第二話⑤
先程から気になる事がある。
特定の場所に立つ度に、俺の顔や体に何かが触れている気がするのだ。
不思議と周りを見渡してもその正体は掴めず、俺はひとまず暴れ回る相手から距離を取るために、壁際に向かって走った。
するとその際、再び顔に何かが触れたのだ。
その辺りをそっと手で触れてみると、やはりはっきりと見えはしないが何かがあり、俺はグッとそれを掴んでじっと見つめる。
「糸……いや、ピアノ線か?」
俺が掴んだものは、細く、そして引っ張ってもびくともしないほど、丈夫な糸だった。
その正体はわからないが、何よりもわからない事はこれが何処から吊るされているのかだ。
上を見上げても見えるのは空だけで、決してそれが吊るせるような場所は見当たらない。
だがこれは、もしかしたら好奇なのかもしれない。
その糸に掴んで、上へ上へと登ってみる。
俺の全体重が乗っているにも関わらず、ちぎれる様子はない。
これを使えば、地上へ脱出できるかもしれない。
脱出したところで俺の運命は変わらないかもしれないが、こんなところで死ぬのはごめんだ。
出来れば地上の穏やかな場所で、そして願わくば、仲間の側で息を引き取りたい。
俺は最後の力を使うかのように、腕や手に力を込めて糸を使って登り始めた。
ここから地上までどれ程の距離があるのかわからな
が、最後の力を振り絞れば、辿り着けない距離ではないはずだ。
息が激しいほどに切れている。
力を込めている腕の他にも、皮膚は擦りむいたような痛みがずっと続いていて、内臓は焼け続けているように熱い。
既に満身創痍といったところだが、俺は声を上げながら糸を掴んで上へと登っていく。
まだ半分も進んでいない、だが半分に届きそうなところまでは来ている。
それを越えれば残り半分、いける、きっといけるはずなんだ。
そう思った途端のこと、俺は全身を突き飛ばされるような感覚に至る。
脳が揺れて視界はぼやけ、何が起こったのかはわからないまま俺は体をゆっくりと動かす。
俺は不思議と空を見上げていた。
そしてそんな俺を、化け物はじっと見ている。
どうやら糸が奴によって切られてしまったらしく、俺は地面に落下したいみたいだ。
化け物の図体よりも高いところから落ちてしまった為、流石に回復しない事には体を動かせなくなっていた。
化け物がゆっくりとこちらへと近づいてくる。
さて、どうしたものか。
体力を回復する事は出来るし、今も尚続く体の痛みを消す事は出来る。
ただ、それが原因で死んでしまうかも知れない。
いよいよ神の刻印にも限界が来ている。
次か、そのまた次か、もしかしたらまだ数回は使えるかもしれないが、それが限界だろう。
俺の手は、枯れ葉のように朽ち始めている。
それだけじゃない。
顔に触れるたび皮膚や肉は簡単に落ちていき、骨に触れることができるようになっていた。
俺の死場所はやはりここなのかもしれない。
そうは思いながらも、一瞬希望を持ったのが不味かったのか、俺はまだ諦める事が出来ないでいた。
「ここまでずっと……従順にやってきただろ。世界の為だとか民の為だとか言って、ずっと自分を犠牲にしてきた……そんな俺が、何でこんなところで死ななきゃならないんだ」
俺はゆっくりと前へと進んだ。
朽ちていく体を床へと落としながら、ゆっくりとゆっくりと化け物方へと向かう。
相手は俺を既に死んだ者を見つめるように、敵意を向けずに見つめる。
俺はそんな奴の隙をつくように、ただ地道に近づいていき、そして足を短剣で突き刺した。
それは先程、体を登った際に刺した場所と同じところだ。
それが故に化け物は大きく暴れ始めた。
目を刺されたのざ余程トラウマになっているのだろう。
先程の怪我を連想させる箇所を刺されて気が動転しているんだ。
俺はそんな暴れ回る化け物にわざと近づいていき、時を持った。
そして相手は思惑通り、足を大きく蹴り上げた。
俺はそれに直撃して、大きく身を浮かせる。
そしてそのまま少し上へ上へと向かい、先程登りついた付近のところの壁に埋まり込んだ。
通常なら即死だろうが、俺は女神の力を使いそれを耐えた。
あれからまずは1回目、あと何回持つだろうか。
俺は手を伸ばして糸を探す。
先ほど触れた糸が一本しかないとは思えない。
これは賭けだ。それが見つからないと、俺は地上へ上がる手段がなくなってしまう。
手を伸ばして、まだ足りないと更に伸ばす。
そして俺は埋まり込んだ壁から落ちそうになり、体を半分以上そこから剥がした瞬間、糸を掴んだ。
何とか下に落ちる事はなく糸を掴み、俺は高鳴る鼓動と共に上へと登り始めた。
先程と違い、途中からのスタートだ。
これなら本当に、地上に辿り着けるはずだ。
後半分それさえ登りきれれば俺の勝ちだ。
相手を倒したわけではないが、はなからそんな事をするつもりをない俺にとっては関係のない事、最初からの作戦である、逃げる事を成功させようとしているのだ。
だがここで、体が大きく揺れ始めた。
別に俺の体が発作を起こし始めただとか、そう言った話ではなく、糸が大きく揺らされているのだ。
既に化け物の大きさでは、俺の位置まで届くことができないところまで来ていた。
それが故に俺を直接攻撃するのではなく、地面へ落とすために大きく揺らしているのだろう。
糸を引っ張る素振りも見せている。
急がなくては、俺が耐えたとしても、糸が持ってくれないかもしれない。
化け物の雄叫びを尻目に、俺は最後の力を振り絞るように上へ上へと進んでいく。
後少しだ。後少しで、何とか地上へ辿り着く。
――
俺は自分でも気がつかないうちに、地上へ辿り着いた。
あまりに必死になっていたのだろう。途中からの記憶が曖昧だ。
けれど今俺はようやく、地上に触れることができている。
そのまま地上へ体を乗り上げて、俺は大の字になり、地面を全身で感じるように横になった。
空が先程よりも近く感じる。
まだまだ遠くにあって手が届きそうにないが、それでも先程いた場所と比べれば、いつの日か触れることが出来るのではと感じてしまう。
「……何度使った」
俺は糸を使って登る際、体力をどれほど回復させただろうか。
記憶にある限りでも10や20は下らない。
数回で死ぬと思っていたが、案外俺はしぶといみたいだ。
あの木の陰で休もう。
俺はふと視界に入った木に向かって、這いずりながら進んでいく。
何とか辿り着いた俺は、木にもたれかかりながらその場を眺めた。
不思議な事に、先程まで俺がいた大穴が、最初からなかったかのように消えていた。
先程までの事は、悪い夢だったのではないだろうか。
そんな事はないぞと言うように、俺の体は朽ちていっている。
全く災難な目に遭った。
見たこともない化け物に襲われるは、体はズタボロになるわで、ここまで悲惨な戦いをしたのは始めてだと、ため息を吐いた。
「全く……楽しかった」
ため息と一緒に溢れた言葉は、自分でも驚くべき事にポジティブなものだった。
一体何が楽しかったのかと自分に問いただすが、答えなど既に分かりきっていた。
英雄のような、俺の憧れた物語の主人公のような行動が取れた事が嬉しかったのだ。
俺はずっとこうしていたかったのだとようやく気がついた。
いや、ようやく夢を認めることが出来たのだ。
どうしてもっと早く、自分に正直になることが出来なかったのだろう。
もし自分の好きなように生きていたのなら、今俺の心の中に溢れかえっている、後悔の2文字はきっとなかったはずだ。
けれどそれは仕方のない事だと、慰めくれる自分もまた存在している。
神の刻印を持ってしまったが故の運命だと、そうでもしないと民に危険が及ぶのだから仕方がない事だと、そう言ってくれている。
だがそれもようやく終わりだ。
なんせ俺は死ぬのだから。
これで俺はようやく神の刻印を持った宿命から逃れることができる。
次俺が生まれ変わった時には、勇者のパーティメンバーではなく俺自身が勇者に……いや、俺は英雄になりたい。
素晴らしいな。
今度は上手くやるんだ。
英雄に最も遠いところにいたそんな俺でも、英雄になれるのだと、世界に知らしめてやるんだ。
「俺は俺を…英雄に…」
そう言って掌をぎゅっと握ったのと同時に、体は朽ちていった。
そんな最後に、冒険者カードは不気味に光ったんだ。
「「「「「「「「「反逆者を獲得」」」」」」」」」