の顔をまじまじと見つめた。正気かどうか確かめたかった。      

「あの犯人は、社会で疎外されてるという屈折を、あんな犯罪という形で、表しているんじゃないでしょうか」

 通訳氏は、うなずいた。

「あんたたちは、世の中から忘れられた犠牲者たちを、ちっとも気にかけてないのさ」

 その目は暗く光った。最初に見た時の奇妙な感じの原因はこれだったに違いない。並外れて優れた能力があるのに、社会での地位に恵まれてないという恨みの目だ。

 ひょっとして、この男がグリコ犯人ではないかと、ぞっとしてきた。そそくさと席を立って、外へ出た。通訳氏が追ってくるはずもなかったが、駅まで早足で歩いた。

 夜遅いのに満員の電車で、人の中にいることにほっとしているのは、ちゃらんぽらんに英語をやっている自分だった。主婦だから、英語で生活を支えているわけではない。年功序列の日本社会の枠組みから外れて、英語の道を突き進む専門家たちの悲哀は、人ごとでしかない。

 その夜を初めとして、彼が『アメリカン』に来る度に、その英語に惹かれて私は周りにくっついていた。そしてちっとも、相手にされなかった。彼がちやほやするのは、若い女の子だけだった。

 しかし翻訳の仕事をする男性の話によると、彼は翻訳関係の組織のまとめ役として、面倒見が良いそうだ。

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