4.獣
物件の駐車場に車を駐めると、ちょうど帰宅したと思しき住人から不審な目を向けられた。駐めたのはずっと空き家になっている事故物件の枠だ。無断駐車と思われたかも知れない。挨拶だけでもと思ったら、先に勇司が出てにかっと笑い「今日は不動産の方から来ました~、調査でうるさかったらすいません~」と先手を打った。お前は人間として生活してるのかと言いたい時もあるが、たまにはこうして妙に気が利く時もあって、幼馴染みとはいえ言動が読み切れない。
不躾にすみません、と向こうも何度か頭を下げながら一階のいちばん奥の部屋へと入っていった。このアパートは二階建て外階段でオープンな作りだ。若い女性が住むなら今どきはオートロックを選ぶことも多いが、そうでなくても家賃や立地次第で仕方なく、或いは納得して契約するのも珍しくはない。ここは中央に鉄製の階段、その両側に二軒ずつで全部で八部屋あり、今の住人は向かって右奥一階、今回の物件は正反対の二階左奥だった。ちなみに勇司のアパートはこの駐車場や階段とは反対の南側に並んで建っている。
「しの。今の……」
何か言いかけた勇司を遮って、後部座席から取り出した荷物を肩に担ぐ。ほとんどは大食らいのこいつの食料だ。
「まずは部屋に入ってからにするぞ」
「ちょ……アレいいのか?」
「他の住人に説明する必要もないし、今いる住人は事件前からずっと住んでる人ばかりだからほっといて欲しいくらいに思ってるかもな」
あからさまに不貞腐れて見せる勇司をスルーしてさっさと部屋へと向かった。今のところはなにも感じない。空に視線を向けると西の方が少し暗い。夕立でもくるなら念のために勇司んちから傘でも持ってくるか。そんなことをぼんやり考えていると、くんっと後ろから引っ張られて足元が滑った。一瞬の浮遊感。ヤバい、と思った時には、背中を勇司の手が押し返していた。
「無視しやがるからだ」
「え……なにか感じるのか、お前」
勇司にはわかるが俺では気付かないようになにかがあるんだろうか。
「さっきのとこより、こっちの方がニオうんだよ。獣くさい」
俺の手から荷物を奪うように取り上げた勇司は、部屋の前でイヤそうな顔をしていた。事務所でもずっと鼻を擦ったりしていたが、俺にはわからない。視えているだけの俺よりもさらになにか視えて聞こえている勇司は鈍感じゃないとやっていけないのかも知れない。
ちゃり、と手の中で鍵を鳴らす。いきなり内海の時のようになにか投げてきたら、俺たちは下手に霊感があるから怪我しかねないので慎重に鍵を開けた。
そっと中を窺うと、正面の大きな掃き出し窓から勇司の住むアパートが見えた。玄関から続く廊下に流し台があり、その向かいに洗面所、奥が居室というシンプルな作りだ。
「あ、俺の部屋」
「正面かよ。今までなにも気付いてなかったのか」
「寝る時くらいしかうちにいねえし。しっかし、すげえな。なに飼ってたんだろ。犬とか猫じゃねえぞコレ」
「とりあえず、中に入るぞ。どこになにがあるかわからないから気をつけろよ。内海ん時の報告書によると、この先のリビングに足を踏み入れたところで女が現れたってある。吊ってたのはリビングにあるクローゼットのハンガーポールを使っていたそうだ」
綺麗に清掃されていて埃ひとつないフローリングを室内履きに履き替えて歩く。鍵を掛けて流し台など確認していると、さっさと奥へ向かった勇司が変な声を上げた。
「いたのかっ?」
「なんだなんだこれっ」
勇司が指差した先には、床から壁からびっしりと毛皮が張り付いていた。まるで部屋自体から生えているようだ。薄茶色と真っ白いところがまだらになっていてふわふわもさもさしている。これはもふったら気持ち良さそう……じゃない、動物霊なのか? だとしてもおかしい。やや毛足の長い毛は確かに動物のものだ。ずっと勇司が言ってたニオイの元はコレだったのか。踏み込んでそっと触れようとしたら勇司に止められた。
「どうしたよ。いつもならもっと警戒するあんたが手ぇ出そうとして。どうせもふもふしてて気持ち良さそうとか考えてたんだろうが」
図星を指されてちょっとむかっとしてしまった。こほんと咳払いをして眼鏡のフレームを押し上げて視線を逸らす。
「そんだけ指わきわきさせてたら誰でも気付くって。それより、コレ、消せるなら消してもいいヤツ?」
「消せるのか? 出来るならそうしてくれると助かるけど、コレ、なんなんだ? 報告にはまったくなかったぞ。女もいないし。ちょっと待てよ……」
俺は鞄から資料を取り出して確認する。美代はペットを飼ってはいなかった。その前の住人もだ。
「コレ、さっきのヤツと同じニオイがするぞ。ほら、外で会ったヤツ」
いつの間にかさわさわと毛皮壁を触っていた勇司が振り返った。お前ずるいな、と言いかけたその瞬間。毛皮が牙を剥いた気がした。鋭い悪意。
「勇司っ、後ろっ」
叫んで勇司の腕を掴む。意識の牙だ。鋭い牙が勇司を噛み砕こうとしていた。ぐおぉ、と唸る獣の生臭い呼気に包まれては、さすがに勇司が心配になり掴んだ腕を引っ張った。こいつのことを天然魔除けなどと揶揄しているが、こういう幽霊というより怪異のようなものに俺は遭遇したことがなかったのだ。
しかし、俺の手を振り払った勇司は、牙の向こうへ突進した。こいつ、慣れてる?
殴るように突き出した勇司の拳は本物の壁の寸前で止まった。いや、すでに拳の圧で周囲の毛皮を吹き飛ばしていた。本来の壁紙が貼られたグレーの壁とフローリングの床が見える。デコピンで消すとかのレベルだったのか、こいつには。
「あ。逃げた」
軽い口調で勇司は視線を巡らせた。俺にも視えないモノが動いたようだ。
「逃げたぁ? 出るって言われてた女は、美代はどうしたんだ」
「いや、あんただって視てねえだろ? いないんだって、この部屋には最初から。気配ねえもん。ずっと、この話が来たときから獣の気配しかねえもん。たぶん、俺が気付いたからもう来ねえと思うな。ここにはなんもねえよ」
ここらへんは今までの経験からも勇司の言うことに間違いはない。しかし獣ってどういうことだろう。ペットがいたわけでも、隠されていたわけでもないのに。
「ああもう、じゃあお泊まりは無駄ってことか。さっきの連中にも片付いたって言っても大丈夫かな?」
「原因わかってねえけどそれはいいの?」
変なところできちんとしてるのはありがたがった方がいいのか、面倒がった方がいいのか。もうなにも出ないのならば「祓ったから大丈夫」とか言えば丸く収まる。だが俺の中でもなにか引っかかる棘のようなものがあった。
その時、外でずしりとしたバイクのエンジン音が響く。風切り音がしそうな勢いで振り返った勇司が室内履きのまま猛ダッシュで玄関を飛び出した。その後を追ったが勇司の姿はもう見えない。あいつ体育会系だったからな、昔から勇司の脚に追いつけた試しはない。やたらと煙たい排気ガスがあたりに充満していた。
議員たちと所長にはどう報告したものか。悩みながら出した資料を鞄に戻していると、悔しそうな顔の勇司が帰ってきた。バイクにゃ勝てねえと頭を掻き毟っている。天パがさらにくしゃくしゃだ。
「たぶん、ここに来た時に最初に会ったヤツ。しの、俺が言いかけたの無視したろ。ヤツに声かけたの、怪しかったからなんだぞ。現にあんた、階段で転けてただろ」
あれは偶然じゃなかった? 俺はてっきり寝不足でふらついたくらいに思っていた。となると。
「怪しいって、まさか事件そのものが計画的なものだったって言うのか? 第三者が介入している案件だと?」
戻しかけていた書類がばさりと足元に散らばった。