1.アルバイト
ああ、まただ。
うっかり舌打ちしそうになるのを堪えて、俺はソレからそっと目を逸らした。ソレは首から朽ちた紐を垂れさせた、どす黒く煤けた人影だった。煤け具合からは焼死体を思わせるが、首の紐は吊ったようにも見える。年齢も性別もわからない。真っ黒い洞のような眼窩からはどろりとした粘液が滴り、聞こえる呻き声は声と言うには濁りすぎていた。例えるなら発する声に全て濁点がついているようだ。バイト中でなければ即刻回れ右をしている。ぞわりとむかつく胃をなんとかなだめて、素早くにこやかな営業スマイルに切り替えた。慣れたくはないが視えるモノは仕方ない。
近くの事務所に勤めているという女性は築年数の割にきれいな室内に目を輝かせていた。
「こちらの部屋へ内覧に来られたお客様には、このシンプルなアイランドキッチンが人気のようですね。全体にリフォームしたばかりなので水回りも流行りを取り入れましたから、こだわりのある方にもご満足いただけると自負しています。あと、作り付けの収納が多いのも売りになっていますね」
手元のタブレットで間取りや価格、周辺の特徴などを確認しながら賃貸物件の案内をする。浮いているアレには近寄らないように、視ないようにと下見の客を誘導するが、恨めしげな視線がちくちくと背中に突き刺さる。目もないくせにこっちを見るな。
元事故物件だがずいぶん前のものなので伝える義務はないと聞いている。いないのだろうと思っていたがとんでもなかった。少しでも勘が良ければ長居しないだろう物件なのは間違いない。客の様子を注意深く観察するが、おそらくそういったモノは視えなさそうだ。ただ、住んでいるうちに感化されて視えるようになってしまったり、被害を受けてしまう可能性は捨てきれない。
浮いている禍々しいソレの向こうに見える窓からは、眩しい初夏の日差しが差し込んでいた。
「東雲くんに若い女性客を回すと、たいていキメてくれるから助かるよ。イケメンはお得だねえ。あ、こう言っちゃうとなんかのハラスメントになっちゃうのかな」
ぽっちゃり気味の所長はにこにこと嬉しそうにぺろりと指を舐めて書類をめくっていた。そんなハラスメントはどうでもいいが「気にする人は気にしちゃうと思うので、その手の言動は注意するに越したことはありませんね」と無難に返した。いくつか取れた契約のほとんどが女性客なのは間違っていない。イケメンなどという単語とは無縁だが、弄られない程度には人並みだろうとは思っている。
それよりも今どき指を舐めて紙をめくる仕草の方が気に障った。レジで現金払いの時に指を舐める行為を見かけると、キャッシュレスが浸透している世の中に感謝するくらいだ。
帰りたい、と時計を見ればそろそろ五時。帰り支度を始めたところに、散らかったデスクを物色していた所長が思い出したように言った。
「ああそうそう、例のヤツ、一件お願いできるかなあ?」
「いつからいつになりますか? あちらの都合もありますから、今日の明日では無理でしょうし、そろそろ面倒がってますから、よほど積むなり、なにか手を打たないと受けてもらえないかも知れないですね」
「積む積むってば。東雲くんにだって結構頑張ってんだよお。でね。最近ここら辺で増えてんだよねえ、不審死?てヤツ」
「最近じゃまだ告知義務が残ってるでしょう。いいんですか?」
今どき珍しいヤニだらけの歯を見せてにたりと笑う所長に吐き気すら覚える。どうやったらそういう気持ちの悪い笑い方ができるんだ。幽霊の方がマシだと思う時もあるが、金のためだと自分に言い聞かせた。
俺は正規社員でも派遣でもない。内海という学生時代の知り合いから、緊急入院することになったのでその間代わりにバイトしてくれないかと頼まれてここにいる。フリーターで定職に就いていなかったところに、破格の時給を提示されては断る理由はない。募集をかけている新入社員が来るまでの間つなぎだからと所長にも頼まれたが、こいつが面接をしているのでは向こうからキャンセルされていてもおかしくないだろう。となればいつまでも自分がバイトを続けなくてはならないではないか。入院したという内海とは連絡が取れなくなった。どこの病院か聞いておけばよかった。
「内覧の時にねえ、なんかいるんじゃないかって言われちゃったのよ。で、内海くん怖がりだからビビっちゃって。ほら、半年前の、ニュースになってた、アレ」
「ああ、あれ、うちのだったんですか。僕が来る前ですよね。確か、ストーカーに殺されるって騒いでた女が吊っちゃったっていう」
ニュースになるような事件なら田舎町ではすぐに特定できるが、あまりテレビを見ない上に痴情のもつれに興味がなかったので、近所らしいとしか把握していなかった。
「本当に自殺だったのかって疑われていたのに、いきなり報道もなくなって忘れてましたよ。もしかして内海のヤツ、それで入院しちゃったんですか?」
霊障の類いだろうか。だとするとリスクも考えないとならない。
「うん、どうもね、市議会の偉いさんの息子がストーカーだったらしくてね。内海くんが言うには、女がなんか投げつけてくるらしくて、すっかり怯えちゃってさあ。パニック起こして困っちゃって、落ち着くまで病院に入ってもらってるんだよ」
リスクなんてもんじゃない。最初に電話があった時、内海はどんなだったか。思い出そうにもその時はそれほど真剣に聞いていたわけじゃないし、詳しくは会社で聞いてくらいに端折られたので、申し訳なさそうだった気がする程度の記憶しかない。恐怖でメンタルぶっ飛んじゃって入院だったりしたら、ホントにヤバいのは物件よりもこの所長だ。
「ちょっとそれ、相当マズい物件だったりしません? こちらにも被害が出るような案件でしたらさすがに受けるわけには……」
断ろうとすると更に気持ちの悪い歪んだ笑みを浮かべ、内緒話をするように顔を寄せてきた。
「ギャラはいつもより弾むからあ~。偉いさんから頼まれてんだよねえ~。ほら、いつまでも事故物件で人が入らないと噂になっちゃうからねえ」
男の俺でも気持ち悪いのだ、女性だったらもっと気持ち悪く感じるだろう。おそらく新入社員は期待できそうもない。所長を追い払うように手元の書類をわざと大きく振る。
「そろそろ退社時間なので、失礼してもよろしいでしょうか。ああそれと、一応その物件の資料をお借りしたいのですが」
断ろうと思ったが、これはうまくやれば辞める理由にした上で更にぼったくれるかも知れない。その心の声を読んだかのように所長はにこにことファイルを差し出した。
「東雲くん、そういうお堅い態度だから、彼女のひとりもいないんだよお。あ、それとも今からデートだから慌ててて、そういう態度なのかなあ? あ、ごめんごめん、だったら早く帰らないとだねえ~」
お花畑の所長に心底苛つきながらも、ファイルを鞄にねじ込んで部屋を出た。エレベーターに乗り込むと大きな溜め息を零す。
「さすがにやってらんねぇわ。マジで今回のが終わったら辞めてやる」
自販機で買った缶コーヒーを片手に運転席に乗り込むと、無造作に鞄に入れたファイルを取り出した。所長の作った資料は雑な手書きで読みにくい。いい加減パソコンで作れと思うが、これが最後だからどうでもいいか。
現場はどこだっけと書類の上を指で辿る。市内、町内、丁目と辿り、俺は息を呑んだ。見間違いじゃないよな。伊達眼鏡を外して胸ポケットに入れると、もう一度目を凝らして確認する。おいおい今まで気付いてなかったのか、これ。見慣れすぎた場所だろうが。
あぁ、と声にならない唸りを漏らして天井を仰ぐ。
これはどうあいつに切り出したものか。というか、気付いているのだろうか。
気になる事案だがまずは帰ってからだと、缶コーヒーを喉に流し込んでから、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。