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5) 人生の目的

1旅するために生きる


 誰かお目当ての人がいるとき、『アメリカン』へ向かう足も自然に速くなる。きょう彼は来ているだろうか。すてきな人に出会うたびに生まれ、いつも泡のように消えていく。そのときめきを抱けるあいだは、まだ生きられるという気がする。

 『アメリカン』に着いて、入り口に立つと、今日は誰と話そうかとテーブルを物色する。興味のありそうな人物のいるテーブルに座り、まず隣に座っている人に話しかける。ひとしきり喋って、話題が切れると、またテーブルを見回して、別の相手を探す。分厚い横文字の本を開いている三十前後の男性がいた。

「何を読んでいるの?」

「ヘロドトスのギリシャ史さ」

 高校の教科書でお目にかかった、うろ覚えの名前が出てきて、びっくりする。おまけにこれを読むのが、もう三回目だそうである。

「歴史の先生なの?」

 彫りの深いインド人のような顔だちの、その男性は首をふる。

「消防士さ」

「消防士?!」

 思わず繰り返したのは、インテリ風の雰囲気にふさわしくない職業に思えたからだ。

「僕は山が好きだから、体を鍛えるには消防士がいいんだ」

 毎日がいざという時のためのトレーニングの生活らしい。勤めていた会社を退職し、インドやギリシャ、パリなどに一年以上の放浪の旅に出たという。帰国してフリーターをし、資金をためると二回目の放浪へ。今は消防士をしながら三回目の放浪旅行に備えているようだ。大学は国立の理学部を出たというのに、もったいないような気もする。 

「オレ、イスラエルにでもいこうかな」

 突如とした話の展開に、自分の耳を疑う。

「イ、イスラエル!?」

「ああ、三年間ぐらいは、働かなくても食えるぐらいの金ためてるしな。キブツの共同体に入ってみたい」

 その頃、キブツはユートピアを探求する共産主義にも似た実験として、マスコミに取り上げられていた。

「それで、キブツに入ってどうするの?」

「どうって、オレ、外国で宗教、見てたり、知らない言葉、聞いてたりするの好きだし」

 非常に茫洋としている。典型的『アメリカン』の顧客である。

 つまり『アメリカン』に来る連中は一、果てしなく夢を見続けている。二、考え方が柔軟であるため、既成観念から少々はずれるのも気にしない。平たく言えば、社会から見ればドロップアウトとしか見えない。『アメリカン』の名誉のために付け加えるが、医師や教師や新聞記者という社会の模範となる職業に日々いそしんでいるインテリという人種が多い。そんな人たちも、『アメリカン』に入ったとたん日常生活を忘れ、夢や本音を語り始めるのである。

「まあ、あなたが外国に行きたくなるのは、病気みたいなものね。でも、そろそろいい人を見つけて結婚しなくちゃいけないんじゃない?」

「そうだなあ、オレ、英検一級持ってるし。塾でもやるかなあ」

 胸にひそかな小花が咲いた。こんなのんびりした人と、遠くの町で小さな塾をやるのもいいなあ。自分が所帯を持ってる現実はすっかり忘れてしまった。私も典型的『アメリカン』種族のようである。

「いや、山に行けばいつ死ぬか分からないから、結婚なんか出来ないよ。オレの人生の目的は旅なんだ」

 女の夢と男の夢はすれ違った。彼の人生の目的は私の理解を超えた次元である。

  

2英語のゴッドファーザー


 水曜日の夜は、英字新聞の社説を読む会が開かれていた。中心になっている佐藤さんは、初老の背広を着た男性である。黒いコートを着た体を神経質そうにゆすりながら、質問すれば何でも答えてくれる。顔は苦虫を噛み潰したようである。

 まず各人が黙読し、分からない箇所があれば佐藤さんに聞く。佐藤さんは驚くほど難しい単語も知っているけれど、さすがの佐藤さんでも解釈に困るようなところが出てくると、「飛ばしていこうか」ということになる。次に声を出して、順番に読み、それからディスカッションする。終わると佐藤さんは、誰とも喋らずに帰っていく。

 夢さんは、時々、佐藤さんに「どうぞ、お歳暮です」などと言って、リンゴ数切れの皿を出したりする。

 私は佐藤さんが何が楽しくて、その会をやっているのだろうと思ったり、こんなに英語の知識が深いが職業は何だろうなどと好奇心を燃やしていた。

 その内、佐藤さんがやっている『タイムを読む会』に出ないかと誘われた。誘ってくれた大学生は就職試験までに英語検定一級を取りたいという英語の虫の一人だ。

「佐藤さんは大阪で英語を勉強している人達のゴッドファーザーと言われているんですよ。英語の会を毎日どこかで開いているんですから」

 その学生が教えてくれた。

 『タイムを読む会』は、日曜日に喫茶店の二階でやっていた。やり方は英字新聞と同じだが、英語のレベルは一段階、難しい。

「ほら、英語の先生、行ってみようか」などと声がかかるところから、ここに集まっている人は教師が多いようだ。

 この会では佐藤さんは先生役というより仲間として楽しんでいるようだった。三時間ほどで会が終わって、数人で飲みに行った。入ったのは、裏通りの一杯飲み屋だった。

 ビールを飲みながら盛んに佐藤さんは話していた。

「毎日、会社が終わると、つきあいも断って英語の会合ばかりやってるからね、陰じゃ、気違いだって言われてますよ。家庭もほったらかしで女房にも、あきれられてる。それに寝る前に英字新聞の社説をノートに写すんですよ。これは欠かした事が無い。これだけ努力してるんだから、今じゃあ松本道弘にも負けない実力がついたと思ってますよ。一度、勝負してみたいもんだ」

 英語通訳の第一人者としてマスコミにも登場している人物を友達のように、大阪の飲み屋で話す佐藤さんにびっくりした。

「松本道弘さんをご存じなんですか?」

「僕は英語道場の発起人の一人なんですよ」

 松本道弘は、いわゆる英会話に満足できなくて、英語で時事問題を討論する英語道場を始めた。英語道場は一九六六年に創設されている。東京オリンピックが二年前にあり、大阪万博も間近く、通訳が脚光を浴び始めた時期だった。

 別の時、やはりタイムを読む会の帰りに寄った小料理屋で佐藤さんは、「この前、ワシントンに行ったんだがね」と、話し始めた。

「お仕事でですか?」

「いや、観光でだが」

 気を悪くした様子もなく、佐藤さんは続けた。

「ちょうど、アメリカの自動車を売り込みに大統領やメーカーの社長が、来日していた時だった。ホワイトハウスを見学してたら、アメリカのテレビのニュース番組の取材を、偶然、受けたんだ。僕は、日頃きたえている英語で日米の経済摩擦についての意見を言ってやった。ただの観光客が流暢な英語で立派な意見を吐くもんだから、向こうのテレビスタッフも驚いてたよ」

「佐藤さん、長年、英語をやってきたかいがありましたね」

 メンバーの一人の言葉に、佐藤さんは、満足そうにうなずいた。

「でも、続けなかったら、終わりだよ。一度、止めたことがあるんだが、見る間に実力がさがってしまった。続けてるから、突然のインタビューでも、しゃべれるんだ。肝心なのは、今の実力なんだ。僕は学生時代から英語が好きだった。軍隊に入った時も、夜、こっそり英語の勉強をしていた。もう死ぬかも分からないのだから、好きなことをしたかった。一度、上官に見つかった。敵国の言葉を勉強して、ただじゃあ済むはずも無かったが、その上官は見逃してくれた」

 みんな、シーンとして、佐藤さんの英語への執念を噛み締めていた。私は複雑な思いだった。こんなに英語が好きで努力した結果が、たった一回のテレビインタビューか。たとえば外国で育ったり、両親のどちらかが英語圏の人だったりすれば、同時通訳などの華やかな地位を、それなりの努力や運は要るにしても、もう少し簡単に手に入れられる。日本人同士でこうした会合を毎日、やり続けるような地味な努力が、何かの役に立つのだろうか。

「いつ死ぬかもしれないのになぜ英語の勉強なんてしたんですか」

 やっと私は喉に詰まる声で疑問をぶつけた。

「それは、人生ではいつも『今』が最も大事なものだからだ」

 迷うことなく、あっさりと、これまで生きて考えてきたであろう結論を佐藤さんは提示してくれた。

 山に登るのと同じで、英語がそこにあるから、山より英語が好きだから、佐藤さんは続けているんだろう。なぜ山に登るのだろう、なぜ英語をやるのだろうという問いは、なぜ生きているのだろうというのと、同じ種類の問いなのだ。 

 佐藤さんが身体の調子をくずした時、その病院をお世話になった何人もが訪れた。

「僕も入院なんかしていると、英語を忘れてしまいそうだから、昨日も見舞いに来てくれた奴と、ちょっと『タイム』を読んでみたよ」

 佐藤さんにかかると病院のロビーも『タイムを読む会』になりそうである。

「佐藤さん、早く良くなって、会に出てきてくださいよ。僕たちが、頑張って続けていますから」

 どの勉強会も続いていると聞いて、佐藤さんは安心する。レッスン料を一度も払ったことがないとはいえ、数え切れないほど多くの弟子を佐藤さんは持っている。

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